その保健室には日誌がある。 利用者の署名と保険医の日々のコメントを書き込むためのものだ。 それは南の窓の側、保険医の机の上の最も日当たりがよいところに置いてあり、触るとほんのりといつも温かかった。 1.小春日和 「最近、なんかいろんなことが不安になってきて…」 小さな机の前の簡単な椅子に腰掛けて、正面に力なく座った少年の言葉に白衣の男が耳を傾けている。 南に面した大きな窓。白いカーテン。白い衝立。そして、簡素なベッドが2台。そこだけ時間がゆっくりと流れていそうな温かな静けさ。校内にありながら学校の喧騒とは切り離された隠れ里のような場所。 彼はこの小さな部屋の主、保険医だった。 保険医は目の前の生徒の言葉に黙って耳を傾ける。本当にほとんど言葉は発しない。時折相槌を打つ程度だ。相手が言葉に詰まっても再び語る気になるのをいつまでも窓の外の景色を見ながらのんびりと待つ。すると、生徒はぽつりぽつりと先を話し始めるのだった。 「そう……」 最後にひとつ相槌を打つと保険医は立ち上がった。生徒がそっとその大きな瞳で不安げに見上げてくる。保険医はちょっと笑った。 「本当ならここで、帰りに一杯飲んで忘れようとか言いたいところだけど、立場上そうもいかない。不自由なところだね。お茶でもいれるから、しばらく休んでいきなさい」 流しの前に立ち、手慣れた様子で急須にお茶っ葉を入れポットのお湯を注ぐ。 生徒が所在なさげにしていると、 「退屈ならゲームでもしようか」 保険医が振り返りにこりと笑いかけた。戸棚から小さな角材のたくさんの入った箱を取り出す。そのチップを丸椅子の上に適当に高く盛り上げると天辺に小さな旗を立てた。 「さ、君からどうぞ。崩しちゃダメだよ」 「用務員さん。お茶入ったんだけど、一緒にどうですか?」 「おー。ありがとね」 保健室の目の前で植木の手入れをしていた用務員は作業を一旦中断すると、手提げ袋を持って近づいて来た。保健室の前の水道で手を洗う。 「実はさぁ。俺持ってきたんだよね、これ」 用務員は手提げから出した大きな紙袋を保険医の目の前に掲げた。昔風の茶色っぽい紙袋の中からビニール袋を取り出す。中には、小豆色や白っぽいベージュ、抹茶のような緑色。色とりどりの大粒の豆が入っていた。 「あれ? 甘納豆じゃないですか」 「へへへっ。豆たくさんもらったから作ってみたんだけどさ〜。食べる?」 「いただきます。へぇ。ひっさしぶりだな〜。子供の時に食べたきりですよ」 保険医はいそいそと一番南のベッドの上に湯呑みを運び、用務員を部屋に招き入れた。サッシを締めてしまうとそこは温室のように温かく午後のこの時間お茶をするには絶好の場所になる。二人はベッドに腰掛けるとお茶をすすり、同じようにほっと息をついた。 「お茶変えた?」 「ええ。終っちゃったから。分かります?」 「うん。わかるよ。前のよりも上等のやつだねぇ」 「え、そうですか? それしかなかったんで買ってきたんですけど」 「相変わらずだね〜」 サッシの向こうでは北風のなか生徒達が長距離走をしている。時折体育教師の叱咤の声が遠く聞こえてくる。男子高だから女子が一人もいないのがちょっとだけ寂しい。 「のどかだね〜」 「そうですね〜」 「こんなところで一人でいるのは退屈だろ?」 「そうでもありませんよ」 保険医は笑う。 「こうしてここから校庭を眺めていると結構いろんなことがよく見えますよ。現場だと分かりにくいことも見えてるんじゃないかな。責任もないし。お気楽ですよ」 「先生!」 突然雷の様な、引き戸を開ける酷い音がして生徒の声が室内に響いた。 「どうしたぁ?!」 間、髪を入れず、衝立のこちら側から保険医が少し高めの良く通る声で叫び返す。先ほどまでののほほんとした雰囲気からは思いも寄らないほどその動作は機敏だ。白衣を翻して突風のように衝立の向こう側に回り、やって来た生徒を観る。 やって来たのは二人。一人がしかめっ面のもう一人を肩で支えている。二人とも顔には見覚えがあった。 「どうした、美村。また膝か」 一瞥して緊急事態ではないことを悟り、保険医はトーンを落とした。美村は保健室の常連だ。 「こいつ、また訳分かんないとこでヒザ捻って。大したことしてないんスよ?」 肩を貸している小竹が心底呆れた様子で訴える。 「体育館シューズが引っ掛かったんだよ! こう、ぐきって!」 「無茶すんなって言っただろ。お前は体重の割りには膝から下が貧弱なんだから」 美村をベッドに寝かせるよう小竹に指示すると保険医は脇に回り、美村の膝の辺りに触れた。 「いたっ。痛いよッ、先生!」 「痛いのは神経生きてる証拠。大げさなんだよ」 保険医は美村の膝をあちこち動かしながら大まかな診断を下す。 「骨も折れてないみたいだし。大したことない。また古傷痛めたんだろ。念のために早引きして医者に診てもらえ」 「も〜。すぐそうやって追い出そうとする」 「へへ。ついでにサボろうって魂胆だろう」 衝立の向こうから用務員が出てきてにやにや笑った。 「おじさん。来てたのかよ」 「やってくか?」 用務員が甘納豆の袋を二人に差し出す。 「とっとと病院行けよ」 保険医が顔をしかめる。 「そう固いこと言いなさんな。茶の一杯ぐらいいいだろ。俺が後から自転車で送っていくからさ」 「しょうがないな。一杯だけだぞ?」 一つ溜め息をついてから保険医が念を押すと、小竹が奥から椅子を持ち出してきてちゃっかり自分も腰を下ろした。 諦めた様子の保険医は、それでもまんざらでもなさそうに新しく二人分のお茶を入れる。 こんなふうに、日々保健室の午後は過ぎていく。 2.鶴瓶落としの秋の夕暮れ 理科教諭の真南(まみなみ)は健康マニアで保険医よりもその方面の知識は豊富なくらいだった。 スポーツ医学から民間食餌療法、サプリメント一般、健康法まで知らないことはない。スポーツ科学に関しては講習会などがあると必ず顔を出すほどの熱心さだ。トレーナーの資格も持っている。 校内では、怪我をしたら保険医、ちょっとした健康相談は理科の真南というのが分担のようになっていた。 「おーい。ちょっと開けてくれ」 放課後の保健室。保険医が日誌を付けていると引き戸の向こう側から聞きなれた声がした。手を休めて引き戸を開けると、目の前に理科教諭の真南が立っている。手にしているのは両手鍋。ほかほかと盛んに湯気が立って向こう側の顔を霞ませている。 「何これ? どうしたの」 保険医はびっくりして一瞬身を引いた。 「善哉作ったんだけど、食う?」 「そりゃ、食べるけどさ……」 真南を部屋に招き入れながら保険医は呆れた様子で机の上を片付けた。新聞を畳んで鍋敷きの代わりにする。 「また準備室で作ったの?」 「うん。長いことかかるからさ。片手間に様子見るのには準備室の方がいいんだよ」 真南は小腹が空くと化学準備室にあるアルコールランプでよく簡単な食事を作っては食べていた。カップ麺の類いならばポットのお湯で十分なのだが、健康マニアの真南はそれを是としていない。 「も〜。みんなはりきっちゃってさ〜。今日もぎりぎりまでやってくつもりらしいんだよ」 外はもう夕日が沈みかけている。校内は今文化祭の準備で大わらわだった。熱心な生徒は毎日遅くまで出し物のセッティングや練習に勤しんでいる。真南の担任するクラスの出し物は芝居だった。体育館の舞台で1回20分の公演を午前に1回、午後に2回行う予定だ。 「なんか異常に盛り上がっちゃってさ〜。もっと気楽にやればいいのに。オレ、もうついていけね〜よ」 弱音を吐く真南を保険医が笑って慰める。 「いいじゃん。手間入らずで。こういう時にしらけてんのもどうかと思うぜ?」 「そうなんだけど限度ってもんがあるよ。だってさ、生徒同士ならまだしも、演劇部の顧問にまで議論ふっかけんだぜ?」 「演劇部って、モーリンに?」 モーリンは五十代半ばの、強面で有名な演劇科の講師だ。 「そうだよ。どっちも譲らないしさ〜。オレ、はらはらのし通しだよ〜」 真南は保険医の顔を見る。 「いいよな、おまえは。こんなところでのんきにしてられて」 「オレだって大変ですよ〜?」 保険医は笑う。 「生徒の悩みどころか教師の愚痴も聞いてやらなきゃならないんだからさ」 「だから、こうして手土産持ってきてるだろ?」 「あはは。そういうことなんだ」 「だからさ〜。愚痴聞いてくれよ〜。頼むよ〜」 朗らかに、軽やかに、保険医の笑い声が部屋を満たしていく。 こんなふうに、ある日の保健室の放課後は過ぎていく。 2008.01.15 改訂版
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