◆
目覚ましの音で目が覚めた。
水樹は枕元の時計を手に取り、時間を確かめる。
五時四十五分。
いつもより少し早いのは夏乃の具合を確かめるためだ。
結局昨日は調子が戻らぬまま、夏乃は風呂にも入らず早々に寝てしまった。
本人は貧血だと言っていたが、水樹が知る限り夏乃は貧血になったことなど一度もない。それにあの症状は貧血と言うよりは極度の興奮や恐怖等のショックで腰が抜けてしまった状態に近かったような気がする。帰ってきたときの二人の様子もどこか不自然だった。
もう夏乃も大学生だ。
櫂人とは毎週デートに出掛けるような仲なのだから、まあ、いろいろとあるのだろう。その辺りを追及して咎め立てする気は水樹にはなかった。
けれども、原因が何にせよ、今日も具合が悪いようなら病院に連れていかなければならない。
水樹がトイレから出て、まだ薄暗い廊下にふと目をやると、浴室に続く洗面室のドアが細く開いて明かりが漏れ出していた。
昨夜浴室を最後に使ったのは自分だ。
消し忘れたのかと思い、ドアに近付いた水樹は声もなくその場に固まってしまった。
目に飛び込んできたのは女の裸体。
肩の滑らかな曲線と瑞々しい円やかなお尻が、明るい照明の中でこちらを向いている。
女の人? 誰? ウチには女はいないのに――。
僅かに開いたドアの隙間に固まって、混乱したまま彷徨う水樹の視線が室内の鏡を掠める。そこに映った少女の顔。
――夏乃だ。
そう認識した瞬間、爆発的に心臓の鼓動が高まった。
反射的に目を逸らす。だが、脳裏に鮮やかに焼き付いた生々しい像はなかなか消えてくれなかった。加えて下半身の思わぬ反応が追い撃ちをかけ、水樹を酷く困惑させる。
中でドアを開閉する音がした。どうやら夏乃が浴室に入ったらしい。
水樹はなるべく静かに、だが、速やかにドアを閉める。
刺激は去ったが昂ぶりはまだ収まらなかった。心拍は収まってきたが、集まった熱はなかなか冷めていく気配がない。
水樹はひとつ大きく息を吐く。
油断していた。こんなに朝早くから夏乃が浴室を使うなんて。
改めて洗面室に足を踏み入れる勇気はなく、取りあえずキッチンで顔を洗うが、まだ落ち着かない。仕方なく、風にでも当たろうかとバルコニーへ出る。
遥かに下界を望む、早朝の屋外はまだ涼しかった。
サンダルを突っ掛けて手摺りのところまでやってくると、水樹は白亜のそこに両腕を乗せ身体をぴたりと張り付けた。外気で一晩冷やされた手摺りが寝間着越しの肌にひんやりとして気持ちいい。それでも燻り続ける内部の熱を持て余し、水樹が切なく溜め息を吐くと、背後から低く声が掛かった。
「朝からこんな所で何をしているんだね?」
水樹が慌てて振り向くと、開け放たれた窓際にきちんと着替えを済ませた透が立っていた。寝起きのため前髪は下ろしているし声も少し掠れているが、どんなに朝が早くても人前ではいつもの透なのはさすがだ。
「お、おはようございます。透さん……」
「おはよう。君がこんな所でぼうっとしているのは珍しいな」
「いえ、あの、少し頭を冷やそうかと思って……」
物干し竿を潜って手摺りのところまで出てきた透は怪訝そうに水樹を見ている。
水樹は場所を変えようと思ったが、思い直した。
男同士なのだから、こういう時どうしたらいいのか相談に乗ってもらえるかもしれない。
背後を振り返り、夏乃がいないことを確認してからおずおずと口を開く。
「……実はあの、さっき夏乃の裸を見てしまったもので……」
透が瞠目する。
口にしてしまったものの、やはり恥ずかしくて水樹は思わず俯いた。
正直自分でも驚いている。今まで夏乃に女を感じたことなどなかった。二人で暮らし始めた頃はまだ子供だったし、初潮を迎え中学高校と上がっても発育が今一つの夏乃は体型が少年と大して変わらなかった。夏乃のAカップやパンツを洗って干していても別段何とも思わなかったのだ。
「でも、さすがにその……直に中身の方を見てしまうとインパクト違いますよね……。いつの間にかちゃんと女性の体付きになってましたし……。覚悟もなしに突然目にしてしまったものだから、身体が勝手に反応しちゃって……」
水樹は大きく溜め息を吐く。
「なるほど。だが、それは自然な反応だな」
「そうでしょうか」
情けない顔で手摺りから顔を上げると、水樹は透を見上げた。
その視線を静かに受け止め、透はまるで大学で講義をしているかのように淡々と応じる。
「年頃になると、どこの家庭でも男と女で部屋を分けるのは何故だと思うね? まあ、そういうことだよ」
「はあ……」
それでもまだ顔を赤くして切なそうにしている水樹を見て透は僅かに目を見開いた。
「もしかして、君は経験がないのか? 自分で慰めたことも……?」
「え、あ……。そ、それはその……」
水樹の慌てた様子で察した透は苦笑を漏らした。
透自身あまり早熟な方ではなかったが、自分の養子がこれほど晩稲だったとは。
「まあ、これまでの状況を考えるとそれどころではなかったか……。私が何とかしてやれるといいのだが、さすがにそれは出来ない」
「とっとととととと、とんでもないですっ!」
真っ青になって慌てて首を横に振る水樹を面白そうに眺めて透は笑った。
「君はコンドームは持っているか?」
「い、いえ……」
透は水樹を自分の寝室に連れていくと、ベッド脇のナイトテーブルから小さなパッケージを一箱を取り出して与える。
「大人の男の身だしなみだ。取っておきたまえ。まかり間違ったとしても、夏乃君を妊娠させたくはないだろう?」
「そ、そんなことは……!」
透の冷徹な一言に水樹の中の浮ついた熱が一気に引いていく。
「少しは落ち着いたかね?」
「は、はい。ありがとうございます……」
小箱を握り締め、僅かに青ざめた面持ちで水樹は透に深々と頭を下げる。
「まあ、何にしても多少の経験は必要だよ。数をこなせばいいというものでもないがね」
「おい、兄貴。何で朝っぱらから誰もいねえんだ――」
いきなりドアを開けて入ってきた櫂人は、ダブルロングのベッドの傍らに佇む透と寝間着姿の水樹を見てその場に固まった。揃って二人が振り向くと、わなわなとその身を震わせる。
「テ、テメーら……。やっぱそういうことだったのかよ……」
「え?」
櫂人の視線を追って自分の手元に目をやった水樹は、慌てて首を横に振った。
「い、いや、櫂人君! それは誤解だから!」
「るっせーよ。そんなもん持って言い訳すんな! 透! テメーもテメーだ! 朝っぱらから寝室なんかに人引きずり込んでんじゃねえよ!」
ヒートアップする櫂人を尻目に透は涼しい顔で応える。
「朝っぱらから人の寝室にノックもせずに入ってくるから見たくもないものを見る羽目になるんだ。自業自得だろう」
「青葉迎えに来たら誰もいねえから取りあえずテメーの部屋から探そうとしたんじゃねえか!」
「ええと、夏乃なら今シャワー浴びてるからもう少し待っててくれないかな」
「え、シャワー……?」
話の流れを変えようと水樹が口を挟むと櫂人は不意に大人しくなった。
何を想像したのか急にそわそわしだした櫂人を見て、透がいい機会だとばかりに釘を刺す。
「櫂人。夏乃君と付き合うなとは言わないが、取り返しのつかない間違いは起こすなよ。傷つくのは女性の方だからな。何なら、お前も持っていくか」
透がナイトテーブルの引出しからもう一箱パッケージを取り出すと櫂人は顔を顰めた。
「間に合ってるよ」
窺うようにちらりと水樹の顔を見てから透を睨む。
「水樹さんの前でそういうこと言うなよ。気まずいだろが。いいよな、自分は。どれだけやりまくったって、そういう心配だけはねえんだから」
「たっ、たたたたたたた櫂人君!?」
「もう少し口を慎まないか。品のない」
軽く眉間に縦皺を寄せ、やれやれと透が溜め息を吐いたところで怪訝そうな声がした。
「何騒いでんの?」
背後から唐突に声を掛けられ、櫂人の大きな身体がぎくりと固まる。
「いや、何でもないよ」
期せずして男三人の返事が揃う。現れた夏乃が櫂人の陰になっているのを幸い、透はさりげなくナイトテーブルの引出しを閉め、水樹は手にしたパッケージをそっと後ろに回した。
三人三様の微妙な空気に、風呂上がりでタオルを頭から被った夏乃は小さく肩を竦める。
「変なの。何か良からぬ相談でもしてたんじゃないの?」
「何でもねえよ。男同士の話をしてただけだ」
「ふうん?」
櫂人が適当に誤魔化すと、夏乃は脇から櫂人の顔を見上げて一言決めつけた。
「スケベ」
「なっ!? 何で俺の顔だけ見て言うんだよ! この場にいた三人とも同罪だろ!」
「日頃の行いの差だな」
透が失笑すると、
「さ、そろそろ朝ご飯にしようか」
ベッドの脇に置かれた時計に目をやって水樹も皆を促す。
「櫂人君も一緒に食べていって。パンとサラダぐらいしかないけど、朝食まだだよね?」
◆
「……で、こんな時間からこんなとこで早渡は何してんの?」
部屋を出てエレベーターに乗り込むと夏乃は櫂人を見上げた。
「何って……」
結局水樹の誘いを断りきれず、兄のマンションで朝食を一緒に取ってしまった櫂人は、きまり悪そうにそっぽを向いてからぼそりと答える。
「昨日の今日だからさ、まだ調子戻ってないかと思って。そうやって歩いてるところを見ると大丈夫なのか?」
「うん。一晩寝たら戻ったみたい」
夏乃がいつもの軽やかな身のこなしで元気にエレベーターを降りると、ふわりと風が薫った。
「……? なんかいい匂いするな」
「昨日お風呂パスしたから今朝入ったんだ。ボディソープの匂いじゃない?」
「……そっか。ま、せっかく迎えに来たんだ。一緒に乗ってけよ」
バスルームでの夏乃を想像しただけでまた昂ぶってきそうだったが、そこは深呼吸をして自分を抑えエントランスを出る。
こんなところで妄想ばかり先走ってる場合ではない。まず当面の問題としてキスの件をなんとかしなければ、その先へは進めそうにないのだ。
いや、待てよ。
駐車場までの道のりを歩きながら櫂人はふと考える。
逆に考えれば、ディープキス一つで青葉は身動き出来なくなる訳だから、逃げられることもなく後が楽に……。
いやいや。その考え方は不健全過ぎるぞ、櫂人。
浮かんだ考えを櫂人はすぐさま撤回した。
それじゃ酒に薬を仕込んで集団レイプするような連中と同じ発想ではないか。好きな女に無理矢理じゃ、仮にも伝説のタラシの名が廃る。
「何ぼーっとしてんの? 送ってくれる気があるなら車出したら?」
夏乃の声に我に返ると、とっくに自分の車の前に来ていた。
「あ、ああ。悪い」
慌ててドアを開け、夏乃を助手席に乗せると櫂人は車を出す。
「あのさ」
マンションの敷地を出てしばらくすると、前方を見たまま夏乃が口を開いた。
「昨日はごたごたしてて言い忘れてたけど、あたし今日合コン行くから」
すぐさまウインカーを出し、車を路傍に急停車させた櫂人は夏乃に向き直った。
「何で合コンなんかに出るんだよ!」
俺がいるのに、という咽喉まで出掛かった台詞は辛うじて飲み込む。昨日まではあくまでも彼女のフリだったのだから、そこは文句を言えた義理ではない。
今にも噛み付きそうな櫂人の剣幕に、だから言いたくなかったんだとばかりに夏乃が顔を顰める。
「しょうがないだろ。急に欠席者が出て人数足りないって言われたら。こっちの事情が変わったからって今更ドタキャンも出来ないし。ホントはあたしだってヤだよ」
「どこの連中とやるんだよ」
櫂人がイライラと尋ねると夏乃はあまり気がない様子で、少し思い出すようにする。
「確か、青龍大の運動部有志の人達だって聞いたような……」
青龍学院大学は私立の名門だ。体育学部が有名で、オリンピック選手なども多数輩出していた。
「運動部有志って何だよ。ラグビー部有志とかアメフト部有志とかじゃねえのかよ」
「知らないよ。いろんな部やサークルの集まりなんじゃないの?」
どちらにしても合コンに喜々として参加する時点で女目当ての連中に決まっている。夏乃一人で行かせたくなかったが、まさか櫂人がついていく訳にもいかない。
良識に則り、櫂人は無理矢理自分を納得させる。
「わかった。何時頃に終るんだ? 迎えに行くから、時間になったらすぐ出てこいよ」
「わかったよ。心配性だな」
「あったり前だろ。心配しない方がいいのかよ」
不機嫌そうに櫂人が目をやると、夏乃は照れたように口篭る。
「そりゃ……してくれた方がうれしいけどさ……」
ほんの一瞬だけ夏乃の表情を見守って、櫂人はシートベルトを外した。
「え、なに……?」
きょとんとしている夏乃の唇に自分の唇で一瞬だけ触れて素早く離れる。一拍遅れて夏乃が首まで真っ赤に染まった。
「なな、何すんだ! 朝っぱらからっ!」
「いいだろ、一回ぐらい」
シートベルトを閉め直し、薄紅色に染まったまま抗議する夏乃を無視して櫂人は車を発進させる。
「こっちは百回したってまだ足りねえぐらいなんだ。ケチケチすんな」
バードキスを無限に繰り返したところで、ディープキスにはちっとも満たない。
「ひゃ、百回って。バッカじゃないの!」
欲求不満の櫂人のぼやきと呆れ果てた夏乃の抗議を乗せて、車は朝の通勤ラッシュに合流していった。
◆
新宿駅の構内を出ると藤本が話し掛けてきた。
「ごめんね、青葉さん。彼氏いるのに急に代役頼んじゃって」
「しょうがないよ。やっぱ上京組だけじゃ不安だもんね」
地図を片手に、目指す居酒屋を探して歩く小柄な夏乃の後を、他の三人もきょろきょろしながらカルガモの子供のようについてくる。
東大側のメンバーは教養課程で知り合った女子ばかり五人。夏乃を除いて全員が上京して間もない地方出身者だった。
本当はメンバーの一人が都内の出身で、今回の合コンのお膳立ても全部していたのだが、あろうことか、その彼女が数日前にはしかで入院してしまったのだ。
セッティングは既に完了しているのだから中止にするのは勿体ない。けれども残された地方者だけでは心もとない。そこで急遽白羽の矢が立ったのが夏乃だった。
「まあ、地元出身って言っても、こういう場所に詳しいわけじゃないんだけど。合コン自体初めてだし」
夏乃のテリトリーは下町だ。夜の新宿には縁がない。
「こっちはもう、山手線と私鉄の区別も歌舞伎町と新宿の位置関係もわかんないから」
「土地勘があるだけでもホント頼もしいよ」
「東京の電車ってさ、種類多すぎだよね。路線図見てても訳がわかんないもん」
夏乃は小さく溜め息を吐く。
確かに路線図の見方もわからないような輩を放っておくのはかなり不安だ。
この合コンに夏乃がついて来たのは正解だったのに違いない。
「あ、あれじゃない?」
道路を隔てた向こう側、藤本の指の先に目指す居酒屋の看板が大きく出ていた。
居酒屋「黒船」は間口は狭いが独立した三階建ての建物だった。一階が一般客用のスペースで二階から上が予約席になっている。
夏乃達が一階の受付の指示に従って二階へ上がると正面の小さな座敷の前に「青龍大運動部有志様」と張り紙があった。中を見ると、既に青龍大のメンバーが揃っていて席に着いていた。
中の一人が夏乃達を認めてにこやかに声を掛ける。
「あ、もしかして東大の人達? こっちです。どうぞ入って」
運動部有志というだけあって、青龍大のメンバーは皆大柄だった。櫂人や透ほどではないが、水樹の身長は優に超える。皆こういう席には慣れているようで、要領よく料理を運ばせ、飲み物を注文していく。合コン自体も青龍大側の幹事の進行でスムーズに進んでいった。
夏乃の目の前に座った男は蘇我と名乗った。アメフト部と言っているが、片方の耳にピアスをしていてスポーツ選手にしては違和感がある。
隣では他の子達が、負けたら罰ゲームにビールを一口飲むという趣向のあっち向いてホイをしながら盛り上がっていたが、夏乃はあまり楽しい気分にはなれなかった。
どうも、この目の前の男が好きになれない。
人当たりも柔らかいし、目の前で無遠慮にタバコを吸うわけでもない。特に嫌なところはないのだが、優しすぎる猫撫で声がどうにも夏乃の神経を逆なでする。他人と比べるのはよくないが、普段から櫂人のぶっきらぼうな口調と不機嫌面に慣れすぎているのかもしれなかった。
蘇我は愛想よく笑いながら夏乃のビールが減るたびに新しく注ぎ足してきた。
夏乃は酒類を本格的に飲むのはこれが初めてだった。自身の限界もわからない。それでも注がれるままに飲んでいては切りがないことはわかりきっていたから、ビールは苦くてあまり好きではないと断ると、
「じゃあこれは。これなら甘いから飲みやすいよ」
蘇我は自分のリュックの中からブランデーのボトルを取り出して勧めてくる。
新しいコップに注がれた奇麗な琥珀色の液体に少しだけ口を付けてみると、確かにビールよりは甘くて飲みやすい。
一人勝手に盛り上がる蘇我の話を適当に聞き流しながら、夏乃がブランデーを少しずつ舐めていると、足下にコップが転がってきた。
何気なくそれを拾い、元の位置に戻そうとテーブルの上にふと目をやると、いつの間にか注文していないはずの日本酒、ワインやウイスキー等の洋酒のボトルが乱立していた。ビンの中身はすっかり空けられている。すぐ脇では藤本がテーブルに突っ伏していた。
「藤本さん……。ねえってば……」
どうやら藤本は酩酊しているようで、夏乃が揺すっても何か意味不明なことを二言三言呻くばかりでまともな反応がない。他の子達も同様で、気が付けば、こちら側で意識を保っているのは夏乃一人だけになっていた。
ここに至って夏乃は初めておかしいと思う。
五人いれば一人、二人酒に弱い体質の人間がいてもおかしくはないが、大した時間飲んでもいないのに全員が正体をなくすほど酔い潰れるというのは尋常ではない。
「そろそろ場所を変えようか」
運動部有志のメンバーが立ち上がり、眠っている子達をそれぞれに抱えて立ち上がらせる。全員体格がそれなりに良いため彼女達を支えるに何の造作もなかった。
「そうだな。カラオケにでも行って盛り上がろうか」
ぐらつく身体を蘇我に支えられ階段を下りながら、夏乃はますます不信感を覚える。
他の子達は自分では立っていることも出来ず、全員男達に抱えられる格好だ。夏乃自身、辛うじて自力で立ってはいるがあまり頭も身体もうまく働いているとは言えない。こんな状態で他へ行って盛り上がるもないだろう。介抱するとか休ませるとか、他に優先すべきことがあるはずだ。
男達が会計を済ませ、店の外に出たところで夏乃はいつまでも自分に馴れ馴れしく触っている蘇我の手を、覚束ない動作ではあるが振り払った。
「おっ? 元気だなあ。どうしたんだよ」
先程までとは違い蘇我はぞんざいな口調になっていた。
「……帰る」
踵を返して、隣で他の男に支えられている友人に声を掛けようとする夏乃の腕を、背後から蘇我が掴んで引き戻した。
「待ってよ。何か気に障った?」
そのままくるりと夏乃の向きを変え、蘇我はにこやかに見下ろしてくる。
嫌な笑顔だ。
櫂人の不機嫌面の方がずっといい。
「可愛いなあ、君。小っちゃくってさ」
酔いでぐらつく頭をしゃんと保ち、その場に仁王立ちすると夏乃は蘇我の目を見据えて言い放つ。
「おべんちゃらいらない。皆を放してよ」
恐れ気もなく真っ直ぐに見上げてくる夏乃の目を見て蘇我はニヤリと笑った。
「気が強いとこなんかも、すげー俺のタイプ。征服したくなるよ」
店から出てきた夏乃達を見て、先程から路傍に停車して車の中から様子を窺っていた櫂人は携帯の時刻を確かめた。
予定の時間より三十分も早い。
不審に思ってよく見ると、どの女も既に酩酊状態で、やたらと体格のよい男達に抱きかかえられている。自力で立っているのは夏乃だけだが、その夏乃にもにやけた男が張り付いてべたべたしていた。酔っているのか男の手を振り払おうとする夏乃の動作もいつもと比べて緩慢だ。
不穏な気配を察知して櫂人が車から降りたところで、男が再び夏乃の腕を掴んだ。そのまま振り向かせて、その小さな身体を抱き竦める。
瞬間、櫂人の中で何かが切れた。
「青葉ッ!」
ダッシュと同時に一声叫ぶと、弾かれたように夏乃が反応した。
すぐさま強かに相手の股間を蹴り上げたかと思うと、ラグビー選手並みの俊敏な動きで捕まえようとする男の手を掻い潜る。
「早渡!」
「大丈夫か、青葉! 何かされたのか?!」
転びそうに走ってきた夏乃をぶつかる勢いで抱き止め櫂人が問うと、夏乃は櫂人に縋り付き鳩尾の辺りに顔を埋めて泣きわめいた。
「キ、キスされた……! ちっくしょう……気持ち悪いよぅ……」
「なっ!?」
櫂人は前方の男を射殺す思いで睨み付ける。
「あの野郎ッ……!」
――俺だってまだ一回しかしてないのに!
あのにやけた顔を一発ぶん殴ってやりたかったが、夏乃を放ってはおけない。
「それでお前、大丈夫だったのか……?」
暴漢共への怒りと同時にふとした疑問も湧いた櫂人だったが、夏乃の方は今それどころではない。飲んで暴れたせいで酷く酔いが回り、顔色が真っ青だ。
「……ううっ。気持ち悪いよ……早渡ぃ……」
「わかった。とにかく、どっか入って洗面所を借りよう」
周りを見ると人が寄ってきていた。店舗の前での騒ぎに「黒船」のスタッフも様子を窺いに出てくる。
櫂人の剣幕に恐れをなしたのか、邪魔が入ったことでことで動揺したのか、男達は既に浮足立っていた。女達を路上に放り出し仲間同士で揉めている。
誰かが呼んだのだろうパトカーや救急車のサイレンの音が響く中を、洗面所を求めて二人は騒ぎからは反対方向へと歩き出した。
◆
前後不覚に入った洗面所で散々吐き、青を通り越して白くなって出てきた夏乃は、櫂人に促されるままにベッドに横になった。
酔いと初対面のよく知らない男にキスされた生理的嫌悪でまだ気分は優れなかったが、ふと見ると天井に大きな鏡がある。鏡に映った自分の寝ているベッドはかなり大きくて何故か淡いピンクのハート型をしていた。
「……どこ、ここ……?」
「所謂、ラブホテルってやつだな。飲むか?」
櫂人が差し出したペットボトルのミネラルウォーターをいらないと断って、夏乃は首だけを巡らせて辺りの様子をぼうっと眺める。特大サイズのベッドと天井の鏡で部屋の大部分が占領されていることを除けば特に変わったところのない普通の部屋だ。
「ラブホ……。初めて見た。……中こんなふうになってんだ。よくお金あったね……」
「一番安い部屋空いてたからな。休憩だし」
「ふうん……詳しいね。さすが元タラシだ」
「お前……危機感ねーな」
櫂人はベッドの端に腰掛けて、無防備に転がっている夏乃の顔をじっと見た。
「……何が?」
酔いのせいで頭が働いてないのか、単純に鈍いのか。夏乃はぼうっと櫂人の顔を眺めている。
「お前に告白した男と二人切りでラブホにいるんだぞ」
夏乃はけらけらとおかしそうに笑った。
「こんな動けない女相手にしたって面白くないっしょ?」
「甘いな、青葉」
櫂人はベッドに上がると、夏乃の顔を上から覗き込む。
「男の性欲ってのはそんなハンパなもんじゃねえよ。例えばさっきのヤツらだって、正体無くした相手でもいいと思うからああいう強硬手段を使ってんだぜ? ましてや俺は……」
櫂人の手が夏乃の髪を掻き上げ頬をそっと撫でる。
「お前のこと好きなんだからさ。相手が俺なんだって認識できるだけの意識がありゃそれで十分だよ。……な、してもいいか?」
「……いいけどさ」
思わぬ返事にドキリとして櫂人の手が止まる。夏乃はじっと櫂人の顔を見て先を続けた。
「でも、今やったら確実に吐くと思う。まだちょっと気持ち悪いし……」
「ちぇ、駄目かー……」
櫂人は夏乃の頬から手を離すと隣にごろりと横になった。
「そこまで考慮に入れてなかったなあ……」
「何だよ……。最初からそのつもりだったのかよ……」
「前に言ったろ。いずれは予定してるって。……そんなことより青葉さ、」
「何?」
「キスされたって言ってたろ? それって、ディープ?」
「……う゛っ」
夏乃は顔を背け両手で自分の口許を押さえ付けた。
「……やなこと思い出させんなよ……。せっかく気分直りかけてたのに……」
「……悪い。けどさ、ディープなら何で逃げてこられたんだ? お前動けないはずだろ」
「え、何でって言われても……。とにかく、あの時は気持ち悪くて怖くて必死だったし……」
もしかしたら、夏乃が腰を抜かすのは櫂人限定なのかもしれない。
キスした後で急所を蹴飛ばされるのと腰を抜かされるのとではどっちがマシなのだろう。
複雑な気分で櫂人は聞いてみる。
「それじゃ、俺の時は?」
「え?」
「俺とキスしてる時はどんな感じ?」
「早渡の時は……んー……頭んなか真っ白になって……」
普段なら耳にしただけで怒るような質問にあっさりと答える夏乃はやっぱり酔っているのだと櫂人は思う。
「……鳩尾の辺りがきゅーっとして……なんかこう、ふわふわって身体が浮く感じ……かな。……あ、……やば……」
「どした? 気持ち悪いか?」
心配して覗き込むと、どうやら、そうではなかった。
目を閉じた夏乃は僅かに眉を寄せ顔をのけ反らせて、うっとりとした表情だ。睫毛が小刻みに震えている。
普通キスしている間は相手の表情は見えないが、もしかして夏乃はこんな顔をしているのかもしれない。
じっと観察していると、うっすらと目を見開く夏乃と視線が合った。
「やだ、見んな……」
慌ててそれまで大の字に無造作に投げ出していたスカートの脚を閉じ、夏乃は真っ赤になって顔を背ける。
「お前、もしかして……」
櫂人は起き上がると夏乃の腰を抱えて自分の方に引き寄せた。閉じた太股の間に手を滑り込ませる。
「やだっ……!」
「感じてんだ……」
「ち、ちが……」
「違わねえよ。女は感じるとどんどん溢れてくるんだ……」
夏乃は赤面したまま何も言えなかった。そういうことは夏乃自身よりも櫂人の方がよく知っている。
「青葉……。俺、やっぱもう限界……。抱いてもいいか?」
「……う、いいけど、は、吐くぞ……?」
櫂人は小さく笑った。それはもう牽制としては役立たない。
「いいよ、吐いても。後始末は全部俺がするからさ……」
櫂人が耳元で低く囁くと夏乃は黙って目を閉じた。
Fumi Ugui 2008.07.04
再アップ 2014.05.21