◆
初夏。
梅雨も明け、蒼穹高く陽射しが強く照り付ける季節。都内の高級住宅街に一戸の豪邸が出現した。
立派な門扉を構え、広い敷地を庭の緑と白亜の塀で囲われたその家は、実際に住人が引っ越して来るまでの僅かの間、政治家の家とも大病院の院長の家ともまことしやかに囁かれたのだった。
「はい、さやか。あーんして」
目の前に差し出されたあんず味の離乳食が気に入らないのか、可愛いキリンのよだれ掛けをしたさやかは幼児用の椅子の上でぷいと横を向いた。一度スプーンを引っ込めて、絽の単衣にかっぽう着の胡蝶が困った顔をしてみせる。
「あら、いらないの? おいしいのに。お母さん食べちゃおうかな?」
母が食べるまねをして見せても見向きもせず、名前を呼ばれても知らん顔で、さやかは自分のスプーンを振って遊ぶことに熱中している。
正午過ぎのダイニングルーム。大人たちの昼食はとうに済み、残っているのはこの頃食事時に遊ぶことを覚えたさやかだけだった。片付かなくて困っている様子の胡蝶を見兼ねて水樹が助け船を出す。
「さやか、兄ちゃんとまんま食べようか?」
さやかはぴくりと首を動かした。その瑞々しい円らな瞳に、テーブルの向こう側から近付いてくる水樹の姿を捕らえてうれしそうに声を上げる。
「そっか。食べるか。いい子だなあ、さやかは」
優しく頭を一撫でして、遊んでいたスプーンをさりげなく取り上げてしまうと水樹は離乳食をさやかの口許に持っていく。
「はい、あーん」
柔らかな水樹の笑顔に誘われて、さっきまでの態度が嘘のように素直に口を開けるさやかを見て夏乃が笑った。
「本当にさやかちゃんは兄さんが好きだよね。兄さんの言うことならちゃんと聞くもん」
「さやかは私ではなくて水樹を父親だと思っているんじゃないか?」
手にした分厚い洋書から視線を上げて、透が面白そうに親子程も年の離れた兄妹に目をやると、
「まさか」
と、水樹は笑った。
生後五カ月になるさやかは美男美女の両親に似て人形のように愛くるしい。
「だとしても仕方がないかもね」
さやかの世話から解放され、夏乃とテーブルの上を片付け始めた胡蝶が微笑んだ。
「だって、水樹君は夏乃ちゃんも育てたベテランだもの。子育て一年生の私達じゃとても敵わないわ。おまけに」
と、ちらりと透に目をやる。
「あなたはちっとも家に居着かないんだもの。たまにウチにいたと思ったらそんな本ばかり見て。そのうちさやかに忘れられても知らないから」
ようやく新婚を脱したばかりの妻にちょっと拗ねたように睨付けられ、透は苦笑した。
「一家の大黒柱だ。大目に見てくれないか。向こうはどんな細かい契約も一々書面なんだ。法律家の端くれとしては内容を理解できないと問題があるだろう」
透が手にしているのはアメリカ合衆国の契約と取引に関する法律書だ。
「そう言えば、ここんとこ海外が多かったよね」
対面式のキッチンの向こうから夏乃が声を掛けてくる。
「ねえねえ、透さん。向こうで撮ってきた映画いつ公開なの?」
「来年の春かな」
死亡説まで流れた入院騒ぎから復活した桐生は、これまでの役柄に加え「刺され役・死に役」というレパートリーを増やし、敵役としての技量にますます磨きをかけてこの一年半あまりの間に香港、韓国、インド、次いでハリウッドと海外進出を果たしていた。本人の存在感に加え、妻が本物のゲイシャだということも話題となり、ハリウッドでの評判は上々。帰国してからもドラマやCM、映画の宣伝のためのバラエティ番組出演と、今やテレビで桐生の顔を見ない日はない。
「あ、また熱愛報道やってるよ」
折しも、リビングに据えられた大型液晶テレビの中では日曜日のダイジェスト版芸能ニュースをやっている最中だった。番組独自のスクープと称して、桐生と若い男が夜の街を連れ立って歩く写真が映し出されている。
その何人目かわからない「新恋人」を何気なく目にした夏乃が唖然と口を開いた。
「あれって、兄さんだよね?」
さやかを除いた一同の視線が液晶大画面に注がれる。
顔はモザイクが掛かっているが、あの見慣れた地味なジャケットと、リュックのポケットに差し込まれている子猫のキャラクター付きボールペンは水樹のものに間違いない。
「ああ、そうかも。この間屋敷先生の事務所に一緒に行ったから」
のんびりと穏やかに答え、水樹が器の底に残った離乳食をきれいにさらえてさやかの口許に持っていく。
卯木センス殺害に関する一連の事件の裁判は判決が出揃っていた。
菜々は弁護側の尽力の甲斐あって実刑は免れ、現在執行猶予中。羅天雅武、比良坂保に対する卯木センス殺害容疑の裁判にもついこの間相次いで有罪判決が下り、両者ともこれを不服として控訴していた。水樹と透はこの控訴について屋敷に詳しい内容を聞きにいったのだ。
スタジオでもっともらしく桐生と新しい恋人のデートコースを説明する芸能レポーターを見て夏乃が呆れたような声を出す。
「何か前にもこんなことあったよね。これで何度目? ああいう人達って学習能力ないのかなあ」
透は仕事に本格復帰したほとんど直後に胡蝶との結婚を発表して一女を設けていたが、それでも桐生のゲイ疑惑が消えることはなく、今もバイセクシュアルとして相変わらずワイドショーを賑わせていた。それは物事を都合のいいように解釈・加工する芸能マスコミの習性に因るところが大きかったが、以前とは違って水樹が透と出歩くことを憚らなくなったことも或いは影響していたかもしれない。
「インタビューでもしてくれたら、ちゃんと親子だって言えるんだけど」
よだれ掛けでさやかの口の周りを丁寧に拭いながら水樹が困ったように笑う。
「いつもいきなりフラッシュ焚かれて、すぐ逃げられちゃうから」
「どうせ相手の顔はぼかすんだ。私が男と並んでいるところさえ撮れたら後はどうでもいいんだろう」
透が苦笑すると、胡蝶がおかしそうにちらりと二人を見比べた。
「これでさやかでも抱いてたら、二人の間に出来た隠し子だって騒ぎかねないわね」
「え。それはさすがにあり得ないと思いますけど……」
水樹が呆れていささか唖然と胡蝶を見返すと、透が愉快そうに声を上げて笑った。
「ファンタジーだな。そこまで書くなら、いっそこちらから称賛の拍手を贈らせてもらうよ」
気持ちよさ気な透の笑い声に釣られたのか、さやかがうれしそうに声を上げた。
「さあ、さやか。食事がすんだら父さんと遊ぼうか。いつまでもべったりでは兄さんが困るからな」
すっかり汚れてしまったよだれ掛けを外し、笑ってさやかを抱き上げると透はリビングのソファの方へと移動していった。
親子の後ろ姿をほほ笑ましく見送って水樹は携帯を開く。
待ち受け画面に変化はない。留守電やメール問い合わせを確かめてみたが、メッセージは届いていなかった。
「どうしたの、兄さん?」
夏乃が怪訝そうに手元を覗き込んでくる。
「……うん。今日はゆかりさんからメールが来ないなと思って」
水樹が微笑むと夏乃は小首を傾げた。
「毎朝モーニングコールが来るんだよね。今日はまだ来てないんだ?」
「いや、朝のは来たけど。忙しいのかな。最近は看護師の勉強し直してるって言ってたし」
五年生になった水樹はゆかりとの逢瀬を二、三週間に一度のペースで続けていた。会うのは週末だが、もちろんその間メールや電話での遣り取りもしている。平日は互いの邪魔にならないようせいぜい昼休みか就寝前に少し長めに通話するぐらいだったが、会うことの出来ない週末はもう少し連絡回数が多くなるのが常だった。いつもなら午前中に一回も連絡がないということはないのだが――。
同じ福岡市内に両親が住んでいるとは言ってもゆかりは女性の独り暮らしだ。少し心配になり、自分から連絡してみようかと水樹がメール作成画面を呼び出したところで、表の方から大型車両のエンジンの音が聞こえてきた。
「あ、来たね」
ベランダの窓から夏乃が道路の方に目をやると、水色のミニショベルと一本の樹木を荷台に乗せたトラックがゆっくりと門に近付いてきていた。サンダルを突っ掛け夏乃がベランダの階段から庭に出る。
夏乃に続き、大きなトラックに興奮気味のさやかを抱いて透が、胡蝶からさやかの帽子を受け取った水樹も透の後について外に出る。
トラックは夏乃に誘導されて道を挟んだ斜向かいの更地に入るとエンジンを止めた。
「どこに植えましょうかね」
母屋の敷地の半分ほどの、それでも十分に広い更地を見渡して造園業者が意向を窺うと、透は敷地の南西の隅を指さした。
「あの辺りにしてもらおうか。ご近所の邪魔になるといけないから少し内側に頼むよ」
「わかりやした。クスノキは大きくなりますからね」
業者はミニショベルを下ろすとさっそく掘削作業を始めた。象の鼻のように自在に動く水色のアームを見てさやかは大はしゃぎだ。その様子に目を細め、トラックの方へと身を捻ると、透はさやかの気を引くように荷台の方を指さした。
「ほうら、さやか。見てごらん。大きな木だろう。あれはクスノキというんだ。お前の兄さんの木だよ」
水樹もその緑の樹木を見上げる。
クスノキは以前金網越しに見た時よりも随分大きくなっていた。もう百九十近くある透の背丈も追い越して、緑の枝に燃えるような赤い新芽を芽吹かせている。南風に乗って仄かによい匂いがした。
「でも、いいんですか、透さん? 僕はまだ医師免許取ってませんけど」
小首を傾げ窺うように見上げてくる水樹を見返して透は笑った。
「家を新築したついでに前祝いさ。早めに植え替えた方が土にも馴染むだろう。ここの殺風景な景観も少しはマシになる」
「前祝いをもらってしまっては国家試験に合格しない訳にはいきませんね」
水樹が困ったように小さく笑うと透は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「よもや落ちるということもあるまい。君は優秀だからな」
「実はその後がもっと大変だぞって、和佳水君に脅かされてるんですけど」
穏やかに笑って水樹がもう一度クスノキに目をやったところで不意に声がした。
「何でお前がこんなとこにいんだよ」
不機嫌を絵にかいたような聞き慣れたその声に夏乃が道路の方を振り返ると、櫂人が後ろの誰かと声高に話をしながら隣の敷地の塀の陰から姿を現したところだった。そのすぐ後ろから現れた背の高い、白いパンツにカットソーの女性を一目見て水樹が瞠目する。
「……え、ゆかりさん?」
「水樹君!」
恋人の姿を認めるとゆかりは先を歩いていた櫂人を追い越し、手にした大きなバッグを投げ出しそうな勢いで駆け寄ってきた。空いている方の腕を水樹の首に回し抱き寄せて、唖然と小さく開かれた唇にキスをする。
「会いたかったよ、水樹君」
「どうしたの、急に? こっちで何かイベント? だったら言ってくれたらよかったのに」
思い掛けない再会にただ目を見開くばかりの水樹を見てゆかりはうれしそうに首を横に振るとにっこり笑った。
「私ね、都内に越して来たの」
「え! でも仕事は?」
更に目を丸くする水樹に説明してみせる。
「通販なんだからネット環境さえあればどこでも出来るよ。宅配便の取扱店だって仕入れ先だって東京の方が多いんだし」
バッグを脇に置き、水樹の頬を優しく包み込んだゆかりはうっとりとその瞳を見詰めた。
「これからいつだって会えるね。いっそのこと私のところに来ちゃって、二人で暮らす?」
「ったく。無茶言うなよ」
傍から黙って聞いていた櫂人が思わず口を挟む。
「水樹さんまだ学生なんだぞ。収入もねえのにどうすんだよ」
「あら」
櫂人を振り向いてその顰めっ面をちらりと一瞥すると、ゆかりは涼しげに大きく開いたカットソーの胸を張る。
「桐生とは比べ物にならないかもしれないけど、私にだってそれなりに収入も貯金もあるわよ。水樹君をあと二年医学部に通わせることだってできると思うけど?」
「それじゃ水樹さんのカッコがつかねえだろうが。兄貴、何か言うことねえのかよ?」
櫂人から水を向けられた透は面白そうにゆかりと水樹を見比べた。
「お互いとっくに成人しているんだ。君達の同棲を認めるにやぶさかではないが――」
「何言ってんだよ、兄貴!」
抗議する櫂人を無視してゆかりの方に目をやる。
「ひとつだけ問題がある」
怪訝そうに見返してくるゆかりに向けて申し分のない完璧な笑みを浮かべると、相変わらずミニショベルに夢中のさやかを抱き直して透はおもむろに口を開く。
「残念だが、ゆかりさん。君が水樹の経済的な面倒を見ることは認められない。仮に同棲ではなく正式に入籍したとしてもだ」
「え、それって、もし結婚しても水樹君の学費や生活費はあなたが出すってことですか?」
「水樹が医師免許を取って研修医となるまであと最低二年。それまではそういうことになるな」
「そんなのおかしいでしょ。何でそんなややこしいこと!」
「まったくだ。いっそのこと二人とも私が面倒を見た方がややこしくなくていいんだが」
透が苦笑するとゆかりはきっぱりと言い放った。
「お断りします。どうして私が今更人の世話にならなきゃいけないんですか」
はらはらしながらこちらの様子を窺っている水樹をちらりと一瞥すると、
「君にはまだ話してなかったかな」
透はゆかりの勝ち気そうな瞳を正面から見据えた。
「ゆかりさん。私は水樹に援助をすると決めたとき、青葉先生の墓前で彼を必ず立派な医師にしてみせますと誓ったんだ。だからその誓いを果たすまで水樹の経済的な面倒はすべて私が見る。これはいくら相手が君でも譲る訳にはいかないな」
むっと眉根を寄せ不満そうに透を見上げるゆかりを見て、執り成すように水樹も口を開く。
「ゆかりさん、僕もまだ同棲とか結婚とかしてる場合じゃないと思うから」
「水樹君……」
ゆかりは渋々喧嘩の拳を収めた。
水樹の言い分はもっともだし、経済力の問題は抜きにしても養父である透の存在は悔しいがやはり大きい。
「ったく、舞い上がってんじゃねえよ」
それ見たことかと見下ろしてくる櫂人をゆかりが睨付ける。
「自分はどうなのよ。検事になるんですって? 司法試験受かるの?」
「うっせえな。こっちだってそれなりに頑張ってんだよ」
櫂人は司法試験の受験資格を得るため法科大学院に進んだが、成績は今のところ下から数えた方が早かった。
櫂人を見上げ、フォローするように夏乃が口を開く。
「今おじいちゃんにマンツーマンでいろいろ教えてもらってるんだよね」
「へえ。ありがたいことじゃない。おじいさんって元検事なんでしょ?」
「うん。知る人ぞ知る東京地検の名検事だったんだって」
瞭三郎は昨年の暮れに一度狭心症の発作を起こしてから櫂人と同居していた。今日も櫂人は午前中みっちりと祖父のスパルタ式特別講義を受けてきたところなのだ。
「頭に入らねえなら判例集を端から食ってけって。無茶苦茶言ってるよ。昔の根性論なんか今どき通用しねえっての」
「そのくらい真剣に覚えていけということだろう」
ぼやく櫂人を見て透が笑った。
「法科大学院に入学したからと言って必ずしも試験に合格する訳ではないんだ。合格率が低くて制度の欠陥が問題視されているくらいだしな。自分で努力するしかない」
「わかってるよ」
櫂人は顔を顰めた。ちらりと夏乃を見る。
夏乃は教員免許を取得してひと足早く社会に出ていた。社会人と学生とでは社会的責任の重さから経済力まで何かと違ってくる。デートも二人とも学生だった頃のようには自由に出来ないし、このところ夏乃に奢られることも多くなってきた。
順調にいっても大学院は二年。司法試験に落ちれば更に差が付く。
勉学に対するモチベーションを上げるためにも、この数年間の気持ちに決着をつけるためにも、言うなら今しかない。
「夏乃、俺と結婚してくれ」
「は?」
唐突過ぎたのか、夏乃はきょとんと櫂人を見上げたきりぽかんとしている。タイミングを計らなかったことを後悔しつつも今更後へは引けず、櫂人はそのまま畳みかける。
「だから、司法試験に受かって検事になったら俺と一緒になってくれって言ってんだよ。結婚してくれって言ってんの。相変わらず鈍いやつだな」
口にされた内容を理解した途端、夏乃の顔がのぼせたように真っ赤に染まった。
「な、ななな何言ってんだ、突然! こっ、こんなとこでっ!」
「水樹さん」
うろたえる夏乃を半ば無視して、急な成り行きにゆかり共々唖然としている水樹に向き直ると、ろくろく目も合わせず櫂人は勢いよく頭を下げた。
「夏乃を俺にください。一生大事にするし、絶対ぇ泣かせたりしねえから」
目の前で深々と頭を下げられ半ば茫然とその後頭部に瞠目していた水樹は、しばらくしてそっと顔を上げた櫂人の、いつになく真剣な眼を見て柔和に微笑んだ。ちらりと夏乃に目をやる。
「そりゃ櫂人君はいい人だし。夏乃さえよければ僕は全然構わないけど」
水樹と向き合う櫂人の傍らで耳まで赤く染め、夏乃は口を開けて固まっていた。
「で、お前はどうなんだよ」
改めて櫂人に問われ、我に返ったようにぷいとそっぽを向く。そのまま小さな声で拗ねたように抗議をした。
「何でそんなこと人前で言うんだよ。恥ずかしいだろ。大体、聞く順番が逆だよ。何であたしの方が兄さんより後なわけ?」
「答えになってねえよ」
ぶっきらぼうに櫂人が促すと夏乃はゆっくりと振り向いた。
「いいよ」
櫂人を見上げ、一瞬じっとその目を見詰めてから破顔する。
「ちゃんと検事になれたらね」
「よっしッ!」
小さくガッツポーズを決めると櫂人は長い腕でひっ攫うようにして夏乃を抱き寄せた。
「なな、何すんだ! 人前でっ! 業者の人達見てるじゃないかっ!」
再び真っ赤に染まり、じたばたと抵抗する夏乃を後ろから抱き竦める。
「いいだろ。結婚すんだから」
「まだ早い! 受験するのだってずっと先じゃん! 大体ほんとに試験受かるの?」
両手でホールドされたまま夏乃が振り仰ぐように見上げると櫂人が忽ち顔を顰めた。
「んだよ、それ。受かんねえ方がいいのかよ」
「んな訳ないじゃん。バカっ」
「まったく、何であんな大事なことこんなとこでぽろっと言っちゃうかな。ほんと女心がわかってないんだから」
傍から見ていたゆかりが呆れて溜め息を漏らすと透が笑った。
「しかし、モチベーションを上げる手段としては悪くない」
「そりゃまあ、そうかもしれないけど」
口では何だかんだと言いながら、幸せそうな二人をいつまでも眺めているゆかりに水樹がそっと声を掛ける。
「何か、ごめんね。せっかく一緒に住もうって言ってくれたのに」
「気にしなくていいよ」
振り向いたゆかりはにこりと笑った。
「学生なんだから勉強が大事なのは当たり前。前よりはずっと気軽に会えるんだし」
「ありがとう」
眩しそうにゆかりを見詰めて水樹も満面の笑みを浮かべる。
「ゆかりさんがこっちへ来てくれたのは本当にうれしいよ。お父さんやお母さん反対しなかった?」
「全然。水樹君のところへならさっさと行けって。ご家族の皆さんへって、お土産一杯持たされちゃった。ほら」
ゆかりが足下のバッグを開くと中から辛子明太子やラーメン等、博多の名産品が山ほど現れた。
「わあ、すごいね。こんなにあったら重かったんじゃない?」
いくつか手にしてしげしげと眺める夏乃を見てゆかりは笑った。
「平気平気。そこまでタクシーで来たし。後から宅配便も届くと思うよ。畑で取れた甘夏と枇杷送るって言ってたから」
「わー。楽しみ!」
目を輝かせて幸せそうにすると夏乃はさやかの方を振り向いた。
「よかったね、さやかちゃん。甘夏だって。みかんだよ。お母さんにジュースにしてもらおうね」
夏乃がちょんとほっぺたをつつくと、さやかはうれしそうに笑った。食べ物の話をしているとわかったのか、その小さな握り拳を自分の口へと持っていく。
「何だ。もうお腹が空いたのか?」
笑ってさやかを抱き直すと透は水樹とゆかりを振り返って微笑んだ。
「さて、いつまでこうして見ていても仕方がない。作業はプロに任せて一旦家へ戻ろうか。ゆかりさんもどうぞ。妻に紹介しますよ」
クスノキの植え替え作業はその日のうちに無事完了した。
早渡邸に招かれたゆかりは早渡家の人々と夕食を共にし、水樹に引っ越し先のマンションまで送られて東京での第一日目を終えたのだった。
◆
◆
それからゆっくりと時は穏やかに過ぎていった。
植え替えられたクスノキが大地にしっかりと根付き、やがてさやかが一人で歩き、おしゃべりを始め、幼稚園に通うようになった頃――。
東京に幾度目かの桜の季節が巡り来た。
◆
小さな手がひしゃくを傾けると滑らかな墓石の表面に水の流れが迸った。
「はい、ありがとう。さやかちゃん。きれいになったよ。青葉のおじいちゃんやおばあちゃんもきっと喜んでるよ」
「よろこんでるね!」
自分の役目をまっとうしてさやかはうれしそうに笑った。手に持ったひしゃくを夏乃に返すと若草の色留袖も艶やかな母親のところへと戻っていく。
「本当に今日は櫂人君来られないの? 残念ねえ」
飛び込んできたさやかを膝の辺りで受け止めて胡蝶が僅かに溜め息を吐くと、
「青葉検事、本日も多忙!」
と、夏乃はおどけてひしゃくを水桶に返す。
「何か大きな事件扱ってて今日明日がヤマなんだって言ってた。とても有給なんか取ってられないって。もう。新米のくせに新婚旅行なんか無理矢理ねじ込むからだよ」
「まあ、夏乃君と行きたかったんだろう。可愛いものじゃないか」
大仰に眉根を寄せてみせる夏乃にひとつ笑って墓前に大きな花束を二つ供えると、透はさやかを呼び寄せ、線香を立てた。共に手を合わせて黙祷する。
透の様子を片目でちらりちらりと盗み見しながら、しばらくして同じように合掌を解いたさやかが話し掛けてきた。
「なむなむおわったよ」
「上手にできたな」
透が頭を撫でてやると墓碑銘をじっと見る。
「これはおはか?」
「そうだ。夏乃姉さんと水樹兄さんのお父さんとお母さんのお墓だよ」
さやかは小さな首を傾げて父の顔を見上げた。
「お兄ちゃんのお父さんはお父さんじゃないの?」
もっともな質問に透は笑う。
「さやか。水樹兄さんのお父さんは三人いるんだ」
「え、三人も! すごいすごい! いっぱいいっぱい遊んでもらえるね!」
「そうだな。凄いな」
愛しげに目を細め透がさやかを見ていると、間近で着メロが鳴った。夏乃が春色のジャケットのポケットを探る。
「兄さん達、これから出るって」
夏乃の報告を聞くと透はおもむろに立ち上がった。さやかを高く抱き上げる。
「さあ、さやか。水樹兄さんの初仕事を見に行こうか」
「はつしごとー! みる。みるー」
透が家族を伴って墓地を出ると私服のガードマンが二人出迎えた。歩道に横付けした車まで誘導し、後部座席のドアを開ける。
運転席では小川が週刊誌を片手にスナック菓子を摘んでいた。透がリアシートに乗り込むと、後ろを向いて今日の佳き日を言祝(ことほ)ぐ。
「先生、とうとう目標達成ですね。おめでとうございます」
「ありがとう、小川君。これも君のお陰だよ」
透の労いを込めた感謝の言葉に「どういたしまして」と、小川は笑う。
「でも、庭師付きの豪邸も実現しちゃったし、今後の目標はどうします? 舞台に戻ってブロードウェイにでも進出します? それとも、そろそろ映画賞でも狙ってみますか。アカデミー賞とかカンヌとか」
助手席から夏乃が振り向いた。
「あたし映画賞がいいなあ。透さんにサインしてもらったハンカチちゃんと額に入れて玄関に飾ってるんだ」
青葉家では、桐生のサインを見て顔を顰めてから出勤することが櫂人の朝の日課になっている。
「驚いたな。まだあれを持っていたのかい? 私のサインなど君にとってさほど価値があるものとも思えないが」
「だって、今でも相当なものだけど、この先もっとすっごいお宝値段が付くかもしれないでしょ?」
夏乃が助手席から身を乗り出すと胡蝶の膝の上でさやかがうれしそうに叫んだ。
「おたからー!」
「じゃ、目標は助演男優賞獲得で決まりですね」
正面を向いて、バックミラー越しに小川がにんまりと笑う。
「もうそろそろ演技力で評論家を唸らせてやってもいい時期かもしれませんし」
「まあ、君に任せるよ」
透が笑って合図をすると、ガードマンを乗せた車を従えて車は静かに走り出した。
◆
さやさやと、常緑の枝葉がそよいで微かな音を立てていた。
クスノキの幹はいよいよ太く、その先は真新しい医院の屋根に迫って更に天に向かって伸びていこうとしている。新しい季節に芽吹いた若葉が太陽光を透かして、見上げる水樹の白衣をうっすらと緑に染めていた。
「水樹君、お待たせ」
掛けられた声に水樹が振り返ると、医院の入り口から看護服にカーディガンを羽織ったゆかりが出てくるところだった。
「本当にウチで大人しくしてなくて大丈夫?」
水樹が少しだけ心配そうに尋ねるとゆかりはにっこりと笑った。
――このところ笑顔がより優しく綺麗になったと思うのは気のせいだろうか。
水樹が一瞬見蕩れているのも気付かない様子でゆかりは続ける。
「大丈夫! 最初はちょっと頭がぐらついてびっくりしたけど、その後はなんともないし」
ゆかりが自身の下腹部をそっと包み込むように撫でるのを水樹は優しい眼差しでじっと見詰めた。一見まったくわからないが、そこにはほんの三日前に気付かれたばかりの、小さな新しい命が宿っているのだ。
「水樹君の開業医としての初仕事だもん。見ておきたいよ。それに私だって青葉医院の看護師なんだから」
卒後研修を無事終了した水樹は和佳水と共同出資でこの春から外科・内科・小児科の小さな医院を独立開業した。今日が開院初日。既に午前中の診療は終わり、これから午後の往診に向かうのだ。
「なんだ。お前らまだいたのか?」
白衣を脱いだTシャツ一枚の姿で駐車場まで出てきた和佳水を見て水樹が小首を傾げた。
「和佳水君もこれからどこか行くの?」
「いや。天気もいいし、俺はちょっと運動でもしようかと思ってさ」
答えながら準備運動よろしくその逞しい肩を片方ずつぐりぐりと回した和佳水は、ちらりと二人に目をやる。
「何のんびりしてんだ。往診行くんだろ? ゆかりさん運転辛いようなら俺が乗せてってやろうか」
「大丈夫。僕が運転していくから」
水樹が笑うと和佳水は首を左右に鳴らしてから興味深そうに二人を見比べた。
「それにしても、よく子供できたな。てっきり作らないもんだと思っていたよ」
「うん、いろいろ考えたけど。でも、やっぱりゆかりさんの子が欲しかったから」
水樹が穏やかに笑って、それでもきっぱりと答えると、
「水樹君すごく頑張ったものね」
ゆかりがその肩を愛しげに抱いて頬にキスした。それから和佳水の方をちらりと見てにっこりと微笑む。
「先生、留守番よろしく」
「あー、もう」
脱力したように一声唸ると和佳水がくるりと踵を返した。
「聞いて損したなあ。まだ四月だっていうのにこう熱くちゃたまらんわ」
ひらひらと軽く手を振り、明るく笑って離れていく和佳水の背中を見送って、二人はミニバンに乗り込んだ。後部座席には新品の診療鞄と身長計や血圧計等の健康診断用の器具が積み込んである。
「さ、行こうか」
ゆかりがシートベルトを締めるのを確認すると水樹はゆっくりとアクセルを踏んだ。
心地よい春風が吹くなかを、ミニバンが駐車場から静かに滑り出していく。
◆
午後のうららかな陽射しの下、さわらび学園は変わらずそこに建っていた。
桜の舞い散る門の脇の駐車場に立ち、水樹は感慨深くその懐かしい庭を眺める。
敷地の境界に沿って植えられた何本かの桜。門から玄関へと伸びる小さな私道。細やかな花壇と藤棚のベンチ。周りの風景は多少様変わりし、施設は古びてきたが、この佇まいは昔となんら変わりはない。
青葉の父と母に手を引かれてこの門を出たのは五歳の頃。透との養子縁組の書類にサインをしたのは雪のクリスマス・イブだった。
そして、今――と、水樹は傍らのゆかりに目を向ける。
自分は妻も、新しい小さな命も得て、青葉の父と同じ医師としてこの学園に帰ってきた。
「あ、先生だ。水樹先生が来たよ!」
水樹が玄関に足を踏み入れると顔馴染みの子供達のうちの何人かがさっそく先触れに飛んでいく。後から後からわらわらと廊下に顔を出す子供達に続き、車椅子の三橋園長が職員と共に現れた。数年前に足首を骨折して以来車椅子生活の園長は上がり框ぎりぎりまで出てきて水樹を出迎える。
「お帰りなさい、水樹君。……立派になって。本当にねえ、夢のよう」
その白衣姿を見上げ、うれしそうに涙する園長の手を水樹の両手がそっと取った。
ふくよかだったその手は齢を重ねてすっかり細く頼りなげになってはいたが、それでも変わらず子供達への慈愛に満ちて優しく温かい。
園長の顔をしばらくじっと見守って水樹は微笑んだ。落ち着いた温かみのある声で低く囁く。
「ただいま戻りました」
「兄さん!」
夏乃の声がする。
透達がやってきたのだ。
こちらに近付いてくる一団に振り向いて軽く手を振り、傍らに控えるゆかりに小さく頷いてみせると、水樹は上がり框に置いてあった診療鞄を取って、笑顔で子供達を見渡した。
「さあ、みんな。健康診断を始めよう」
【完】
Fumi Ugui 2009.03.17
再アップ 2014.05.21