目に青葉

蛍雪 その二

 ロビーへ戻るとそこは閑散としていた。
 撮影スタッフが病室に移ってしまったからだ。この後の出番は暗くなってからだと聞いているエキストラ達も、皆息抜きに外出しているようだった。
 待ち合いの椅子に腰を下ろすと、水樹はトートバッグの中から数種類のパンフレットとボールペンを取り出した。ボールペンは握りの太い、パステルピンクのファンシーなもので、天辺に子猫のキャラクター人形が付いている。二十歳を過ぎた男が持つには少し可愛らし過ぎたが、水樹はこのボールペンを愛用していた。
 水樹が天辺の子猫を口に押し当てるようにして考え込みながら熱心にパンフレットに目を通していると、にわかに足下に影が差した。
「そのボールペンは君が買ったものなのかい?」
 聞き覚えのある声に反射的に顔を上げると、そこには桐生が立っていた。遥か頭上からの視線は水樹のボールペンに向けられている。
「え、桐生さん……何でここに?」
 驚きのあまり質問に質問で応えてしまった水樹に桐生は苦笑する。
「暗くなるまで出番がないのでね。休憩さ。で、その可愛らしいボールペンだが……」
 桐生がボールペンに視線を戻すのを見て、水樹は自分も手元のボールペンに目をやった。
 何故こんなものに桐生が興味を示すのか訝しみながら、やっと思い当たって前の桐生の質問に答える。
「ええと。これはその、全部話すといろいろややこしいんですが、元々は僕のじゃなくて父の形見なんです」
「形見……」
 その言葉を口にした桐生からはそれまでの余裕の笑みが一瞬にして消え失せていた。しばし茫然として立ち尽くし、改めて目の前の水樹を見る。
「先生は亡くなったのか……。いつ頃だろう?」
「もう4年になります。あの、父を御存知ですか?」
「4年……」
 水樹の質問には答えず、桐生はその理知的な面にほんの僅かに悲痛を滲ませる。少し考えるようにしてからおもむろに口を開いた。
「私は君のお父さんに会ったことがある」
「え? ……患者さんだったんですか?」
「いや。さわらび学園という孤児院で」
 水樹は目を見開いた。
「大学のサークルで慰問に出かけたときに、そこの主治医だった君のお父さんにお会いしたんだ。そのときにそのボールペンも見せて頂いた」
 自分の顔を見詰めたまま何故か黙ってしまった水樹の様子を訝しみ、桐生は尋ねた。
「君はさわらび学園のことは……」
「知ってます。僕はそこの出身です。子供の頃父が引き取ってくれたんです」
「そう……だったのか」
 今度は桐生が黙る番だった。感慨深気に水樹を見る。
「私が今俳優としてあるのは君のお父さんのお蔭だ。病院というこの場所で、今日君と出会ったのは多分、啓示だな」
「啓示……ですか?」
 怪訝そうにしている水樹に桐生は問う。
「君はいくつだ?」
「二十歳です」
「学校はどうしてる」
「父が亡くなったときに高校を中退しました。今は働いています」
「会社はどこにある? どんな仕事をしているんだ?」
「都内の自動車部品工場で生産ラインに従事しています」
「他に家族は? お母さんはどうしておられる?」
「妹が一人います。母は父よりも早くに亡くなりました」
 尋問のような矢継ぎ早の質問に水樹は淀みなく適切に答えていく。
 その様子を見て頷くと、
「では、最後の質問だ」
 桐生は口調を改め、その透徹な瞳で水樹を見据えた。
「君は医者になりたいのか?」
「はい。父のような立派な医師になるのが夢です」
 真っ直ぐに見詰め返し、唐突とも思える桐生の問いに躊躇いなく答えた水樹は、すぐにその視線を僅かに逸らした。
「ですが……妹を進学させなければなりませんし。僕は高校中退とは言ってもほとんど中卒と同じで学業にはブランクがあるので、学費を惜しんでいきなり大検という訳にも……」
「なるほど。それで高校の夜間部に通おうというのだね」
 桐生は水樹が手にした入学案内のパンフレットに目をやる。
「そう思ったのですが……」
 水樹は視線を落とした。
「やはり無理みたいです。経済的なことを考えるとどうしても……」
 夜間部に通うとなれば残業も夜勤も出来なくなる。土日にもっと割のいいバイトを入れるとしても経済的には良くて今ととんとん、ヘタをするともっと厳しい状況に置かれることになるかもしれない。妹の夏乃に余計な心配や苦労だけは掛けたくなかった。
「では、こうしよう。私が君の夢に投資する」
「え?」
 唐突な桐生の申し出に水樹は我が耳を疑った。
「贈与税控除の限界の金額を、夜間部を卒業するまで毎年学資として援助しよう。その金を生活費の補助に使うのも学費に使うも君の自由だ」
「で、でも、そんな……! そこまでして頂く謂れがありません!」
「投資と言っただろう? 成績は定期的にきちんと報告してもらうし、留年せずに医学部を受験するだけの学力をつけて卒業することが条件だ。それから先のことはまたそのときになったら新たに契約条件を提示しよう」
「も、もしも条件をクリアできなかったら……?」
「そのときは――」
 桐生は水樹を上から下までじっくりと眺めてから映画の配役そのままに妖しく笑った。
「もちろん、君の身体で返してもらうよ」
 そうして見詰められると、まるで本当にインテリヤクザに懐柔されているようで落ち着かない。このまま何処かに連れていかれて生命保険の契約書にサインでも迫られそうだ。
 だが、彼が今の水樹にとって救いの神に外ならないのもまた事実。
「どうするね?」
 じっと足下を見つめて考えていた水樹はゆっくりと顔を上げて桐生を見た。
「少し……考えさせてください」
「いいだろう。慎重なのは悪いことではない。じっくりと考えたまえ。ところで、今日はこの後時間はあるかな?」
「え、は……はい」
 桐生は頷き、名刺の裏に自身の宿泊先と部屋番号をメモって手渡した。
「では、ロケが終ったらこのホテルへ来たまえ。フロントで聞けばわかるようにしておくよ。まずは親睦を深めよう。君のことをいろいろ知りたい。ディナーを一緒にどうかな?」

 

 高級レストランのテーブルに着いて水樹は固まっていた。
 不必要に高い天井、きらびやかなシャンデリア、全面ガラス張りの磨き上げられた窓。そのゆったりとした空間にプラチナを思わせるデザインの調度品の数々。目の前に並べられた如何にも高級そうな食器と料理。真白いナプキン。
 どれも水樹の緊張を高めるものばかりだ。
 そして今、目の前でワイングラスを傾けているのは、品良くきっちりとスーツを着こなした二枚目俳優の桐生。
 何だか現実とは思えなかった。
「どうした。料理がお気に召さなかったかな?」
 なかなか料理に手を付けようとしない水樹を見て桐生が怪訝そうに尋ねる。水樹は慌てて首を振った。
「いえ、そんなことは。ただこんな高級な料理は見たことがなくて……。何か格好も場違いだし……。正直、緊張しています」
 エキストラのバイト帰りに直行したため水樹の格好はと言えば、近所のスーパーで買った特価のTシャツに色の抜けてくたびれたジーンズ、やはりワゴンの特価品を店じまいセールで更に5割引で手に入れたスニーカーというものだった。パン屋の全員プレゼントでもらった「うさ子ちゃんとニンジン模様」のトートバッグを店に入るときに預かってもらえたのがせめてもの救い。高級ホテルのレストランにはどう考えても不釣り合いな格好だ。
 だが、それ以上にこんな値段の張りそうな料理を目の前にすると、どうしても後ろめたくなる理由がある。
「それに……」
 言いにくそうに言葉を濁して黙ってしまった水樹を桐生が穏やかに促す。
「それに?」
「……持って帰って夏乃にも食べさせてやりたいなと思って」
 何という場違いな発言か。ここは近所の大衆食堂ではないのだ。
 恥じ入ったように俯く水樹を見て桐生は仄かに笑んだ。
「そう言えば妹がいると言っていたな。高校生?」
「いえ、今中2です。ずっと経済的にいっぱいいっぱいだったので、外食もあまりさせたことなかったなと思って……」
「妹思いなんだな」
「あ……。その、すみません。おかしな話をして」
「いや。そういう話をするために今夜はここに招いたんだ。むしろきちんと聞いておくべきだろうな。君のパトロン候補としては」
 さらりと口にされたその言葉の響きに水樹は一瞬ぎょっとする。
「……パ、パトロン……ですか……」
 水の入ったグラスを持ったまま停止してしまった水樹を面白そうに桐生が見ている。
「何か問題があるかね?」
「い、いえ……」
 きちんとした意味を調べたことはないが、パトロンという言葉には何やら口外するのを躊躇わせる妖しい響きがあるような気がする。
 水樹の考えを見透かしたように桐生は口許に意味あり気な笑みを浮かべた。
「パトロンと言う言葉には芸者等に付く旦那という意味もあるが、元々は父、或いは守るという意味で、経済的な後援者のことを指す。私は正しく使用しているつもりだがね」
「は……はい。そうですね……」
 どちらの意味で、とは水樹は敢えて聞かなかった。
 今は人の善意を信じることにしよう……。

 

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Fumi Ugui 2008.02.06
再アップ 2014.05.21

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