◆
次の土曜日、桐生が部屋に姿見せるなり水樹は頭を下げた。
「あの、先日はすみませんでした。人目のあるところで突然サインなんか頼んだりして……」
「いやいや。君の芝居に付き合うのもなかなか面白かったよ。ありがとう」
「……え?」
思わぬ感謝の言葉に顔を上げると桐生は穏やかな笑みを浮かべていた。
「あれは私と夏乃君を引き合わせるためだったんだろう?」
ソファに腰を下ろし、水樹にも掛けるよう勧めると桐生は懐かしむように目を細める。
「いい子だったな。人を思いやれる優しいところが先生に似ている」
桐生の穏やかな表情を見て水樹はほっとした。
気持ちはちゃんと通じていたのだ。
夏乃に真新しいハンカチをふいにさせるという失態も演じてしまったが、少しだけ救われたような気がした。
「すみません。プロ相手に下手な芝居に付き合わせてしまって……」
「なかなかどうして。舞台度胸はよかったよ」
桐生は破顔すると脇に置いてあった小さなペーパーバッグを手に取った。
「夏乃君にも、買ったばかりのハンカチを使わせてしまって、すまないことをしたね」
ワインカラーの上等そうなそのバッグから新書サイズの箱を取り出すと、桐生はそれをテーブルの上に乗せて水樹の方へと差し出した。
「お詫びにこれを君から渡しておいてくれないか」
それはハンカチだった。バッグと揃いのワインカラーを基調としたパッケージ。そのカッティングされた部分から、優しい色合いの、花模様のハンカチが覗いている。パッケージにデザインされたロゴマークには、ブランド品には縁のない水樹でもさすがに見覚えがあった。
「こ、困ります。こんな高級なもの」
水樹が慌てて辞退すると桐生は小さく笑った。
「そう言うだろうと思って、実はもう一つ用意しておいた」
次に同じペーパーバッグから出てきたのは、コンビニやスーパーでもよく見掛ける極一般的なセロファンで包装された、三枚一組のハンカチだった。
「せっかく使ってもらうよう贈ったのに、箪笥の肥やしにされては敵わないからな」
水樹はほっと胸を撫で下ろす。
「これなら……。ありがとうございます」
「こちらの方も取っておいてくれたまえ」
桐生がテーブルに置かれたままのブランドのパッケージを水樹の方へと押し出す。
「え、でも」
戸惑う水樹の目を見て桐生は微笑みかけた。
「これは夏乃君にではなく、君の真心に対する私の感謝の気持ちだ。リスクを承知で私を夏乃君に引き合わせてくれたのだろう? 箪笥の肥やしでも構いはしないよ。取っておいてくれたまえ」
優しい声に促され、水樹はそっとパッケージをその手に受け取った。
「……はい。ありがとうございます」
その様子を見て満足そうに微笑むと桐生は話題を転じた。
「それにしても、まさか君が私のドラマをすべてチェックしているとはね」
「えっ」
意表を突かれて水樹は忽ち赤くなった。
さすがにひとつも漏らさずという訳にはいかないが、例の悪徳弁護士役の水曜十時のドラマの他に、単発のミステリー系二時間ドラマやお昼の連続ドラマまでチェックしているのは本当のことだ。
青葉家には何年か前に壊れて以来ビデオはないので、時間帯の合わないお昼のドラマについては会社のパートさんから話を聞いていた。その人は五十代ぐらいの主婦で、お昼の連続ドラマを休日に纏めて見るために録画しているのだ。水樹が先週のストーリーについて聞くといつも機嫌よく話してくれた。昼休みに会社の食堂でパートさん達に混じってドラマの話を聞いていると、桐生が如何に女性に人気があるかもよくわかり、水樹はその一時が好きだった。
けれども、そういったことを本人に知られるのは何となく気恥ずかしい。
「それは、その、援助してくれる人がどんな仕事をしているのかは、やはり気になりますから……」
「それは嬉しいな」
「嬉しいですか?」
水樹はきょとんと桐生を見返す。桐生は笑った。
「もちろんだよ。少しは私のことにも興味があるということだろう? 援助する側とされる側。それだけではあまりにも味気ない。そうは思わないか?」
「はい。思います」
そんなふうに思うのは自分だけかと思っていたが、桐生も同じように考えていたのだ。
水樹は何だか嬉しかった。
「僕も桐生さんのことをもっとよく知りたい……というか、その、理解出来るようになりたいと思います」
「率直だな」
桐生の顔に含みのある独特の笑みが浮かぶ。面白がっている証拠だ。
「焦らなくても、先は長い。ゆっくりとお互いを知っていこう」
「あの、桐生さん……」
いつもながらの思わせぶりな言い様に、
「そういう言い方が誤解を招くと思うんですけど……」
水樹は困ったように少しだけ眉根を寄せて桐生を見た。
桐生が大仰に眉を上げてみせる。
「手厳しいな。そんなに私と噂になるのは嫌かね?」
「……困ります。桐生さんみたいに身内から絶交されたくはありませんから」
水樹の言い分を聞いて桐生は愉快そうに笑った。
「まあ、そういったところも気に入っているよ。君は人当たりは優しくて腰は低いが実は結構頑固だ。生半可なことでは意志は曲げないし、きちんと自分が納得出来なければ動かない。そうじゃないかね」
「そうでしょうか。自分ではよくわかりません」
「自分のことは自分ではよくわからないものだよ」
桐生はちらりと腕時計に目をやるとおもむろに立ち上がった。すると、タイミングを計ったようにドアが開き、髪を切ってますますアクティブになった小川が姿を見せる。
「先生、時間です!」
桐生は基本的に忙しく、この部屋にいられる時間はいつも短かった。
「あの、桐生さん。今日はもう事務所に戻ってくる予定は……」
「今日はもうこれで現場から直帰だと思ったが」
小川に確認してから桐生は再び水樹に目をやる。
「どうかしたのかね?」
「い、いえ。何でもありません。いってらっしゃい」
桐生は一瞬だけ怪訝そうに水樹を見たが、そのまま特に何も聞かずに部屋を後にした。
その背中を見送って、水樹はほっと息を吐く。
悪いことをしようとしている訳ではないが、桐生に内緒でことを運ぼうとしていることに、ほんの少しだけ良心が痛んだ。
戸締まりを確認して部屋の鍵を締めると水樹は大部屋を訪れた。
部屋の一番奥、ホワイトボードと大道具、それと今にも崩れ落ちそうな段ボールの山に囲まれた劇団代表のデスクに向かう。谷口は雑然と物を積み上げた机に向かい、暇そうにグラビア雑誌を眺めていた。
「あの、谷口さん」
水樹に呼びかけられると目を上げる。
「おう、水樹君か。何だ。どした?」
「ちょっと相談事があるんですけど……。いいですか?」
「相談事? いいけど、何?」
谷口はグラビア雑誌を閉じた。顔を水樹の方へと向けたが、何故か雑誌は放さない。
「あの、バイトを紹介してほしいんです。すぐにでも働けて、短期間で終わるものがいいんですけど……」
ここでやっとグラビア雑誌を手放して、谷口は水樹の顔をまじまじと見た。
「金が必要なのか? 急に必要ってことは、妹さんがケガしたとか病気で入院したとか、振込め詐欺にあったとか?」
どんどん話が大げさになっていきそうな気配に水樹が慌てて首を横に振る。
「い、いえ。そういうのじゃありません。大した額でもないんです。ただ、ちょっと欲しい物があって……」
学資を貯めるために日頃夏乃がどんなに頑張って節約に努めているか知っている水樹としては、たとえ僅かでも既に使い道が決まっている日々の家計や貯金の中からその費用を流用する訳にはいかない。
「そりゃまあ、バイトぐらい紹介してやるのは訳ないけどなー……」
机に頬杖を突いたまま谷口は水樹の顔を窺うようにして見上げる。
「金のことはアイツに相談した方がよくないか? もう少しバイト代増やしてもらうとか」
「いえ。桐生さんには内緒にしておきたいんです。バイトのことも、僕がお金を必要としていることも」
谷口は黙って水樹の顔をじっと見守っていたが、しばらくするとおもむろに立ち上がった。近場にあった箱詰めの缶コーヒーから二本を取り出し、片方を水樹に渡す。
「ま、ここじゃなんだから。あっちの部屋行こか?」
細やかな桐生の事務所に入って水樹にソファに掛けるよう促すと、谷口は自分も向かいに腰掛けた。顔だけ水樹に向けて取りあえず缶コーヒーのフタを開ける。
「アイツと何かあった?」
「え、いえ。そんなことはありません。どうしてですか?」
「いや、ゲイだの何だの、今いろいろマスコミで騒がれてるからさー……」
谷口は大仰に顔を顰めてみせる。
「アイツはあの通りで世間の誤解を解く気は更々ねーし。嫌になっちまったのかと思って」
「そ、そんなことないです。ちゃんとマスコミに気付かれないよう気を使ってもらってますし」
「ならいいけどさ」
谷口はコーヒーを一口飲むと缶をテーブルに置いて水樹の目を見た。
「なあ、水樹君。こんなこと俺が言うのも何なんだけど、アイツを見捨てないでやってくれないかなあ」
あまりに意外な言葉に水樹は一瞬目を見開く。
「見捨てるなんて、そんな……。見捨てられると困るのは僕の方ですよ?」
「あー。そりゃないから」
水樹の懸念を谷口は言下に否定する。
「アイツはお前さんのこと見捨てやしないよ」
「それはつまり」
水樹は谷口の顔を見た。
「僕が父の……青葉茂徳の息子だからですか?」
「まあな。っていうか、先生シゲノリって名前だったのか」
谷口はちょっとだけ笑う。
「なんか、大層な感じだけど、まあ、あのご面相には合ってるかなあ」
「あの、谷口さんも父と?」
水樹が尋ねてみると谷口は頷いた。
「早渡とは同じサークルだったからな。ぶっちゃけアイツは先生に大恩があるんだ。いや、それ以上に何つうか、こう……慕ってたっていうのかなあ……」
缶コーヒーに口をつけると、谷口は少し考えるようにテーブルの上に目を落とした。
「だから、君から先生が亡くなってたって聞いたときは物凄く落ち込んでたよ。酒なんか大して飲めねーくせに深酒して、前後不覚になっちまってさ」
「……あの桐生さんがですか?」
水樹は思わず聞き返してしまった。桐生のそんな姿をまったく想像することが出来ない。
谷口は笑った。
「信じられんだろう? アイツでかいから運ぶの大変だったんだぜ。あ、これ俺がしゃべったことは内緒な」
水樹はやっと思い当たった。
父を語るときに桐生が見せた何故だか心痛む笑顔。
あれは母が亡くなった後、父が時折見せた微笑みとまったく同じものだ。
あの頃の水樹はまだ子供で、自分達に向けられた穏やかで温かで、けれども何だか切ない印象的なその笑みの、本当に意味するところは理解することが出来なかった。母を失った父は悲しくて上手く笑えないのだろうと単純に思っていた。
けれども、今ならわかる。
父は上手く笑えなかったのではない。笑うことしか出来なかったのだ。
残された子供達の前では慟哭することは許されず、ただじっと耐えあのように笑うしかなかったのだ。
同じように、心の師を失った桐生も水樹の前では泣けない。庇護者を買って出た立場では尚のこと。
「なあ、水樹君」
谷口は改めて水樹を見る。
「君のお父さんが亡くなって五年経つ。だけどアイツが知ってからはまだ一年経ってない。アイツはまだリハビリ中なんだよ」
そうは見えねーかもしんねえけどさ、と谷口は笑って付け足した。
「せめて君の援助をすることが慰めなんじゃねーのかな」
「あの、でしたら是非!」
テーブルに両手を突き、水樹は谷口の方へと身を乗り出した。谷口が思わず身を反らすと、その目を見詰めて言い添える。
「だからこそ、谷口さんにバイトの件お願いしたんですけど……!」
いつになく押しの強い水樹の顔を穴の開くほど見詰めた後、谷口は顎髭を扱いておもむろに口を開いた。
「詳しく話してみ。内容次第じゃ話に乗らんこともない」
◆
「いい匂いがするな」
桐生が自分の席から声を掛けるとソファでファイリングをしていた水樹はぎくりと身を強張らせた。桐生の方を振り向き曖昧に微笑む。
「え、あ、そうですか? 電車で隣の人の香水が移ったのかな……」
下手な言い訳だ。
とぼける水樹に付き合うように桐生も笑みを浮かべる。
「そうか。それは残念だ。恋人でも出来たのかと思ったのだがね」
「まっ、まさか。……そんな余裕ないです」
平静を装おうとはしているようだが、笑顔がぎこちなく固まってしまっている。
そんな水樹を眺めながら、表面上はおくびにも出さず、桐生は内心密かに眉を顰めた。
狭い室内は、目覚めて間もないこの時間帯にはあまり似付かわしくない、いささか強めの匂いで満たされていた。
桐生はそんなに香水に詳しい訳ではないが、この手の匂いには覚えがある。銀座のホステスなどがよく身に付けているものだ。
今時電車で隣に立っただけで移り香が抜けなくなるような、そんな強い香水を朝の間から付けている女性がいるとも思えない。多分昨夜のうちに、今水樹が身に付けている衣類か持ち物に直接零すか、擦り付けるか、或いはそれらと似通った何らかの行為をしたのだろう。察するところ被害にあったのは、部屋の隅の帽子掛けに掛けてある水樹のトートバッグのようだった。
急にそわそわと落ち着きがなくなった水樹をしばらく観察すると、桐生は何気ない振りを装って席を立った。廊下へ出ると、大部屋から小川を呼び寄せて耳打ちする。
「君に頼みがあるんだが。今日の五時以降、空いているかね?」
◆
もう辺りは暗くなりかけていた。
明かりの入った劇団事務所の一室で、国会を通過した新法案のリストに目を通しなら桐生は辛抱強く小川の帰りを待っていた。
「ホストクラブ?」
七時を幾らか過ぎてから戻ってきた小川の報告を聞き、桐生は僅かだが思わず眉を顰めてしまった。
どうも水樹の様子がおかしいので小川に後をつけていくよう頼んでおいたのだが、案の定の結果だ。
水樹が姿を消した場所は歌舞伎町近くにある『マリー・アントワネット』という小さな店だという。
「裏口から入っていきましたから、多分バイトだと思いますけど」
机に肘を突き、両手の指を組んで桐生は考え込む。
何故、水樹は今更そんなところでバイトを始めたのだろう。
先週まではそんな気配はまったくなかった。この一週間で一体何があったというのか。
医学部受験のための経済的な環境作りがパトロンたる桐生の仕事だ。
何らかの理由で纏まった金額が急に必要だというのなら、何とかしてやるつもりも、もちろんある。それは水樹も理解していると思っていた。なのに相談してこないことが歯痒くてたまらない。
水樹の性格から考えれば遊ぶ金欲しさという可能性は極めて低い。こちらに黙っているのもそういった理由ではないのだろう。
多分、自分はまだ水樹から十分な信頼を得てはいないのだ。
桐生は小川をちらりと見る。
「そのホストクラブの営業時間はわかるかな」
「まっかせて。ばっちり調べてきましたよ。午後六時から午前零時までです」
「一応、法令違反はしていないようだな」
桐生は薄く笑った。
もし、風適法に違反しているようなら店そのものの告発も考えていたのだが。
「あ、先生。今善からぬことを考えてたでしょ。顔が悪徳弁護士になってますよ」
小川に指摘され桐生は苦笑した。
「そんなに悪い顔をしていたかね?」
「そりゃあ、もう。今年の助演男優賞は今ので決まりです」
小川の意見はいつも忌憚がない。言いにくいことも本人の前ではっきりと口にする。
毀誉褒貶の激しいこうした世界にいると、自分を正しく映す鏡となってくれる相手は希少だ。
「確かに。少し熱くなっているかもしれないな。反省しよう」
感謝と敬意を込めて、桐生は改めて自分のマネージャーに向き直る。
「ところで、小川君。明日のスケジュールはどうなっているのかな」
小川は手帳を開く。
「終日『兜町の黒幕』の撮影です。間にテレビ誌の取材も二つばかり入ってますね」
「急ですまないが、明日の午後六時からスケジュールを空けられないか。一時間だけでいいんだが」
「うーん……。ちょっと待ってくださいよー……」
唸りながらスケジュール帳を睨んでいた小川は目を上げるとにんまりと笑った。
「わっかりました。私の顔の広さと愛嬌で何とかしましょう」
「無理難題を言ってすまないな。君が有能で助かるよ」
「どういたしまして。私だって大樹君のことは気になりますし」
「その代りと言っては何だが……」
桐生は小川の目を見ると、穏やかだが如何にも含みのありそうな笑みを浮かべた。
「君の日頃の働きに感謝して、細やかな慰労会を開こうと思うんだが。どうかね」
Fumi Ugui 2008.04.18
再アップ 2014.05.21