桐生、酩酊す

 クッション代わりに衣装を詰め込んだ段ボール箱の中からノートパソコンと読みかけの雑誌、更に大型の茶封筒に入った書類の束をいくつか取り出すと、谷口はそれを真新しいデスクの上に無造作に積み上げた。
 他はどうでもいいが、取りあえずスケジュール表と事務用品だけはわかるところに出しておかないと、明日からの仕事に支障が出る。
 細かい仕分けは明日女の子にでも頼もうと、谷口が適当に重要そうな書類を掴み取ってデスクの鍵付きの引き出しに放り込んでいると、最後まで残っていたらしい関川が声を掛けてきた。
「じゃあ谷口君。悪いけど今日は先に帰らせてもらうわ。息子の誕生日なんで」
「ああ、お疲れさん。重さんとこ、息子さんいくつになるんだっけ?」
 谷口が顔を上げて、ひとつ向こうの机に寝かせてある壁掛け時計を見ると、もう八時を回っている。関川はともすると地肌が見えるようになってきた頭を撫でて照れたように笑った。
「七つかな。一年生だよ。学校の行事とかいろいろあってな。お前さんに七面倒臭い雑用を全部引き受けてもらえたお蔭で助かってる」
「そりゃよかった。けど、こっちはまだまだ至らないことだらけっすよ。重さんほどの貫録もないし」
「そんなことはない。大したもんだよ。桐生を引っ張ってきたのもお前さんだし。ま、適材適所ってことだな。俺が代表やってたままじゃ、とてもこんな事務所は構えられないわ」
 関川は大部屋をぐるりと見渡す。室内には取りあえず運び込まれただけといった体の事務机と連絡用ホワイトボード。出入り口からちらりと見える廊下にはまだ梱包も解かれていない段ボールが山積みになっている。
 こんな状態でも片付けに必死になる必要がないのは、このフロア全体を劇団が借り切っているからだった。
 劇団オオムラサキは旗揚げして五年に満たない小劇団で、これまではガレージを改造した狭い稽古場の他に拠点と呼べるような場所はなかったのだが、桐生のブレイクのお蔭でようやくこうして事務所が借りられるようになったところだ。
「我らが看板スターは今日も映画のロケだっけ」
 関川が尋ねると谷口は笑った。
「ええ、昨日今日と病院ロケに行ってますよ。ロケで病院貸し切りってすごいよなあ。いつかはそういうデカイこともウチの主催でやってみたいっすねえ」
「今度のは仁侠物だったか。ちょっと変わった役所だったよな」
「京大出のインテリヤクザっすよ、インテリヤクザ。監督が是非にって、あのボロガレージまで直接出向いてきたんです」
「そりゃ随分と見込まれたもんだ。当たるといいな」
 じゃあ、と軽く手を振って関川はデスクを離れていく。
 その脂肪が付いて丸くなり始めた後ろ姿を見送って一人になると、谷口は机の隅に置いたままになっていた読みかけのエンターテイメント雑誌を手に取った。
 ぱらぱらと捲っていくと人気俳優ランキングの一位に桐生の名がある。「とにかくイケメン」「背が高くてカッコイイ」「リアルでエリートっぽい」などと読者の声があり、「知的で端整なマスクで幅広い女性層に人気」と編集者のコメントがあった。
「わかってねえよなあ」
 ランキングを眺めながら谷口は呟く。
 今のところ桐生の評価は賛否両論だ。端整で理知的な面とその長身から華があると誉める者もいれば、見栄えがいいだけの大根役者だ、味が無いとこき下ろす向きもある。
 なるほど、業界全体から見れば自分達のような二十六、七の駆け出しなど若造どころかまだハナ垂れ小僧の類いだが、桐生に関しては言われるほど大根でもない。あの抜きんでた風貌と劇団での立場上、二枚目の看板を背負ってそういう役ばかりを演じているが、その気になれば枯れた老け役やおどけた道化役を演じることも可能で、桐生自身案外そういう役所も好きなことを谷口は知っている。今は劇団の懐具合に余裕がなくて冒険が出来ないだけなのだ。
 桐生本人はと言えば、エリート然としている割には意外と図太く、たとえそれが女子供と一括りにされる層の人々であっても、楽しんでもらえるのならば満足だと、自分に対する世間の評価など一向気にした様子がなかった。
 今撮影中の映画は初の主演で、やったことのないダーティな役柄だ。ある種冒険だが、本人も乗り気だし、これが当たってもう少し劇団に余裕が出来れば、もっと思い切った役柄にチャレンジさせてやれるかもしれない。
 谷口が今後の戦略をあれこれ頭に浮かべながら何となく雑誌のページを捲っていると携帯が鳴った。時刻はそろそろ九時になろうとしている。こんな時間に誰からだろうと液晶画面を開いて確かめると早渡透とあった。学生時代から買い替えていない谷口の携帯には桐生が本名で登録されている。
 その透は今夜、ロケの都合で現場近くのホテルに泊まっているはずだった。
「これから出られるか?」
 透の第一声を聞いて谷口は内心僅かに首を傾げた。いつも余裕の態度を崩さない男にしては声が沈んでいると思ったからだ。
「ああ。今事務所出ようと思ってたとこ。何だよ? 何か緊急の用事か?」
 尋ねてみると言下に否定する。
「いや。そうじゃない。一緒に飲まないか」
「何だ、珍しいな。ま、今をときめく人気俳優様のせっかくのお誘いだ。いいぜ。どこに行けばいい?」
 考えてみれば去年のクリスマス公演で桐生がブレイクしてから特にここ半年あまり、急に増えた慣れないテレビ出演やら取材やら、とにかくスケジュールをこなすことだけに追われていてロクに話もしてなかったと気付く。二人で飲むのも久しぶりだ。
 透から待ち合わせの場所を聞くと谷口は照明を落として事務所を後にした。

 ◆

 谷口が幕張の、透が宿泊しているホテルに到着したのは十時近くになってからだった。
 一階のレストランは既に照明が落ち、ロビーは人も疎らだ。
 地下に降りると大音量のカラオケに出迎えられた。調子っぱずれの甲高い歌声に辟易しながら廊下を行くと突き当たりに指定されたバーがあった。抑えた照明の、落ち着いた感じの店だ。
 透はすぐに見つかった。
 わざわざ探す必要もない。早渡透という男はとにかく存在自体が目立つのだ。こちらにその気がなくとも自然とそちらに目が惹き付けられる。
 透はカウンターで一人水割りを飲んでいた。仕立ての良いスーツに身を包み、スツールに腰掛けてグラスを傾けるその姿は実に様になっていたが、既にある程度過ごしているらしく目許はほんのりと赤く染まり、しかも、薄暗い店内のライティングのためかその端整な面が心なしか翳りを帯びて見える。
 谷口は眉を顰めた。
 舞台上の華やかな桐生としてのイメージとは違い、透自身はおよそ何かに耽溺したり羽目を外したりすることのない、淡泊で身持ちの堅い男だ。自ら道と定めた芝居の他は、飲む打つ買うのどれにもほとんど興味がない。酒については嗜むと言うよりは本当にお印に口を付ける程度で、誘われれば人には付き合うし、舞台や番組の打ち上げなどでは他の出演者やスタッフに振る舞ったりもするが、基本的に自ら進んで飲みに行くことはないし、自分で買って自宅で飲むことは更にない。
 こうして自分から人を誘うときも、いつもなら相手が来るまでは自ら酒に手を付けることはないのだが――。
 谷口を認めると透は気怠そうに軽く手を上げた。奥のバーテンダーを呼んでから、隣の席に着いた谷口に淡く微笑み掛ける。掌の中の水割りはもう半分以下に減っていた。透にしては結構な量だ。
「すまなかったな。急に呼び出して」
「いいけどさ。お前、酔っ払ってんの? 珍しいじゃん」
「私だって飲みたい気分のときはあるさ」
 仄かに笑んでそう言ったきり透は沈黙した。グラスの中の薄くなった琥珀色の液体に目を落とし、谷口がバーテンダーにチューハイを注文するのを待ってからおもむろに口を開く。
「先生が亡くなったそうだ」
「え、先生って……」
 前置きもなしに唐突に先生と言われて一瞬だけ思考停止した谷口は、しかし、すぐにその人に思い当たった。早渡透にとって「先生」とは一人しかいない。
「もしかして、くまの――」
 そこまで口にして慌てて言い直す。
「青葉先生か?」
 グラスを見詰めたまま透は頷く。
「何だよ、それっていつ? 先生まだそんなにトシじゃないよな。何で亡くなったんだ?」
 透はすぐには答えなかった。まるで逡巡するように自分の手元をじっと見詰めてグラスの氷を弄ぶようにしている。普段何ごとにつけても明快な反応を即座によこす透にしては珍しい。谷口が訝しげにしていると、しばらくしてからやっと口を開いた。
「……交通事故で。もう四年になるそうだ。今日先生の息子さんと話をしたんだ。その彼がそう言っていた」
「……四年。それって、ほとんどあの直後じゃないのか……」
 谷口が茫然としている間に透は残りの水割りを一気に呷った。氷が耳障りな音を立て、溜め息混じりの苦渋の呻きが俯き加減の唇から零れる。
「私は一体何をしていたんだろう……。忘れていた訳じゃない。その気になればお礼に行くことなどいつでも出来た……」
 次第に深く頭を垂れ、バーテンダーにもっと濃い水割りをと求める透を横から谷口が遮った。
「おい、やめとけって。まさかずっとそんなペースで飲んでたんじゃないだろうな? 大して好きでも強くもねえくせに。悪酔いするぞ」
 渋面を作って会計を頼み、谷口が席を立たせようとするが、透はその場から動こうとしない。
「もう少し飲みたいんだ」
 氷ばかりのグラスを抱え込んで目を瞑る透を眺めやり、谷口は溜め息を吐いた。
「新橋には行かねーのかよ。酔い潰れるつもりならそっちの方が安心だろ」
 顔を上げて透が仄かに微笑む。
「胡蝶にこんな情けないところは見せられないよ。……それに」
 グラスを握り締めたまま再び俯くと、透は飲み過ぎて僅かに掠れた声で小さく呟いた。
「彼女は先生を知らない……」
「……そうだな」
 沈痛と憐憫が混ざった神妙な面持ちで透をしばし見守ると、谷口は隣の席に座り直した。
 この弔いの夜に、透は相応しい相手を選んだのだ。

 ◆

 耳元で「天国と地獄」が鳴り響いた。
 音量に驚き、しっかり目を開ける間もなく慌てて枕元を手探りする。携帯を探り当て、寝惚け眼でバックライトに浮き出た時刻を確認するとまだ五時半だった。何でこんな時間にと思わずぼやき、それから自分が昨夜アラームをセットしたのだと思い出す。
 ソファから身を起こして薄暗い部屋を見渡すと、目の前のベッドに透がその長い手足を投げ出して眠っていた。辛うじてスーツの上着は脱いでいたが、シャツとスラックスはそのままであちこち皺になっている。標準サイズのベッドに余裕はあまりなく、透が真っ直ぐに寝ていないため、足がほんの少しだけベッドの端からはみ出していた。
 起き抜けの谷口がその世にも珍しい光景をしばらくぼーっと眺めていると、ベッドの上で透が身じろぎをした。やがてゆっくりと目を開けて、ぼんやりと天井を見詰める。谷口が寄っていくと掠れた声を出した。
「今、何時だ……」
「朝の五時半。大丈夫か、お前。ほれ、薬飲んどけ。今日七時入りのロケあんだろ」
 緩慢な動作で上体を起こし、差し出されたグラスの水と錠剤を受け取って透は谷口を見上げた。
「お前ずっとここにいたのか。どこで寝たんだ」
「あっちのソファ」
 ホテル側はもう一部屋別に取ることを提案したのだが、透の酩酊ぶりを見て心配した谷口が頼み込んで同室にしてもらったのだ。
「……すまない。迷惑掛けたな」
「まったくだ。二度とごめんだからな」
 谷口がわざと大仰に言うと透は神妙に目を伏せた。
「……わかってる」
「ま、滅多にねーからいいけど」
 小さく溜め息を吐き、谷口がベッド脇のカーテンに手を掛けると、淡く陽光が射し込んだ。
 まだ払暁の柔らかいその光に透が眩しげに目を細める。
「なあ、谷口……」
「何だ?」
 窓際に立つ谷口の向こう、遠く海の方角に朝日の兆しが見えた。ビルの谷間が薔薇色の朝焼けに染まる。刻々と変化していく赤く染まった世界は、それでも美しかった。
「……先生が亡くなっても……世界は色褪せないんだな……」
「そりゃお前……」
 谷口は泣きそうな顔で笑った。
「お前が先生の教えをちゃんと吸収して自分のものにしたってことだろ。喜べよ」
「……ああ。そうだな」
 小さく笑うと透は両手で顔を覆った。
「そうだな……」
 透の声が微かに震える。
 谷口は窓の外に目を移した。朝焼けの新しい世界の誕生を見届けるために。

 ◆

 幕張海浜公園は涼しい風が吹いていた。
 九月も半ばをとうに過ぎたというのにいつまでも暑い都心とは雲泥の差だ。遊歩道の緑も目に心地いい。
 ロケ現場に谷口がやってきたのは、午前の撮影が小休止に入った頃だった。透を送り出してから少し仮眠し、その後事務所を目指してホテルを出たが、やはり何となく気になってこちらに来てしまったのだ。
 谷口の顔を見つけると、Tシャツに短パン、ゴム草履といった風体の監督は機嫌よく声を掛けてきた。
「おう、代表さんか。珍しいな」
「陣中見舞いですよ。差し入れあっちに置いときましたんで、皆さんでどうぞ。どうですかね。調子は」
「おう、悪かねえよ。お蔭でいいものが撮れそうだ。ところで、我らが主役だが。何かあったのか?」
「え、何かというと……?」
 谷口がぎくりと見返すと監督は遠く遊歩道の彼方に透を眺めやったままで、その白いものの混じり始めた無精髭のいかつい顎を撫でた。
「いやあ。昨日今日と急に印象が変わってきたと思ってな」
 谷口は慌てて監督の視線の先を見る。
 小川が迎えに現れた時には既にいつもの透だった。今、本番に向けてスタッフと談笑しながらメイクを整えるその横顔も一見していつもと何ら変わりはないように見える。
 だが、昨夜は随分飲んだし、今朝の様子からして完全にショックから立ち直ったとも思えない。そのことが演技に悪影響を及ぼしていることは十分に考えられる。
「それで、何か撮影に支障でも……」
 谷口が恐る恐る尋ねてみると、
「いや、そうじゃねえ」
 と、監督は笑った。
「逆だ。どういう心境の変化があったか知らねえが、一晩で芝居が変わった。ほんの少しだが、深みが加わったっていうかな。おもしれえヤツだ。この分だと公開すりゃあ、またファンがどっと増えるだろうよ」
 助監督が呼びに来ると監督は席を立った。彼方の役者達に向かってだみ声を張り上げながら、首に巻いていたタオルを頭上でぐるぐると振り回す。
「よーぉし! そろそろ始めるぞ!」
 メイクを終えた桐生が定位置にスタンバイし、その身に反射板の光を浴びる。
 堂々としたその姿には、今朝青葉の死に打ち拉がれていた早渡透の面影は微塵もなかった。

 監督と共にシーンのチェックを終えた透は現場の片隅に谷口の姿を認めると意外そうに眉を上げた。
「何だ。事務所に戻ったんじゃないのか」
「ま、たまには監督に挨拶しとこうと思ってさ」
 にやりと笑って谷口が応じると、同じように笑ってから少し面を改める。
「いつになるかはわからないが、青葉水樹という青年が私を訪ねてくるかもしれない。受付に話を通しておいてくれないか」
「青葉っていうと……」
 谷口が僅かに目を見開き、窺うように見上げると透は頷いた。
「先生の息子さんだ」
「オーケーわかった。そっちは俺に任せて、お前は芝居に専念しな」
 ぽんと透の背中を軽く叩くと、谷口は振り返らずにロケ現場を後にした。

 監督の言う通り、映画は桐生の評判を高めるだろう。
 ぼやぼやしている暇はない。
 テレビ局との出演交渉、雑誌の取材の依頼。桐生バックアップのために劇団代表としてしてやれることはいくらでもある。
 お互いベストを尽くしてやれることはやって、見事成功を収めたその暁にこそ、二人で明るく飲み交わすのだ。

 かの人に捧げる、感謝の美酒を――。

 

【完】


Fumi Ugui 2009.04.15
再アップ 2014.05.21

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