足長おじさんと僕

1.スクープ、ゲイ宣言!

「あ。大樹(たいじゅ)君、おはよう!」
 三階建てのビルの階段を二階へと上がりフロアへ出ると、大部屋から手を振って小川が声を掛けてきた。
 こちらに近付こうと部屋を出た拍子に廊下に立て掛けてあった宣伝用パネルを引っ掛けてしまい、倒れてきたところを振り上げた脚と伸ばした片腕とでとっさに支える。
「あの、手伝いましょうか」
 普段色気はなくとも目の前で難儀しているのは一応妙齢の女性。あられもない格好を見兼ねて水樹が声を掛けると、
「ああ、いいから。大樹君はさわんないで。釘とか出てるかもしんないから。ケガでもさせたら先生に怒られちゃう」
 元大道具の小川は犬の子でも追い散らすように水樹を遠ざける。それから身の丈程もある大きな二枚続きのパネルの下に身体を滑り込ませ、当たり前のように引き起こした。すると扇いだように大風が巻き起こり、廊下の両脇に並んだ段ボール箱の隅から一斉に綿埃が舞い上がる。
「ちょっと、何これ! やっぱ、たまには掃除しないとダメね」
 顔を顰めて慌てて廊下の窓を開けると、小川は手を振って埃を追い出し始めた。
 劇団事務所が借りきっているフロアを貫く廊下には、芝居で使う大道具や衣装等を詰め込んだ段ボール箱が所狭しと置かれていて、余程気をつけて歩かないと引っ掛けて倒してしまうことなど日常茶飯事だ。
「おはようございます」
 小川の作業が一区切りするのを待って、しそこねていた挨拶を律義に返すと、水樹は控え目に付け加えた。
「あの、小川さん。僕の名前は大樹じゃなくて水樹(みずき)なんですけど……」
「あー、大樹君」
 ジーンズの腰に両手を当てて小川は水樹を軽く睨付ける。
「今、人の名前もきちんと覚えられない困ったオバサンだと思ったでしょ?」
「え? い、いえ。そんなことは」
 水樹が否定すると小川は笑った。
「ホントかなあ」
「あの、今日桐生さんは?」
 マネージャーの小川がいるということは桐生も近くにいるということだ。先週は仕事の都合で顔を合わせることが出来なかった。
「今劇団代表とちょっと打ち合わせ。そのうちそっちへ行くと思うよ」
「そうですか」
 水樹が持ち場へ行こうとすると、
「あ、そうだ」
 小川が思い出したように尋ねてきた。
「大樹君、今日ここへ来る途中で何か変わったことなかった?」
「いいえ。特に何も……。何かあったんですか?」
 劇団事務所なので、何かそれらしきネタがあると芸能マスコミがビルの出入り口に何人もたむろしているなんてこともざらにある。だが、水樹が来たときには誰もいなかった。
「ううん。何もなきゃいいのよ。じゃ、またね」
 怪訝そうに小首を傾げる水樹を残し、小川は大部屋の中へと戻っていった。

 水樹の持ち場はフロアの一番奥にある小さな一室だった。
 そこは劇団のポスターと大道具で雑然とした感のある他の部屋とは違っていつも整然としていた。
 部屋の奥に大きな事務机とノートパソコン。その手前に簡単な応接セット。事務机の後ろを除く三方の壁には立派な造りの本棚が並び、箔押しの仰々しい法律関係の本とファイルがきちんと収められている。
 鍵を開けて部屋に入ると、水樹はまず事務机の向こうの窓を開けて空気を入れ替えた。午前中とは言っても外は湿気があって暑いし、フロア全体に空調が利いているはずだが、気持ちの問題だ。
 しばらくしてから窓を閉め、机を水拭きしているとドアが開いた。
「おはよう、水樹君」
 入ってきたのは桐生だった。
 桐生は映画やドラマで活躍している新進気鋭の二枚目俳優だ。長身で堂々とした、スーツの似合うシルエット。クールで理知的な容貌をしている。冷徹な敵役やインテリヤクザ風の役所が多く、映画やドラマ等では細いフレームの銀縁眼鏡をかけた姿で見かけることも多い。
 経歴も異色で、東大法科在学中に司法試験に合格。司法修習生を経て弁護士の資格を得てから後に舞台演劇の道に入り、現在は俳優業の傍ら所属する劇団事務所の一室を借りて法律相談をしている。
 水樹はその助手だ。毎週土曜日に通ってきては書類の整理をする。

 青葉水樹は縁あって桐生から学資援助を受けていた。
 父と同じ医師となるためだ。
 現在は郊外にある自動車部品工場に勤務していて、毎朝八時四十五分から働き、午後五時には工場を出て都内の定時制高校に通っている。月に一度ぐらい土曜に出勤することもあるが原則週休二日だ。
 以前勤めていた工場は夜勤が多く定時制通いには適していなかったため、通学に理解を示し便宜を図ってくれる会社を桐生の知り合いの弁護士を通じて紹介してもらったのだ。
 水樹が働き始めたのは父が世を去った、高校に入学したばかりの頃。中退してからもう5年になる。この事務所でバイトを始めたのは桐生から援助を受けるようになってからで、つい最近だ。
 バイトといっても、そもそも俳優の片手間に弁護士活動をしている桐生はそんなに多くの依頼を受ける訳ではない。法律相談事務所として表だって看板を掲げている訳でもなく、依頼人は口コミで紹介される同業者、つまり芸能人の離婚相談がほとんど。毎週通っていても郵便物やメールの確認、書類のファイリング等は三十分もあれば済み、あとは簡単な掃除をして、五時まで勉強しながら電話番をするのが水樹の仕事だった。エアコンもない六畳二間の自宅に比べれば自習するには抜群の環境だ。要するにこのバイトも桐生の援助の一部で、水樹はそれに甘えている形なのである。
 このように水樹にとって桐生はいくら感謝しても足らない存在だったが、彼から学資援助を受けていることを水樹は世間にはもちろん、たった一人の身内である妹の夏乃にも内緒にしていた。
 桐生が芸能人だからということもあったが、人には打ち明けにくい理由がもうひとつある。
 水樹の足長おじさんは、とても誤解を受けやすい人だったのだ。

「水樹君、これを見てごらん」
 事務所に入ってくるなり桐生が手渡したのは一冊の女性週刊誌だった。けばけばしい色合いの見出しが表紙一面にべったりと張り付いている。
 普段こういった雑誌を手にしたことのない水樹がどこを見ればいいのか戸惑っていると、
「一番左だ。大きく載ってるだろう?」
 桐生が薄く笑って助け船を出す。言われて初めて水樹は「桐生」という文字に気がついた。白抜きの書体があまりに大きくて、それを字だと認識できなかったのだ。
 そこには縦書きで『桐生(27) 男子学生と援助交際』と書いてある。
「こっ……。まさか、これって……!」
 水樹が慌てて目を上げ視線を合わせると、桐生は愉快そうに笑った。
「多分、どこかで食事をしているところでも見られたんだろう。もっと地味な相手なら誰も気にも留めないのだろうが、君は結構目立つからな」
 桐生は傍らの青年を改めて眺めてみる。
 自身にあまり自覚はないようだが、水樹は穏やかで清潔なイメージの好青年だ。一緒にいると何となく癒される雰囲気を持っている。
「芸能記者が未だに君のところへ押しかけていないということは、この記事を書いた記者も噂を聞いただけだろう。もしかしたら、ネットからネタだけを拾ったのかもしれないな」
 水樹は読みつけない誌面のなかから苦労して問題のページを見つけると、印刷の悪いモノクロの記事にざっと目を通した。なるほど、写真は内容とは関係のないものばかりだし、記事はほとんどが伝聞調で書かれていて情報源は誰なのかも明記されていない。交際相手は大学生だと書いてあったり、密会(!)現場とされている場所が行ったこともない地域だったりと、記者が想像で書いたとしか思えなかった。
「で、でも、桐生さん。これ、桐生さんのことゲイって書いてありますよ?! ほっといていいんですか」
 仮にも桐生は弁護士だ。その気になればいつでも訴えることが出来る。
 だが、彼は不敵に笑った。
「まあ、そう思いたい者には思わせておけばいいさ。今日も家を出た途端質問攻めにあったんだが、実は今度映画でそういう役をやることになっているんだよ。ゲイの医者の役なんだがね。タイムリーと言えばタイムリーだ」
 水樹はここでバイトするようになってから気付いたことがある。
 どうやら役者というものは大まかに分類すると二種類に分かれるようなのだ。一つは普段は控え目でむしろ地味な存在だが、必要に応じて必要な分だけその独特のオーラを開放するタイプ。もう一つは常日頃から独特のオーラを放っているタイプ。
 桐生はどちらかと言うと後者だった。常に人を圧倒する雰囲気を漂わせているという訳ではないが、独特の存在感がある。自分が人にどういうイメージで見られているのか熟知していて、サービス精神も旺盛だ。そして、人を煙に巻くのが好きという、少し困った性癖があった。
「心配は無用だ、水樹君。君に迷惑はかけないよ。ただ、私の方はこれから芸能記者のマークが厳しくなるだろうから、用心のためにしばらく外で会うのは控えよう」
 ここだけ誰かが聞いたら、絶対勘違いするに違いない……。
 水樹は苦笑を漏らす。
 桐生が本当にゲイかどうか水樹は知らない。だが、少なくとも水樹の前ではそんな素振りは一度も見せたことがなかった。
 確かに学資援助は受けているが、そういう関係ではない。
 しかし、そんなふうに世間に思わせてしまうのが、この人の困ったところなのだ。
 水樹が妹に報告するのを躊躇ってしまうのもこんなところに一因があった。
 こんな記事が出てしまった今となっては尚更言いにくい。
 パソコンに向かいメールの確認をする桐生をちらりと盗み見ると、水樹はこっそりと溜め息を漏らしたのだった。

 ◆

「ねえねえ、お兄ちゃん! 桐生がゲイ宣言したんだって!」
 背後から聞こえてきた好奇心剥き出しの夏乃の声に、洗い物をしていた水樹は思わず皿を取り落としそうになった。
「えぇ? なな、何だ、突然。そ、そんな話どこで聞いたんだ?」
 水樹が慌てて振り返ると、
「ほら、ここ。書いてあるよ」
 夏乃は広げていた新聞の下段、本日発売の週刊誌の広告を指さす。
 そこには広告スペースの半分は埋め尽くそうかという勢いで、
『ゲイ宣言!桐生(27)男子学生と交際!』
 と最大級の活字でリードがあった。その隣の写真週刊誌の広告スペースにも桐生の写真付きで一層過激な見出しが踊っている。
 水樹は一瞬くらりと眩暈を覚えたが、夏乃の手前何とか表面には出さずに踏み止まる。
「どう? ファンとしてはやっぱショック?」
 ニュース以外はテレビなどあまり見ない水樹が桐生の出演ドラマだけは気にして夜授業から帰ると必ずその日のストーリー展開について聞くので、夏乃は水樹が桐生のファンなのだと思っている様子だ。
「ま、まあ……。週刊誌の言うことなんて、どのくらい本当のことなのかわからないから……」
 水樹が返答に困って適当に言葉を濁すと、
「あ、お兄ちゃんすっごく動揺してる!」
 夏乃は楽しそうにけらけらと笑う。
「ま、仕方ないか。あたしだって憧れの人がゲイだったり、援助交際してたら驚くもんね」
「え、援助交際……」
 まだ中学生の妹の口からそんな言葉が飛び出したことに少なからず動揺し、うろたえる水樹に気付いた様子もなく、夏乃は再び新聞広告に目を落とす。
「でも、これって学生ってなってるから、中学生とか高校生じゃないんだよね。大学生なら子供じゃないんだから、フィフティーフィフティーだよ。自己責任ってやつ? お互いよければいいんじゃない。あたしはあんまり気にしないなあ。女でも月々お小遣いもらってる愛人とかお妾さんってあるんだし」
「あああ、愛人? お妾さん? お、小遣いって……夏乃。そんなこと一体どこで覚えるんだ?」
 さすがに黙っていられずに水樹が口を挟むと、夏乃は何を今更と呆れた目で見返してくる。
「何言ってんの、お兄ちゃん。桐生のドラマでもやってるよ。ハーバード出の悪徳弁護士で愛人二人囲ってるの」
「えっ……?! だって夏乃、お前今までそんなこと一言も……」
 初耳だ。
 水樹は唖然としてしまった。毎週あらすじは聞いているはずなのに。
「だって、ラブシーンなんてどんなに凄くても本筋とはあんまり関係ないんだもん。省略、省略」
 凄いと聞いて思わずどぎまぎする水樹を余所に、夏乃はあっけらかんとしたものだ。
「金と女で成り上がってくんだ。あんなの実際に関わったら大変だけど、見てる分にはカッコイイよね。桐生ってすっごいイケメンだし、背高いし、胸板も厚いしさ」
 水樹は小さく溜め息を吐いた。
 今年のゴールデンウイークに公開された初主演の映画で京大出のインテリヤクザの役をやって好評を得てからというもの、そういった敵役のオファーが多くなり、最近では嵌り役として定着しつつある。
 そうやって稼いだギャラで援助をしてもらっているのだから、桐生の仕事に関して水樹が何か言えた義理ではないが、それでも中学生が見るとなるとあまり教育上好ましくはない。
「夏乃、あまり不健全な発想は……」
「あ、心配しなくても大丈夫だよ。あたしはやってないから。そこまでしてお金欲しいとは思わないもん」
「当たり前だろう」
 水樹は心底ほっとして胸を撫で下ろす。もし夏乃がそんなことになったら亡き父と母に申し訳が立たない。
 やはり、お金の心配だけはさせられないと水樹は決意を新たにする。
 桐生との関係も、もうしばらくは黙っておいた方がいいだろう。噂の渦中に学資援助のことを話せば、どんな誤解を受けるかわからない。言葉を尽くして事情を話せば誤解は解けるかもしれないが、受験生の夏乃をそんなことでわざわざ煩わせることもない。
 高校に進学が決まる頃にはほとぼりも冷めることだろう。その時になったら打ち明ければよいのだ。
 流しに向かい、水樹はもう一度だけ溜め息を吐いた。

 

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Fumi Ugui 2008.04.06
再アップ 2014.05.21

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