◆
女将について胡蝶は「十六夜の間」に向かっていた。
花柳界の正月行事は粗方すんだが、新春初春とは名ばかりで、瑞雲亭の庭には雪の綿帽子がまだあちこちに残っている。くっきりと夜空に浮かんだ上弦の月影の下、冬景色を見ながら縁側を行くとやがて離れが見えてきた。
「十六夜の間」は母屋の一番奥、離れの手前に位置する座敷だ。途中、呼ばれた座敷をこっそり音もなく素通りして胡蝶は「十六夜の間」の前に立つ。
一声掛けて女将が座敷の障子戸を開けると、ワイシャツの袖を肩まで捲くり上げ右の上腕を晒した透の姿が見えた。胡蝶の顔を認めるといささか唖然と口を開く。
「どうしたんだ。今日は綺麗所を呼んだ覚えはないが」
「お呼びじゃなくって悪うございました」
つんと、わざと拗ねたように芸者島田の頭を横へ向けると、胡蝶は黒の引き着の裾をするすると引いて座敷へと上がり込み、縁側に控えた女将とちらりと互いに目を見交わして障子を閉めた。
「あなたが来てるって聞いたから、わざわざ女将に頼み込んでお座敷の前に通してもらったのよ」
そう言って透を振り返ると、胡蝶は座敷の中の様子に改めて目を走らせる。
机の上には漆塗りの膳や銚子の代わりに血圧計。透の両脇には、透のものと思しきスーツの上着を手にした水樹と、今は白衣姿でこそないが、いつか病室で見かけた大柄な若い医師が控えている。
胡蝶は畳の上を滑るように移動して透の傍らに身を寄せるときちんと座り、軽くその顔を睨付けた。
「呆れた人ね。病院を抜けてくるなんて。退院は一週間ほど先じゃなかったの?」
「一応、許可はもらったよ。心拍数も血圧も異常なしだそうだ」
片腕を仕舞いながら、含みのある笑みを見せて透が脇へ目をやると、
「まあ、何というか」
水を向けられた和佳水は頭を掻きながら明るく笑った。
「担当医共々上手いこと言いくるめられまして。僕が同行するという条件付きで、一応決着を見た次第です」
「ごめん、和佳水君。送り迎えまでしてもらって」
水樹が困ったような笑みを見せると、「ま、乗りかかった船だからな」と胡蝶の方を見て和佳水は楽しげに笑う。
「お蔭でこうして思わぬ眼福にも与ったことだしさ。俺、生で芸者さん見るのは初めてだなあ。華やかなもんですねえ」
胡蝶の艶姿にご満悦の和佳水に透が微笑みかけた。
「先生には非番のところをわざわざ御足労頂きまして、申し訳ありませんでした。後で料理を運ばせますので、それまでこちらでおくつろぎください」
「いやあ、それは返って申し訳ないなあ」
和佳水が恐縮して頭を掻くと水樹も柔和な笑みを見せる。
「遠慮しないで、和佳水君。僕もいろいろお世話になったし、お礼の気持ちだから」
「後で私達もご相伴に与りますから、どうぞご遠慮なく。こちらの懐石料理は絶品ですよ」
「もう。人の気も知らないで。あなたがこんな無茶な人だとは思わなかったわ」
和やかに歓談する男達に半ば呆れ、上目使いに目の前の男をちょっと睨んで胡蝶がぼやくと、透はその端整な面に、祖父瞭三郎を彷彿とさせるような太い笑みを仄かに浮かべた。
「対峙すべき相手に弱みは見せられないからね」
「まあ、それはわかるけど。相手は羅天先生なんでしょう。大丈夫なの?」
溜め息を吐き形のよい細い眉を顰めてくる胡蝶に透は失笑する。
「大げさだな。殴り合いをしに行く訳じゃなし。まあ、ある意味法廷並の真剣勝負ではあるが」
尚心配そうな面持ちの胡蝶を見返して透は改めて微笑んでみせる。
「こう見えても僕は役者だよ。務めなければならない舞台はきっちり務め上げてみせるさ。もし君が僕の立場なら、多少ケガしているからといって代えの利かない大切な舞台を降りたりするのかい?」
面白がってでもいるかのように透が問うと、胡蝶は凛と背筋を伸ばして黒紋付の胸を張る。
「そりゃ、そんなこと死んでも御免被りますけど」
「だろう」
我が意を得たりと透は会心の意味を浮かべる。
「それで結果が弁慶の立ち往生なら、むしろ本望だよ」
「透さん。縁起でもないこと言わないでください。心配してくださってる胡蝶さんがお気の毒です」
とがめるように口を開いた水樹が気遣わし気に胡蝶を振り返る。
「大丈夫です、胡蝶さん。透さんに無茶はさせませんから」
「ありがとう、水樹君」
真摯な優しい瞳を見返して胡蝶は一際艶やかに微笑んだ。返す刀でちらりと透を睨付ける。
「まったく。こんな人を父親に持ってあなたも大変よねえ」
「やれやれ。酷い言われようだな」
ぼやいた割には満更でもなさそうに透が見返すと、胡蝶は諦観の溜め息混じりに尚睨み付けた。
「どんなに言ってもどの道聞きゃしないんだから、言うだけのことは言わせてもらわないと。待ってるこちらの立つ瀬がないわ」
さじを投げたような胡蝶の言い様に透が苦笑を漏らしたところで、障子越しに女将の声が羅天雅武の到着を告げた。
「では、そろそろ行こうか」
水樹に声を掛け、透がおもむろに立ち上がる。胡蝶も流れるような動作で共に立ち上がり、水樹から手渡された上着を背中から透に着せかけた。後ろ姿を確認してから正面に回り込み、スーツの襟元を整えて透を仰ぎ見る。
「しょうのない人。いってらっしゃいな。骨は拾ってあげる」
◆
月は程よく離れの庭の中央に差しかかっていた。
障子戸に設けられた窓から名残雪の景色を眺めていた雅武は、女将に案内されて現れた、鴨居に届く長身の男を見て瞠目した。瞬間、眼鏡の奥の双眸に揺れるものが過ったが、それは幻のようにすぐにかき消え、表情に乏しい年輪を経た面に忽ち笑みが浮かび上がる。
「これは驚いた。もう、いいのかね」
「お陰様で。思いがけずたっぷりと休養を取らせて頂きました」
縁側から申し分のない穏やかな笑みを浮かべると、透は雅武の脇に控えた秘書に目を移した。
「申し訳ありませんが席を外して頂けませんか。いささかプライベートな話をすることになると思いますので」
不愉快そうに眉を顰め口を開こうとする秘書を雅武が穏やかに抑える。
「吉井君、ここは早渡君の言う通りにしてくれないか」
「ですが、先生」
「頼むよ」
雅武に眼で諭され、吉井は不承不承という体で席を立った。座敷から出る直前にもう一度雅武を振り向き、擦れ違い様に透と水樹を威圧的に一瞥してから退出していく。入れ替わりに座敷に上がると、透は雅武の正面の席に着いた。続いて水樹が粛々とその傍らの席に着く。
目の前にかしこまった水樹の姿を見ると、雅武は小さく笑った。
「いや、驚いた。今夜は水樹君だけだと思っていたのだが。見事に騙されたよ」
相手の牽制に露ほども動じる気配のない透の傍らで、水樹は内心身を縮める思いでいた。透が同席することを伏せておいたのは透本人から指示があったからだが、多少の後ろめたさは拭えない。
雅武は出ていた銚子を持ち上げると透の方へと差し向けた。
「どうかね。一献」
「いえ。申し訳ありませんが、私はアルコールは頂きません」
透が辞退すると僅かに苦笑を漏らす。
「私の酒は飲めないということか」
「いえ、あの」
水樹が慌てて口を挟む。
「透さんは本当にお酒は強くないんです。今は身体も本調子ではありませんし。代わりに僕が頂きます」
猪口を手にする水樹に雅武は銚子を傾けた。一杯呷るのを見届けてからおもむろに口を開く。
「君達がこうしてやって来たということは、二十五年前の事件に関することなのだろうな」
比良坂が逮捕されてから既に数日経っていた。大手週刊誌の編集長が殺人容疑で逮捕されたことは当然各メディアで大きく取り上げられ、実名は伏せられていたが裏に政治家の存在があるらしいことも取り沙汰されている。
透は黙って雅武を見据えると、隣に控える水樹を一瞥してから静かに口を開いた。
「水樹がすべて思い出しました。あなたの息子さんが水樹と水樹の母親に何をしたのか」
「……なるほど。そういうことならじたばたしても仕方がないな」
覚悟していたのかさほど驚くこともなく雅武は僅かに俯いて自嘲気味に笑う。それから視線を上げて透の顔を見詰め直した。
「因みに、知尋が何をしたのか教えてはもらえないだろうか」
「いいでしょう」
透は頷く。
「あなたも直接現場を目撃した訳ではない。真実を知りたいのは我々と同じだと思います。息子さんの犯した罪は主に二つ」
「……二つ」
雅武は僅かに戸惑いを見せ瞠目する。
「一つは水樹の母親に対する強姦罪」
罪状を数え上げる透の低いがよく通る声に、水樹が鞭打たれたようにぴくりと震えた。気配を察したのか透がちらりと視線をよこす。心の中で自分を叱咤し、水樹は大丈夫だと頷いて見せた。こんなことで怯んでいては雅武の口から真実を聞き出すことなど覚束ない。
水樹の様子を確認すると再び視線を雅武に戻し、透は揺るぎなく先を続けた。
「もう一つは、二歳の水樹をアパートの二階の手摺りから落とそうとした殺人未遂です」
「やはり……そうだったのか」
透の告発を聞き終えると、雅武は静かに息を吐いた。おもむろに座布団から退き、畳みに手を突くと、水樹を見上げてから丁寧に頭を下げる。
「申し訳なかった、水樹君。今更だが息子の不始末を詫びさせてもらうよ。本当にすまなかった」
「僕のことはいいんです」
両手を突いた雅武の、広いが老いた背中を目にして水樹は小さく声を振り絞った。
「それよりも、あなたは母に……何故母をあんなところに閉じ込めたんですか。母は何故たった一人であんなふうに死ななければならなかったのでしょうか」
悲しげな詰問に雅武はゆっくりと顔を上げた。見詰めてくる水樹の真っ直ぐな瞳と目を合わせると、僅かに視線を落とす。
「私は君のお母さんが怖かったんだよ。ただ、ひたすらに怖かった。毎日気が気じゃなかったよ」
「そんな、何故……」
水樹が目を見開き絶句すると透の声が静かに割って入った。
「当時のあなたは定年退官する最高裁判事の後任として名が上がっていたのですね」
雅武は頷く。
「そうだ。知尋の転落事故があった頃には知り合いの議員から既に知らされていた」
雅武は顔を上げ、水樹に目を向ける。
「水樹君、君のお母さんは知尋のしたことを警察に証言しなかったが、それは私にとってはいつ秘密が漏れるかわからないということだった。最初から知尋の君への殺意が暴露されていれば諦めもついたのだろうが、表沙汰にならなかったことでつい欲が出た……」
「経験豊富な判事であるあなたには、恐らく加菜子さんを一目見て彼女が何か重大な事実を隠していることがわかったのでしょう。検事の性分も酒癖も父親であるあなたは知っていた」
透に喝破され雅武は再び俯き加減に目を伏せる。
「その通りだ。最初警察から知尋が子供を助けて死んだと聞かされたとき、正直あり得ないと思った。情けないことだがね。そして、実際加菜子さんと会ってみて確信したんだ。彼女の目がすべてを雄弁に物語っていた」
「……目?」
水樹が瞠目して聞き返すと雅武は頷いた。
「そう、目だよ。私を見る加菜子さんの目は、最初から恩人の父親に対するものでも婚約者の父親に対するものでもなかった」
加菜子は怯えた目で雅武を見ていた。雅武の視線から守ろうとするように、その細い腕で水樹君をきつく抱き締めて離そうとしなかった。
「あれは外敵から我が子を必死に守ろうとする母親の目だった」
雅武は自嘲気味に笑みを漏らす。
「だから、また知尋が何かやらかしたのだと私にはすぐピンと来た。情けないことに、そういう目をした女性と対峙するのは初めてではなかったのでね」
「森村喜代子さんのことですか」
透が口を挟むと雅武は顔を上げた。いささか唖然と透の顔を見る。
「……驚いたな。調べたのか」
「必要なことは一通り」
こともなげに透が答えると複雑な表情を見せて「これだから君は侮れん」と雅武は薄く笑った。気を取り直すように大きく息を吐いて先を続ける。
「もちろん、あの時も平身低頭、父親として息子の不始末を心から謝ったよ。元々子供がさほど好きでもない知尋は水樹君にもあまり良い印象を持っていなかった。結納の件で話をした時も小賢しい子供だと言っていたよ。子供を愛せないなら結婚はやめておけと言ったんだが……」
そこまで話して僅かに表情を歪めると顔を背け、雅武は低く呟くように言い捨てた。
「馬鹿なヤツだ。自業自得だよ」
気持ちの整理をつけるように緩く頭を振ると雅武は改めて水樹の顔を見る。
「……失礼。お母さんのことだったね」
静かに一度息を吐き出すと雅武は障子の窓越しに外へと目をやった。
夜空に白く浮き出た半月が雪の残る日本庭園を煌々と照らしている。
「加菜子さんもよくこんなふうに窓から外の景色を見ていたよ。見ていたのは月ではなく、海の彼方だったが……」
月を眺めて半ば独り言のように漏らすと、雅武は再び淡々と話し出す。
「私には君のお母さんが重大な事実を隠していることはすぐにわかったが、何故彼女が黙っているのか、その気持ちが理解出来なかった。比良坂君のように取引を持ちかけてくる訳でもない。ただ黙って震えているだけだったから」
雅武はおもむろに室内へと視線を転じた。水樹の顔を見ると仄かに自嘲めいた笑みを浮かべる。
「その上、事件のもう一人の生き証人である君もどこかへ隠してしまった。だから余計に怖かったんだ」
「……そんな」
雅武を見詰め水樹は悲しげに表情を歪めた。
「母はただ、もういいと思っただけです。他意なんてなかった。これでもう誰にも脅かされることなく平穏に暮らしていけると思ったから……だから――」
悲痛な声を絞り出し、不意に口を噤むと水樹は宙を見たまま瞠目した。
「水樹?」
透が僅かに眉を顰め訝しげに様子を窺うと、上の空のようにぽつりと呟く。
「……思い出したんです」
風が冷たいさわらび学園の門の前。
去り際に、三橋園長に抱かれた水樹の頬にひんやりとした両手で優しく触れて、母は言ったのだ。
――ママのことは忘れて、幸せになってね。いい子でいてね。
笑顔だった。
温かくて、けれども切ない、きれいな笑顔。
「……だから、僕は――」
母の言付けを守ろうと幼いなりに懸命になった。
大好きな母を、それ以前の出来事を、なるべく早くすべて忘れて孤児院の環境にも新しい友達にも馴染むように。
いい子でいてね。幸せになってね。
お母さんがそう言ったから――。
それは母が水樹に残した、水樹を守るための封印だったのかもしれない。
パンドラの箱を開けないように。自分から災いを呼び込むことのないようにと願いを込めて。
「母はあなたの監視の目からはもう恐らく一生逃れられないとわかっていたのだと思います。だから、せめて僕だけは自由になって欲しいと願った。ただそれだけなんです」
「一生閉じ込める気などなかったよ」
訴える水樹の真っ直ぐな瞳から目を逸らし、雅武は俯き加減に口を開いた。
「正式に任命されるまで黙っていてもらえたらそれでよかったんだ」
苦渋に面を歪め、改めて頭を下げる。
「加菜子さんがあんな亡くなり方をしたことは本当に申し訳なかったと思っている。君のことだって……」
雅武はにわかに顔を上げると水樹を見上げた。
「今更白々しいかもしれないが、私は君に特別恨みも含むところもない。あの頃君が私の養子になっていれば、然るべき教育を施して、出来れば海外にでも留学させて、いずれは君のお父さんと同じように研究者として大成してくれたら言うことはないと思っていたよ」
水樹は返事をしなかった。
もしも水樹があの頃雅武の養子になっていたら。もしも母が知尋の殺人未遂を告発していたら。もしも岩佐がもう少し丁寧に母の話を聞いていたら。
確かに分岐点はいくらもあった。だが、そのどれも、今更言ってみても意味はない。すべて済んでしまったことなのだ。
この二十五年間を懺悔するように雅武は淡々と続ける。
「青葉医師の養子になった時も特に干渉しようとは思わなかった。ただ、彼が不慮の事故で亡くなって、妹さんと二人でアパートに移り住んだ時には少しひやりとしたよ。君があのガード下の古びたアパートの階段を見て、昔のことを思い出しやしないかとね。だが、君はそんな素振りはまるで見せなかった。正直ほっとしたものだよ」
「やはり、水樹のことは監視していたのですね」
透が確認するように問うと、雅武は僅かに自嘲の笑みを漏らした。
「もし知尋の一件を暴露されても最早職を追われる心配はなかったが、やはり気になるからね」
雅武はちらりと透の顔を見る。
「早渡君。水樹君が君の養子になった時は驚いたよ。君の優秀さは人から噂も聞いていたからね。しかし、特に問題はなかった。水樹君は君の保護の下、幸せそうに勉学に没頭していたから。そのまま何事もなく過ぎてくれたら、私は君達に干渉する気はなかったんだ。しかし――」
言い淀んだ雅武の言を透が引き継いだ。
「卯木センスが昔の事件を蒸し返してしまったんですね」
「タイミングが悪かったんだよ」
僅かな沈黙を破り、雅武は再び口を開く。
「すべてはそれだけの問題だったんだ。あのスクープ記事があと三カ月後だったら、私は敢えて行動を起こすことはなかったよ」
「それは、息子さん、長男の満雅氏が最高裁判事の候補になったからですね」
「え? 息子さん……?」
透の指摘に水樹が目を見開くと雅武は仄かに笑った。笑うしかなかった。
「皮肉な話だよ。二十五年前と同じようにまたしても知尋だ」
「前任が定年で退官するのは二月の初旬。あなたはそれまでスキャンダルは何としても露呈させる訳にはいかなかった」
雅武は頷く。
内定していても油断は出来ない。他に候補はいくらでもいる。関係者の間で候補者を巡る綱引きはぎりぎりまで常にあるのだ。正式に任命されるまでは、ほんの僅かな傷でも致命傷になりかねない。
「でも、何故そこまでして……」
水樹が口を挟むと雅武は心なしか寂しげな笑みを漏らした。
「栄誉を望んではいけないかね」
「栄誉……ですか?」
雅武の言葉に水樹は目を見開く。
正直水樹は栄誉について考えてみたことなど一度もなかった。それは雅武との人生経験の差からくるのかもしれないし、就いている職種によるのかもしれなかったが、いずれにしろ水樹にはその意味を実感として理解することが出来なかった。
役者という華やかな世界に生きている透ならわかるのだろうか。
ちらりと隣を窺ってみると透は微動だにせず正面の雅武を見据えていた。
その透の向こうに何かを重ねて見るように雅武は淡々と語り続ける。
「裁判官というのは実に地味な仕事だよ。山と積まれた資料に丹念に目を通し、議論を重ねて判決を下す。地道な作業の繰り返しだ。しかし、毎日労を惜しまず働いてどんなに誠意を以て議論を尽くしても、事件の当事者や世間を完全に納得させる判決など出せはしない。真実を見極め妥当な判決を下すのは当然。少しのミスも許されない。称賛されることはほとんどなく、批判は容赦なく浴びせられる報われることの少ない職業だ」
神妙に話に耳を傾ける様子の水樹を見て雅武は笑った。
「だからと言って、それが不満だと言っている訳ではない。裁判官とはそういったものだと割り切っていたよ。自分達の下す判決が人の人生を左右するのだから問題があれば厳しく批判されて然るべきだろうし、どこの会社や組織でも黙々と己の務めを果たすのはむしろ当たり前だからね。だからこそ二十五年前、最高裁の判事にという話を聞いた時は嬉しかったよ。地道にやってきたことが報われたと誇りに思ったものだ。なのに、知尋のやつは……」
そこで不意に言葉を切ると雅武は目を閉じた。透が静かに問う。
「息子さんに対する意地ですか。知尋さんに対する」
瞳を開くと雅武は黙って透を見返した。それから僅かに視線を落とし、しばらく考えるようにしてから口を開く。
「そうかもしれない。私の時は仕方がないと思った。私は知尋の父親だからな。あれの不始末は私の責任だ。隠蔽工作に四苦八苦するのも自分が選んだことで自業自得だ。だが、満雅は違う……」
雅武は俯くと自分の膝を両手で掴んだ。
「知尋のような派手さはないし、切れ者というほどでもないが、満雅はただ真面目にこれまで判事の仕事を勤め上げてきた。なのに」
仕立ての良いスーツの生地に老いさらばえた指先が僅かにめり込んでいく。
「それがやっと認められる今この時になって、二十五年も前の知尋の不始末にあれの行く末が阻まれるのは理不尽だ。満雅に罪はない。満雅は何も知らないんだよ」
ややあって、雅武は顔を上げた。もう憂いも苦渋もない、感情に乏しい雅武のいつもの顔がそこにはあった。
「いや、失礼した。今夜はいささかしゃべりすぎてしまったようだ。老境の身には少し堪えた。申し訳ないが、これで失礼するよ」
そう言っておもむろに立ち上がり、雅武が障子戸を開けると、一月の庭から冷たい夜風が流れ込んできた。歩みかける雅武を見て水樹が腰を浮かせる。
「待ってください!」
「何かね?」
月影を浴びてゆっくりと振り向いた雅武の目を見詰め、水樹は最後の疑問を口にする。
「もう一つだけ教えてください。あなたはセンスくんと同じように……僕も殺すつもりだったんですか?」
雅武はその問いに直接答えなかった。訴えかけるような水樹の瞳を見詰め返し、どこか憐れむような眼差しで仄かに笑む。
「……君は心弱い加菜子さんとは違う。卯木センスの死をきっかけに真実を知ろうとしていた」
「でも、僕は……」
水樹が知りたかったのは二十五年前の母の真実で、それ以上のことを告発しようとした訳ではない。
「水樹君」
納得できない様子の水樹に雅武は諭すように言い添える。
「君が二十五年前の真実を知ってよしんばそれだけで満足したとしても、早渡君は黙ってはいないよ。二十五年前の真実とそこから導かれる今回の事件の真相を知れば、世間に公表することが君の安全を確保する最善の方法だと気付いて必ず実行する」
水樹から透に目を移すと雅武は僅かに笑みを浮かべた。
「君は水樹君を随分大事にしているようだからな」
水樹を背にした透は端座したまま微動だにせず、視線だけを合わせて雅武の眼鏡の奥の双眸を見据えた。
「当然です。私は水樹の庇護者として、養父として、彼が一人前の医師となるまではその身の安全について全責任を負う。私の目を盗んで水樹を懐柔しようとしたことがあなたの最大の失策でしたよ」
二人は対峙したまましばし動かなかった。月下の静寂のなか、やがて雅武がおもむろに問い返す。
「どういう意味かね」
「あなたは早すぎた」
その透徹な瞳で揺るぎなく雅武を見据えたまま透は口を開く。
「病院に現れたのは身内とほぼ同時。事務所の関係者よりもマスコミよりも早かった。そんなに速やかにあなたはいつどこで私の搬送先を知ったのですか」
雅武は答えない。
「もちろん、あらかじめ然るべきところに網を張っておけば迅速な情報の入手は可能となります」
「……透さん?」
水樹が雅武に目をやり、それから再び透の横顔を窺った。恐ろしい予感に声が震える。
「それはどういう……」
尚無言で見下ろしてくる雅武の眼を下から見据え、透は静かに断言する。
「あなたは知っていた。あの日、私の身に何かが起こるかもしれないということを」
「なるほど」
否定も肯定もせず、透の告発を動じることなく受け止めると雅武は苦笑を漏らした。
「しかし、私としては、あのとき君がすんなり亡くなってくれたなら、その後水樹君に真実を覚らせるような失策は演じない自信があったんだがな」
再び鋭く対峙する二人の間に水樹が割って入った。
「やめてください!」
「水樹、話の途中で失礼だ。下がりなさい」
「お願いですから、透さんをそんな目で見ないでください……! 僕の大事な人をもうこれ以上苦しめないでください!」
たしなめる透の言葉にも耳を貸さず守護するようにその前に立ちはだかり、雅武を見上げてくる水樹は、加菜子によく似た必死の瞳で僅かに震えていた。
その姿を諦観したようにしばし見詰めて雅武は透に目を移す。
「だが、君は命を取り留め、ここまで来てしまった……」
三度目を合わせた透はもう何も言わなかった。
最後にもう一度だけ水樹を見て雅武は微笑む。
「できれば私も君らのような息子が欲しかったよ」
離れの縁側を建物に沿って折れ、渡り廊下の手前まで来た雅武を地味なスーツにコートの一団が出迎えた。
中の年配の一人が警察手帳を見せて会釈をする。
「比良坂保との関係についてお話を伺いたいのですが。署までご同行願えますか」
すると警察の人垣を掻き分けて、堂々とした体格の壮年の男が現れた。
「父さん」
その姿を一目見て雅武が瞠目する。
「満雅……何故ここに」
「私がお呼びしました」
雅武が振り返ると離れの縁側に水樹を伴って透が立っていた。
「手回しがいいな」
「いずれはお二人で話をしなければならないでしょうから」
顔色も変えずに付け加える透を見て苦笑すると、雅武は正面に控えた一団に目をやる。
「逮捕状はあるのかね?」
「いえ」
「では、逮捕状を取ってきてからにしてくれたまえ。今夜はいささか疲れたよ」
その一言で左右に人垣を開かせると、長男に肩を抱かれるようにして雅武は廊下の向こうへと消えていった。
◆
透と水樹が「十六夜の間」に戻ると、瞭三郎が料理の並べられた席に着いて和佳水と酒を酌み交わしていた。
「おう、透。何やら外が騒がしかったが、羅天との決着はついたのか」
「はい。夜分にお手を煩わせて済みませんでした」
傍らの席に着き律義に頭を下げる孫を見て、既にほろ酔い加減の瞭三郎はにやりと笑った。
「まあ、仕方がねえさ。最高裁判事に名を連ねようって程のベテラン判事殿にわざわざ御足労願おうってんだ。迎えに出向くのが櫂人じゃあ、さすがに釣り合いが取れねえからなあ」
「満雅さんはどうなるんでしょう」
透や瞭三郎とは反対側の空いた席に着き、誰にともなく水樹が問うと、猪口に残った酒を呷って瞭三郎が低く唸る。
「どうだろうなあ。比良坂ってやつがどのくらいゲロるかわからねえが、今回のことで任命の件は見送られるかもしれねえなあ」
「だが、父親が法を犯したからといって、そのことが理由でその息子が現在の職場を追われることはない。安心したまえ」
「……はい」
透のフォローにも小さく溜め息を吐く様子の水樹を見て瞭三郎が再び慰めるように口を開いた。
「まあ、何だ。最高裁の判事になることが裁判官の最高の栄誉とは限らねえさ」
水樹が見返してくると、皺深い顔に太い笑みを浮かべてちらりと隣の透を見る。
「これの親みてえに、好き好んで地方ばっかうれしそうに飛び回ってる連中もいることだしなあ」
「満雅氏が父親と同じように最高裁判事となることを強く望んでいたかどうかは、本人に聞いてみなければわからないよ」
透が腕を仕舞いながら諭すように水樹を見ると、用済みの血圧計を鞄に放り込み、改めて箸を手にした和佳水も明るく笑った。
「価値観は人それぞれさ。お前の亡くなったおやじさんだって、忙しいばっかで儲かるわけでもない個人医院を熱心にやってたんだろ?」
「そうだね」
ようやく水樹が笑顔を見せると瞭三郎が手近な徳利を持ち上げた。笑顔でどら声を張り上げ、水樹に向かって差し向ける。
「さあ、飲め飲め。今夜は二十五年の憂いが消えた祝い酒だ。無礼講といこうじゃねえか」
「いいですねえ」
何のつもりか和佳水が上着を脱いで腕まくりをし、その医者にしてはいささか逞しすぎる腕を晒した。
「途中で誰かが酔い潰れても僕がばっちり介抱しますよ」
「酔い潰れるって。ほとんどケガ人とお年寄りとドライバーなのに」
なみなみと注がれた猪口の酒を慌てて飲み干し呆れて抗議する水樹を見て透が笑った。
「では、酒代とタクシー代は纏めて私が持ちましょう」
瞭三郎がぽんと膝を打つ。
「よく言った。そう来なくっちゃあ面白くねえ」
「いやあ、さすが桐生。太っ腹だ! さあ、そうと決まったらどんどん行きましょう」
スポンサーの宣言を皮切りに、料理の上を新たな徳利が行き交った。
互いに杯を交わし合う男達の祝宴の夜は、賑やかに和やかに更けていった。
◆
機嫌よく酔った瞭三郎と和佳水をタクシーに同乗して自宅まで送り届けると、透と水樹はそのまま帰途についた。
夜中に透の顔を目にして最初は幽霊でも見たような顔をしていた運転手も、行き先を病院だと告げた時点でどうやら事情を察したようだった。ルートを聞かれた透は一瞬考え込むと、目指す倫天堂第一病院とは逆方向を指示した。
「どこへ行くんですか、透さん? 約束の門限に間に合いませんよ。先生や看護師さん達に叱られてしまいます」
携帯の時刻表示を確かめて心配そうにする水樹を見て透は笑った。
「大丈夫さ。そんなに時間は掛からないよ。君に見せたいものがある」
「見せたいもの?」
二人を乗せたタクシーはやがて郊外へ出た。東京二十三区内にこんなところがあるのかと思うほど、住宅も疎らな田園風景が広がっている。
しばらく行くと、車ほどもある巨石が無造作にごろごろと置かれた広い敷地が両脇に見えてきた。高くライティングされた巨大な看板には造園業とある。
物珍しさに水樹がその巨石群に見入っていると透が車を止めた。運転手にしばらく待っているように指示すると造園業者の敷地の方へと歩いてく。
事務所の照明はとうに消え、敷地の中にも外にも人影はまったくない。目の前に広がる暗がりの遥か向こうに住宅の明かりが疎らに見えている。
透は金網状のフェンスで囲われた敷地のほとんど向こうの端まで歩いていくと立ち止まり、慌てて追ってきた水樹を振り返って中を見るよう促した。
「ほら、あれだ。ちょっと小さな木が一本あるだろう」
そこには樹木の植えられた細やかなスペースがあった。石と砂ばかりの殺風景な敷地の中で僅かばかりの緑を主張している。大抵の木は、まだ小さな苗木か、または見上げるくらいに立派に育った樹木のどちらかだったが、中に一本だけもう苗木ではないがやっと人の背丈に届くぐらいの若い木があった。
水樹が薄暗がりに目を凝らしてよく見ると枝に小さな名札のようなものが掛けてある。
「あれはクスノキだ。私が君に援助をすると決めた時にこちらに預けて、育ててもらっているものだよ」
「え?」
水樹が振り向くと透は穏やかに笑った。
「最初の頃はまだ茎も赤くてひょろひょろとした頼りなげなものだったが、最近やっと樹木らしくなってきた。七年の間に随分成長したものだよ」
目を細めて上から自分を眺めている透をしばし見詰め返すと、水樹はもう一度クスノキの方へと目を移した。
全体のシルエットはまだ華奢で枝ぶりも貧弱だが、きちんと大地に根を張り緑の葉を芽吹かせて、真っ直ぐに上へと伸びている。
「気に入ったかね?」
「はい。とても」
柔らかな笑顔で水樹が素直に頷くと透は満足そうに微笑んだ。
「君が医師免許を取る頃にはもっと緑を増やしているだろう。その時には是非進呈したいものだが――」
「え、僕にですか?」
見上げてくる水樹を見て透は悪戯っぽく笑った。
「さて、どこに植えたらいいものか。思案中だ」
コートを翻して踵を返すと透は歩き出した。水樹がその後をついていく。
澄みきった真冬の夜空から、傾きかけた月が冷たく煌々と透の広い背中を照らしていた。
月影と前を行く透の背中。それは水樹に赤く染まった雪の日の惨劇を思い出させる。
あれも本当に雅武が意図したものだったのだろうか。殺意はあったのだろうか。
透の推理を否定はしないが、水樹にはわからなかった。
思い切って透の背中に問い掛けてみる。
「羅天さんは本当に僕や透さんを殺すつもりだったのでしょうか」
「さあ」
後ろからの唐突な問い掛けに驚いた様子もなく、振り向かずに透は淡々と答える。
「私や卯木センスの場合はまた別だが、君の場合に限ってはもしかしたら最後まで揺れていたのかもしれないな。出来れば殺したくはなかったのだろう。彼自身のためにも君のためにも」
「……決断を迷っていたということですか」
「恐らく。理由はどうあれ、彼は君には格別の思い入れがあった。だからこそ比良坂の曖昧な手口に任せていたのかもしれない。確実に殺そうと思えば他にいくらでも手はあるからな……」
タクシーの手前でふと立ち止まると、透は水樹を振り返った。その瞳の奥を、推し量るようにじっと見る。
「水樹、君はすべてを思い出して満足したのか」
気遣う様子の透の問いにしばし瞠目すると、水樹はその眼差しを真っ直ぐに受け止め見詰め返した。そのまま面を改めてきっぱりと頷く。
「辛いことや悲しいこともたくさんあったけど、でも、もっと大切なことも思い出せましたから」
そっと自分から手を伸ばし、水樹は透の両手を取った。
その手は水樹の手より一回り大きく、いざという時にはいつも温もりと安堵感を与えてくれる。
「記憶はかなり朧だけれど、父もこんなふうに温かくて大きな手をしていたと思います」
幸せになってね、と母は言った。
温かくて大きな手で、父は自分を撫でてくれた。
手を取ったまま、水樹は透を見上げた。そして、穏やかに、けれども晴れがましく宣言する。
「透さん、僕はもう何処にも行きません。透さんの下で青葉の父のような立派な医者になります」
「大胆だな。私と噂になってもいいのかね?」
先程から好奇の目をこちらに向けているタクシーの運転手をちらりと見やって透が面白そうに含み笑うと、水樹は透の手を取ったまま澄まして胸を張った。
「大丈夫です。人に聞かれたらちゃんと父だと答えます。それで、うんと年を取ってよぼよぼになって、もし僕のことわからなくなっても、一生透さんの面倒見ますから」
水樹の顔を見て一瞬瞠目した透は、次の瞬間心底愉快そうに声を上げて笑った。
「それは頼もしい。ひとつよろしく頼むよ」
父と子を乗せてタクシーは再び走り出した。
月はすっかり傾いて、それでも二人の行く道を煌々と照らし出していた。
Fumi Ugui 2009.03.01
再アップ 2014.05.21