名医の子供達

第1話 過去からの告発者

 安田講堂の前で自転車のハンドルを左に切り、水樹が遥か向こうの正門を見ると門扉の近くに櫂人(たくと)が立っていた。
 医学部も三年になるといよいよ本格的な実習と試験がハードスケジュールで続き、水樹はこのところ帰宅も遅くなることが多かった。夏乃と待ち合わせをする櫂人の姿を見るのも久しぶりだ。
 ダウンジャケットにジーンズという極ありふれた格好だが、百九十近い長身の櫂人はどこにいても目立つ。去年駒場祭でミスター東大に選ばれたこともあり、先程から入れ替わり立ち替わり女の子達から声を掛けられていた。かと思うと、いきなり通りすがりの車が止まって運転席から派手なスーツの女性が顔を覗かせたりもする。
 それらを櫂人は慣れた様子で造作もなく捌いていった。
 夏乃から聞いてはいたが、こうして目の当たりにすると逆ナン王の名は伊達ではないのだと水樹はただただ感心するばかりだ。
 今も櫂人は新たに話し掛けてきた女の子二人と話をしていた。ジャケットのポケットに手をやって携帯を取り出すと、画面を確かめて僅かに顔を顰める。正門の前で自転車を降りた水樹に気づくと、女の子達との話を中断して軽く会釈してきた。
「悪い。連れが来たから」
 櫂人の視線を追って水樹を見た女の子達はくすくすと笑った。
 十代の半ば頃から働き、通常より六年も遅れて大学に入った水樹にしてみれば、妹の夏乃と同年代の彼女達はまだまだ子供のように思える。
 その彼女達に何故笑われているのかわからず、水樹がきょとんとしていると、じゃあねと櫂人に手を振って女の子達は門を出ていった。
「どうしたのかな。僕どこか変だった?」
 自身の服装を検めてから水樹が尋ねると、櫂人は小さく頭を掻いた。
「水樹さん。そのバッグはいい加減やめた方がいいんじゃね?」
「え、これ?」
 櫂人の視線の先、自転車の買い物カゴの中には愛用のトートバッグが入っていた。定期的に丸洗いしているのでさほど汚れてはいないが、定時制高校に通う前からなので、もう随分使っている。
「ウサギとにんじんって……。女子供じゃねーんだからさ。側にいるこっちが恥ずかしいんだけど」
 トートバッグにプリントされているパン屋のマスコットキャラクター「うさ子ちゃん」を見て水樹は小首を傾げる。
「そうかな」
「そうだよ。二人切りで質素な暮らししてた頃ならともかく、兄貴の養子になってから随分経つんだから、もちっと贅沢しろよ。小遣いぐらいもらってんだろ」
「そりゃそうだけど。でも、まだ使えるし。透さんには二人も扶養してもらってるんだから、贅沢は控えないと」
 水樹が穏やかに笑うと櫂人は溜め息を吐いた。
 放っておいたら物持ちのいいこの人は、三十になってもこのバッグを使っているに違いない。
 どうせ、さっきのメールの内容では夏乃は一時間ばかり遅れてくる。
「俺が付き合ってやるからさ、これから買いに行こうぜ。水樹さん俺らの中に混じってても違和感ないし、そんなに見た目は悪くないんだから、そんなんで減点されんのはもったいねえよ」
「やっぱりこういうのはダメなのかな。夏乃には文句言われたことないんだけど」
「アイツの言うことは基準になんねえって。ブラコンなんだから。極端な話、水樹さんのすることなら何でもいいんだよ」
 水樹は笑った。
「櫂人君は逆だよね。透さんのすることは何でも反対だから」
 櫂人は顔を顰める。
「それはアイツがろくでもないことばっかするからだろ」
 ゲイ宣言の末に男と「結婚」した桐生がワイドショーで話題に上らない日はない。
「とにかく、行こうぜ。たまには叔父貴に付き合えよ」
 櫂人が歩き出すと水樹も従順に自転車を押して後に続く。
 養子縁組をするまでは何だかんだといろいろあっただけに、櫂人に身内扱いされるのは何だかうれしかった。
「それじゃ、今日は叔父さんにバッグ選んでもらおうかな」
 穏やかに笑って応じると、櫂人が振り向いて顔を顰めた。
「前言撤回。やっぱ、櫂人でいいや」

 二人が入ったのは一番近場のショッピングセンターだった。
 駐車場込みの広大な敷地の中に様々な種別の店舗が並んでいる。櫂人と水樹はその中でも最大の売場面積を誇るスーパーに入っていった。だだっ広い店舗の中に生鮮食料品はもちろん、衣料雑貨から自転車までほとんどの生活用品が揃っている。
 櫂人は水樹と買い物をするのは初めてだった。好みもほとんど知らなかったので、物色するに当たって事前に好みの色やデザインを聞いてみたのだが、水樹は「丈夫で長持ちしそうなら何でもいいよ」と笑うばかりで具体的なことは何も言わない。仕方がないので今のトートバッグの代用になりそうなものを適当に幾つか選んで持っていくと、水樹はその中から一番実用的で安価なリュックを手に取った。
「自分で選ばないのかよ。自分で金出すんだから好きなもの選んだ方がいいんじゃねえの?」
「うん。いいよ。櫂人君の選んだものなら間違いないから」
 水樹が笑顔で答えると、
「ま、水樹さんがそれでいいって言うなら別にいいけどさ」
 櫂人は諦めたように軽く肩を竦めてレジへと向かう。
「あ、ちょっと待って、櫂人君」
 途中水樹は書籍売場で立ち止まった。雑誌コーナーの中から平積みになっていた一冊を取り上げる。
 それは近日公開予定の邦画『外道』を扱った、映画雑誌の別冊で、表紙には主演の若手人気女優と敵役の桐生が背中合わせのバストショットで載っていた。
 脇から覗き込んだ櫂人が顔を顰める。
「何でそんなものわざわざ買うんだよ。アイツの顔なんか毎日見てるだろ。小遣いがもったいねえよ」
「でも、透さんの仕事はやっぱり気になるから。ほら、これはまるまる一冊今度の映画のことが載ってるし。インタビューも多いし」
 うれしそうに桐生の記事を見せてくる水樹を見て櫂人は内心溜め息を漏らした。
 医学部に通う水樹は穏やかで善良で、医者になるべくして生まれてきたような非の打ち所のない性格をしているが、この感覚だけはよくわからない。
 これが惚れた弱みというものなのだろうか――。
 兄達と同居している夏乃は二人はそういう関係ではないと主張するし、毎度桐生が熱愛報道だの新恋人出現だのと騒がれても水樹は一向気にした様子もないが、櫂人の中ではまだ疑いは晴れていなかった。少なくとも透の態度はそういうふうにしか見えない。
「どうしたの、櫂人君」
 無意識にじっと見ていたようで、水樹が見返してきた。
「いや。何でもねえよ」
 首を緩く振ると櫂人はレジへと向かう。
 透との関係がどうだろうが、水樹自身がいいヤツであることに変わりはないのだ。
 今の櫂人にとってはそれで十分だった。

 二人がレジで精算を済ませ、店を出たところで、男が一人行く手を塞ぐように立ち止まった。
 スーパーの前の歩道は広く、除けて通ることは十分可能だったが、他に人通りもある。目の前に立ち止まられてはやはり邪魔な感じは否めない。
 二人が怪訝そうに見ても男は一向にその場を退ける気配がなかった。
 年の頃は水樹と同じぐらい。背丈も大して変わらなかったが、水樹よりは心持ち高く、全体に骨太に見える。着古したフード付きのジャケットとカーゴパンツという身軽な格好にリュックを背負い、キャップを目深に被っていた。
 男の服装に、桐生の弟として散々関わり合ってきたゴシップ記者と共通の臭いを感じ取り、櫂人は僅かに眉を顰める。
 男は水樹の方に顔を向けると、帽子のひさしを上げて親しげに口を開いた。
「よう、水樹。久しぶりだな」
 水樹は目を見開く。ひさしの下の男の顔に覚えがなかった。
「え……あの、どちらさまですか?」
 困惑気味に尋ねてくる水樹の顔を見ると男は笑った。
「ああ、悪い悪い。五歳の時に別れたきりじゃわかんねーよな。顔なんか」
 一旦帽子を取って短く刈り込んだ頭を掻くと自ら名乗る。
「俺だよ。卯木(うつぎ)。センスって言えば覚えてんだろ? 我ながら変わった名前だからさ」
「……センスくん」
 水樹は目を見開く。
 その名には覚えがあった。さわらび学園で一緒だった同じ年の幼馴染みだ。そう言われてみれば、やや目尻の下がった目許の辺りに何となく当時の面影があるような気がする。
「そ、俺だよ。思い出した?」
 懐かしかったが、この場には事情を知らない櫂人もいる。
 水樹がどうすべきか判断に迷い黙っていると、センスは水樹の隣に立っている櫂人に初めて気付いたように目を移した。
「こいつ誰? なかなかの色男じゃん。お前の恋人?」
「なッ……!」
 この暴言には水樹よりも早く、櫂人の方が烈火の如く反応した。
「ふざけんなッ! 単なる友人だっつーの!」
「ああ、うるせーな。あんた声でかいよ」
 鬱陶しそうに顔を顰めるとセンスは水樹に視線を戻す。
「俺さあ、お前のお父さんのファンなんだ」
「……え?」
「つまり、桐生のさ」
 水樹は言葉に詰まってしまった。
 何故自分が桐生の養子であることを知っているのだろう。身内にしか顔は知られていないはずだ。
「何でお前そんなこと知ってんだよ?」
 警戒の色をますます濃くして櫂人が眉間に皺を寄せる。
「そんなのどうでもいいじゃん。あんた誰よ、さっきから。俺は水樹と話してんだけど」
 櫂人は憮然と口を噤む。やたらと人に桐生の弟だなどと名乗りたくはない。
「俺本当に桐生がデビューした時からっていうか、その前からの大ファンなんだぜ。憧れの人なんだ。なのに、その大好きな桐生が死んじゃったらイヤじゃん? だからさ、一言忠告しとこうと思って」
「お前何だよ、さっきから!」
 櫂人が水樹を庇うように前へ出た。センスを睨み付ける。
「桐生が死ぬとか、縁起でもないこと言ってんじゃねえよ! 水樹さん、こんなヤツの言うことなんか気にしなくていいぜ。たまにいるんだ。ファンの中にはおかしなヤツが」
「だってさあ、水樹」
 水樹の腕を引っ張ってその場を去ろうとする櫂人を無視し、センスは水樹を見て笑う。
「お前って、親の命吸って生きてんじゃん。お前の親父って皆死んでんじゃん」
「な……!」
 櫂人がセンスの胸倉を掴む。
「この野郎ッ! また根拠のない適当なこと言いやがって! 名誉棄損で訴えるぞ!」
「や、やめてください、櫂人君。手を離して。暴力はダメです!」
 水樹が引き離そうとするが櫂人は掴んだ手を離そうとしない。そんな櫂人に向かって悪びれもせず再びセンスが口を開く。
「根拠のないことじゃねえよ。青葉先生だって死んだしさ」
「そんなもんそれ一回だけだろが! 事故だったんだし」
「一回じゃねえよ」
 バカにしたように鼻で笑い、センスは櫂人を見上げる。
「その前の親だって、もう一つ前の親だって死んでんじゃねえか」
「え? ……その前の親?」
 意表を突かれて思わず手を離し、櫂人が窺うように水樹の顔を見る。だが、水樹は反応しなかった。ただ、茫然としてセンスの顔を見ている。
 センスはポケットから小さく折り畳んだ紙を取り出して広げると、水樹の目の前に良く見えるよう掲げてみせた。
「こいつ何だかわかるかなあ?」
「……新聞?」
 櫂人が眉を顰める。
 コピーだが、かなり日付が古い。ざっと二十数年以上は前だ。若い男性の死亡記事に紙面の三分の二ほどが割かれている。
 水樹は紙面を見詰めたまま動かない。
「思い出せない? ま、しょーがないか。さすがの賢い水樹くんでも二歳じゃ無理だよな」
 水樹がびくりと震えて、ぐらついたように僅かに後ろへ下がった。
「水樹さん?」
 櫂人が思わず腕を回して後ろから支えるが水樹はそれに気付いた様子もない。
「何びびってんだよ。よく見ろよ」
 センスが記事を持った手を水樹の鼻先に突き付けるようにする。
「これはさ、お前の母親の婚約者だった人の死に様だよ。もうすぐお前の親父になると決まってた人だ。この人も随分立派な人だったらしいな。なんつーか、たったの二歳ですげえ嗅覚だよな。さすがだよ、水樹」
 センスは笑う。
 水樹の顔には色がない。
「お前忘れてるようだから、俺が教えてやるよ。お前の父親になろうとした人はな、お前を庇って死んだんだ。お前の母親はそれがショックで亡くなったのさ」

 

次へ


Fumi Ugui 2008.07.18
再アップ 2014.05.21

index*next

Copyright(C) Fumi Ugui since 2008 無断複写・複製・転載は御遠慮下さい