春は突然に

第1話 ファーストキス

「……何で兄貴がいるんだよ」
 玄関で出迎えた透の顔を見て櫂人(たくと)は嫌そうに顔を顰めた。
「久しぶりに顔を合わせたというのに御挨拶だな」
 透は眉を上げ、上がり框の上から端整な面で櫂人を見下ろす。少し酷薄そうに見えるのは自らそういう演出をしているからだ。
「兄貴の顔なんか俺は毎日見飽きてるよ」
 これは別に皮肉ではなく事実だ。街中を普通に歩いていれば、必ず兄の顔を目にすることになる。特に本屋では週によると入り口付近の目立つ場所にレモンを持って山積みになっていたりするので、鬱陶しいことこの上なかった。
「水樹さんは?」
 気分の清涼剤を求めて櫂人は奥の明るいリビングにちらりと目をやった。だが、そこに水樹のいる気配はない。そう言えば、いつもは出るエントランスホールのインターホンにも出なかった。
「調べ物があると言って、朝から国会図書館に行っている。お前ものん気にデートなんかしていていいのか」
「いいだろ、別に。日曜ぐらい。……ったく」
 櫂人は眉根を寄せ上目使いに透を見る。
「だからやなんだよ、兄貴と顔合わせんの。何で今日いるんだよ。人が休んでるときに働くのが仕事じゃなかったのかよ」
「今日はたまたまオフだったのさ。まあ、上がれ」
 ふてくされ気味の弟の愚痴にも余裕の笑みでスリッパを揃えてやり、透がリビングに促すのを、櫂人はすげなく断った。
「いいよ、ここで。青葉は?」
「夏乃君なら少し前に出たが」
「何だよ、それ!」
 しれっと何でもないことのように言って退ける透の態度に、さっきから騙し騙しに何とか堪えてきた櫂人の堪忍袋の緒がぶっつり切れた。
「だったら先にそれ言えよ! 何のために俺上がってきたんだよ!」
 声を荒らげる櫂人の抗議に動じるでもなく、透はその理知的な双眸を細めた。壁に凭れて腕を組み、僅かに首を傾げて探るように櫂人を見る。
「お前こそ。迎えに来るつもりなら前もって連絡を入れておいて然るべきだろう。随分と不手際じゃないか。どういうつもりなんだ?」
「う、うっせーな。いいだろ。別に」
 途端に勢いがなくなる櫂人を見下ろして透は笑みを浮かべた。
「ほほう。いいのかな。実の兄に隠し事をするような誠意のない男に、ウチの可愛い娘は任せられないが」
「青葉はあんたの娘じゃねえだろ!」
「だが、私の大切な養い子の、天にも地にもたった一人の妹だ。彼女が私の被扶養者だということに変わりはないな」
 これを持ち出されてしまっては、まだ脛っ噛りの学生の身の櫂人としては何も言えない。
「……新車買ったから驚かせようと思っただけだよ」
 あらぬ方向を向いてぼそぼそと小さな声で白状した櫂人を見て、
「新車か。なるほど」
 透は満足そうに瞳を伏せた。櫂人が不機嫌そうに見返すと、閉じていた瞳を再び開いて付け加える。
「だが、詰めが甘いな」
「ほっといてくれ」
 夏乃がいないとわかったからには、これ以上ここにいる理由は何もない。
「んじゃ、俺行くから」
 透の顔もろくに見ずに踵を返すと、櫂人は玄関のドアノブに手を掛けた。

「もういいよ。ここで」
 エレベーターを先に立って降りると、櫂人は後ろを振り返った。
「車は地下じゃなくて、外の駐車場に止めてあるんだろ?」
 都内の一等地に建つマンションの、如何にも瀟洒な、採光の行き届いた明るいエレベーターホール。その鏡のように磨かれた白い大理石のフロアにすらりと立つ透は、春らしい淡い色合いの、ゆったりとしたブランド物のカジュアルウエアに身を包んでいた。
 毎度のことだが、透は公共スペースに出ると途端にプライベート時よりも数倍強烈なオーラを放つ。
 現に今も、ただそこに立っているだけなのにモデルのような気取った感じのポーズも実に自然で様になっていた。
「せっかくの機会だ。親からせしめた新車とやらを是非見ておきたいんだがな」
「人聞きの悪いこと言うなよ」
 櫂人は嫌な顔して兄を睨付ける。
「買ってもらったわけじゃねえよ。借金。女遊びもやめたし、第一志望の東大文一に入れた祝いにって、親父は上機嫌で貸しくれたよ」
「にしても身に過ぎた贅沢だ。少しは水樹を見習ったらどうだ。彼は毎朝自転車通学だぞ」
「俺と水樹さんを比べんなよ」
 後ろをついてくる兄をちらりと見やって櫂人は憮然と零す。
 東大理三に合格した水樹は品行方正。性格も穏やかで非の打ち所がない。太刀打ちするのは無理というものだ。
 後ろに気を取られたまま、エントランスの自動ドアを開けてマンションの建物を出た途端だった。
 目も眩むような真白い閃光が櫂人を襲い、どっと喧騒が押し寄せてきた。
「済みません! ちょっと、お話を聞かせて下さい!」
「桐生さん!」
 まだ視界も十分に戻らないうちに芸能レポーターらしき若い男女が突進してきて鼻先にマイクを向ける。数台のテレビカメラと差し出されるレコーダー、取材の人込みに間近に迫られ、櫂人はその場から一歩押し戻された。弾みで後ろへよろけ、閉まり始めた自動ドアに挟まれそうになる。その櫂人の背中を胸の辺りでしっかりと受け止め、再び開こうとする瀟洒な造りの扉の奥から悠然と透が姿を現した。
「これは皆さんお揃いで。今日はまた何のご用ですか」
 仰向けに唖然として自分を見上げる弟を身体で受け止めたまま、透が余裕の表情で囲みの顔振れを見渡して見事な営業スマイルを決めると、またしても立て続けにフラッシュが焚かれた。先程とは比べ物にならないくらいマイクが何本も差し出され、我先にとレポーターが前に出る。
「新しい恋人出現という噂についてのコメントをお願いします!」
「そちらの方が噂のお相手ですか?!」
 投げ付けられたとんでもない質問に櫂人の顔は痙り、桐生こと早渡透は愉快そうに声を上げて笑った。
「まあ、それはご想像にお任せしますよ」
「バッ……バッカやろッ! ちったあ否定しろってのッ!」
 櫂人は透を怒鳴り付けると後ろから支えるその手を振り払い、好奇の目を向けてくる取材陣に向かって学生証を時代劇の印篭のように突き出した。
「俺は弟! 芸能レポーターならコイツの本名ぐらい知ってるだろ!」
 取材陣が一斉に掲げられたものを覗き込む。
 その国立大学の学生証には早渡櫂人とあった。早渡というのは桐生の本名だ。彼らは櫂人と桐生を見比べる。
 年も随分離れているし、ぱっと見の印象も大分違うが、良く見れば櫂人と透は面差しが似ている。
 大抵の場合はこれで誤解が解けるはず。
 櫂人がほっとしたのも束の間、身内と確信した取材陣は、今度は櫂人に対して矢継ぎ早に質問をぶつけてきた。
「お兄さんの新しい恋人について一言!」
「会ったことはありますか?!」
「どんな人?!」
「今回の騒動についてお義兄さんは何と?!」
 そんなこと俺が知るかと怒鳴りたかったが、何とか良識と忍耐でそれを抑え込み、辛うじて怒鳴らずに声を張るだけで言い捨てる。
「そういうことはそこにいる本人に聞いてください! 俺、彼女待たせてますから!」
 彼女という部分を最大限に強調して人込みを掻き分け、櫂人は恐ろしい勢いで足早にその場を離れる。

 だから、アイツと表に出るのは嫌なんだ!

 櫂人の兄、早渡透は俳優だ。
 桐生と言えば当節小学生でも知っている。当たり役が銀縁眼鏡の冷徹なインテリヤクザという敵役専門の所謂二枚目俳優で、デビューして此の方、主役及び準主役級のポジションで数え切れない程の映画やドラマに出演していた。
 その兄に男子学生と援助交際しているとの噂が立ち、あろうことか養子縁組という名の入籍までしてしまったのがここ数年の出来事。それらが派手に報じられただけでも身内としては肩身の狭い思いをしているのに、以来、新しく誰かと共演する度に芸能マスコミの話題に上る。しかも、本人の行状からして当然と言うべきか、噂の相手はすべて男だった。
 俳優が一々共演するたびに誰かとくっついていたのでは切りがないと櫂人などは思うのだが、インタビュアーがマイクを向けても本人がはっきり否定しないので、ワイドショーではいつも言われ放題だ。
 桐生には、相手を煙に巻いて反応を愉しむという少々困った性癖があり、そのせいで事ある毎に櫂人は多大な迷惑を被っているのだった。
 駐車場に辿り着き車に乗り込むと、櫂人は携帯を確かめた。
 予定時刻を過ぎている。いろいろと計画が狂ってしまった。
 一つ息を吐き、雑念を振り払って気持ちを切り替えると、櫂人は車を出した。
 彼女を待たせていると言ったのは嘘ではないのだ。

 ◆

 日曜の公園は混んでいた。
 やっと見つかった狭い空きスペースに苦労して車を止めると、櫂人は駐車場を突っ切って足早に公園の入り口に向かった。
 約束の時間は過ぎている。もう中で夏乃が待っているはずだ。
 早くに両親を亡くし、年の離れた兄と二人で家事の一切を分担してこなしてきた彼女はしっかり者で時間には喧しい。急がないとまた「自分から言い出しておいて週に一度のお勤めに遅れるとは何事か」と小言を言われるに違いなかった。
 夏乃とは高校からの同級で、大学のキャンパスも同じだからほとんど毎日顔を合わせている。
 が、一般に、付き合っている若い男女は休日でも顔を合わせたがるもの。
 だから日曜日は余程の都合がない限りデートのフリをするのが高校の頃からの二人の習慣だった。
 だが、そういった関係を続けるのもそろそろ限界に来ている。
 ある決心を胸に、櫂人は公園に足を踏み入れた。

「遅いよ、早渡。十五分遅刻」
 待ち合わせの場所「命の大樹」に着くと、案の定夏乃がその小柄な身体で腕を組み、仁王立ちして櫂人を迎えた。
 午後の青天の下、樹齢数百年の緑の大樹と芝生をバックにした小さいけれど毅然としたその姿は、出雲のスクナヒコナか、でなければアイヌ神話に出てくるコロボックルの化身のようだ。
「しょーがねえだろ。マンションに寄ったらレポーターに捕まっちまったんだから」
「あ。もしかして迎えに来てくれたんだ。言ってくれたら待ってたのに」
「前触れなしに行って驚かせようと思ったんだよ。せっかくの新車だしさ」
「え、何? 車買ったんだ」
 顔を顰める櫂人を見て夏乃は笑った。
「カッコつけて。やりつけないことしようとするからだよ」
 どうやら機嫌は直ったらしい。
「でも、どこに隠れてんだろね、ああいう人達って。あたしが出たときには何ともなかったけど」
「青葉は女だからどうでもいいんだろ。見ても誰だかわかんないだろうし」
 桐生の相手は男と相場が決まっている。また、そうでなければ彼らにとってはネタにならないのだ。
 嫌なことを思い出して櫂人の眉間に皺が寄る。
「また相手の男と勘違いされるし。俺のどこがゲイに見えるってんだよ、くそっ」
 苦り切って悪態をつく櫂人を見て、けらけらと他人事のように夏乃が笑った。
「せっかく付き合ってるフリまでして彼女確保してんのにね」
 兄の一連のゲイ騒動のお蔭で、櫂人はその身内の自分までもが世間から色眼鏡で見られていることを知った。取材陣に度々兄の相手の男と勘違いされるのはそれだけでも迷惑千万だったが、ヘタをするとそのときの映像がテレビを通じて全国に流れるかもしれないのだ。それは自分の名誉のためにも断じて看過できなかった。
 夏乃と付きあうフリを始めたのも、元はと言えばワイドショーの取材で例のごとく勘違いされた櫂人が、その場に一緒に居合わせた夏乃をカメラに向かって彼女だと宣言したことがきっかけだった。当初夏乃は乗り気ではなかったが、身内になったこともあり、頼み込んで現在も彼女のフリをしてもらっている。
「ったく、毎回毎回いい迷惑だぜ。水樹さんがいるくせにやりたい放題しやがって、あのバカ」
「けど、兄さんも透さんも普通にしてて変わったとこなんてなーんもないよ。芸能記者の言うことなんて当てにならないんじゃないの?」
 現在兄達と同居している夏乃は、当然顔ぐらいは毎日合わせるし、二人の様子についても櫂人よりはずっと詳しい。
 だが、櫂人は敢えて反論した。
「表面上は平静にしてても心の中じゃ鬱屈が溜まってることだって世間じゃよくあることだろ」
「水樹兄さんはそんなじめじめした性格じゃないから。それに、あの二人って本当にそういう仲なの? 兄さんは確かに学資援助受けてたみたいだけど。あたしにはそうは見えないけどなー」
「じゃあ、一体どんな仲なんだよ」
 櫂人は夏乃を睨付ける。
 兄のこととなると、とことん反抗的で興奮しやすくなるのは櫂人の欠点だ。
「大体、男女の仲のことなんて、まあ、この場合は男同士だけど。青葉にわかんのかよ。お前って、キスもしたことないだろ」
「し、失礼なっ!」
「んじゃ、あんのかよ?」
 櫂人は夏乃に探るような視線を向ける。
「うっ。それは……っ」
 兄達のことがあって親しくなったのは高三の頃だが、それ以前に夏乃が誰かと付き合っていたとは到底思えなかった。正直なところ、夏乃には女の色気というものがまったくない。
「それみろ」
 櫂人が決めつけると夏乃は幾分拗ねたように上目使いで櫂人を見る。
「未経験で悪かったな。自分は中古のくせして」
「中古って……お前な。昔のことをいつまでもゴチャゴチャ言うなよ。未経験だから悪いなんて誰も言ってないだろ」
「んじゃ、何」
「……だから、」
 櫂人は僅かに顔を背ける。
「……喜んでるんだろ?」
「は?」
 不意に一歩踏み込むと、ほとんど直角に近いぐらい腰を屈めて、櫂人は夏乃の唇に自分の唇で軽く触れた。
 その間、モノの一秒ほど。
 が、夏乃の反応はない。自分の身に何が起きたか理解すらしていないようで、櫂人が離れてもそのままの姿勢で完全に固まっている。
「青葉……?」
 心配そうに覗き込まれてゆっくりと一回瞬きをした夏乃は、次の瞬間櫂人を思いきり突き飛ばした。
「わあーっ!? いいい、いきなり何すんだ、このバカあッ!」
「ってぇな。そんなに驚くことないだろ……。俺達付き合ってんだし」
 心外そうにぼやく櫂人に夏乃は激昂して畳み掛ける。
「付き合ってるフリだろ! フリっ! ちっくしょう……よくも人のファーストキスを……!」
 手の甲でぐいと唇を拭うと夏乃は櫂人を睨み付けた。
「本気でもないくせに、気まぐれでそういうことするヤツは最低最悪だ! 恥を知れ! このバカッ!」
 滅茶苦茶に振り下ろされた夏乃の腕を片手で受け止め、櫂人が顔を顰める。
「相変わらず鈍い女だな」
「何だとおっ!? 乙女の操を奪っておいて何だ、その言い種は!」
「操って何だよ。まだそこまではしてないだろ。……まあ、いずれは予定してるけどな」
「なっ?! 何てこと言うんだ、この男は……! いけしゃーしゃーと!」
「ちっ。ここまで言ってわかんねえのかよ……」
 軽く舌打ちすると櫂人は溜め息混じりにまたぼやく。
「ったく、何でこんな鈍い女に惚れちまったかな……」
「……は?」
 今、何テオッシャイマシタカ?
 意外そうにぽかんと口を開ける夏乃の顔。
 最初からわかっていたことだが、やはりコイツは相当鈍い。特に、こと色事に関しては。
「だから」
 櫂人はあらぬ方向を向いて、ちらりと視線だけ夏乃に向ける。
「本気で付き合ってくれって言ってんの。恋人になってくれって言ってんだろ」
「ちょっと待て!」
 告白しても夏乃の怒りは収まらなかった。それどころか益々エスカレートして櫂人を困惑させる。
「言ってないぞ! 言ってないだろ?! 大体最初っから彼女のフリしてくれって話だったし!」
「るっせーな。だから今言ってんだろ、今!」
「遅いよっ! そんなことキスする前に言えよ! 明らかに順番間違ってるだろ!」
 目尻に涙を溜めて怒り狂う夏乃を見て櫂人は気まずそうに一旦口を噤む。
「……泣くほどのことなのかよ」
「泣いてなんかない! なんか、悔しいだけだっ」
 泣いてるだろう、と顔を背ける夏乃を見て思ったが口には出さずにおく。また余計な怒りを買いそうだ。そんなことよりも、今はもっとはっきりさせておかなければならないことがある。
「そんなに俺のこと……嫌いか。そりゃ好きでもない女を自分の都合のためにナンパしまくってたのは、さすがにアレだけどさ。だけど、今は……」
「違う。そんなこと言ってんじゃない」
 夏乃は櫂人に背中を向ける。
「じゃ……何だよ」
「気分的に大違いだろ。好きでもないのに遊びでキスされたと思うのと、自分のこと好きだって言ってくれる人にキスされたのとでは。ファーストキスだぞ。バカ……!」
「悪かったよ……」
 背を向けたままの夏乃の言い分を聞いて櫂人は溜め息を吐く。高校時代あれだけいろんな女と付き合ったにもかかわらず、結局自分は女心というものをちっともわかってないらしい。
「でも、それじゃ……青葉は俺のこと嫌いじゃないんだな?」
 念のために聞いてみると夏乃はゆっくりとこちらを振り向いた。
「嫌なら彼女のフリなんてとっくに止めてるよ。女は嫌な男の側になんか一分一秒だっていたくないんだから」
「そうなのか?」
「そうだよ」
 夏乃としては、経験豊富な櫂人が未だに手を出してこないのは自分に対してはそういう気がまったくないからだと思っていたのだ。それでもずるずると彼女役を続けてきたのは櫂人と一緒にいたかったから。
 それなのに今頃告白してこのバカは、せっかくの幸せなファーストキスを永遠にふいにしてしまったのだ。
 これが怒らずにいられようか。逃がした魚は大きい。
「じゃあ、やり直すよ」
 櫂人の無神経な言い様に、夏乃の収まりかけていた怒りがまた沸点を超える。
「やり直すって、ファーストキスは二度ないからファーストキスなんだぞ! だから怒ってんじゃないか!」
「今のはバードキスだったろ?」
「え?」
 意表を突かれて夏乃はきょとんと櫂人の顔を見返した。
「あれが初めてなら当然ディープの方もしたことないよな?」
「う……。そりゃ……ないけどさ」
 な、なんて恥ずかしいこと言うんだ、この男は!
 櫂人の今の一言でかっと血が上り、顔だけのぼせたように熱くなっているのが自分でわかる。
「青葉……」
「ちょ……、そ、そんなに近付くな……!」
 ゆっくりと確実に迫ってくる櫂人から逃れるように徐々に後退り、夏乃は後ろの大樹に追い詰められた。櫂人の手が伸びてきて夏乃の頬に触れる。
 いつもは不機嫌面が多いから何だが、間近で良く見ると櫂人はやはり色男だ。
 目は切れ長で睫毛は長いし鼻筋も顎のラインも男らしく整ってる。さすがはあの桐生の弟で、朱雀高の逆ナン王だっただけのことはある。
 言えば櫂人は怒るだろうが、芸能レポーターが勘違いして騒ぎ立てるのも夏乃には何となくわかるような気がした。
 映して画になるか、ならないか。要するに、見栄えの問題なのだ。
「……何考えてるんだ?」
「いや、早渡って色男だなー。さすが元タラシだなーって……」
「あのな……」
 櫂人は呆れて夏乃を見ると、思い直したように珍しく自信満々に笑った。
「ま、いいや。その元タラシの実力を見せてやるよ」
 櫂人の顔が近付く。
 何だか目のやり場に困って夏乃はぎゅっと目を瞑った。
「バカ。そんなに固くなんなよ。やりにくいだろ」
 口調とは裏腹な温かい指先が、頬を伝って唇の方へゆっくりと下りてくる。
「そ、そんなこと言ったって……」
 いつものように口答えした途端、僅かに開いた唇を割って櫂人の熱い舌が滑り込んできた。しばらく戯れに軽いキスを繰り返す。少し息苦しくなって夏乃が離れようとすると、櫂人は夏乃を抱き締めて更に深く求めてきた。強く吸われる感触に胸の辺りが痺れたようにきゅんと収縮して、頭の中が真っ白になる。
 途端、膝から力が抜けた。がくんと真下に頽れそうになるのを櫂人が慌てて両腕に力を入れて持ち堪える。
「な、何だよ?! どうしたんだ?」
「ごめ……なんか、全然力入らない……」
「大丈夫か……?」
 櫂人は夏乃の顔を覗き込む。
 何だか、ぼうっとして放心状態に近い。結構いろんな女とキスしてきたが、こんなふうに腰が抜けてしまうヤツは初めてだ。
 もっとも、櫂人の方でも自分から夢中になってキスしたのは夏乃が初めてだった。
 櫂人はナンパをしまくっていた時期はあったが、その間好きな女と付き合ったことは一度もなかった。キスも特に自分からしたいと思ったことはなく、いつも請われるままに適当にしていた。そういった意味では櫂人にとってもこれは画期的なファーストキスだったのだ。
 しかし、結果は……。
 これはもう喜劇としか言い様がない。
 夏乃は膝どころか腕にも力が入らないらしく、しがみつくことも出来ずに全体重を預けてくる。夏乃とはかなり体格差のある櫂人でも全身で受け止めなければ支えきれなかった。扱いあぐねた櫂人は思い切って夏乃を両腕に抱き上げた。
「ななな、何すんだ? お、下ろせ……恥ずかしいだろっ……」
「お前今骨無し状態だからこの方が楽なんだよ。そこのベンチまでだ。我慢しろ」
 抗議の声にも普段の勢いがない夏乃を少し先のベンチまで運び、櫂人は弛緩した身体をそっと座らせた。背凭れに凭れさせると首がくたりと後ろに落ちそうになるので隣に座った自分の肩に預けさせる。
「……お前ってさ、全然免疫ないんだな」
「……決まってるだろ……。ファーストキスだって言ったじゃないか。も、やり過ぎなんだよ……」
 半分涙声で気怠く零す夏乃が可愛くてもう一度キスしたい衝動に駆られたが、さすがにこの場は自重する。
「俺は普通にしたつもりだけどな……。青葉がこんなに弱い体質だとは思わなかったよ」
 反応があるのはうれしいが、限度というものがある。
 この先これ以上のことをしたらどうなってしまうのか。何だか心配になってくる。
「こんなんじゃこれからどっか行くなんて無理だな。歩けるか?」
「……なんか、まだ駄目そう……。上半身はさっきよか少しはマシなんだけど。足腰に力入んない……」
「じゃ、車まで負ぶってくよ。駐車場すぐそこだからな。ほれ、負ぶされ」
 櫂人はベンチに腰掛けたまま夏乃に背を向けた。その背中にくたりと倒れ込むように夏乃がしがみつく。
「……ごめん」
「いいさ」
 勢いを付けて立ち上がると、櫂人は肩口の夏乃の顔をちらりと見た。
「こっちもまあ、いろいろと悪かったよ。だけど、これから外はNGだな……」
「何が……?」
「ディープキス」
「バ、バカっ! なに恥ずかしいこと言ってんだ!」
「バカじゃねえだろ。俺にとっては切実だぞ。する度にこんなじゃ少しは考えねえと」
「つ、次もこうなるとは限らないだろ?!」
「おっ、前向きな発言だな。試してみるか?」
「バカ言うなっ! こ、こんなとこでっ」
「したいのかそうじゃねーのか、どっちなんだよ」
 櫂人がぼやくと背中の夏乃は黙り込んだ。
 代わりに肩口に当てられた夏乃の頬が少しだけ熱くなったような気がした。

 ◆

 マンションに着くと、ラッキーなことに透は外出していなかった。
 玄関まで出てきた水樹が櫂人の背中でくたりとしている夏乃を見て目を見開く。
「どうしたんだ、夏乃」
「うん、ちょっと貧血みたい……」
 夏乃が適当に誤魔化すと、取りあえず櫂人に上がるよう促して水樹は心配そうに夏乃の顔を覗き込む。
「今まで一度もこんなことなかったのに……。でも、顔色は悪くないか。横になる?」
 水樹が問うと夏乃は曖昧に笑って首を横に振った。
「ううん。いいよ、そこまでしなくても。力入らないだけで、別にどこも痛くないし、気分が悪い訳でもないから」
 夏乃の顔色をしばらくじっと見守って、大事ではなさそうだと判断したのか水樹はほっと息を吐いた。
「じゃあ、ソファでちょっと休もうか。悪いけど櫂人君、そのままこっちへ」
 櫂人は黙って夏乃をリビングまで運び込む。
 人柄の良い水樹に余計な心配をさせてしまうのは心苦しいが、お宅の妹さんにディープキスしたら腰が抜けましたなんてとても言えない。
 そうでなくとも保護者を気取る透に弱みを握られているのだ。夏乃の実の兄水樹を味方につけるためには余程慎重に行動しなくてはならない。非の打ち所のないほど完璧に段階を踏み信頼を得なければならないのだ。嫁入り前の娘ならぬ妹に怪我をさせたり、ある日突然出来ちゃいました等と報告することは論外だった。
 いや、そんな先のことよりも。
 今は当面の問題として、キスの件をどうにかしなければならないのだが。

 ソファに下ろされると夏乃は羽織っていたカーディガンを脱ぎ始めた。
 背骨に力があまり入らないためもたついていると、見兼ねた水樹が手伝い始める。
「ごめん、兄さん。ついでに靴下も脱ぎたいんだけど……」
「靴下って、パンスト?」
 さらりと水樹が口にした言葉に傍で見ていた櫂人がぎょっと固まる。
「ううん。今日はパンスト履いてないよ」
「そっか。それじゃ問題ないな」
 水樹は躊躇うことなくソックスを脱がせてしまうと、夏乃を見上げた。
「洗濯物畳んであるんだけど、どこに仕舞えばいい?」
 ソファの一番端、バルコニーに近い方に洗濯済みらしいハンカチとタオルが何枚か重ねてあった。どれもサクランボやイチゴ、花柄などのカラフルなものばかりだ。
「ええと。タオルは大きい箪笥の一番上の、左の引出し。ハンカチも一緒になってるから」
「一番上の左の引出しね」
 笑って復唱し、タオルの山とソックスを手に水樹が廊下の向こうに姿を消すと櫂人がぽつりと口を開いた。
「お前と水樹さんて、いつもあんな会話してんの?」
「あんなって?」
「いや、だから……その」
 パンストと口に出せずに櫂人が口篭っていると廊下の向こうから水樹の声がした。
「夏乃!」
「なあに?」
「タオルどこかな。左の引出しにはパンツとブラしか入ってないけど?」
 再び櫂人がその場に固まる。
「ごめん、隣だ。右側! 入ってない?」
「あった」
 聞いている方が気を使うような遣り取りをぽんぽんと交わすと、程なく手ぶらになった水樹が戻ってきた。
「ちゃんと入れてきたから」
「ごめん、間違ってたね」
 夏乃が謝ると水樹は笑った。
「前は大体どこに何があるかわかってたんだけど、もう人の部屋のことはわからないよ。こういう時はちょっと困るね」
「……俺、帰るわ」
 唐突に櫂人が口を開くと夏乃が振り向いた。
「え、もう帰るの?」
「せっかく来たんだから、一緒に夕飯食べていきませんか? 夏乃が迷惑を掛けたからそのお詫びに」
 慌てて引き止めようと水樹も櫂人を見上げてくる。
「それまで夏乃と話でもしてたらどうかな。デートを中断してきたんだし、二人で話したいことだってあるよね」
 邪気というものが一切ない水樹の顔を見て櫂人はぼんやりと思い返す。
 何だか、前にもこんなことがあったような気がする。
 あれは初めてこの二人のアパートに行ったときだ。やはり今と同じように自分の居場所がないような気がして逃げるように部屋を出た。
 あの時はまだ夏乃を好きだという自覚はなかったが、こうして改めて兄妹仲を見せ付けられてみれば、告白した今も状況は以前とまったく変わってないような気がする。
 結局、夏乃にとって一番の存在は兄の水樹なのだ。
 ここから一歩前進するには、約二十年かけて夏乃の中で培われてきたその価値観を櫂人自身が覆さなければならない。
 だが、しかし――。
 たった一人の肉親であり親代わりでもある、透とはまた違った意味で何でもこなせるこの完璧な夏乃の兄貴を、果たして自分は超えることが出来るのだろうか。
「あの……櫂人君?」
 困惑気味に見上げてくる水樹の顔を真剣な面持ちで睨んだまま、櫂人は黙って考え込む。
 最早ディープキスの一件など頭の中から消え去っていた。
 やっと告白して両思いになったと思ったのも束の間、櫂人はまたもや難題を抱え込んだのだった。

 

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Fumi Ugui 2008.06.26
再アップ 2014.05.21

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