名医の子供達

第2話 白はお砂糖の白

 ショッピングセンターの敷地を出て最初にやってきたタクシーを拾うと、櫂人は水樹を乗せてマンションへと向かった。
 水樹に聞きたいことは山ほどあったが、幼馴染み同士のあまりに尋常でない緊迫した雰囲気を目の当たりにして、水樹の身の安全を優先したのだ。
 センスが現れてからというもの水樹の様子はずっとどこかおかしかったが、殊にあの新聞記事と最後にセンスが口にした内容にはかなりのショックを受けた様子だった。
 櫂人は傍らの水樹の様子をちらりと見る。
 水樹は乗り込んだ時と同じ姿勢でリアシートに身を預けたまま、去り際にセンスから押し付けられた新聞記事をまだその手にきつく握っていた。表情がまったく動いていない。何か魂が飛んでしまっているようだ。
 どうせ、こんな状態では聞いてもまともな答えは返ってこない。それに、櫂人にとって一番肝心な水樹の親の件に関しては、養父の透に聞けば全部わかることだった。

 マンションの部屋に辿り着き、水樹をひとまずリビングのソファに落ち着かせると櫂人は透にメールを打った。程なく櫂人の携帯が鳴る。
「どうした。お前が私に連絡を入れてくるとは珍しいな」
 聞こえてきた声の、いつも通りの余裕の響きに櫂人は顔を顰めた。
「悠長に構えてる場合じゃないぜ。あんたの大事な水樹さんの一大事だ。変な野郎が現れやがってさ」
 水樹には聞こえないよう廊下に移動すると櫂人はかい摘んで事情を説明する。
「そんで、水樹さんすげーショック受けたみたいなんだ。とにかく早く帰ってこいよ。俺も兄貴に聞きたいことあるし」
「わかった。なるべく早く帰ろう」
 携帯の向こうの声は調子を改めた。
「櫂人、水樹のことは頼む。それから夏乃君には余計な心配をさせないようにな」
「……言われなくてもわかってるよ」
 櫂人は携帯を切るとソファの端で俯いている水樹に目をやった。
 手にした新聞記事をじっと見詰める水樹からはいつもの柔らかな瑞々しさはまるで感じられない。ただ青白く幽鬼のようにそこにうずくまっている。
 声を掛けようにも事実関係がはっきりしないため櫂人には迂闊なことは言えなかった。確認しようにも水樹はあれから一言もしゃべらないし、如何にも悪意に満ちたセンスの言うことはそのまま鵜呑みには出来なかった。
 櫂人は水樹の脇からそっと問題の新聞記事を覗き込み、日付と事件のあらましを記憶した。それから夏乃にメールを打って、水樹の調子が良くないから早く帰ってくるようにと伝える。
 その間も水樹は俯いたままだ。
「水樹さん、大丈夫か? 気分悪いなら部屋で寝た方がいいんじゃないか?」
 櫂人がどう扱っていいのか躊躇いながらも恐る恐る尋ねてみると、ゆっくりとその色のない顔を上げて僅かに首を振る。
「……ううん。大丈夫だから……。夕飯の支度もしなくちゃいけないし……」
 返事はしたものの水樹はまったくその場から動かない。再び手元の記事に目を落とす。
 ――全然大丈夫じゃねえだろ!
 櫂人は顔を顰めた。
 水樹が透の養子となり、身内になってから三年。これ程落ち込んでいるのを見るのは初めてだ。
 透が帰宅するまでに自分がなすべきことはわかっていたが、今の水樹を一人にするのは心もとない。
 櫂人はちらりとサイドボードの置き時計に目をやった。
 しばらくすれば夏乃が帰ってくる。
 今はただ、ひたすら待つことしか出来なかった。

 ◆

「この記事なんだけどさ」
 書斎に入るなり櫂人が差し出したのは新聞コピーの束だった。帰宅した夏乃に水樹のことは任せ、透が帰ってくる前に図書館へ行って調べてきたのだ。
 脱いだばかりのコートをハンガーに掛け、システムデスクのチェアに腰掛けると、透はそのクールな印象の面を和ませた。
「お前にしては手回しがいいじゃないか」
「あんまり水樹さんがショック受けてたみたいなんでさ……」
 櫂人はふいと目を逸らす。
「俺だって、青葉と水樹さんが兄妹じゃないかもしれないなんてショックだったけど、一応……」
 十数年ぶりに兄から誉められた照れ隠しに、櫂人は一言悪態を付け加えてみせる。
「大体尋常じゃねんだよ、あの野郎。ファンだって言ってから兄貴も気を付けた方がいいぜ」
「その幼馴染みというのは?」
 透に尋ねられると櫂人は僅かに眉間に皺を寄せた。
「ええと、センス……」
「センス? 変わった名だな」
「自分でも変な名前だって言ってたよ。名字は確か、うつぎ……うつぎセンスって言ってたと思う。どういう字かは知らないけど」
 一旦そこで言葉を切ると櫂人は改まった口調で尋ねた。
「なあ、あの二人実の兄妹じゃないって、ホントに……そうなのか?」
 櫂人の目を見て透は頷く。
「その通りだ。水樹は青葉夫妻がさわらび学園から五歳のときに引き取った養子で、その後に夫妻の間に生まれた夏乃君とは血の繋がりがない。水樹が夏乃君に知らせる気はないと言うので敢えて黙っていたのだが」
「……そっか」
 沈黙してしまった櫂人を静かに見据えると透は言い添える。
「このことはお前の胸ひとつに仕舞っておけ。夏乃君が真実を知るときが来るとすれば、それは水樹が自身の口から伝えるときだ」
「わかってるよ」
 櫂人の返事を聞くと、透は手元の新聞記事のコピーに改めて目を落とした。
「福岡の事件だな……」
 櫂人が揃えてきたコピーは全国紙と地方紙で十枚ほど。その日は首都高速で大きな玉突き事故があり、全国紙は扱いなしか、あってもベタ記事扱いだったが、地元福岡の地方紙はいずれも所謂美談として事件の翌日の朝刊で大きく扱っていた。
 事件の日付は二十五年前の十二月某日。福岡市郊外の二階建てアパートの階段から羅天知尋(らてんともひろ)検事(当時二十六歳・福岡地検)が転落、首の骨を折るなどして死亡した。羅天検事と共に二歳の男児も転落したが、こちらは羅天検事の身体がクッションとなって擦り傷程度で助かった。目撃者(男児の母親ら)の証言から、羅天検事は当時男児の母親と交際しており、休日のその日は母親宅で飲酒のあと事故直前に外でタバコを吸っていたと見られ、母親不在中に部屋から出てきた男児の転落を阻止しようとした結果、折りからの積雪に足を取られて階段から転落したと断定された。
 各紙とも第一報は事故現場であるアパートと階段の写真入りで、羅天検事の父親のコメントとして、男児の母親との結納の日取りが決まった矢先の事故だったとある。
 中でも福岡日々新聞は都合三日に亘って、最近夫を難病で亡くした母子と亡くなった羅天検事の交流を掲載していた。
「この助かった子供が水樹さんってことなのか……」
 記事を眺めて透はおもむろに口を開く。
「水樹の出生届は福岡で出されている。それは間違いない。二歳で実父を難病で亡くすまではそこで両親と暮らしていたんだ」
「え、それじゃ何で東京に来たんだよ?」
 櫂人が怪訝そうにすると、透はコピーの束をデスクの上に置いて目の前に突っ立ったままの櫂人に視線を移す。
「水樹の母親は二歳の彼を学園に預けた後、しばらくして福岡の病院で亡くなっている。これは青葉先生が水樹を養子にするときに彼の祖父母に聞いた話だそうだ」
「そんじゃますます何でだよ。何で水樹さんだけこっちなんだ?」
 透は目を閉じ少し考えるようにする。
「私も養子縁組をするに当たって水樹の身辺を調べたとき少し引っ掛かってはいたんだ。病気のために水樹を育てられないのはともかくとして、彼女がどうして九州からわざわざ遠く離れた東京のさわらび学園に我が子を預けたのか」
 それに、と内心透は眉を顰める。
 この記事と学園側の記録を照らし合わせてみれば、水樹が預けられたのは事件の一週間後。ほとんど直後だったことになる。
 仮にこの記事の母子が本当に水樹とその母親だったとして、それほどに何故彼女は急いでいたのか。
「園長と母親が知り合いだったとか?」
 前の疑問に櫂人が首を捻ると透は僅かに眉を顰めた。
「それはそうだが、児童擁護施設は九州にも大阪にも名古屋にもある。夫を難病で亡くし、自らも病気療養中の彼女にとっては、福岡から東京までの交通費も馬鹿にならない出費だったはずだ。私も園長にそれとなく話を伺ってみたが直接の知り合いではなかったそうだよ」
「……それって、やっぱちょっと不自然だよな」
「それに、もっと根本的な問題がある」
 櫂人を振り仰ぎ、透はその瞳を覗き込む。
「何故水樹の母親は彼を自分の両親に預けなかったのだろう」
 養子縁組をする時は大して気にならなかったが、今にして思えばそのことに何か意味があるようにも思える。
「不仲だったんじゃね? 青葉の話じゃ、青葉の父さんだって青葉の母さんの実家とは不仲で、絶縁状態だったって話だけど」
「有り得る話だが……どうかな。この記事の子供が本当に水樹かどうかも含めて、ひとつ調べてみる必要があるかもしれないな」

 

「……ごちそうさま」
 早々に箸を置いた水樹を見て夏乃は心配そうに眉を顰めた。
「もう、いいの?」
 水樹の目の前に並んだ総菜はどれも口を付けた様子がなかった。茶碗によそったご飯も、好物の大根の味噌汁もほとんど手付かずで残っている。
「調子悪くても、もう少し食べた方がいいよ。医学生は身体が資本っていつも言ってるじゃない。それとも気持ち悪いとか?」
「そうじゃないよ。そうじゃないけど……」
 夏乃に向かって否定して水樹は俯いた。
「……ごめん、せっかく作ってくれたのに。何だか食欲がなくて……」
 おもむろに席を立つと透に向き直る。
「すみません、透さん……。お先に失礼します……」
「医学生の君に門外漢の私が体調を聞いても差し出がましいだけだろうな」
 箸を持つ手を休めると透は穏やかに水樹を見詰めた。
「疲れているのなら部屋を温かくして早めに休みたまえ。今夜は雪がちらつくそうだ」
「……はい」

「ねえ、一体何があったの」
 廊下へと消えていく水樹の背中を心配そうに眺めやってから夏乃が尋ねると、一緒に夕飯を取っていた櫂人は僅かに顔を顰めた。
「……何もねえよ。ただ、買い物したあと調子が良くなさそうだったから送ってきただけだ」
「だって、何かおかしいよ」
 夏乃は眉根を寄せるとダイニングからリビングのソファに目をやった。そこには新しいリュックが放り出されたままになっている。
 櫂人に視線を戻して夏乃は詰問した。
「買い物済ますまでは何ともなかったんでしょ? なのに、急にあんな風になるなんて。あんな兄さん初めて見るもん。何もないのにあんなになる訳ないよ。ねえ、何かあったんでしょ? 教えてよ!」
「何もねえったら。しつこいぞ」
 少し煩わしそうに櫂人が目を逸らすと、夏乃は櫂人を睨み付けた。
「嘘つき!」
 一言投げ付けて廊下へ水樹を追って行く。
「くそっ。何だよ。人の気も知らないで……」
 怒れる小さな後ろ姿を為す術もなく見送って櫂人が低くぼやくと、キッチンに引っ込んでいた透が戻ってきた。
「日頃辛抱の足らないお前にしてはよく持ち堪えたな」
 冷蔵庫から出してきたらしい缶ビールを何本か櫂人の前に並べると、珍しく何の含みもなさそうな、極自然な笑みを浮かべて櫂人を見る。
「まあ、こんな物しかないが飲んでいけ。帰りのタクシーは呼んでやる」
 わざとふてくされたように目を逸らし、櫂人は勧められるままに一本取って封を切る。
「俺だっていつまでもガキじゃねえよ」
 今日はよく透に誉められる日だ。
 何かろくでもないことでも起こるんじゃないかとちらりと思って、すぐにその考えを否定する。
 ただでさえ水樹の様子がおかしくて、おまけにその余波で夏乃ともぎくしゃくしている時だ。
 これ以上のどんなトラブルも真っ平だった。

 ◆

 視界は一面どんよりとした曇り空だった。
 身体が宙に浮いている。
 拠り所がなく、まるで雲の上を歩いているような、足下が危うい浮遊感。
 下の方を見るとアパートが見えた。
 まだ真新しい小さな二階建てのアパート。新聞に載っていた写真のアパート。
 吹きっさらしの階段。急な階段。
 所々お砂糖のように白い。
 白いのは雪だ。
 お母さんが教えてくれた。

 ――おかあさん。

 そう呼び掛けたと思った途端、がくんと身体が真下に引っ張られた。
 落ちていく――。
 速度を増し、どこまでも際限なく落下していく感覚に意識までもが吸い込まれる――
 と思った瞬間、水樹は目を覚ましていた。
 跳ね起きたと思ったが、身体は戦慄に固く凍り付いたまま布団の中にある。安堵して大きく息を吐き出すと、じっとりと全身から汗が吹き出してきた。まるで夏場の風呂上がりのように寝間着がべっとりと纏わり付く。
 水樹はのろのろと緩慢な動作でベッドの上に身体を起こした。
 枕元の時計に目を凝らすと夜中の二時を指している。昨夜は食欲もなく早々に床に入ったが結局なかなか寝付くことが出来ず、実際に眠りに就いたのは一時を過ぎていた。まだ一時間も経ってはいない。
 暖房の切れた部屋の中は冷え込んでいた。
 寝間着はまるで水でも浴びたようにぐっしょりと濡れて既に冷たくなっている。水樹は取りあえずタオルで汗を拭き取り、寝間着と肌着を替えた。ついでにシーツも取り換える。何かしていたかった。また同じ夢を見そうで、すぐに眠る気にはなれなかった。
 水樹はそっと部屋を出ると洗濯物を洗濯機に放り込み、顔を洗ってリビングへと出た。バルコニーに面したサッシを開けると十二月の凍てついた夜風がカーテンを靡かせて吹き込んでくる。素足に突っ掛けたサンダルは氷のようで足の裏が痺れるように痛かったが、それを踏み締めてバルコニーへと出る。空は雪雲に覆われているらしく真っ暗で、星一つ見えなかった。

「眠れないのかね?」
 気が付くと背後にガウンを着込んだ透が立っていた。リビングからの僅かな明かりに照らされ、夜風に靡くカーテンの脇で水樹を気遣わし気に見ている。
「透さん……」
 水樹がぼんやりと見返してその名を呟くと、透は安心させるように小さく頷いてみせた。
「櫂人から聞いたよ。幼馴染みに何か言われたそうだが、あまり深刻に考えすぎない方がいい。あの記事の子供が本当に君なのか、それさえまだはっきりとはしていない。さわらび学園に行けば当時住んでいた所の記録はあるだろうから明日にでも調べてみるつもりだが――」
「……いいえ。あれは僕です」
 遮る声に透は瞠目する。
 水樹の声は消え入るように小さかったが、同時にそれは揺るぎのない断定の響きを帯びていた。
「透さんがわざわざ調べる必要なんてありません。……あれは僕なんです」
「どうしてそう言えるんだね? まさか、当時のことを覚えているのか……?」
 さすがの水樹もさわらび学園にやってくる以前の記憶はほとんどない。わかっているのは養子に入る前の橘という姓と、後に青葉の父から聞かされた実の父母の名と出生地ぐらいだった。
「……いいえ。……でも」
 首を力なくのろのろと左右に振って、水樹は自分の身体を両手で掻き抱く。
「あの記事を……あの写真を見てると何だか怖いんです……。胸の奥が締めつけられるようで苦しいんです……」
 あの記事を、あのアパートを一目見た時から、水樹は助かった男児は自分なのだと強く直感していた。
「僕は……」
 罪人が懺悔するように、重く苦しい告白が切れ切れに水樹の唇から零れ出て、次第にひとつの形を成していく。
「僕は……人を死なせた……。母の婚約者と……僕の母を……」
「水樹……」
 透は眉を顰めると、罪悪感に震える俯き加減の頬にそっと触れ、その血の気のない面を自分の方へと促した。戸惑う様子の視線を捕らえ、その暗澹とした瞳を真っ直ぐに見据える。
「そんなふうに言うものじゃない。園長先生から私が伺った話では君のお母さんは入院中の病院で亡くなったのだし、羅天検事が亡くなったのは事故だ」
「でも……」
 水樹は切なく顔を歪める。
「彼は僕を助けようとして……」
「だとしても、当時二歳だった君にどんな罪があるというのかね?」
 じっと静かに見詰めてくる透から逃れるように目を逸らし、水樹は黙ってその青白い面を左右に揺らす。
 確かに法律上はなんら問題はないかもしれない。二歳の幼児に責任は問えないかもしれない。
 それでも自分のせいで人が一人死んだのは事実だ。その結果母を悲しませ、ついには死に追いやってしまった。
 婚約者を自分の子供のために亡くした母はどんなに辛い思いをしただろう。
 水樹の顔など二度と見たくなかったのかもしれない。
 だから母は、水樹を福岡から遠く離れた東京のさわらび学園に預けたのだ。
 先程一瞬だけ夢に出てきた母は切ない面影をしていた。父や透がかつて見せたものと同じ、笑うことしか許されない者の微笑みで自分を見ていた――。
 いたたまれなさに俯いて水樹は震えた。
 ふと見るとバルコニーに小さな白い影が幾つも舞い込んできていた。水樹のサンダル履きの素足に当たっては儚く消えていく。
 見上げれば、凍てついた真っ暗な夜空から雪が無数に風に乗って流れるように舞い降りてきていた。
 白い、白い、雪――。
 お砂糖のように白いのは雪だとお母さんが教えてくれた。

 ――おかあさん。

 震えながら、それでもいつまでも夜空を仰いで動かない寝間着一つの水樹の身体を覆うように透が後ろからそっと肩を抱く。
「夜通し雪でも見ているつもりかね? そんな格好でいつまでもいては風邪を引く。さ、もう中に入りたまえ」
「……ごめんなさい。付き合わせてしまって……。透さんが風邪を引きますね……」
 水樹が申し訳なさそうに仰ぎ見ると、透は笑ってガウンの胸元をはだけ、下に着込んでいるカシミアのセーターをちらりと見せた。
「私は君と違ってそんなに不用心ではないよ。さあ、戻ろう」
 支えられるように透に肩を抱かれ水樹はバルコニーを後にする。
 透はいつになく優しかった。
 普段はスキンシップなどあまりしない方だが、そのまま部屋まで送ってくれた。自分に気を使ってくれているのだと思うと素直にうれしかった。安堵もできた。
 けれども、その透でさえも水樹の凍えた身体を芯から完全に温めることは出来なかった。
 透の大きくて温かい手から離れ、冷えきった部屋に一人。ベッドの中で水樹はその身を小さく丸める。
 このまま眠れる気がしなかった。目を閉じると浮かぶのは、母の面影。

 ――ごめんなさい、おかあさん……。

 心の中で何度繰り返してみても、母の切ない面影は少しも変わってはくれなかった。

 

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Fumi Ugui 2008.07.26
再アップ 2014.05.21

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