目に青葉

大樹

 十月に入ると急に秋の気配が濃くなってきた。
 風が冷たくなり、街行く人達の制服も夏服から冬服へと一斉に変わる。
 赤や黄色に色付き始めた街路樹のショッピング街を、水樹は久しぶりに夏乃と二人で歩いていた。
 途中銀行の大きなディスプレイの前で水樹が立ち止まると、夏乃がからかう様子でうれしそうに声を掛けてくる。
「お兄ちゃん、もう三度目だよ。そんなに気にしなくてもちゃんと似合ってるよ」
「いや、やっぱり普段着つけてないから……。何だか落ち着かなくてね」
 ディスプレイのウインドウに映った自分のスーツ姿を見て水樹は苦笑を漏らした。
 浮かんだ言葉は馬子にも衣装。
 社会人として、何より夏乃の保護者として恥ずかしくないようきちんとした身形をしてきたつもりだったのだが、こうして見てみるとどうにも中身と釣り合いが取れてないような気がする。
 頼みの綱のスーツの方も、去年成人式用にと買っておいたバーゲン品を、今日の日のためにと押し入れから引っ張り出して二、三日部屋に吊るしておいたのに、まだ樟脳のにおいが残っているような情けない有り様だ。
「大丈夫!」
 いつまでもネクタイを弄っている水樹の腕を取って、夏乃はウインドウに仲良く映った自分達に機嫌よく笑い掛けた。そのまま強引に腕を引いて歩き出す。
「ほら、こうして歩いてもあたしちっとも恥ずかしくないもん」
「こらこら。そんなにくっついたら制服に樟脳のにおいがつくよ」
 水樹が顔を顰めると余計にぎゅっとひっついて見上げてくる。
「だーい丈夫! 平気平気」
 小柄な夏乃は水樹の肩までぐらいしか背丈がない。
「ねえねえ。こうやってしてると、お兄ちゃんとあたしって恋人同士に見えるかな?」
「何バカなこと言ってるんだ」
 水樹は呆れて小さく溜め息を吐く。
「きっと女子中学生と怪しい男の援助交際か何かに見えるよ。恥ずかしいから放しなさい」
「やっだもーん。学校までこうしていく!」
 夏乃は上機嫌だ。
 水樹も口では抵抗しながら本気で振り解こうとはしなかった。
 こんなふうにスキンシップをするのも久しぶり。今日は家族サービスをするために有給を取ったのだから、これくらいのことはしてやっても罰は当たらない。
 人々の注目を浴びながら、夏乃に腕を引かれ水樹は学校へと向かったのだった。

 

「あら、まあ」
 教室から出てきた中年の女性が大仰に声を漏らした。
 廊下で順番を待っていた夏乃とスーツ姿の水樹を何度か見比べて、最後にもう一度物珍しそうに水樹の方を眺める。
 一緒に出てきた少年が眉間に皺を寄せ小声で母親を小突いた。
「あんまジロジロ見んなよ。青葉の兄貴だろ」
 あまり見詰められると困惑するが、気になるのも無理はないと水樹は思う。中学校の三者懇談に姿を見せる保護者にしては自分はあまりにも若いのだ。
 母親は青葉家の事情に思い当たった様子で、慌てて笑顔を作り会釈をする。
「お兄さんでしたか。いつも青葉さんには息子がお世話になっております」
「いえ、こちらこそ」
 と水樹は穏やかに母親に会釈を返し、夏乃のクラスメイトにも微笑み掛けた。
「いつも夏乃がいろいろお世話になってます」
 クラスメイトは一瞬びっくりしたように身を引いたが、すぐに水樹にぺこりと頭を下げると、滅多に姿を見せない相手に興味津々の母親の上着を掴んで引っ張った。
「もういいだろ。いつまでも見てんじゃねーよ。恥ずかしいな」
「またね、前川くん」
 夏乃が笑って手を振ると、まだしゃべり足りない様子の母親を先へと押しやってぶっきらぼうに手だけで応える。
「友達?」
「うん。班で一緒の子」
 二人で親子の後ろ姿を見送っていると、教室の戸が開いて担任が顔を出した。
「青葉さん」
 まだ若い女の担任は、水樹の姿を認めると少し驚いた様子を見せたがすぐに微笑んだ。
「お兄さんですね、初めまして。担任の酒井です。さ、中へどうぞ」

 夏乃と並んで席に着くと、模試の成績表を渡され、学校での生活態度などの説明を受けた。
 クラスメイトとの関係も良好で特に問題もなく、水樹はほっと安堵する。
「ところで――」
 一通りの説明を終えると担任は少しだけ口調を改めた。ちらりと夏乃を見やってから水樹と視線を合わせる。
「青葉さんの進路のことなのですが……」
「は……?」
 唐突に出てきた進路という言葉に面食らい水樹は目を見開いた。
 夏乃はまだ2年生。まさか今日の懇談で進路の話が出てくるなどとは夢にも思わなかった。学資のことは随分前から心積もりはしていたが、具体的な志望校となると考えてみたことも、本人と話し合ったこともない。
 水樹がとっさにはうまく言葉を返せないでいると担任は言いにくそうに少し口ごもる。
「いえ、この間話の弾みで志望校を聞いてみたら、青葉さんが進学ではなくて就職希望だと言うので。その辺のところはお兄さんはどうお考えなのかと思ってお聞きしたのですが……」
「夏乃……」
 水樹が傍らを見ると夏乃は水樹の方は見ずに首を竦めている。
 夏乃が家で水樹に気を使うことはあっても、まさか学校でそんなことを漏らしているとは思わなかった。
 妹の不安を解消してやることも出来ない自分の不甲斐なさに水樹は内心で唇を噛む。
「青葉さんは成績もすごくいいし、トップクラスの公立高校も進学校も問題なく受かると思うんです。ご家庭の事情もあるかとは思いますが、受験までにはまだ一年以上もありますし……」
「いえ、もちろん」
 水樹は担任の言葉を遮った。他人から言われるまでもない。
「私としても夏乃を高校に進学させるつもりです」
「お兄ちゃん……」
「この子が何を言ったかは知りませんが」
 水樹は見上げてくる夏乃の後頭部に手を回し、がしりと掴んでそのまま勢いよく押さえ込んだ。担任に向かい、自分も共に深々と頭を下げる。
「進学は必ずさせますので、その方向でよろしくお願い致します」

 教室を出ると夏乃は水樹を置いて一人でどんどん前を歩いていった。
 辛うじて走ってはいないというスピードで振り向かずに廊下を通り抜け、階段を一足飛びに駆け下りる。
「夏乃、待ちなさい」
 校庭に出たところでやっと追い付いた水樹が腕を捕らえると、夏乃は大人しく立ち止まった。後ろを向いたまま尋ねてくる。
「……怒ってる?」
 水樹は思わず大きく溜め息を吐いた。
「怒ってないよ。ただ驚いただけ。ちゃんとこちらを向いて。話し合おう」
 水樹に腕を引かれるまま夏乃がおずおずとこちらを向く。
 水樹は手を放さなかった。夏乃は水樹の目をちゃんと見ない。今手を放したら、また逃げていってしまうような気がした。
「夏乃は勉強が嫌いなのか? もっとたくさんの本を読んで知らないことを知ったり、いろんなことを考えたりしたくないのか?」
「そりゃ、勉強嫌いじゃないけど……。もっといろんなこと知りたいけど」
 目を逸らしたまま夏乃は答える。
「だったら進学すればいい。お金のことは本当に心配いらないから。それとも、そんなに兄ちゃん信用ないか」
「違う! 違う! そんなんじゃない!」
 唐突に声を荒らげると夏乃は水樹の手を邪険に振り払った。
「そんな風に思われるのが嫌だからいつも何も言えなくなるんじゃないか!」
「夏乃」
 水樹が思わず手を引くと、キッと兄を見上げて、戸惑うその顔を睨み付ける。
「あたしは勉強好きだよ。でも、それはお兄ちゃんだって一緒でしょ!」
 思わぬ反撃に言葉を失い水樹はその場に立ち尽くす。
「なのに、何であたしは進学出来てお兄ちゃんは出来ないの? お兄ちゃんが進学しなかったのはあたしがいたからでしょ?!」
 言い募る夏乃の声は悲鳴のように聞こえる。
 これほど感情を露にした夏乃を見るのは父を亡くして以来初めてだった。
 しかし、それ以上に、自分が夢を断念したことがこれほどまでに夏乃の重荷となっていたことに水樹は愕然とする。
「お兄ちゃん方がずっと成績良かったのに。皆がお兄ちゃんなら絶対立派なお医者になれるって言ってたのに。なのに、なのにあたしだけ好きな勉強いっぱい出来るなんて不公平だもん!」
 水樹は今の今まで自分の進学と夏乃の進学はまったく別の問題だと思っていた。
 だが、違う。
 今思い知ったのはそのこと。
 ここで自分が決断しなければ、たとえ大学まで進んだとしても夏乃はこのまま一生負い目を感じて生きていかなければならない。
 自分が夢を追い、その実現のために努力することで夏乃が前向きに生きていけるのなら、それだけでも今一歩を踏み出す価値は十分にある。
 仁王立ちして泣いている夏乃にそっと近付き水樹はハンカチを差し出した。
「拭きなさい」
「泣いてなんかないよ」
 頑固に受け取ろうとしない夏乃に苦笑しながら、
「泣いてるよ。ほら」
 代わりに水樹が涙を拭いてやると夏乃はむっつりと黙って目を擦った。
「……樟脳の匂いがする」
「平気なんだろ?」
 水樹は笑った。ふと改めて夏乃の顔を見る。
「夏乃」
「……何?」
 突然真顔になった水樹を見上げて夏乃が怪訝そうに首を傾げる。
「僕は今度定時制高校に通おうと思う」
 ぽかんと口を開けて自分を見詰める夏乃から目を逸らさず、水樹は静かに告白した。
「いずれは医学部を受験して父さんのような立派な医者になりたい」
「ほんと?」
 夏乃が水樹の両腕を掴んだ。
「それホントなの!?」
 掴んだ両手に力を込め、ほとんど飛び付かんばかりに自分の顔を見上げてくる夏乃の目を見て、水樹はきっぱりと頷く。
「だから夏乃もちゃんと高校へ行くんだ。僕も頑張るから」
「うん! 頑張って! お兄ちゃんが進学するならあたしバイトもするし、家のことだってもっともっと張り切ってガンガン節約しちゃうから!」
 きらきらと目を輝かせ嬉しそうに節約の算段をする夏乃を見て水樹は安堵の笑みを漏らす。
「そんなにしなくても大丈夫だよ。割のいいバイトも見つけたから。相談できる人も出来たしね」
 バイトの件は夏乃を安心させるための口から出任せだったが、桐生に相談すれば多分何とかなるだろう。
 何とかならなかったら、自分で何とかすればいい。
 援助がない場合のことを思えば、努力次第で道は開けるに違いないのだ。
 何よりも夏乃の笑顔のためだと思えば頑張れる。

 帰り道、夏乃を先にスーパーの店内へ買い物にやると水樹は携帯を取り出した。
 まだ明るいこの時間帯では仕事中かもしれないとも思ったが、あちらが翻意しないとは限らない。なるべく早く意向を伝えたかったのだ。
 意外にも相手はすぐに出た。
「桐生さん、青葉です」
「やあ。待っていたよ、水樹君。で、決心はついたのかね?」
 舞台俳優独特の、深みのある穏やかな声。
 静かに決断を促すその声に水樹は決然と頷いた。
「やってみます」
「そうか」
 携帯の向こうから桐生が満足そうに相槌を打つ。
「では、メールで住所を知らせるから明日仕事が終ったら劇団事務所へ来たまえ。受付で名乗ればわかるようにしておくよ。詳しい打ち合わせをしよう」
「よろしくお願いします」
 携帯を握り締め水樹は深々と頭を下げた。

「先生、水樹君は医者となる決意を固めたようです」
 桐生は通話を切ると、敷地の周りに植えられた常緑樹の緑から足下の整理された小さな区画へと視線を移した。
 郊外にある共同墓地の一画。桐生の目の前にも墓があった。まだ新しい、だが簡素で慎ましいものだ。
 そこに眠るのは若くして亡くなった青葉夫妻。
「先生、あの時の東大生です。覚えていますか」
 桐生は墓碑銘を見詰めて懐かしむように仄かに微笑む。
「貴方は僕に生きる喜びを、愉しみを教えてくれました。貴方の一言一言で、あの頃の単調で灰色だった世界が僕の中で様々な色と音を伴って生き生きと輝き出した……。ですから今度は僕が先生の御恩に報いようと思います。少し時間は掛かるかもしれませんが……」
 ひしゃくですくって水を掛け、大きな花束をひとつ供えると、桐生は黙とうする。
 祈りを終え、静かに再び見開かれたその瞳は決意に充ちていた。
「近い将来必ず」

 

「小川君、例のドラマの件受けるよ」
 墓地から出ると、桐生は道路脇に止めてあった車のリアシートに乗り込み運転席に声を掛けた。
 もらい物のスナック菓子を噛っていた女性マネージャーが驚いて振り向く。
「え、いいんですか。そりゃ先方は随分熱心ですけど……。だって、舞台に関われる時間が減るから嫌だって言ってたじゃないですか。一度受けると後はなかなか断れませんよ?」
「事情が変わった。これからはドラマや映画のオファーも積極的に受けていく」
「どうしちゃったんですか? まあ、劇団事務所としてはその方が稼げるから歓迎ですけど」
 桐生は笑った。
「では、問題ないな。頼むよ」
「んー。いいですけどねえ。もしかして、何か企んでます?」
「そんなふうに見えるかね?」
 相手の期待に応えるように桐生は意味あり気に含み笑う。それから両手の指を組み、ふと窓の外の常緑樹に目をやって、夢見るように言い添えた。
「大樹を育てようと思うんだよ。青葉茂れる緑の大樹をね。立派なものを育てるには、育てる方にもそれなりの覚悟がいる」
「何ですか、それ。庭師付きの豪邸が欲しいってことですか?」
「はは。なるほど。それもいずれは必要かな」
「また。そうやってすぐ人を煙に巻こうとする」
 小川は小さく肩を竦めた。
「ま、本人がそう言うなら有り難く方向転換させてもらいます」
「どれだけ稼げるかは君の手腕次第だ。よろしく頼むよ、小川君」
「まっかせて。ギネスに載るくらい稼がせてあげますって」
 そう言って、小川は残りのスナック菓子を袋から全部直接口の中へ放り込んだ。
「それは頼もしい」
 笑って桐生が軽く手を振ると、さやと吹く秋風のなか、車は静かに走り出した。

 

【完】


Fumi Ugui 2008.02.22
再アップ 2014.05.21

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