足長おじさんと僕

2.敵役の人

 最初のスクープ記事から二週間を経過しても芸能マスコミの過熱報道振りは収まらなかった。
 毎日劇団事務所にマスコミ関係者が姿を見せない日はなく、水樹は土曜になると芸能記者の脇を小さくなりながら事務所の建物へと入って行かねばならなかった。
「よう、水樹君。本日もつつがなくここまで来れたな。結構、結構」
 水樹が掃除機を借りに大部屋へ入ると劇団代表の谷口が部屋の奥から手を振って陽気に声を掛けてきた。
「はあ。何とか。相変わらず凄い人ですね、外」
「まあ、騒がれんのも仕事のうちみたいなもんだからなあ」
 水樹が近付いてくると谷口は一段トーンを落とす。
「ま、お前さんは心配しねえで、いつもの通りにやってりゃいいさ。この中までは連中も入っちゃこれねーから」
 事務所内で水樹が桐生から学資援助を受けていると知っているのはこの谷口代表と桐生のマネージャーの小川だけだ。
 谷口は見掛けこそ顎髭を長く伸ばしたりピアスを幾つもしたりして少し近寄りがたい雰囲気だが、その実気さくな人柄で、劇団員でもない水樹にも何かと便宜を図ってくれる。
 小川の話では谷口も東大法科の出身で桐生とは同期らしいのだが、そんな二人が何故検察庁でも裁判所でも法律相談事務所でもなく小劇団に所属しているのかは、劇団員にとっても水樹にとっても大いなる謎なのだった。

 水樹が一通りの掃除を終え部屋でメールの確認をしていると、予定より三十分ほど遅れて桐生が姿を見せた。
 ドアを開けて入ってきた前髪が少し乱れて額に落ちてきている。いつもきちんと整えている桐生にしては珍しい。
「遅かったですね」
 てっきりまたどこかで取材攻勢にでもあっていたのだろうと水樹は単純に考えていたのだが、桐生の答えは意外なものだった。
「出がけに弟と少しね」
「え、弟さんと……何かあったんですか?」
 気を使いつつも水樹が尋ねてみると、水樹と入れ替わりにパソコンに向かった桐生は何でもないことのようにさらりと言って退けた。
「いや、例の記事のお蔭で絶交されてしまってね」
「……ぜ、絶交ですか」
 兄弟で絶交というのは穏やかな事態ではないような気がするが、
「ま、それはそれで面白いからいいんだが」
 桐生はあくまでも余裕の笑みだ。
「はあ……」
 水樹はどう反応してよいのかわからず困ったように曖昧に笑った。出来れば自分は夏乃に絶交されたくはないものだ。
「弟さんはおいくつなんですか?」
 水樹は尋ねてみた。
 よく考えてみれば、学資援助を受けていながら水樹は桐生のプライベートについては何も知らない。せいぜい早渡透という本名を知っているぐらいだ。しかし、これも弁護士用の名刺を見たから知っているだけで、本人に直接聞いてみた訳ではなかった。
 桐生のプライベートを詮索する気はもちろんないが、まったく何も知らないというもの少し寂しいような気がする。
 それとも、桐生は嫌がるだろうか。
 口にしてしまってから懸念が浮かび水樹がそっと窺うようにすると、桐生は特に嫌がる様子もなく気さくに答えた。
「中学三年生だ。君の妹さんと同じだな」
「随分離れてますね」
 水樹と夏乃でも結構離れている。一回りは違うのではないだろうか。
「君の妹さんはあの記事については?」
 今度は桐生が尋ねてくる。
「……はあ。何だかもう達観してるというのか……。子供じゃないんだから、本人同士が良ければいいんじゃないかと」
 水樹が溜め息混じりに答えると桐生は愉快そうに笑った。
「なるほど。どうやら女の子の方が考え方は柔軟なようだな」
「でも、ウチの場合は他人事だと思ってますから……」
「まあ、それはそうだが。どんな子なのか一度会ってみたいものだな」
 桐生の半ば独り言のような呟きに水樹は目を見開く。
「え? あの……」
「もっとも、こんな騒ぎの最中ではとても無理だろうがね」
 水樹の返事を待たずに結論付け、桐生は静かに目を伏せる。
 夏乃に会ってみたい……。
 それはどういう意味なのだろう。単純に顔を見てみたいということでもないような気がする。
 物思いに耽る端整な横顔をぼんやりと眺めながら水樹がその胸のうちを推し量ろうとしていると、桐生はまたおもむろに口を開いた。
「君のお父さんはどんな人だった?」
「え、父をご存じだったんじゃ……?」
 意外な質問に水樹が思わず聞き返すと、
「お会いしたことがあると言っても、たった三日間のことでね」
 机に肘を突き、組み合わせた手に顎を乗せて桐生は仄かに笑った。
「……三日ですか」
 父のことを語る桐生は夢見るような穏やかな笑顔だ。
 なのに水樹の心は何故だか痛んだ。
 こんな表情を遠い昔にどこかで見たような気がする。
「……そう、考えてみればたったの三日だ。それも僅かに言葉を交わしただけのことで、正直青葉先生が私のことをその後も忘れずにいてくださったのか、そうではないのか。それさえもわからない。だがね」
 桐生は脇に大人しく控えた水樹を見上げる。
「先生と過ごした時間は私にとっては何物にも替えがたい、とても貴重で幸いな一時だった。忘れえない大切な思い出なんだよ」
 水樹は桐生が自分に援助しようと思い立ったきっかけが父との縁だったことを今更ながら思い出す。
 よく知りもしない赤の他人に多額の援助を申し出ることは口で言うほど簡単なことではない。だが、桐生は水樹の事情を知ったその場で啓示だと言ってそれを即断実行した。
 それほど桐生にとって父は大きな存在だったのだ。
 それは水樹にとっても同じこと。父は孤児だった自分を引き取って実の子同様に愛情を注いでくれた人だった。
 父を間に挟んでそんなふうに考えてみると、水樹は桐生を少しだけ身近な存在として感じられるような気がした。
「私の印象では先生はとても子煩悩な方だったな」
「そうですね」
 水樹は頷く。
「母が早くに亡くなったのでその分僕達に愛情を注いでくれたのかもしれません。温かくて、おおらかで。往診は呼ばれれば時間外でも飛び出してくような人でしたから、あまり家族で遠くへ遊びに行くようなことはありませんでしたが……。一緒にいてくれる時はとても優しかったですよ」
「そうか」
 桐生は目を伏せて軽く微笑むと、再び水樹にその穏やかな眼差しを向ける。
「たまにそういう話をしてくれると嬉しいな」
「はい。こんな話でよければいくらでも」

「ちょっといいかー?」
 細やかな、申し訳程度のノックの音が聞こえるのとほぼ同時に大声を上げてドアを開けたのは谷口だった。
「ノックをするなら返事を待って開けたらどうだ。お蔭で至福の時間が台無しだ」
 ひとつ溜め息を吐き、桐生がそちらを見ると、
「悪い、悪い。小川君がこっちに来るのが見えたんで、その前にと思ってさ」
 谷口はドアノブを持ったまま廊下から桐生の方に身を乗り出した。
「お前、例の検事役の主演と脇のオファーどっちを取るんだ? 連ドラの方から返事くれって催促来てんだ。言っとくが、両方ってのはいくらお前でも物理的に無理だぞ」
「では、脇の方を」
 桐生は即答する。
「女を泣かせたり死なせたりする血も涙もない詐欺師の役だがいいんだな?」
「無論。問題ない」
「オーケー。じゃ、連ドラ主演の方は断っとく」
「先生、時間です!」
 谷口の後ろから小川が顔を見せた。桐生が席を立つ。
「では、水樹君。いつものように戸締まりは頼むよ」
「はい。いってらっしゃい」
 桐生が廊下の向こうに姿を消すと、出入り口にところに残って見送っていた谷口が水樹の方を振り返った。
「どうよ。少しはここのバイトには慣れたか。アイツのお守りは大変だろ?」
「い、いえ、そんなことは」
 水を向けてきた谷口に向かって慌てて首を左右に振ると、水樹はかねてからの疑問を口にしてみる。
「あの、谷口さん。桐生さんは何故敵役ばかりやるんでしょうか」
「そりゃそっちの方がマメに稼げるからな」
 谷口の答えは明解だった。
「劇団の舞台よりは映画やドラマ。主演よりは脇。ま、それがヤツの今の基本方針だ」
 水樹は谷口の顔を見たまま瞠目する。
「例えばだ。ドラマの主演はドラマの枠自体が有限だから1クールに二本も三本もって訳にはいかないが、脇なら無制限。メインの連ドラが一本あったとしても、ピンポイント出演ならメディアを選ばず身体さえ空いてりゃいくらでもいける」
 谷口の説明を聞きながら水樹は考え込んでしまった。
 桐生自身にそれほど金銭に対する執着があるとは思えない。なのにそれほど稼ぎに拘るとしたら、それには理由があるはずだ。
 谷口は基本方針と言いながら「今の」と限定した。
 よくよく考えてみれば、出会う以前の桐生に関しては新進気鋭の舞台俳優だという認識はあったが、テレビやドラマに出ているという印象はなかった。正直芸能ニュースなどあまり見ない水樹は、バイト先の撮影現場で初めて桐生の顔を覚えたぐらいだったのだ。
 CMやドラマ、それに伴った宣伝用ポスター等で街中でもその姿を頻繁に見掛けるようになったのは知り合って以降のこと。
 そもそも普通の芸能事務所ではなく新興の小劇団に所属しているくらいなのだから、桐生には舞台にそれなりの拘りがあったはずなのだ。なのに今は舞台の活動はほとんどせずに活躍の分野を他に移してしまっている。
 もしかしたらそれは自分の学資援助のためなのだろうか……。
 黙ってしまった水樹を見て察したように谷口が言い添える。
「ああ、でも誤解すんなよ? 別にヤツは嫌々やってる訳じゃないからな。アイツの愉しみは人を楽しませることだ。主演だろうが敵役だろうが、メディアが何であろうがそれは変わらんよ」
「……はい」
 自分よりも桐生とは付き合いの長い谷口がそう言うのだから、それはそのように信じるしかない。
「でもまあ、俺は君を見て納得したけどな」
「え?」
 谷口は自分を見返してくる水樹を改めて見た。
 相変わらずいい目をしている。真っ直ぐで、透明で。人を穏やかな気持ちにさせてくれる優しい眼差しだ。こうして向き合っていると不思議と力になってやりたいという気持ちにさせられる。
「ま、お前さんは雑音に惑わされずしっかり勉強して医者になれってことだよ。それがヤツの望みでもあるってことさ」
 ポンと水樹の肩をひとつ叩いて谷口は笑った。
「ま、アイツに言えないようなことがあったら俺に言ってきな。相談に乗るぜ」
「ありがとうございます」
 踵を返し、ひらひらと手だけを振って部屋に戻っていく谷口の背中に水樹は深々と頭を下げた。

 

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Fumi Ugui 2008.04.12
再アップ 2014.05.21

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