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接客を終えてフロアから控え室に戻ると、どっと疲労感が押し寄せてきた。
手近な椅子を引き寄せて座り込み、着替えをしながら水樹は開店直後の悪夢のような一時間について整理してみる。
結局、昨日の香水の一件で全部バレていたのだ。
よく考えてみれば、万事において目敏い桐生が水樹の様子が不自然なことに気付かない訳がない。小川の慰労会というのも多分半分ぐらいは口実で、本当は水樹の様子を見にきたのだろうということも容易に想像がついた。
一言の相談もせずに他でバイトを始めたことを桐生が不愉快に感じるのは理解できる。皮肉のひとつも言いたくなるのもわかる。
けれど、学資援助を受けているとは言っても、自分はもう成人しているのだし、自由に働く権利はあるはずだ。
水樹は自分にそう言い聞かせる。
それでも桐生が気に掛けてわざわざここまで来てくれたのだと思うと、何となく後ろめたい気持ちは拭えなかった。
着替えを終えると、水樹はひとつ息を吐き出す。
とにかく、これで一週間の契約期間は満了した。ここでのバイトは終ったのだ。
控え室を出て経理から給料袋を受け取り、水樹はそれを丁寧にトートバッグに仕舞い込む。
一週間分の報酬は二万円と少し。
大した金額ではなかったが、目的を達成するには十分な額だ。余った分は夏乃に甘いものでも買ってやろう。次の土曜がちょっと怖いような気もするけれど、一週間も経てば桐生の怒りも少しは収まるに違いない。いや、収まっていてほしい。
でなければ、ここでのバイトもその後の計画も台無しになってしまうかもしれないのだ。
もう一度溜め息を吐くと、水樹は裏の通用口から店を後にした。
◆
「待ち兼ねたよ、水樹君」
裏路地に出ると、極低く、聞き覚えのある声がした。
一瞬ぎくりと身体が強張る。気温が一気に二十度ばかり下がったような気がした。声のした方へ恐る恐る首を向けると、薄暗い路地を表通りの方から歩いてくる人影がある。
逆光でよくはわからないが、夜だというのに大きなサングラスで半ば顔を隠した上背のあるその男は、長い脚で大股に近付いてくると水樹の方へとその大きな手を伸ばした。
水樹が反射的に身を引く。
「き、桐生さん……?」
声は間違いなく桐生のものだが、前髪を下ろしているだけで随分印象が違う。スーツ以外の桐生を見るのも初めてだった。ピタリと身体に密着した黒の上下は体格の良さを際立たせる。表通りの微かな灯を背景に、闇に佇むシルエットだけのその姿はアメリカ辺りのアクション映画のワンシーンのようだ。
茫然と見蕩れている水樹の隙を突き、桐生は一気に間を詰めた。水樹の足を払ったかと思うと、バランスを崩して倒れ込もうとするその身体を腕で受け止め、そのまま問答無用で小脇に抱える。
瞬間、水樹の視界がぐるりと反転し、両手両脚が宙に浮いた。
「うわっ? ちょっと、桐生さんっ! は、放してっ。放してくださいっ!」
じたばたと暴れる水樹を片手で抱えたまま、桐生はもう片方の手で顎ごとその口を塞ぎ、顔をぐいと仰向かせた。見下ろしてくる桐生の顔は表通りからの逆光と大きなサングラスのせいで表情がほとんどわからない。ただ、シャープで精悍な顎のラインと形良く隆起した鼻の稜線が僅かに認識出来るだけだ。その中でやはり仄かに見える、彫像のように整った唇が開く。
「静かにしたまえ」
漏れ出た声は、夏だというのに真冬のシベリア寒気団を思わせる、地を這う低音。
「人が寄って来たら困るのは、私よりはむしろ君の方だと思うが。違うかね?」
流暢で穏やかな口調が、返ってこの場では恐ろしい。
水樹が思わず小さくなって抵抗するのを止めると、桐生は口を塞いでいた手を離した。しかし、もう片方の腕で縛めた水樹の身体そのものは解放しようとはせず、そのまま路地に横付けされた車まで半ば引き摺るように抱えていってリアシートに放り込み、自分も乗り込んでドアを閉める。
「小川君、やってくれ」
「オッケー」
小川がいつも通りなのが救いだが、桐生はそれっきり一言もしゃべらかった。
サングラスもしたまま行く手を見据え、隣の座席など見向きもしないが、それでも水樹の腕だけはしっかりと掴んで放そうとはしない。
今更抵抗する気も逃げる気もないので水樹としては放してほしかったが、とてもそんなことを言える状況ではなかった。スナック菓子を摘んだりコーヒーを飲んだり、ひたすらマイペースの運転席とは対照的に、リアシートは拳銃を突き付けられていないのが不思議なくらいの緊張感でピリピリと張り詰めている。
これからどこへ連れていかれるのだろう。
ふとそんなこと考え、ちらりと隣を窺ってみると、桐生の表情と纏った空気は完全にインテリヤクザかマフィアの幹部のそれだった。
これから簀巻きにされて海に放り込まれても何の違和感もないような気がして、内心そっと溜め息を漏らし、なるべく桐生を刺激しないよう大人しくしていた水樹だったが、車が目抜き通りに差し掛かったところで大事な用を思い出した。何か頼める雰囲気ではないが、勇気を出して口にしてみる。
「あの、次の交差点の角にあるパソコンショップで降ろしてもらえませんか」
桐生が僅かにこちらを振り向く。
「君は今の自分の立場がわかっているのかね」
発せられた声の冷ややかな響きに水樹は思わず小さく首を竦める。
「すみません。でも、どうしても買っておきたいものがあるので……」
桐生は少しだけ考えてからバックミラー越しに促した。
「小川君」
「はいはい。角のパソコンショップね」
さすがに桐生が店舗の中までついていく訳にはいかないため、代理の小川に腕を捕られながら水樹は買い物を済ませた。ただでさえ目立つ、客の少ない時間帯だ。人目を憚らないバカップルのようで随分恥ずかしい思いをしたが、これも罰ゲームかと諦める。
車に戻ると桐生がサングラスを外して水樹をちらりと横目で一瞥した。
「他に済ませておく用があったら先に言いたまえ」
水樹は神妙に首を横に振る。
「いえ、もうありません」
「では、小川君」
「はいはい。今度こそ事務所まで直行ね」
小川がアクセルを踏むと、車は一路劇団事務所を目指して走り出した。
◆
事務所に着くと、随分遅い時間だというのにまだ残っていたらしい谷口が唖然として廊下まで出迎えた。
「何だ、水樹君。今日は土曜じゃねーぞ。早渡も何なんだ、その格好は。今日は『黒幕』から直帰じゃなかったのかよ」
谷口を無視し、桐生が水樹を半ば抱え込むようにして奥へと引っ張っていく。
「すみません、谷口さん。バレちゃいました……」
「あー……。そゆことね……」
桐生がぴたりと立ち止まり谷口を振り返った。険のある視線を向ける。
「お前も知っていたのか。どういうつもりだ」
「ってゆーか、俺が紹介したんだけど」
桐生はしばらく黙って谷口の顔を見据えていたが、眉間にひとつビシリと縦皺を刻むと目を閉じた。
「……わかった」
既にかなり低くなっていた声がもう一段低くなる。
「お前も来い。どういうつもりか納得いくよう、つまびらかに説明してもらおう」
「もー。お前さー……」
谷口は呆れたように溜め息を吐いた。ぽりぽりと頭を掻きながら桐生を見上げる。
「心配なのはわかるが、ちったあ落ち着けよ」
「私は十分に冷静なつもりだが」
「嘘つけ。思いっ切り顔にも行動にも出てるっつーの」
突如として勃発した劇団代表と稼ぎ頭の睨み合いに何事かと疎らに野次馬が集まり始める。
「待ってください、桐生さん!」
水樹が脇から桐生の腕に縋り、二人を引き離すように強く引っ張った。
「谷口さんは全然悪くないんです。手っ取り早くお金が必要だからって僕がお願いしたんですから」
見上げてくる水樹を見返し、桐生は怒りを堪えるまじないのように自身の両のこめかみをぐっと押さえた。気を落ち着かせるように大きな溜め息をひとつ吐く。
「わかった。とにかく、君は来たまえ。込み入った話は部屋で聞こう」
今度こそ有無を言わさず水樹を引っ張っていく桐生を見送って、小川が感じ入ったように呟いた。
「うーん。先生、次は人さらいとか誘拐犯の役もいけるかもね」
部屋に入ると桐生は水樹をソファに座らせ、自分もその正面に腰を下ろした。
トートバッグを大事そうに抱え込んだままの水樹を見据える。
「さあ、説明してもらおうか。さっき君は金が必要だと言ったな。では、何故谷口ではなく、私に相談しないんだ」
人目を憚る必要がないためか、桐生の怒りはより露となっていた。声を荒らげたりこそしないが、いつもの含みのある婉曲な言い回しは影を潜め、余裕の表情も消えている。
「それでは意味がないからです」
「意味がない?」
桐生が眉根を寄せるのを見て、水樹は諦めの溜め息を吐く。バレてしまった今となっては隠していても仕方がない。出来ればもう少し穏やかに切り出したかったが、桐生の怒りを解くにはここで正直に話すよりなかった。
「桐生さんからもらったお金では意味がないと思ったんです。プレゼントですから」
「……プレゼント」
予想外の一言に桐生は目を見開き絶句する。憤りは急速に萎えて、代わりに少しずつ、けれども確実に、芯から温かな気持ちで満たされていく。
「あの、あまり期待されると困るんですけど……。ひとつ思い出したことがあって……」
桐生の微妙な空気の変化を感じ取ってほっと安堵の息を吐き、水樹はトートバッグの中から何かを取り出した。
それは水樹の掌にすっぽりと納まっていて、桐生からはよく見えない。
「これなんですけど」
水樹は掌の中のそれを桐生の方へと差し出した。
「携帯だね」
型から察するに古い物のようだ。
「父のです」
「先生の……」
水樹は電源を入れて一枚の写真を画面に表示させると桐生に携帯を渡した。
画面を一目見て桐生は瞠目した。
それは集合写真だった。何処かの廊下らしきところで大勢の子供達に囲まれ、幼児を抱いた若い男がひとり立っている。ロングショットな上に解像度が足りず、顔は個人を特定できるほど鮮明ではなかったが、桐生にはそれが誰だかすぐにわかった。
桐生の様子を窺いながら水樹は淡々と語り出す。
「父が亡くなる前の春休み、その写真の彼を巡って我が家でイケメン論争がありました」
桐生が水樹に目を移す。
水樹は柔らかく微笑んだ。
「父がその写真の彼を今時のアイドルやイケメンなんか比べ物にならない色男だったと主張して、妹がそれに反論したんです。でも、肝心の写真の写りがこうですから結局決着がつかなくて……」
水樹は懐かしげに反対側から写真を覗き込む。それからまた桐生の方を見て笑った。
「でも、父はその後もテレビでアイドルを見るたびに絶対彼の方が上だって言い張ってましたけど。その写真、桐生さんですよね」
桐生はただ茫然として水樹を見ている。
けれどもその表情は、もう前に見たような切ない表情ではない。
水樹はほっとする。自分のしたことは無駄ではなかったのだ。
「それで……あの、パソコンお借りしてもいいですか?」
ソファから立ち上がると水樹は事務机の方に回り込んだ。
「何をするんだ?」
我に返ったように桐生が尋ねると、水樹は手にしたトートバッグからパソコンショップのロゴの入ったビニール袋を取り出した。中のパッケージを開けてCD−ROMをパソコンのドライブに入れるとインストールを始める。
「これ、携帯の中身をパソコンに移すソフトなんです」
ディスプレイを見ていた桐生が顔を上げ、水樹を見た。
「……まさか、君はこのソフトを買うために?」
桐生の問いに水樹はただ穏やかに微笑むだけだ。
父の携帯とパソコンをコードで繋げてソフトを操作すると次々と画像が表示された。必要な画像だけを選択するとその部分だけがパソコンに書き込まれていく。
「そのためにあんなところで……。私にはこの事実だけで十分だったのに……。君に余計な気を使わせてしまったな……」
ディスプレイを眺めながら桐生が溜め息混じりに呟くと水樹は首を横に振った。
「いいえ。僕こそ、いつも桐生さんからは援助してもらうばかりなので」
書き込みが完了するとパソコンから桐生に目を転じる。
「このソフト、パソコンから携帯に移すことも出来るんですよ。桐生さんの携帯貸してもらえますか?」
桐生から携帯を受け取ると、水樹はかつて青葉家で議論を醸したピンボケの一枚と、父と水樹と夏乃、親子三人で写った画像をパソコンから移した。携帯の液晶に画像を呼び出してから桐生に向けて差し出す。
「どうぞ」
「……ありがとう」
桐生はしばしそのピンボケの画像を眺めてから携帯を受け取ると、改めて水樹の手を取った。
「君の気持ちは有り難く受け取っておくよ。暴力を振るってすまなかったね」
水樹はきょとんと目を見開く。多分桐生は路地から車に押し込まれた一件を言っているのだろうが、水樹には暴力を振るわれたという実感はまったくなかった。
「あれって、暴力なんですか?」
「他人を力尽くで拉致し、おまけに強迫して黙らせたのだから立派な暴力だろう。近年では拉致や監禁は、様々な社会問題の俎上に載せられ広義の暴力の枠で捕らえられているな」
桐生は笑った。
「今夜の件を芸能マスコミが知れば、またドメスティック・バイオレンスだのなんだのと派手に書き立てるだろう」
「その喩えは適切じゃないと思いますけど……」
水樹は諦めたように軽く溜め息を吐く。
「おい、お前ら。ちゃんと仲直りしたか?」
例によって声と同時にドアが開き、谷口が顔を出した。
「またお前か。私の愉しみの邪魔をするのはやめてくれないか」
桐生が顔を顰めると、谷口は腕を組んで踏ん反り返る。
「代表直々に心配してやってんだ。文句を言うなよ」
「ご厚情痛み入る。だが、今度から水樹君に関することはすべて私を通してからにしてもらいたいものだな」
「へーへー。仰せの通りに。お前にその気で睨まれると寿命が縮むわ。なあ、水樹君?」
水を向けられても水樹は曖昧に笑うしかない。確かにホストクラブに現れた桐生は迫力があり過ぎた。
「自業自得だろう」
取り合わずに肩を竦めると、桐生は改めて谷口を見た。
「ところで、今夜は空いてるか」
「お、何。これから飲みに行く?」
「予定があるなら明日でも明後日でも構わないが」
「ふうん?」
谷口は桐生の顔を見てにやりと笑う。
「どうやらその様子じゃ今日は楽しく飲めそうだな」
「前回のような失態は演じないと誓おう」
「ま、いいぜ。何たって滅多にないお誘いだからな。お前と噂になるの覚悟で付き合ってやるよ」
「お前では学生には見えないだろう」
「ちっ。やっぱ無理か」
谷口は顎髭を扱いて顔を顰める。
「たまには連中を振り回してやろうと思ったんだがなあ」
埒もないと谷口を放置し、桐生が水樹を振り返る。
「水樹君。君は早く帰りたまえ。タクシーを呼ぼう」
そう言って携帯を開いた桐生はいつもの笑顔だった。
「きっと今頃、夏乃君が心配している」
◆
翌週、週刊誌に『桐生ホストクラブで豪遊』という記事が出た。
ある程度予想はしていたことだが、各誌共、小川がいたことはすっかり省略され、やはりゲイ疑惑になっている。
「何だかもう、滅茶苦茶ですね」
「おもしろおかしく書き立てるのが彼らの仕事だからな」
桐生はいつもと変わらぬ余裕の表情だ。
水樹はと言えば、今回の一件は自分のしたことが元々の原因なので文句も言えず、ただ笑うしかなかった。
水樹がテーブルに並べられた各誌の記事を読み比べていると、桐生の携帯の着メロが鳴った。メールを確認した桐生がふと自然な笑みを漏らす。
「何か良い知らせですか」
「弟からだ。今日は遅くなるそうだ」
水樹はきょとんと目を見開く。
「確か弟さんとは絶交しているんですよね……」
「らしいな」
桐生は笑う。
「……絶交してるのにメールが来るんですか?」
「誰に似たのかそういうところは律義でね。まあ、可愛いものだよ」
「はあ……」
兄弟なんてそうしたものかもしれない。
桐生の自然な笑顔を見ながら水樹がそんなふうにほほ笑ましく思っていると、今度は自分の携帯に着信があった。夏乃からだ。
――お兄ちゃん! 桐生がさっきやってたテレビで
『世界のニューハーフ百人に聞いた抱かれたい男ベスト1』に選ばれたよ!
凄いよ! 百人中七十四人で、ぶっちぎりの一位だよ!
水樹はがっくりとうな垂れる。
「どうしたんだね?」
メールの内容を水樹から聞いた桐生はおおらかに声を上げて笑った。
「私もそう捨てたものじゃないな。これからは海外でも稼げそうだ」
「いや、だから。そうじゃなくてですね……」
桐生は立派な人だ。
親切で頭がいい上に、転んでもただでは起きない強かさも併せ持つ、とても頼り甲斐のある人だ。
だけど、やっぱり夏乃には言えない。
どのくらい本気なのか、部屋に顔を出した小川と今後の海外戦略について話し始めた桐生を溜め息混じりに見やりながら、この関係はもう少し自分だけの胸に秘めておこうと水樹は改めて思うのだった。
【完】
Fumi Ugui 2008.05.04
再アップ 2014.05.21