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その日は天候には恵まれたが花冷えのする朝だった。
前夜から真冬並の寒気団が日本列島に居座り、前日との最低気温の差は十度もあった。
早めの昼食を済ませて十二時頃透が集合場所の駅前に到着すると、久しぶりにパーカーにすっぽり身を包んだ谷口が声を掛けてきた。
「おっす、早渡。調子どうだ?」
「調子というのはこの場合、読み聞かせのことか、それとも体調のことなのか?」
「その調子じゃ、お前は大丈夫そうだな」
肩を竦めた谷口は見事な鼻声だ。
他のサークルメンバーも昨夜の気温差にやられたのか同様に鼻声の者が何人もいる。街行く人にもマスクをしている人が目立った。
「ったく。何でこんなにさみーんだよ。もう二、三日もすりゃ四月だぞ。おい、これ。お前も滋養強壮に一本やっとけ」
手にした栄養ドリンク三本パックのうちの一本を透に渡すと、谷口は自分も一本一気に呷った。
「効くのか?」
一応ビンの能書きに目を通して透が尋ねると肩を竦める。
「予防の気休めぐらいにはなんだろ。この調子じゃ、きっとチビさん達も風邪引きまくりだぞ」
谷口の懸念は大当たりだった。
さわらび学園に着く頃には徐々に気温は平年並に戻りつつあったが、玄関に入るなり透達はあちらこちらからの小さな咳やくしゃみの音に出迎えられた。
「おいおい。まるで病院の待合室みたいだな。読み聞かせなんてしてる場合なのかよ?」
「表に軽が止めてあったでしょ。先生来てるんじゃないの?」
確かに表の軽自動車は青葉のものだった。往診に来ているのかもしれない。
青葉の姿を求めて首を巡らせた透は肩と首の付け根の辺りに軽く違和感を感じた。筋でも違えたらしく、どうも今朝から少しおかしい。軽く肩を解すように腕を動かしていると後ろから声が掛かった。
「どうしたあ。若いのに肩凝りか」
振り返れば、青葉が上がり框の上から笑顔でこちらを見ている。
「いえ。昨夜、弟と一緒に寝たので……」
櫂人の怖がりは翌日も直らなかった。明るいうちは問題ないが暗くなると一人ではいられないらしく、夕食以降は透の後を何かしら理由をつけてはくっついて歩いた。就寝時間になっても、一度は自分の部屋に行ったものの五分とは持たず、結局「今日は特別寒いから」という理由で透のベッドに潜り込んできたのだった。
もっとも、そのお蔭でお互いがカイロ代わりとなり二人とも風邪を引かずに済んだのはもっけのさいわいと言えなくもない。
事情を聞いた青葉は愉快そうに声を上げて笑った。
「ははは。お前さんのその体格じゃ窮屈だったろ」
「その前の晩に一緒に寝たときは何ともなかったのですが」
「連日だったから疲れが溜まったんだろ。どれ、そこへ座れ。マッサージしてやる」
「え、しかし……」
「いいから座れ。金も取らんし、遠慮もいらん」
「す、すみません」
躊躇う様子の透を上がり框に強引に座らせると青葉は廊下に両膝を突いて肩から頭部にかけてマッサージを始めた。
「先生は今日も往診ですか?」
黙ってしてもらっているだけというのも何なので、透が尋ねてみると青葉は思い掛けないことを言った。
「いや。今日はお前さんの読み聞かせを俺も拝聴しようと思ってな。もっとも、この陽気のせいで風邪引き小僧どもには来て早々大歓迎を受けたがなあ」
自分のために青葉がわざわざ来てくれたのだという。
素直に嬉しかった。緊張するが、期待されていると思えばやり甲斐もある。
「それは光栄です」
透が後ろを振り向くと青葉は笑った。
「おう。いいねえ、その目は。表情が輝いとる。やっぱ若いもんはそうでなくっちゃなあ」
透は目を見開いて青葉を見た。青葉が手を休め怪訝そうに透を見返す。
「お、何だ。どうした? 俺変なこと言ったか?」
「いえ。ただ、そんなふうに言われたのは初めてだったので……」
成績の良さや礼儀正しさを誉められたことはあるが、目を誉められたのは初めてだ。
何だか嬉しくて、自然と笑みが零れ頭が下がる。
「ありがとうございます」
「おお、笑ったな。結構結構。益々男ぶりが上がるってもんだ。読み聞かせじゃそれもひとつの武器だな。ま、頑張れよ」
仕上げに透の肩をぽんと一つ叩き、後ろ姿で手だけをひらひらと振ると青葉はひと足早く多目的室に入っていく。
しばらくその場で青葉の後ろ姿を見送っていた透は、通り掛かった人影に腕を伸ばした。
「谷口」
腕を掴まれ引き止められた谷口は、しばらくただぽかんと口を開けて透の顔を見ていた。
いつもの反応が得られず、透が怪訝そうに見返すと、慌てて我に返ったように返事をする。
「お、おう。何だ?」
「いや、こんなことをお前に聞くのもどうかとは思うが……」
透は一瞬だけ躊躇ってから再び口を開いた。
「僕の顔には人を惹き付けるだけの魅力があると思うか?」
「はあ?」
何事かと思えば。
周知の事実を今更真顔で尋ねてくる透に、谷口は呆れて溜め息を吐いた。
「お前ってさ、自分を鏡で見たことねーの? 顔だけじゃねーよ。どう見てもお前は芝居でいやあ二枚目、今時の言葉じゃイケメンだろが。自覚がなかったのかよ」
「いや、特別悪いと思ったことはないが……」
「副島(そえじま)辺りに聞けばお前の魅力について嫌というほど語ってくれると思うぞ。連れてくるか?」
谷口が廊下の向こうで女同士固まってしゃべっている茶髪に目をやると、透は軽く手を上げてそれを制した。
「いや、それには及ばない」
それきり何事か思案するように沈黙してしまった透の姿を眺めて谷口はぽつりと呟いた。
「あいつ……今、俺のこと呼んだよな」
「ん? 何か言った、谷口?」
「いや。こっちのこと」
廊下の奥からこちらにやってきた同期の女子学生は少しだけ訝しげに首を傾げると、谷口に向けて下の方だけ二重に折り曲げたノートの切れ端とシャープペンを差し出した。
「んじゃ、ちゃっちゃとくじ引いて。残ってんのあんたと早渡君だけだから」
アミダくじを引いた結果、本日の取りは透が務めることになった。
「大取りかあ」
開かれたアミダくじをしばし眺めて彼女に返すと、谷口は透をちらりと見た。
「どうよ。自信のほどは? 辞退すんなら代わってやってもいいぜ? 今日はチビさん達風邪引きも多くていつもより難易度上がってるしな」
体調が悪ければ当然集中力も落ちる。そこを惹き付けておけるかどうかは読み手の腕次第だ。
「自分だって鼻声だろう」
透は笑って谷口の申し出を一蹴する。
「だったら風邪を引いてない分、僕の方が有利だと思うが」
「おっ。言うねえ。そんなら、お手並み拝見といこうか」
谷口が興味深げに見返すと、透は軽く肩を竦めてから仄かに笑んだ。
「まあ、やってみるさ」
果たして――
透の読み聞かせは取りに相応しい堂々としたものだった。
演目は『アリババと四十人の盗賊』。
朗々と深みのあるよく通る声で、表情豊かに、ひとりひとりに語り掛けるように読み聞かせるその姿には、初日に棒読みして子供達に無視され憮然としていた面影など微塵もない。
技術的にはまだ粗削りで、何年もやっているベテランメンバーから見れば細かい面でアドバイスしたくなる点も多々ある。
けれども、それを補ってあまりある不思議な魅力が今の透からは感じられた。
何よりも、透自身が楽しげなのだ。
サークルメンバーが見たこともないような極上の笑顔を惜しげもなく振る舞い、どんな表情も生命力に溢れ、生き生きと輝いている。
子供達にもそれは伝わるらしく、余所見をする子など一人もいない。どの子も皆瞬きするのも惜しむように透を見つめて熱心に、楽しそうに聞き入っている。
ここ数日で一体彼に何があったのか。
あまりの豹変振りにサークルメンバーが驚いているうちにも物語は佳境に入り、アリババと盗賊の頭がいよいよ対峙――というところで、唐突に透が椅子から立ち上がった。
「早渡……?」
メンバーが訝しげに眉を顰め、一体何が起こるのかと子供達が釘付けになるなかを、本を持ったまま躊躇いなく大股に一歩前へ出ると透は真っ直ぐに腕を伸ばす。途端、まるでそれを待っていたかのように最前列に腰掛けていた小さな女の子の頭がぐらりと大きく横へと傾いだ。そのまま前後不覚に頭から転げ落ちようとするのを、すんでの所で透の大きな手が受け止める。
ほっと息をつくと、透はしっかりと女の子を抱き直し意識朦朧としたその小さな額に手をやる。
「先生、熱があるみたいです」
透が顔を上げたときには青葉は後ろの席からもうすぐそこまで来ていた。
「おお、よくわかったな。どれ、こっちへもらおうか」
女の子を青葉に託すと、透は振り向いてその隣の孝を見た。やはり風邪を引いて鼻が詰まっているらしく、口で息をしている。その様子はいつもより数段辛そうだった。
「君も一緒に先生に診てもらうかい?」
透が尋ねると孝は強く首を横に振った。
「そうか」
透は微笑むと孝の頭をひとつだけ優しくぽんと叩いた。
「それじゃ、もう少しだから聞いていてくれるかな」
立ち上がる透を見上げて孝はこくりと頷く。
「それじゃ、先生」
「おう、任せとけ」
青葉は女の子を抱き直すと、ぐるりと子供達を見渡した。
「他に気分悪いやつはいないか。しんどかったら我慢してねえで、早めに言えよ」
ないないと子供達が口々に叫ぶ。中には咳や鼻声も混じっていたが皆元気いっぱいだ。
「だとさ。後はよろしくな」
青葉は透を振り返って笑顔を見せると、そのまま部屋を出ていく。その後を園長がついていくのを見送って透は席に戻った。
「失礼したね」
落ち着き払って本を開き、子供達を見渡すとにこりと笑んだ。
「では、続きを始めよう」
◆
読み聞かせは大盛況のうちに終了した。
いつもの手順に従いサークルメンバーが部屋を退出し、出入り口の戸を閉めた途端、出し抜けに副島が透の目の前へノートとサインペンを差し出してきた。
「透先輩! サインくださいっ!」
いつもよりも一層きらきらと瞳を輝かせ、飛び付く勢いで熱心に懇願する。
「唐突にどうしたんだ。卒業記念には一年早いと思うが」
「大体お前、素人にサインもらってどうすんだよ」
話に割り込んできた谷口に副島は嬉しそうに宣言した。
「青田買いですよ! 青田買い! 透先輩、お願い! 一生の宝物にしますから、副島まりさんへって一筆くださ〜い!」
「待った。そういうつもりなら俺を通してもらおうか。勝手にファンクラブなんかつくるなよ、副島」
透の前に立ちはだかる谷口に間延びした口調で、だが猛然と副島が抗議する。
「え〜? 何の権利があってそんなこと言うんですか〜! 谷口先輩、透先輩の何なんですか〜?!」
「そうだなー……」
不満そうに口を尖らせて睨んでくる副島を一瞥してから首を捻り、少しだけ思案する様子を見せて谷口はにやりと笑った。
「ま、マネージャー兼プロデューサーってとこか」
「え〜? 先輩ばっかりそんなのずるーい! 私ファンクラブつくりますから公認してくださ〜い!」
最早本人は蚊帳の外。冗談とも本気とも区別がつかない二人の遣り取りを透が興味深げに見ていると、他のメンバーも話し掛けてきた。
「早渡、お前よく子供の具合悪いのに気付いたなあ」
「間一髪ってところだったよね。あのまま倒れてたらケガしてたかも」
「大体、お前本はいつ見てたんだ? 本見てるより子供の顔見てた時間の方が長かっただろ?」
副島との交渉の合間を縫って谷口が尋ねると透はこともなげにさらりと答えた。
「内容は全部頭に入れたからな」
「は? 暗記? 一回の読み聞かせのために?」
唖然とメンバーが透を見る。
透が手に持っている『アリババと四十人の盗賊』は絵本だが結構分厚い。
「それが最善の方法だと思ったからな。子供達の様子を見ながらきちんと加減も出来る」
「はぁ〜!」
谷口が頓狂な声を上げ、次いで溜め息混じりの賛嘆の言葉を漏らす。
「たった数日でどうよ、この変わり様! やっぱお前はただもんじゃねーわ」
サークルメンバーが尚も去りがたくその場で立ち話をしていると、部屋の反対側の戸が開いて子供達がわっと駆け寄ってきた。
「おにいちゃん、あくしゅしてー!」
「あくすー!」
子供達の目当ては透だった。先頭に立っているのは女の子達。幼児から中学生まで皆手に手に握手を求めてくる。
サークル仲間の懇願は受け流したものの、握手を求めてくる子供達を無下に拒むことは出来ず、透は忽ち小さな人垣に取り囲まれてしまった。中には抱っこをせがむ幼児や、どうしてもとサインをねだる十五、六歳の少年もいて、断りきれずに応じてやるとそれを見ていた子供達からまた抱っこだのサインだのと声が上がる。
握手会変じてサイン会のような様相を呈してきたところへ愉快そうな声が掛かった。
「ほう。えらい人気だなあ。最初のときとは見違えるようじゃないか」
「先生」
透が振り向くと子供達の人垣の向こうで青葉は笑った。
「見ろ。このチビどもの顔」
側にいた孝の頭に手をやる。孝は鼻をすすりながらそれでも笑顔で透を見上げている。
「俺が来たってこうは歓迎してくれんぞ。孝君の不調を吹き飛ばすとは、医者顔負けだな」
「いえ、これも皆先生のアドバイスのお蔭です」
「いやいや。お前さんの実力さ。なかなかの名演だったよ。救助劇のおまけ付きだったしなあ」
「先生、あの子は?」
僅かに眉を顰めて透が尋ねると、
「心配はいらんよ。ただの風邪さ。薬飲んで大人しく寝てりゃあ治る」
青葉は頼もしげに笑い、孝を後ろから持ち上げて子供達の頭上越しに透の方へと差し出した。
「ほれ、孝君も。兄ちゃんに握手してもらえ」
恥ずかしそうに、それでも笑顔で差し伸べてくる孝の小さな手を透が握ると、周囲からまたわっと握手を求める声が上がる。
子供達の興奮状態は、風邪の熱も手伝ってか当分収まる気配はないように見えた。
◆
いつものように送ってもらい、透と谷口は駅前で仲間の車を降りた。
厳しかった朝の冷え込みもすっかり弛み、午後の街中は今朝着込んできたコートが鬱陶しく感じられるぐらいの春の陽気だ。
風も心地よく吹いている。
「あー、気持ちいいなー」
パーカーを全開にして風を孕ませ谷口が深呼吸をする。
「なあ、早渡。せっかくだからさ、一駅ぐらい歩かねえ?」
「悪くはないな。まだ夕暮れ時までには時間もある。駅まで道はわかるのか?」
「線路に沿って歩いてきゃ何とかなんだろ」
谷口の行き当たりばったりな提案に付き合って、取りあえず駅前の通りをしばらく行く。お互い特に話もせずに五分も歩いた頃、透がおもむろに切り出した。
「谷口。お前の考える今一番面白い芝居は何だ?」
唐突な振りに驚いたのか、谷口は一瞬絶句して透の顔を凝視したが、すぐに気を取り直して話に食い付いてきた。
「お? 何、やる気になった?!」
「人を楽しませるのもなかなか面白いと思ってな」
透が躊躇いなく肯定すると、嬉しそうに背中をばしばし叩いてくる。
「そーか、そーか! やる気になったか! いや、結構結構! 入学式でお前を見掛けて以来、マークし続けてきた甲斐があったってもんだ!」
そんなに長い間張り付いていたのかといささか呆れ、一言返そうと谷口の方へ首を巡らせた透は軽く顔を顰めた。忘れていた違和感を思い出し、首の付け根の辺りに手をやる。
「何だ? どっか痛めたのか?」
「いや。寝違えたのは前の晩からだ。それにしても何だったんだろうな。あの人集りは……」
一人抱き上げてしまったのが運の尽き。
その後透は幼児から小学校中学年ぐらいまでの子供達をひとりひとり抱き上げる羽目になった。希望者は主に女の子だったが男の子も多く、結果的に結構な重労働になってしまったのだ。
「あれだけ派手なパフォーマンスすりゃ当たり前だろ。ま、子供と言えども乙女心を弄んだ当然の報いだな」
透は怪訝そうに谷口を見返す。
「あ、お前。その顔はまたわかってねーな?」
谷口は立ち止まると、同時に歩みを止めた透を真正面から見上げた。
「いいか。お前が実際どういうつもりだったかに関わりなく、少女の危機に手を差し伸べる色男ってのは女にとっちゃあ白馬の王子だ。あの瞬間、お前はアイドル化されたんだよ。副島の反応見てりゃわかるだろ」
「……あれはそういうことだったのか」
指摘されてやっと腑に落ちる。透自身、あの反応は読み聞かせに対するものにしてはいささか過剰だと感じてはいたのだ。
「しかし、まあ。それで喜んでもらえるなら別にそれでもいいような気もするが……」
他人の瞳に自分はどのように映っているのか。白馬の王子か、それとも鼻持ちならない優等生か。
そんなことを考えてみるのも面白いと透は思った。
「お前、ほんっとに変わったなあ」
谷口が感心しているのか呆れているのかわからない口調で透を振り仰ぎ、まじまじと顔を覗き込んだ。それから少しだけ眉根を寄せる。
「サービス精神旺盛なのはいいが、そんなこと言ってるとそのうち身を滅ぼすぞ。無闇に愛想振り撒いて、変な女に勘違いされたらどうすんだ。勘違い女は怖ぇぞぉ〜?」
顰め面で語る谷口はまるで経験者のようだ。実際、透よりはそうした体験は豊富なのかもしれない。
透は笑った。
「確かにな。おかしなトラブルに巻き込まれて司法修習に支障を来すようでは困る」
「え、何だよ。お前まだ判事とか弁護士とかになるつもりなのか?」
意外そうに見返してくる谷口に透は頷く。
「取りあえずな」
「何でだよ。芝居に興味あるならとっととどっかの劇団か芸能事務所にでもに入りゃいいじゃん」
「弁護士になっておけば、いつか誰かの役に立つかもしれないだろう?」
「ふうん?」
谷口は意味あり気ににやりと笑うと透の顔を窺うようにして見た。
「誰かって、やっぱあの熊の先生?」
透は谷口の問いには直接答えず、遥か頭上を見上げる。
三月も終りの空は高く青く澄みきっていた。白い雲、街路樹の緑、いつもは単調に見える駅前の街並みさえも、穏やかな春の日差しに輝いて見える。
「いつか、そんな時が来たらな」
子供達に囲まれ身動きが出来ないでいるうちに青葉は引き上げてしまい、結局ゆっくりと挨拶することも出来なかった。
だが、さわらび学園がそこにある限り青葉は往診を続けるだろう。
あそこへ行けばいつでも会える。
晴れやかな、安心感を伴った気分で透はそう思った。
「よっし。早渡が人並みになってきた祝いだ。これから俺が毎日演劇の魅力ってやつを教えてやるよ。新学期から観劇三昧だぜ。楽しくなりそうだなあ」
「お前はもう少し真面目に講義に出るべきだと思うが」
「せっかくの気分に水差すなよ。そういうとこ変わんねーな」
口で言うこととは裏腹に谷口は上機嫌に見える。
「何かいいことあったのか?」
尋ねてみると、透を見上げて一瞬だけ驚いたように目を見開き、それからにやりと笑った。
「ま、いいことっつーかさ。お前、今日俺のこと初めて呼んだだろ?」
透は気付く。
自分を見上げてくる谷口が、どういうつもりか似合わない顎髭を伸ばしかけていること――。
「そうだったか?」
身振り手振りを交えて話すその腕に、今時珍しくアナログの時計をしていること。右腕にしていることから左利きなことにも、たった今――。
「そうだよ。ま、いいけどな」
軽く肩を竦めると、谷口は再び歩き出した。二、三歩進んで振り返る。振り返りしな、きらりと小さくピアスが反射した。
「何してんだ? 道わかんねーんだから、もたもたしてると日が暮れるぞ」
駅までの先が見えない道のりも、道連れがいれば退屈することはないだろう。
「ああ。今行く」
遥かな、尽きることのない新たな世界への道のりを、透は今、一歩前へと踏み出した。
【完】
Fumi Ugui 2008.03.28
再アップ 2014.05.21