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都内某所にある録音スタジオ。決して広いとは言えないコンソールルームは異様な熱気に包まれていた。
録音監督の隣には普段は顔を見せないプロデューサーや脚本家、果ては出版社の社長、原作者、文庫本のイラストレーターまでもが打ち揃い、防音ガラスで隔てられたブースのアフレコ風景に見入っている。
その視線の先にいるのは一人の男だった。ブースが狭く見えるほどの上背、如何にも高級そうなスーツに身を包んだ堂々とした体格のその男は、他の声優と共にマイクの前に立ち、真剣な面持ちでアニメの流れるスクリーンを見詰めている。
「いや、どうもありがとうございました。桐生さん!」
録音が終わり声優陣がレスティングルームに戻ってくると、真っ先にプロデューサーが出迎えた。その後にぞろぞろと物見高い関係者の一団が続く。
「正直、引き受けて頂けるとは思いませんでした。オファーの際も失礼ではないかと冷や冷やものでしたよ」
プロデューサーの握手に応えると、桐生はそのクールな印象の端整な面に穏やかな笑みを浮かべた。
「たまにはこういう趣向も面白いでしょう。それに、声優という仕事には昔から少し興味がありましてね」
「え、そうなんですか? 桐生さんでもアニメとかご覧になるんですか」
プロデューサーが意外そうに目を見開く。俳優の他に弁護士という肩書を持ち、冷徹な敵役で名を馳せる桐生にアニメというのは如何にもイメージにそぐわない。
「残念ながらアニメーションには詳しくありませんが、学生の頃読み聞かせのボランティアをするのにゲームを参考にしていたことがありましてね」
「はあ。ゲームをですか」
「弟とプレイしながら、キャラクターの台詞回しや抑揚の付け方などを研究したものです」
桐生は笑って周りの人垣に埋もれている主人公役の声優に向き直る。
「『テンプルマスター5』ではいろいろと勉強させて頂きました。実は今回のお話も相手役が織田トシヲさんだと聞いてオファーを受けたんですよ。ご一緒させて頂き光栄です」
桐生が手を差し出すと、周囲からどよめきが起こった。
「いやあ。桐生さんにそんなふうに言ってもらえるなんて」
その中学生のような若々しい声からは素顔の想像が難しいベテラン声優は、差し出された手を握ると照れたように頭を掻いた。
「『テンプルマスター5』って、もう十年近く前の話ですよ? 何か嘘みたいだなあ」
ざわざわと感動したように揺れる声優陣の間から、まだ二十歳そこそこと思しき若い女性が頬を紅潮させて真新しいサイン帳を差し出してきた。
「あの、サインお願いできますか」
「原作者の京塚ゆま先生です」
プロデューサーの紹介を受けた桐生が快諾してサインを始めると、他の関係者も思い出したように色紙やサイン帳を出し始める。桐生はそのすべてに丁寧にサインをし、一人ひとりと握手を交わすと、マネージャーの小川を従え、次の現場に向けてスタジオを後にした。
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水樹が大学の講義を終えて夕飯の買い物を済ませ、マンションに辿り着いたのは五時になろうとする頃だった。
このマンションで透と暮らすようになって約四カ月、大学に通うようになって一カ月弱。やっとこの瀟洒な造りの建物にも生活パターンにも慣れてきたところだ。
専用エレベーターで自転車ごと最上階のフロアまで上がり、玄関のドアを開けると、明かりの点いた奥のリビングから人の話し声が聞こえてきた。
声のトーンからして透が誰かと話しているらしい。玄関にそれらしい靴はないが、来客中なのかもしれない。
取り急ぎリビングへと向かった水樹は、部屋に一歩入った瞬間手にしていたトートバッグを取り落とした。
フローリングに横倒しになったバッグから、ころころとタマネギがリビングを横断してテレビの下まで転がっていく。
「トオルさん、ま、待って下さい……」
「どうしたんだね、ミズキ君。この期に及んで拒否する訳じゃないだろうね?」
「と、ととと透さんっ! なな何ですか、このアニメ!?」
リビングに据えられた大型液晶テレビの中では登場人物が二人抱き合っている。
台詞や状況から考えて見紛う事無きラブシーンだが、声やキャラクターデザインからすればどう見ても男同士。しかも、その片方の年嵩の人物の、深みのあるよく通る声には聞き覚えがある。
テレビ画面を見て棒立ちしている水樹に目をやり、透はソファからボリュームを少し絞った。
「最近声優をやったボーイズラブアニメのDVDなんだがね。記念にと出来上がった製品を届けてくれたんだよ。初めてにしてはなかなか上手くアフレコ出来ているだろう?」
「透さん……」
がっくりと水樹は肩を落とす。
「もっと仕事を選んだ方がいいと思います。他にいくらでもあるでしょう、普通の仕事……」
水樹との養子縁組を発表して以来、桐生がゲイだという噂は事実として世間に定着してしまった感があり、桐生がゲイ役を演じた作品は映画だろうがドラマだろうが軒並みヒットを飛ばしていた。が、それはあくまでも仕事の一部。依然としてメインの役所は冷徹な敵役の方のはずなのだ。
「しゃれで引き受けてみたんだが。不評だな」
アニメを見ながら透は笑う。
画面の中では登場人物達が半裸で戯れ始めていた。
水樹は思わず目を逸らす。
知り合いが演じるラブシーンを見るというのはそれだけで結構微妙なものだが、不思議なもので何故かドラマで透自身がラブシーンを演じているのを見るよりも、声だけのアニメの方が数倍恥ずかしい。
そんなふうに感じてしまうのは、この場合もちろん登場人物の名前にも大いに関係がある。
「だって、これ。選りにも選ってトオルとミズキって……」
画面の中でそれらの名が発音されるたび、どうにも居心地が悪くて仕方がない。
「トオルというのは私とは別の字を書く。ミヅキというのは名字だよ」
「そ、そうなんですか?」
透はDVDのパッケージを取り上げて水樹に渡す。
「まあ、偶然なんだがね」
なるほど、登場人物の名は『神崎融』と『観月薫』となっていた。パッケージには桐生がトオルの声優をやっていることと、シリーズ第一弾であることが大きく謳われている。
「と、とにかく」
気を取り直した水樹は透に向き直る。
「今更ゲイの役をやらないでくださいとは言いませんし、アニメの声優をやるのも、もちろん透さんの自由ですけど、このシリーズだけは止めてください。お願いします。こんなの誰かに知られたらどうするんですか」
「知られたらも何も」
珍しく懇願する様子の水樹を見て透が面白そうに笑う。
「これはもう既に全国で発売中なんだが」
「知り合いにです! 例えば夏乃とか櫂人君とか」
そこまで言いかけ、はっと気配を察知して水樹が後ろを振り向くと、
「……何だ、これは」
櫂人が目を点にしてリビングの入り口に棒立ちしていた。
今しも三十七インチ大画面の中では、裸の男達がことに及ぼうとしている。
『欲しいのかね、ミヅキ君? 欲しければ言葉にしてごらん』
『ああ、もう。許して、トオルさん……』
「あ。あたしこれ知ってる。ミヅキとトオルだよね」
あっけらかんとした夏乃の声がテレビの音声に被る。櫂人の後ろから現れた夏乃を水樹が唖然と見詰めた。
「な、夏乃。こんなの読んでるのか?」
「実際読んだことないけど本屋に並んでるし。小説は結構シリーズ出てるよ」
アニメとは言えどもあられもない男同士の濡れ場を前にしてうろたえる水樹を余所に、夏乃は平然とパッケージを手に取り画面と見比べる。
「ふーん。第一弾かあ。映像化するとこんな感じなんだ。やっぱイラストそのものとはちょっと違ってくるよね」
『……トオルさん』
『後悔はさせない』
男達の睦言をBGMに、櫂人がふらりとソファの透の後ろに立つ。
「こっ……この声、テメーの声だよな……?」
「そうだが」
それがどうしたと言わんばかりに透がしれっと振り向くと、櫂人は俯き、握った拳をわなわなと震わせた。
「またっ、ろくでもないことしやがってッ……!」
その夜、閑静な高級住宅街の高層マンションに、櫂人の絶交宣言が響き渡ったという。
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因みにこのオリジナルアニメ第一弾は、初登場で並み居る定番ヒットアニメシリーズを抑えてヒットチャート第二位に輝く好調な売れ行きを見せたが、発売四日目にして使用されたBGMに権利関係のトラブルが発生。販売元が商品を回収する騒ぎとなり、結局第二弾以降の企画はお蔵入りとなった。
そして、桐生ファンの間では、このDVDが曰く付きのレア物アイテムとして永く珍重され、また語り継がれることとなったのだった。
【完】
Fumi Ugui 2009.03.27
再アップ 2014.05.21
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