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人気のない小さな高架の駅に辿り着くと時刻はもう十時を回っていた。
水樹と夏乃はガード下のアパートの二階に住んでいる。一階は貸し店舗になっていて、一見して建物自体に相当年季が入っていることが窺い知れる代物だ。
かつて住んでいた山手の、医院を兼ねた僅かながらの家と土地は相続の手続きをしてすぐに売り払った。どう考えてもアパートの家賃の方が固定資産税よりも安くなりそうだったからだ。
簡素な葬儀を出した後、支払いの済んでいない医療機器等の精算や細々とした事後処理を済ませてみると、自身に身寄りのなかった父がもしもの時にと残してくれた保険金も銀行預金も僅かになった。事故の相手は定職にも就かず自動車保険にも加入していないような男で、そちらの方もまったく期待はできなかった。水樹が高校を辞めて働くとしても、実質中卒と同じでは大した稼ぎは望めない。生活費の他に将来夏乃が進学するための学資はいずれ必要になる。なるべく纏まった金額は残しておきたかった。
入ったばかりの有名進学校を躊躇うことなく退学すると、水樹はまず不動産屋を回って歩き、妥協できる範囲内で一番安いアパートを見つけたのだった。
「ただいま」
六畳二間のアパートのドアを開けると、夏乃は奥の部屋で扇風機を脇に置きテーブルに頬杖を突きながら勉強していた。風呂上がりで汗が引かないのかタオルを首に巻き、パジャマ姿だ。
「あ、お帰りなさい。遅かったね」
水樹の顔を見るとノートと参考書を閉じて立ち上がり、出入り口の脇の狭い台所からコップと麦茶を持ってくる。
風通しのために中の襖は開けっ放し。その向こうの南向きの窓も全開になっていた。それでもクーラーのない部屋は昼間の熱気が篭ってまだ暑い。
「お風呂沸いてるよ。食べてきたんでしょ?」
「ああ、急にすまなかったね。その代りと言っては何だけど……」
水樹は手にした二つの手提げのうち、トートバッグではなく洒落たデザインの紙袋の方を机の上に置いた。興味津々に夏乃が覗き込んで来る。
「え、何これ。なんか高級そうな袋だね」
底の方に見えるのは淡い色合いの上品なパッケージだ。夏乃が早速それを取り出し、まるで傷つけるのが勿体ないとでもいうようにかなり慎重に封を開けると、現れたのはフルーツやチョコレート、生クリームをあしらった見るからにおいしそうなムースやプリンのセットだった。
それらは帰り際に桐生が夏乃にと態々持たせてくれたものだ。
「すごーい! どうしたの、これ!?」
「夕食を知り合いの人に奢ってもらってね。お土産に頂いてきたんだよ。シェフお奨めのデザートセットだそうだ。一日早いけど、ありがたく好きなのを頂きなさい」
明日は夏乃の十四回目の誕生日だ。
「うん! 誰だか知らないけどありがとう! 頂きます!」
手を合わせ、歓声を上げながら嬉しそうにデザートを選ぶ夏乃を見て水樹は目を細める。
大方の女の子の例に漏れず夏乃も甘いものが大好きだ。
小学生の頃は家族でファミレスへ行く度に、主食メニューよりも先にチョコパフェやアイスクリームを一度にいくつも注文しては父に叱られていたものだった。
しかし、父が亡くなってから、夏乃は甘いものを食べなくなった。間食もしなくなった。
幼い頃から聡かった夏乃は、中卒で働く水樹の収入ではかつてのように生活に余裕はないことを子供ながらに感じ取っていたのに違いない。
現在の夏乃の楽しみは、せいぜい自分と水樹の誕生日にショートケーキを食べることぐらいだ。
「お兄ちゃんは? どれにする?」
「今日は僕はもういいよ。いろいろ頂いてきたからね。明日もらうことにする」
夏乃が抹茶のムースを口にする手を止める。
「どうした?」
水樹が怪訝そうに見ると、座り直してじっと見詰め返してくる。
「お兄ちゃん、あたし卒業したら働こっか?」
「バカなこと言うもんじゃないよ」
水樹が一笑に付すと、物言いたげに見上げてくる。
「でも……」
「心配しなくてもいいよ。本当に今日はお腹が一杯なんだ。三つ星レストランでね、見たこともないような料理を御馳走になったから」
「でも、進学するとお金がかかるし……」
「大丈夫。夏乃は成績もいい孝行者だから受験も公立一本で済むしね」
水樹は笑った。
「それに、僕だって4年も働いてるんだ。それなりに貯金もある。夏乃一人ぐらい高校へ行かせられるさ」
「うん……」
もうそれ以上夏乃は何も言えなかった。
本当は兄の方が自分よりもずっと成績が良かったことを夏乃は知っている。
小学校の時に見た水樹の中学の通知表はいつもオール5だった。
いつだったか一度だけ美術が4に下がっていてびっくりしたのを夏乃は今でも鮮明に覚えている。本人はあまり気にしていないようだったし父は笑っていたが、当時の夏乃にとってそれはかなりの衝撃で、兄の身に何か良くないことが起こったのではないかと子供心に心配したものだ。
水樹の成績表に5以外の数字があったのは後にも先にもそれっきり。
それくらい水樹は優秀だったのだ。妹の贔屓目ではない証拠に、水樹は全国でも有数の超進学校に首席で合格し、入学後最初の試験も学年トップの成績だった。中退する時も学校から先生が何度もウチにやってきては随分と熱心に引き止めていたのだ。
その兄が進学を諦めたのは自分がいたからだと夏乃は思っている。
もちろん、父が亡くなったという経済的な問題が根底にはある。けれど、もしも養わねばならない自分という存在がなければ、天涯孤独の身軽な身の上だったなら、兄は奨学金を頼りに多少無理をしてでも進学していたかもしれない。
そのことを考えると、自分だけが高校に進学して勉強をしてもいいものだろうかと夏乃は落ち着かない気持ちになるのだった。
「あ、それからこれ……」
ムースを食べる手を休めたついでに夏乃はおずおずと鞄からプリントを出してきて水樹に渡した。上目使いに水樹を窺う。
「三者懇談なんだけど……来れる? 忙しいなら別にいいよ? 日にちずらせるし」
「もちろん行くよ」
水樹は笑った。
「たまには有給休暇取らないとね。会社がうるさいんだ」
夜勤や残業、休日出勤も多いが、水樹は自分が会社に酷使されているとは思っていない。
再来年に迫った夏乃の高校進学のこともある。まだ若くて体力もある水樹としては、むしろもっと働いてもいいくらいだった。しかし、世の中には労働基準法というものがある。いくら水樹自身にまだ余力があっても工場ではそれ以上働く訳にもいかない。だから、マメに探しては空いた休日にバイトをやっているのだ。
日々そうした生活を送っている水樹にとって三者懇談は日頃あまり構ってやれない夏乃と親睦を図るにはよい機会だ。
そのためなら休暇を取ってみるのも悪くはない。
水樹はプリントの出席の欄に大きくマルをつけた。
Fumi Ugui 2008.02.15
再アップ 2014.05.21