夏乃が生まれた日

「ねえ、お父さん。来て来て。ネオンテトラがいるよ。あ、グリーンテトラもいる」
 背伸びをしてライティングされた大きな水槽を覗き込み、小さなブルーの閃きをしばらく追ってから水樹は勢いよく後ろを振り向いた。
 遠くペットフード売場の方から、大きなカートを押して父と母がこちらにやってくるのが見える。

 九月初旬の日曜日。
 六歳の水樹は両親と近くのショッピングモールに来ていた。
 児童養護施設さわらび学園から青葉家に養子として迎えられて約一年。新しい名字や両親との暮らしにもすっかり慣れ、四月からは近所の幼稚園にも通っている。
 来年は一年生。そして、何よりあと数週間で「お兄ちゃん」となることが、目下の水樹にとって一番の関心事だった。
 身体を僅かに左右に揺らしながら、母がゆっくりとこちらに近付いてくる。そのまるい大きなお腹を見て中に赤ちゃんがいることを思い出した水樹は、ネオンテトラの水槽から離れると大急ぎで母の方へと駆けていった。
 水樹を迎える父と母を、買物中の人々が物珍しそうに見ながら通りすぎていく。
 そのことを水樹が指摘すると、揉み上げから口の周りにかけて熊のように髭を生やした父は愉快そうに笑った。
「ははは。お母さんはまだ若いからな。小柄だし。二人で並んでると、どうしても俺が犯罪者に見える。今は水樹がいるから随分マシな方さ」
「ハンザイシャって何? お父さんはハンザイシャなの?」
 いつものように両親の間に納まり、首を傾げて見上げてくる水樹を見返して、母がおかしそうに笑う。
「違うよ」
 と、繋いだ方の手を軽く揺らしてから、水樹の指をきゅっと柔らかく握り締めた。
「お母さんね、お父さんも水樹くんも大好きだから一緒のお家に住みたいなって思ったんだ。だから、ガンガンアタックしたの」
「ガンガンアタック?」
 水樹が面白そうに口まねすると、母は空いた方の拳を握ってみせて、悪戯っぽく笑った。
「そ、お父さんにガンガンね」
 くすくすと見詰め合って楽しそうにしている母子を傍から眺めて、父はひとり苦笑する。
「お蔭で俺はご両親の前で冷汗掻いたよ。この年で女子大生となんて決まりが悪すぎる」
「だって、先生は水樹くんを養子に欲しかったんでしょ?」
 先に横目でちらりと一瞥すると、母は父の方へと向き直った。
「私と結婚すれば先生は水樹くんを養子にもらえるんだし。私は好きな人と一緒になれて、水樹くんとも暮らせる。水樹くんには両親が出来る。ほら、誰も損してないし、全部まるく収まったじゃない」
「そりゃまあ、俺達はそうかもしれんが……」
 得意気な母の説明を聞いて更に困ったような笑みを漏らすと、父は水樹の頭に手をやった。
「水樹の意見はまた別だ。本人に聞いてみなけりゃわからんぞ。なあ、水樹?」
 思いがけず名を呼ばれて水樹がきょとんと父の顔を見上げたその途端、
「あら!」
 と、母は心外そうに背筋を伸ばし、その控え目な胸を張った。ちらりと父を睨付けて、勢いよく水樹の顔を覗き込む。
「ねえねえ、水樹くん。水樹くんだって、ウチに来てよかったよねえ?」
「うん。ボク、お父さんもお母さんも大好き」
 にこにこと何の躊躇いも見せずに答える水樹を満面の笑みでぎゅっと抱き寄せて、母が感極まったような声を出す。
「うん、もう。かっわいー。お母さんも水樹くんのお母さんになれてホントによかったあ」
 お腹が大きくて屈めないのでいつものように頬擦りはしてもらえないが、背中に回された母の手は優しかった。ふんわりとしゃぼんのいい匂いがする。
 とろとろと眠ってしまいそうな温もりが心地よくて、ちょっぴり照れながらも水樹が母のまるいお腹に頬を付けたその途端だった。不意に赤ちゃんがとんとお腹を蹴った。びっくりして顔を上げると母と目が合う。
「あ、今動いたね。水樹くんわかった?」
「うん、わかったよ。ぽんって、一回。ボクの顔をけったよ」
 水樹が少し興奮気味に頷くと母は、
「きっと自分も構ってほしかったんだね」
 と、うれしそうにお腹に手をやる。もう一度そのお腹をじっと見てから水樹は母を見上げた。
「ねえ、お母さん。赤ちゃんは男の子? 女の子?」
「さあ、どっちかなあ」
 楽しげに水樹に片目を瞑ってみせると、母はゆっくりと、掌でまあるくお腹を撫でた。
「お母さんわざと聞いてないんだ。そんなに急がなくても生まれて来たらわかるしね」
「でも、名前は?」
 水樹が小さな眉根を寄せる。
「生まれてから決めるの? すぐに決まる? 名前がないと困るよ。赤ちゃんのこと呼べないよ?」
 今から心配で仕方がない様子の水樹に父が笑顔で言い添えた。
「そんなに心配しなくても、もう両方考えてあるさ」
「え、ホント? どんなの?」
 父と母を見比べて右に左に忙しく首を振る水樹を優しく見返して、母は悪戯っぽく笑った。
「それは生まれて来てからのお楽しみ。ね、水樹くんはどっちだと思う? どっちがいい?」
 水樹は少し考えると女の子と答えた。
「どうして?」
 母が尋ねると少し照れたように小さく笑う。
「かわいいから。それとね、女の子は男の子みたいにケンカしないから」
「ケンカは嫌いか。水樹は平和主義者だな」
 面白そうに笑う父を見上げて水樹は神妙に頷いた。
「うん、ケンカしないよ。かわいがってあげるんだ。絵本読んであげるの」
「そっかあ」
 眩しいものでも見るように目を細め、うれしそうに微笑むと、母は水樹の柔らかい髪を指で梳くようにして優しく撫で付けた。
「水樹くんも、もうすぐお兄ちゃんだもんね。どちらが生まれて来るかはわからないけど、男の子が生まれても女の子が生まれても仲良くしてあげてね」
「うん!」
 水樹が笑顔で元気よく頷くと、父がカートの把手を握る。
「さあ、そろそろ行こうか。あんまり長く立ってるとお母さんが大変だからな」
 仲良く手を繋ぎ、親子はゆっくりとレジに向かって歩き出した。

 ◆

 お彼岸を幾日か過ぎた穏やかに晴れ渡った九月のその日、水樹は日曜日でもないのに幼稚園を休んだ。
 風邪を引いた訳ではない。母が入院することになったのだ。

 朝起きたときから母は時々休んではちょっと痛そうにお腹を押さえていた。
 心配になって水樹がそのことを訴えると、父は水樹の頭に優しく手をやってその場にしゃがみ込んだ。きちんと目線を合わせて、心配そうに見開かれた瞳をじっと見据える。
「お母さんのお腹が痛くなるのは、これから生まれるよって赤ちゃんからのサインなんだ。だから、医者の父さんにもどうすることもできないんだよ」
「ずっと痛いままなの?」
 不安げに水樹が問い返すと、父が口を開くよりも早く、
「大丈夫!」
 と、ダイニングから母が明るく笑った。よいしょ、と大きなお腹を抱え、朝食の支度がすっかり整ったテーブルの定位置に着く。
「こんなの今日だけ。赤ちゃんが生まれたらけろっと治っちゃうよ。病気じゃないもん。さ、ご飯、ご飯。二人とも早く席に着いて。今日はこれから予定がいっぱい詰まってるんだから」
「そうだな。早いとこ済ませてしまおうか」
 笑顔で見交わす父と母に釣られ、水樹もほっとして席に着く。
 皆で朝食を済ませると、父が台所に立って洗い物を始めた。
 いつもとは少しだけ違う朝。

 ――いよいよ赤ちゃんが生まれる!

 水樹はそわそわしながら父の洗い物を手伝い、入院準備をする母の手足となって家の中を飛び回った。旅行用の鞄に母の指示通りタオルや着替えを順番に詰め、自分用の小さなリュックにもハンカチとティッシュと、最近お気に入りの熱帯魚のミニ図鑑を入れる。
 水樹が自分もすっかり準備万端整えた頃、タクシーがやってきた。
 大きな鞄を後部座席に先に乗せると、父は母の方を振り向いた。
「すまないな。午前の診療が終わったら行くから」
 母はちらりと母屋の隣の建物に目をやった。医院の小さな駐車場には既に車と自転車が何台か止めてある。
「大丈夫。一応、お母さん来てくれるって言ってたし。さっき連絡入れといたから」
 頼もしげに笑うと、母は大人しく脇に控えていた水樹を側に引き寄せた。
「さ、行こうか。水樹くん」
 母と手を繋ぎ、父に向かって元気よく手を振ると、水樹はタクシーに乗り込んだ。

 ◆

 産婦人科の病室は二階にあった。
 いつも母に付いて通っていた外来とは違って、寝間着の妊婦さんが廊下を行き来している。
 案内された二人部屋の病室に入ると水樹は母を手伝って、持ってきた着替えを鞄からサイドボードの扉の中へと移した。担当の看護婦さんとも仲良くなり、やっと付添いの椅子に落ち着いて熱帯魚の図鑑をリュックから引っ張り出していると、ふとした拍子に廊下をこちらにやってくる女の人と目が合った。
 病室の前で立ち止まったその人に、水樹はいつも誰かと目が合うとそうしているように微笑みかける。
「こんにちは」
「あら。こんにちは」
 着物を着て、大きな臙脂(えんじ)の風呂敷包みを胸の辺りに抱えたその人は、驚いたように水樹の顔を一瞬見守ってからベッドの母に声を掛けた。
「意外ときちんと挨拶できるのね」
「お母さん。早かったね」
「産婦人科の病棟というのは随分明るい雰囲気なんだな」
 もう一人、扉の陰からスーツ姿の男の人が姿を見せると、母はもう一度びっくりしたような声を上げた。
「あれ、お父さんも来たんだ」
 それから水樹を側に招き寄せて、二人を紹介する。
「水樹くん、番町のおじいちゃんとおばあちゃんだよ」
「おじいちゃんとおばあちゃん……?」
 僅かに首を傾け、水樹は二人を見上げる。祖父母は遥か上の方から興味深げな視線を水樹に注いでいた。
 水樹は笑顔で改めてぺこりと頭を下げる。
「はじめまして。青葉水樹です」
「なかなか立派な挨拶だな。就学前にしてはしっかりしている」
 笑顔を見せる祖父に母は澄まして胸を張ってみせた。
「だから言ったでしょ。水樹くんはいい子だって。それに、すっごく素直で優しくて、おまけにとっても賢いんだから」
「はいはい。あなたの水樹くん自慢はもう聞き飽きました」
 溜め息混じりに枕元まで寄ってきて、取りあえず備え付けのサイドボードの上に風呂敷包みを乗せると、祖母は付添いの椅子に腰掛けて母の顔を覗き込んだ。
「そんなことより調子はどうなの。陣痛は?」
「うん。さっきからまたちょっとずつ来てる」
 祖母は半分カーテンの引かれた病室を見渡した。廊下にも目をやってから母に視線を戻す。
「青葉さんは?」
「昼休みになったら来るって」
「まったく。初めてのお産だっていうのに」
 祖母が眉を顰めると母は大仰に肩を竦めた。
「どうってことないよ。こんなことでおたおたしてたら医者の女房は務まりません」
「まあ、医者が患者を放ってくる訳にもいかんだろうさ。小夏の時だって広秋の時だって、私は出張でいなかっただろう」
「それはそうですけど」
 祖父の執り成しにも尚不満そうな祖母を見て小さく溜め息を漏らすと、母は僅かに顔を顰めた。枕元に置いてあった腕時計にちらりと目をやる。
「……いたた。やっぱ、この調子だとお昼と重なるかな」
 段々に強くなるお腹の痛みに耐えながら、水樹にもう一つの椅子に置いてあったコンビニの袋を取るように指示すると、すまなげに手を合わせる。
「ごめんね、水樹くん。今日のお昼はやっぱりそれ食べて」
 水樹は素直に頷いた。中には野菜サンドと小さな牛乳パックが入っている。病院に来る途中でちゃんと買っておいたのだ。
「小夏。あなた子供にいつもこんな物ばかり食べさせてるんじゃないでしょうね?」
 呆れて眉根を寄せる祖母を見て、母は心外そうに頬を膨らませた。
「そんなことないよ。いつもはちゃんとしたおかず作ってるよ。ねえ、水樹くん?」
「うん。お母さん料理上手だよ。タコさんウインナーおいしいよ」
 うれしそうに水樹が頷くと、祖母は小さく溜め息を吐いた。サイドボードの風呂敷包みを手に取って水樹の目の前まで持ってくると、椅子の上で結び目を解いてみせる。
 現れたのは漆塗りの四角い箱。ベッドの上から母が身を乗り出す。
「あ、すごい。お重なんて作ってきたんだ。懐かしー。小学校の運動会以来だね」
「おじゅう?」
 知らない言葉に水樹が小さく首を傾げ、祖母の手元を覗き込むと、三段重ねの梨子地の重箱のフタが開いた。ふわりといい匂いがして、お弁当のおかずが彩り豊かに現れる。
 赤いタコさんウインナー入りのスパゲティ、緑のサラダ菜とふんわりした黄色いオムレツ、ミートボール、一口コロッケなど、一の重には子供に人気の定番料理。二の重には里芋やニンジンの煮物、白み魚の照焼き、高野豆腐などの和食。一番下には一口サイズのおむすびがたくさん入っている。
「なんか意外だな。お母さんがこんなの作ってきてくれるなんて」
 母が笑うと、熱心に重箱を覗き込んでいる水樹をちらりと一瞥して祖母はまた小さく溜め息を吐いた。
「子供にひもじい思いをさせる訳にはいかないでしょ」
 僅かに目を逸らしたその横顔を見て、母はうれしそうに笑った。
「孫が出来ると親の態度軟化するってホントだね。ありがと、お母さん」

 やがて本格的な陣痛が始まると、母は水樹を祖父母に託し、看護婦さんに付き添われていよいよ陣痛室へと運ばれていった。
 手を振って病室から母を見送った水樹は、その場で祖父母と少し早い昼食を取った。
 祖母のお手製弁当は水樹の好物も多く、実際勧められるままによく食べたが、味はよくわからなかった。母と生まれてくる赤ちゃんのことが気になって上の空だったのだ。
 食べ終わった後も、何度も病室を出たり入ったり。そわそわと落ち着かないでいるのを、同室の人に迷惑だからと祖父が見かねて待合室まで連れていってくれた程だった。
 病院から急な呼び出しを受けたのは、そんな水樹が待合室のソファにやっと落ち着き、本棚にあった働く車の絵本を借りて読んでいた時だった。

 ◆

 手術室の廊下までやってきた水樹達の目の前に、母を乗せたストレッチャーが静かに止まった。

 戻ってきた母は動かなかった。
 静かに横たわる母に取り縋って祖母が泣いていた。事情を説明する医師。その説明に厳しい表情で耳を傾ける祖父。
 水樹はどうしていいのかわからずに、大人達の身体の隙間から母を覗き見た。
 寝台の上の母は目を閉じていて、いくら祖母が呼び掛けてもゆすっても目を覚まさなかった。

「水樹」
「お父さん?」
 掛けられた声に振り向いて、廊下の突き当たりに父の姿を認めた刹那、悲鳴に似た鋭い声が水樹の背後を襲った。
「一体何をしてたの! 今頃までッ!」
 祖母の発した叱り付ける声に、水樹はその小さな身をびくりと竦ませた。父はすぐに近付いてくると大きな掌で水樹の背中を安心させるようにゆっくりと一撫でして、尚も止まない祖母の叱責の刃から我が子を守るように前へと出る。
 苦渋の表情で診療は休めないと説明する父を、祖母が睨み付けた。
「何が診療よ! 自分の妻の命も救えないくせに!」
 それから再び寝台の上に目を落とすと、青白くやつれた娘の頬に、その震える両手でそっと触れる。
「やっぱり嫁になんてやるんじゃなかった。折れるんじゃなかった。大学だってまだ残ってたのに。小夏はまだ……まだ二十歳なのに……!」
 我が子に取り縋って泣き叫ぶ祖母の手前を憚るように、どこからか地味なスーツの男が現れて、極控え目に声を掛けてきた。
「あの、どちらにお運び致しましょうか」
 その声に弾かれたように祖母はにわかに顔を上げた。男を振り返って断固とした口調で宣言する。
「この子は番町の方に運んでください。葬儀はウチから出します」
「待ってください、お義母さん。それは――」
「青葉君」
 祖母を押し止めようとする父を遮ったのは祖父だった。
「ここは妻の気持ちを汲んでやってはくれんかね。社会的に責任ある立場として患者を放っておく訳にはいかないという君の言い分はわかる。だから、小夏の死について君の責任をどうこう言う気はない。だが、親としてはせめて最後ぐらいは御堂家の娘として、威儀の整った立派な葬儀を出してやりたいんだ。こう言っては何だが、あの程度の医院を維持するのがやっとの君にそれをしてやれるとは到底思えないのだが。どうだね」
 祖父の口調はあくまでも冷静だが言外に非難が滲み出ていた。父は僅かに視線を落とし、それでも抵抗を試みた。
「しかし、小夏は私の妻です。子供達の母親なんです」
「まだたった一年じゃないのッ!」
 母を抱き締めたまま父を睨み付けて祖母が叫んだ。
「私は二十年間この子を育ててきたのよ! 大事に育ててきたのに……! なのに、まともな式も挙げられず、新婚旅行にも行けずに他人の子の世話ばかり焼いて……。揚げ句にこんな姿になって……!」

 大人たちの口論を聞いて水樹はそっとその側から離れた。本当はもっと母の近くに行きたかったが、何だかその場にいてはいけないような気がした。
 ひとりで病棟の方へと歩いていくと、午後の陽射しで明るい廊下を、お腹の大きな妊婦さんたちが穏やかな笑顔で行き交っていた。
 ふと思い出したのは赤ちゃんのことだった。
 母のお腹は平らになっていた。赤ちゃんはきっともう生まれたのだ。
 生まれた赤ちゃんはどこへ行ったんだろう。
 病院のどこか?
 それとも、もっと知らないところ……?
 何だか少し怖くなって、水樹は廊下で看護婦さんを捕まえると聞いてみた。
「赤ちゃんはどこにいますか?」
 看護婦さんは丁寧に新生児室への行き方を教えてくれた。
 水樹は新生児室へと急いだ。
 水樹にはわかっていた。
 母はもう赤ちゃんのところへ行ってあげることは出来ないのだと。
 父も祖父母も母の側に付いていて、今は行ってあげられない。
 赤ちゃんはひとりぼっちできっと寂しがっている――。

 辿り着いたそこは大きな窓で囲まれた部屋だった。
 水族館のように廊下から中の様子を見られるようになっている。
 けれども、窓はずっと上の方にあって六歳の水樹では背丈が足りず、どんなに頑張って背伸びをしても飛び上がっても部屋の中を覗くことは出来なかった。諦めて、廊下に設置された長椅子に腰掛けて正面の大きな窓を見る。
 窓の前にはたくさんの人達がやってきた。一人でやってくる人。家族でやってくる人。男の人、女の人、お年寄り。子供同士で連れ立ってやってくることもあった。誰もがうれしそうにその窓の前で立ち止まり、笑顔でじっと中を見て、しばらくすると立ち去っていく。
 人々を見送りながら水樹はじっと長椅子に座っていた。
 水樹の位置からは天井の蛍光灯ばかりで赤ちゃんは見えないが、入れ替わり立ち替わり窓の前に立つ人々の隙間から、時折子猫の鳴き声のような微かな泣き声が聞こえてくる。

 赤ちゃん、大丈夫だよ。
 僕がいてあげる。お兄ちゃんが側にいてあげるから。

 水樹が泣き声に耳を澄ましながら尚も辛抱強くじっと窓の方を見ていると、また人がやってきた。
 その人は男の人で、やはり窓から一人で部屋の中を見ていたが、他の人達のように笑顔ではなかった。何故だか少し心配そうな顔をしている。
 しばらくするとその人はふと長椅子の水樹の方を振り向いて、穏やかな笑顔で話し掛けてきた。
「何してるんだい?」
「赤ちゃんが生まれたの」
 水樹が答えるとその人は明るく笑った。
「そうか。じゃ、お兄ちゃんになったんだな。もう赤ちゃんは見たの?」
 水樹は首を横に振る。
 するとその人は手招きをした。そして、躊躇いながらも素直に側までやってきた水樹を「意外と重いな」と言って笑顔で抱き上げ、中を見せてくれたのだった。

 新生児室の中は眩く白く輝いていた。
 小さなベッドがずらりといくつも並んで、その中に赤ちゃんが一人ずつ寝かされている。眠っている子も起きている子もいたが、どの赤ちゃんもとても小さく同じように見えて、水樹にはどの子が自分の弟か妹なのかわからなかった。
 水樹が困っていると男の人が尋ねてきた。
「お兄ちゃん、名前は何ていうんだ?」
「青葉水樹です」
「青葉くんか……」
 水樹が名乗ると男の人は部屋の中を見渡して左の方を指さした。
「ほら、あの子だよ。左から三番目の赤ちゃん」
 その赤ちゃんは小さな細い足首にピンクのプレートを巻き付けていた。プレートには漢字で「青葉」と書いてある。
 赤ちゃんは泣いていた。白い産着の中で、口を大きく開けて、小さな手足をばたばたとさせて、大きな声で一生懸命泣いていた。力強く、元気に動いていた。
 水樹は何故だかほっとする。
「赤ちゃん泣いてるね」
 思わず口にした水樹の言葉をどう取ったのか、男の人は優しく笑って頭を一つ撫でてくれた。
「大丈夫。赤ちゃんは悲しくて泣いてるわけじゃないんだ。まだ言葉が話せないから、その代りなんだってさ。お腹空いたとか、おしめが濡れて気持ち悪いよーとか。大きな声でいっぱい泣くのは元気な証拠なんだよ」
 水樹は男の人を振り返った。
「おじさんも赤ちゃんいるの?」
「うん、いるよ。ほら、あそこ」
 男の人が指したのはずっと奥の方にある透明な箱だった。中に赤ちゃんが一人入っていて、よく見るとその小さな身体から透明の細いチューブが出ている。それはいつか水樹が父の医院で見た「テンテキ」によく似ていた。
「おじさんの赤ちゃんは泣かないで生まれて来たんだ。だから、ちょっと元気がなくてね。まだおじさんもおじさんの奥さんも抱っこさせてもらえないんだ」
「おじさんの赤ちゃん早く元気になるといいね」
 水樹が箱の中の赤ちゃんをじっと見て口にすると、男の人は穏やかに笑った。
「ありがとう。君はいいやつだな」

 男の人と手を振って別れ、水樹が長椅子に戻ってしばらくすると、今度は父が姿を見せた。
 父は一人でやってきた。祖父母の姿は見えなかった。
 お母さんは、とは聞かなかった。聞いてはいけないような気がした。
「妹を見ててくれたのか? 偉かったな」
 父は近付いてくると、その温かくて大きな手を労うように優しく水樹の頭に乗せた。それから水樹を抱き上げて、新生児室の窓の前に立つ。
「――妹?」
 左から三番目の赤ちゃんに目をやった水樹がふと父を振り返る。
「それじゃ赤ちゃん女の子だね」
「ああ、そうだ」
 父は穏やかに頷き、新しい家族の名前を口にする。
「夏乃っていうんだ」
「……なつの」
 水樹はその名をぽつりと口にしてから父を見上げた。
「なつ、は、お母さんの『なつ』だね」
「そうだな」
 父は笑った。
 優しく。とても優しく――……。

 ◆

 チャペルは正面の高窓から射し込む幾条もの光を浴びて真白く、そして、晴れやかに輝いていた。
 純白のウエディングドレスに身を包みブーケを携えた小さな新婦と、その彼女からすれば見上げるばかりの長身でテールコートが映える堂々とした体格の新郎。
 たった今永遠の愛を誓いあった二人が、喜びに満たされてバージンロードをこちらにやってくる。
 その姿が不意に滲んだ。
「大丈夫、水樹君?」
 隣にいたゆかりがそっとハンカチを差し出して、目頭に溜まった涙を拭ってくれる。留袖の胡蝶に抱かれたさやかも、同じようにフリルのワンピースのポケットからハンカチを引っ張り出して、水樹の顔を撫でてくれた。
「ありがとう、二人とも。大丈夫。何だか昔のことを思い出しちゃって……」
 何度も目をしばたたき、照れたように微笑む水樹の横顔を、
「無理もない」
 と、透が穏やかに眺めやる。
「君は夏乃君の育ての親も同然だからな」

 外は爽やかな春の陽気だった。
 澄み切った青空の下、新郎新婦が友人達の祝福を受け、階段を下りてくる。教会の尖塔を掠めて舞うフラワーシャワーのなか、夏乃がふとこちらを振り向いた。
「兄さん!」
 純白のドレスの裾をつまみ、友人達の輪を抜けて、晴れやかな、至福の笑顔で駆け寄ってくる妹に、水樹は穏やかな微笑みを向ける。
「おめでとう、夏乃。すごく綺麗だよ」
「ほんと。妖精みたい」
 水樹に寄り添うように並んだゆかりも眩しそうに目を細める。
「ありがとう。今度はゆかりさんの番だよね。はい、これ!」
 差し出されたブーケをゆかりが受け取った途端、夏乃の頭の上からホワイトタイが覗き、如何にも不本意そうな声が降ってきた。
「ったく。何でお前がここにいんだよ。ウチの親族でも何でもねーだろ」
 ゆかりの顔を見た途端条件反射の如く顔を顰める櫂人を、夏乃が呆れて睨付ける。
「また、すぐそうやって突っ掛かる。ゆかりさんはあたしが友達として呼んだの。問題ないでしょ」
「そうよ。自分の結婚式ぐらい口を慎んだら? 検事になってもちっとも進歩がないんだから」
 ゆかりがちらりと目をやった先では、新郎の上司として列席した検事正が瞭三郎を囲んで透や櫂人の両親と和やかに話し込んでいる。
「何で俺がこんなとこで説教されんだよ」
 女達にやり込められてぼやく櫂人の手を、執り成すように水樹が取った。同じように夏乃の手も取って、その上に重ねる。
「おめでとう、夏乃。ほんとにおめでとう。櫂人君も、おめでとう。夏乃をよろしくお願いします」
「な、何だよ、水樹さん」
「兄さん、そんなに何度も言わなくても」
 幾分照れながら、慌てたようにこちらを覗き込んでくる幸せそうな二人を眺めて水樹は微笑む。
「何度でも言いたいんだよ。お父さんの分もお母さんの分も」

 それは、夏乃が生まれたときに言いそびれた言葉――。

 おめでとう!

 

【完】


Fumi Ugui 2009.05.15
再アップ 2014.05.21

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