◆
新橋のその料亭は裏小路に入ったところにあった。
一見街並みに溶け込んだ何の変哲もない、簡素な低い塀と垣根に囲まれた伝統的な日本家屋で、表には料亭であることを示す看板の類いは一切ない。
小さな門を潜り、玄関と思しき落ち着いた佇まいの格子の引き戸を開けると、正面に円い障子窓をあしらった白壁があり、その左脇に板の間の廊下が奥へと続いていた。右手にも同じように廊下が続いている。その右手奥から四十絡みの女が姿を現して、丁寧に二人を出迎えた。
「まあ、早渡先生、ようこそ」
「女将、お世話になります」
透が会釈をして微笑むと、女将はその隣で緊張している水樹ににこりと笑顔を向けて奥へと促した。
「さ、どうぞ、お上がりください。先程から屋敷先生が首を長くしてお待ちですよ」
女将が先に立って案内を始めると水樹はそっと辺りの様子を窺った。
外の佇まい通り、内部も余分なものが一切ない洗練された日本家屋だ。廊下の奥に夜空を背景にした箱庭のような日本庭園がちらりと覗いて見える。先程から微かに三味線の音が聞こえていた。
「透さん……こんなところにも出入りしてたんですか……」
一見さんお断り。
そんな高級な料亭に足を踏み入れたことはもちろん水樹にはない。
「駆け出しの頃に屋敷先生に連れてきて頂いてね」
慣れない場所に緊張しながらも唖然とした面持ちの水樹を面白そうにちらりと一瞥すると、透は思い出したように先を行く女将に声を掛けた。
「女将。紹介が遅れましたが、こちらは水樹といって、新しく出来た私の息子です。こういう場所は初めてですから、いろいろと教えてやってもらえるとありがたい。よろしく頼みます」
「まあ、それはそれは」
女将は立ち止まり、水樹に向き直ると愛想よく微笑み掛けた。
「早渡先生……いえ、桐生様にはいつもご贔屓にして頂いております。水樹様も、これを機会にどうぞご贔屓に」
「い、いえ。僕はまだ学生の身分ですから。こちらを利用するなんてとても……」
恐縮した様子の水樹を見て透が仄かに笑むと女将も柔らかく笑みを浮かべた。
「まあ、真面目な方だこと。どうぞ卒業なさってからいらしてください。いつまでもお待ち申し上げておりますよ」
女将に案内されて透が座敷に姿を見せると既に席に着いていた屋敷が相好を崩した。
「おお、透君。遅かったな」
「お約束の時間通りですが、先生」
透が笑みを漏らすと気持ちよさ気に大笑する。
「ははは。いや、君が噂のご子息を連れてくるというから期待しすぎて待ちくたびれてしまってな」
還暦手前の屋敷は有能な弁護士だが子供のような好奇心の持ち主だ。
障子の陰が気になって、そわそわと如何にも待ちきれない様子の屋敷を見て僅かに苦笑すると、透は後ろを振り返った。
「水樹、こちらが私が昔お世話になっていた屋敷先生だ」
透に促されて障子の陰から屋敷の前に出ると水樹は深々と頭を下げる。
「屋敷先生、はじめまして。水樹です。どうぞよろしくお願いします」
「やあ、君が水樹君か」
屋敷は水樹の顔を見ると満足そうに微笑んだ。
「噂は聞いてるよ。うん。東大理三に優秀な成績で合格したそうだね。さあ、遠慮しないで上がりたまえ。透君、君もだ。大きな身体でそんなところにいつまでも突っ立っていては店の者の邪魔になる」
促されて座敷に一歩足を踏み入れると、透は後ろに控えた水樹と共にその場に端座する。
「屋敷先生。この度は私共の勝手な申し出を快く引き受けて頂き、ありがとうございます」
透と水樹が揃って畳みに手を突いて頭を下げると屋敷は笑った。
「ああ、こんなところでそんな四角四面な挨拶は抜きにしよう。どうも君はお父さんに似て堅苦しくていかんなあ。なのに芝居となると何であんな演技が出来るのか、まったく不思議でたまらんよ」
透に向けて一度大仰にやれやれと首を振り顔を顰めてみせてから、屋敷は水樹に目を移す。
「彼のことも、君のところで四年も助手をしていたのならウチのバイトとして何の不満も不足もないよ。うん」
透はその端整な面を上げると会心の笑みを浮かべる。
「彼の有能さは私が保証します。この春から法学を学び始めた櫂人よりずっと法令にも実務にも詳しいですよ」
「ははは。それは頼もしい。よろしく頼むよ、水樹君」
「はい」
水樹が温和な笑顔を見せて返事をすると、屋敷は手を振って二人を促した。
「さあ、二人ともいつまでもそんなところにいないで、ずっと奥に入った、入った。料理を頂こうじゃないか」
屋敷は気さくな気持ちのいい人物だった。
役者として駆け出しだった透が屋敷の弁護士事務所でバイトをしていたこと、大学で後輩だった透の父親の話などを冗談混じりに語って聞かせる。出会う以前の透のことはあまり知らない水樹にはどれも興味深い話ばかりだった。
あまり飲まない透の代わりにと上機嫌の屋敷に酒を勧められ、程よく過ごした水樹がやがて中座すると、屋敷は徳利を手に取って透に差し向けた。
「どうだね、君もひとつ。猪口に一杯だけなら何とかなるだろう」
「では、一杯だけ頂きます」
透が猪口を持ち上げると酒を注ぎ、屋敷はしんみりとした口調で話し掛ける。
「なかなかいい目をした青年じゃないか。君が惚れ込むのもわかるよ。うん。しかし、何でまた今まで通りに自分の手元に置いておかないんだね。可愛い子には旅をさせよということかね」
「私としては彼がバイトをしたいと言うのならそのまま助手として雇い続けるつもりだったのですが」
僅かに口を付け、猪口を戻して透は苦笑する。
「本人が、私の所でバイトを続けるのは小遣いを二重にもらっているようで嫌だと言って譲りませんので」
「ははは。そいつは真っ正直と言おうか、律義だな。今時珍しい」
気持ちよく笑って屋敷はひとり頷く。
「うん。まあ、ひとつ大事に育ててくれたまえ。医者不足と言われる昨今、志しのある若者は貴重だよ。一人前の医者になるには我々のように法曹界に入るよりも更に長い年月が掛かるからなあ」
「はい。それは元より覚悟の上です」
透は座敷の外に目をやると、庭の向こうに差し掛かった朧な月を眺めた。
「大樹を育てるには手間も時間も掛かりますから」
手洗いを済ませ、水樹が廊下を少し歩いて縁側に出ると、鹿威しのある小さな中庭を背景に月が出ていた。
霞が掛かって黄桜色をしたその月を、しばらく眺めてから地上に視線を戻した途端、くらりと眩暈を感じて水樹は僅かによろめいた。
――勧められるままに少し飲み過ぎてしまったのかもしれない。
気持ちが悪いというほどでもなかったので、しばらくその場に佇んで酔いを冷ましていると微かにタバコの臭いがした。
何気なく辺りを見回してみると、行く手の、ひとつ向こうの座敷の前に男が一人、縁側の柱に寄りかかるようにしてタバコを吸っている。水樹に気づくとタバコを口から離して声を掛けてきた。
「失礼。煙りがそちらに行きましたか」
水樹自身はタバコを吸わないが、気を使って座敷の外で吸っているものを敢えて咎め立てするほど過激な嫌煙家でもない。
「いえ。どうぞ、お気になさらずに」
水樹が温和に笑顔を返すと、いささか痩せ過ぎのその男は苦笑したようだった。照明が十分ではないうえに遠目で表情はよくわからない。
「優しい言葉が身に染みますな。このご時世、ヘビースモーカーは肩身が狭くていけません」
そろそろ座敷に戻ろうと思い、軽く会釈をして水樹がその脇を通り過ぎようとすると、男は再び声を掛けてきた。
「ここへは一人で?」
「……いえ。連れがいますが」
相手の意図を量りかね、水樹が訝しげに、それでも真っ直ぐに見返すと、座敷の障子から漏れる明かりの下、男は仄かに笑った。
「いい目をしてますね。……不思議なものでね。年月が経っても人間目許の表情はあまり変わらない」
話が見えず水樹が瞠目すると、今度は咽喉の奥で低く忍び笑う。
「そんなにじっと見詰められると照れてしまうな。でも、気に入りましたよ。君に興味が湧いてきた。後で飲みに行きませんか」
「え?」
水樹が目を見開くと、衣擦れの音がして男の背後から凛とした涼しい声が掛かった。
「比良坂さん、あまり若い人をからかうものじゃありませんよ」
一瞬、ふわりと香水ともコロンとも違うよい匂いが辺りに薫る。
比良坂の陰から現れたのは小柄な女性だった。
裾を引く藤色の着物に日本髪、三味線を手にしている。
所謂芸者というものを初めて間近で見た水樹はその艶やかな姿に茫然と見蕩れてしまった。
水樹のことを若い人などと言う割に自身もまだ若く、きりりとした印象の、日本髪の似合うすっきりとした顔立ちの美人だ。小柄ながらもその存在感は際立っていた。
「これは胡蝶姐さん。口説いている最中に割って入るとは、随分無粋じゃないかね」
吸い殻をケースに仕舞い込み、比良坂は薄く皮肉めいた笑みを浮かべる。そうすると目尻や口許に皺が寄って水樹が最初に抱いた印象より随分歳を取って見えた。透より少し上ぐらいに思っていたのだが、四十代、いや、五十代ぐらいにも見える。
「だって、こちらの方はまったくわかってらっしゃらないようじゃありませんか。騙し討ちで寝屋に連れ込むのは野暮のすることですよ。粋人の比良坂さんらしくもない」
「え、寝屋って……?」
水樹が比良坂を見返すと、胡蝶は溜め息を吐いた。
「ほうら。やっぱりわかってない。野暮ですよ、比良坂さん」
胡蝶に軽く睨付けられると、比良坂は苦笑して取り出した新しいタバコに火を付けた。
「これは、参ったな。今日はそんなつもりはなかったんだが……」
紫煙が尾を引いて縁側に漂っていく。その一部は水樹に纏わり付いて、さりげなく身体を動かしたくらいでは振り払うことは出来なかった。あからさまに手で払うわけにもいかず、水樹が困惑していると、
「水樹」
唐突に、よく通る独特の深みのある声が辺りに心地よく響いた。
発声による微細な空気の振動のためか、人が近付いてくることで風向きが変わったのか、水樹に纏わり付いて離れなかった紫煙が細かく千切れて霧散していく。
「透さん」
水樹が何となくほっとしてそちらを振り返ると、透はおもむろに近付いてきて水樹と他の二人を見比べた。
「こんな所で何をしているんだ? 屋敷先生をあまりお待たせするのは失礼だろう」
「すみません。ちょっと酔いを冷ましてたんです。今戻ります」
水樹が比良坂と胡蝶に軽く会釈してその場を後にすると、比良坂は透を見上げて笑みを浮かべた。
「ほほう。これはこれは。こんなところで桐生に出くわすとは。週刊誌の編集長としては僥倖としか言い様がないですな。すると、先程の好青年が噂のご養子という訳ですか。ああ、それとも、最近また騒がれている新しい恋人の方かな」
「失礼ですが、あなたは?」
揶揄のような質問には直接答えず透が穏やかに見返すと、比良坂は上着のポケットから名刺を一枚取り出した。
「いや、これは申し遅れました。僕は『週刊海潮』の編集長で比良坂といいます」
大手出版社が発行する『週刊海潮』は週刊誌の老舗だ。扱う内容も女性週刊誌やゴシップ週刊誌とはややスタンスが異なり、同社が発行する写真週刊誌とも距離を置いていた。
「では、息子さん……いや、恋人かな。まあ、何しろよろしくお伝えください」
自己紹介を済ませると他に何を話すでも聞くでもなく、比良坂はタバコをくゆらせながらゆっくりと遠ざかっていく。
その場に残った二人、透と胡蝶は黙ってその姿を見送った。
朧月夜の縁側は静かで、時折鹿威しの音が聞こえてくる外はひっそりとしている。
比良坂の姿が縁側を抜けて廊下の向こうに消えてしまうと胡蝶は傍らの透をちらりと見上げた。
「さっきの人があなたの大事な苦学生さんなんだ」
透は苦笑する。
「もう、苦学生ではないけどね。どうだい、君が見た感想は?」
胡蝶は少しだけ芸者島田の首を傾げて考え込むようにする。
「何だかとっても純朴そうね。如何にも人が良さそうだから、あんまり一人でこの辺うろつかせない方がいいわよ。心根のよくない海千山千にとってはいいカモよ。さっそくおかしなのに目を付けられてるし」
「さっきの男のことかい?」
「そうよ。もう、のん気なんだから」
胡蝶は一歩距離を詰めると、脇からスーツの袖を軽く引っ張ってほぼ真上を振り仰いだ。
「今世間を騒がせている誰かさんとは違って、海潮新社の比良坂編集長は真性のゲイって業界じゃ有名だもの。あなたも誘われないようにせいぜい気を付けたら?」
透は静かに目を見開く。
「……なるほど。今後は気をつけるとしよう。今日のところは君が引き止めてくれて助かったよ、胡蝶」
「ああ、もう……」
唐突に俯くと、うなじを手で押さえて胡蝶は溜め息を漏らす。
「あなたとこうして話していると首が痛くなるから嫌だわ」
「酷い言われようだな。では、積もる話は場所を変えてからにしようか」
透が低く笑って背中を向けると胡蝶も素知らぬ振りで裾を返した。
互いに振り向きもせず二人が遠ざかってしまうと、縁側は再び静寂に包まれた。
◆
月を朧に覆っていた雲は千切れて、月影がまだらに狭い間口の植え込みを照らしていた。
左褄で玄関の引戸を開けると、胡蝶は奥の座敷から鴨井にぶつからないよう身を屈めて出てきた男を認めて艶然と微笑む。
「あら。新しく誂えた紬を着てみたのね。よく映えてるわ」
胡蝶を出迎えた透はそのクールな印象の面を和ませた。
「座敷に出ていたから自分で着てみたんだが、おかしいところはないかな」
透の男振りを眺めて胡蝶がくすりと笑う。
「ないわ。すっかり着付けも板についてきたこと」
「座敷でくつろぐには着物が一番だからね。スーツのままだとすぐに膝が抜けてしまう。ああ、それは僕が預かるよ」
長い腕を伸ばし、胡蝶の手から三味線を取り上げると、透はそれを今出てきた座敷の三味線立てへとさっさと片付けた。
胡蝶が大仰に溜め息を吐いてみせる。
「相変わらず目の敵なのね。私の大事な商売道具なのに」
芸妓らしい胡蝶の恨みごとを聞いて、再び廊下に姿を現した透は僅かに苦笑を漏らす。
「君があれを抱いていると僕が君の膝を独占できないからね」
「三味線に妬くなんて、おかしな人」
上がり框から廊下に上がり擦れ違い様に透をちらりと見上げると、胡蝶は思い出したように低く笑った。
「そう言えば、また新しい恋人が出来たんですって?」
空いた右手で階段脇のマガジンラックに手を伸ばすと、一番上にあった写真週刊誌を透に差し出す。
「ああ、この写真はうまく撮れているな」
雑誌を手にした透はうっすらと笑みを浮かべた。
表紙を飾っているのは車のリアシートに並んだ桐生と若手俳優のツーショットで、「桐生に新恋人出現」と大きくリードがある。
「この時は結構な速度で走っていたはずなんだが、少しもぶれがない。秋庭君もなかなか男前に写っているじゃないか。『フォトスクープ』は腕のいいカメラマンと契約しているらしいな」
「いつものことだから今更驚きゃしないけど。嘘八百書かれてるっていうのに、のん気なものねえ」
呆れたように胡蝶が見上げると、雑誌をラックに返して透は笑った。
「こうしてマスコミに騒がれるのも悪いことばかりじゃないよ」
胡蝶の袖を引くと自分の腕の中へと抱き寄せる。
「お蔭でこうして君のところへいくら通ってもお咎めなしなんだからね」
胡蝶はほぼ真上にある透の顔をうち目守ると、そっと手を伸ばしてその端正な顎の稜線に触れた。
「ホントにねえ。どいつもこいつも見る目のない節穴持ちばかりだわ。こんなに身持ちが堅い男はどこ探したって滅多にいやしないのに」
「一番の節穴が血の繋がった実の弟、というのが情けないところだよ」
透が苦笑すると胡蝶は幼児の悪戯を咎めるように小さく笑った。
「あら、まだ怒っているの? 大人げないわね」
「身内に信用がないと思い知らされるのは案外衝撃が大きいものだよ」
「かわいそうね」
「慰めてくれるかい?」
低く囁くと、透は胡蝶の小柄な身体を軽々と持ち上げて階段の一段目に乗せた。その日本人形のような丹い唇にゆっくりと口づけを落とす。
しばらくしてからあっさりと身体を離して透は笑った。
「やっぱり、島田は邪魔だな」
「こんなところで、せっかちだからよ。取ってくるわ。それまで大人しく二階で待っててちょうだい」
階を下りて優しく微笑むと胡蝶は廊下の奥へと消えていった。
芸者島田を取って白粉(おしろい)を落とした胡蝶は、生成りの絣縞の着物にセミロングの髪を釵ひとつで纏めた姿で二階に現れた。
透がくつろいでいた八畳の隅から座布団を引き寄せて四枚ほど一列に並べると、一番端にきちんと座って絣縞の膝を整える。
「あれから学生さんはどうしたの?」
「タクシーを呼んで家まで送らせたよ。君の忠告をちゃんと聞き入れてね」
手にしていた湯呑みを座卓に戻し、並べられた座布団の上に横になると、透は胡蝶の膝に頭を預けて心地よさ気に目を閉じた。
開け放した窓から、軒に吊るされた季節外れの風鈴の、澄んだ涼しい音がする。
「胡蝶、君は水樹をどう思う?」
「どう思うって……」
胡蝶は透の額に一筋落ちかかった前髪を指先で優しく整えながら僅かに首を傾ける。
「料亭でも言ったと思うけど、擦れてなくて純朴そうで初心(うぶ)な感じかしら」
「……初心か」
透はうっすらと瞳を開く。
「それは女性にとっては魅力がないことなのだろうか……?」
「さあ、どうかしら。私はそうは思わないけれど。人によるのじゃないかしら。男にリードを求めるタイプとそうでないタイプとでは感じ方は全然違うわ。惚れちまったら、それだってアバタもエクボでしょうし」
「確かにそれはそうだが……」
考え込む様子の透を覗き込むようにして胡蝶が尋ねる。
「どうかしたの? やっと念願かなって養子に出来て、薔薇色の新生活じゃなかったの」
横にしていた身体を仰向けにすると透は胡蝶を見上げた。
「もちろん薔薇色さ。不満はないよ。ただ、どうやら僕の息子はまだ女性というものを知らないらしくてね」
「あら、そうなの。苦学生さんはいくつでしたっけ?」
「もう苦学生ではないよ」
透が苦笑すると胡蝶はにこりと笑った。
「あら、ごめんなさい。あなたの大事な水樹君はいくつだったかしら?」
「僕より六つ下だから、二十五、いや、まだ四だったかな」
「あら。私とそう変わらないのね」
驚いたように口にした胡蝶は何事か思い出したらしく、ふと笑みを漏らした。
「あなたもそのくらいまでは知らなかったんじゃなかったかしら」
「まったくね。他人事とは思えないよ」
透は珍しく悩める様子だ。
「何とかしてやれるといいのだが。こればかりは縁がないとどうにもならないだろうな」
胡蝶は袖で口許を隠すと低く忍び笑いを漏らした。
「妬けること。私の旦那にはなってくれないくせに、彼にはどんな援助も協力も惜しまないんだから」
「君はそんなこと望んではいないだろう?」
胡蝶は既に独立した置屋を持つ新橋一の売れっ子だが、芸妓として特定の旦那は持っていなかった。
「そうねえ。義理が出来ちまうと自由ではいられない。たとえあなたでもそれは嫌だわ。学生さんも多額の援助を受けるだけでも勇気がいったでしょうにねえ」
「わかっているつもりだ。それだけに責任があるよ。彼のことにしても夏乃君のことにしても」
「そんなに心配なの?」
「どうにも解せなくてね……」
親バカというものかもしれないが、透には水樹が未だに女を知らないことがどうにも納得出来ずにいた。
水樹は透に比べれば遥かに取っ付きやすい性格だ。外見も如何にも善良そうだし人柄も申し分ない。しゃれっ気はまるでないが、それが水樹の人間的な魅力を損ねているとは思えなかった。普通に考えれば、中学時代や短かった高校時代はともかく、社会人として八年も働いていてその間に水樹に好意を寄せる女性が一人もいなかったとは考えにくい。
今朝のことを思えば肉体的な問題を抱えている訳でもなさそうだ。
もちろん、これまで置かれてきた環境や、貞操観念が今時の若者にしては古風だということも関係しているのだろう。
だが、万事において、水樹は異性に対してあまり積極的ではないように見える。
「妹さんを密かに思っているということはないの? 血が繋がってないんでしょう?」
胡蝶の指摘を受け、透は僅かに考え込む。
「……さあ、どうかな。可能性はかなり低いと思うが……」
水樹の今朝の様子を見た限りでは、男としての本能的な肉欲よりは倫理的な禁忌の感覚の方が遥かに勝っているように思える。
「こればっかりは、僕では相談に乗ってやれそうにないよ……」
「随分弱気ね」
覗き込んでくる胡蝶を見上げて透は困ったように淡く笑む。
「色恋のことはわからないよ。運がいいことに、僕は失恋したこともないからね」
小さな子供をいとおしむように胡蝶が微笑んだ。その微笑みに誘われて透は柔らかな赤い唇に手を伸ばす。
「ディベートならどんな相手だろうと受けて立つし負けない自信もあるんだが、男女の駆け引きは本当に苦手だ。君と出会えたのは奇跡だよ」
「熱愛報道で常に世間を騒がせている桐生の台詞とはとても思えないわね」
「君の前では台詞は言わないよ」
透がうっとりと夢見るように微笑むと、胡蝶の優しい両手が透の頬を包み込み、赤い唇がそっと押し付けられた。
◆
「大丈夫か?」
車から降りて助手席のドアの前に回った櫂人は中の夏乃を覗き込んだ。
「うん。ちょっと身体重いけど……力が入らないことはないよ」
駐車場の外灯の下、多少気怠そうではあるが、自力で車から降りてくる夏乃を見て櫂人は溜め息混じりに呟いた。
「お前ってさ、つくづく変わってるよな」
「何が?」
「何がって……」
夏乃の鈍い反応に櫂人はほんの少しだけ眉根を寄せる。
「決まってんだろ。何でディープだけダメなんだよ」
「し、知らないよ、そんなの。仕方ないだろ。体質なんだから」
弱点を指摘され、焦ったように、且つ幾分不満げに尖らせる夏乃の小振りな唇を櫂人はじっと見詰める。
夏乃が酔っていて気分が悪かったことや初めてなことを考慮して、今日の櫂人はキスは軽いものだけに止め、ディープなものはしなかった。
本当は凄くしたかったのだが、我慢したのだ、ものすごく。
我ながらよく頑張ったと思う。この鋼の自制心を誰かに誉めてもらいたいぐらいだ。
「あー……。ディープキスしてえ……」
夜空を見上げて思わず漏らすと、夏乃が真っ赤になって抗議する。
「バ、バカっ。よくそんなこと口に出して言えるなっ。いいだろ、もう。その……したんだから」
「それとこれとは話が別なんだよ」
ぼやきながら櫂人が歩き出すと隣に夏乃の姿がない。振り返ると夏乃は半歩ばかり遅れてついてきていた。
「……どした? やっぱ辛いか?」
「辛いって訳じゃないけど、そんなに速く歩けないよ。……なんかさ、変な感じなんだ」
夏乃が僅かに恥じらった様子で俯くと、櫂人は半歩戻って子供を抱っこするように夏乃を高く抱き上げた。
「ななな、何すんだ! 下ろせっ」
じたばたと耳元で暴れる夏乃の足腰を落ちないようにぎゅっと両手で抱え込む。
「歩きにくいんだろ? エントランスまで結構あるから階段の上まで連れてってやるよ」
「バ、バカっ! 恥ずかしいだろ! こんなの誰かに見られたらどうするんだっ!」
朧月夜の月影の下、興奮した夏乃の喚き声が駐車場にわんわんと木霊する。
「おま……!」
櫂人は慌てて夏乃を下ろすとその口に掌で蓋をした。上から覗き込むようにして小声で軽く睨み付ける。
「大声出すなよ。夜中だぞ」
懐かしの大地を踏み締めた夏乃は顔を赤くしたまま櫂人の手を振り払った。
「動けない訳じゃないんだから、自分で歩くよ」
「だったら……ほら」
緩慢な動作で一歩を踏み出す夏乃の前に櫂人が手を差し出す。
「な、何?」
夏乃が見上げると、いつもの不機嫌面で見下ろしてきた。
「手ぐらい繋がせろよ。歩く速さ合わせるからさ」
「……うん」
夏乃が少し照れたように頷くと櫂人はその大きな掌で夏乃の小さな手を包み込んだ。指先にそっと触れて、ふと表情を和ませる。
「手荒れ……なくなってきたな」
「うん。毎日ハンドクリーム塗ってるからね」
夏乃の保湿用手袋を目にして事情を知った透が家政婦を雇うことを提案したのだが、夏乃はそれを断った。遠慮もあったが、実際あまり必要性を感じなかったのだ。マンションに引っ越してからというもの夏乃の家事の負担は随分軽減された。自動食器洗い機もあるし、水樹だって働いていた頃よりもたくさん手伝ってくれる。
「たまに透さんもディナーに連れてってくれるし」
「そっか」
他愛のない会話を交わしながら、エントランスまでの距離を二人はゆっくりと歩いていった。
「ただいま!」
「お帰り」
夏乃が帰宅すると、水樹がリビングでレポート用紙を広げていた。夏乃と一緒に現れた櫂人を見て不思議そうにする。
「あれ? 今日は合コンって言ってなかったっけ」
「うん。早渡に送ってきてもらった」
「そうなんだ。ありがとう、櫂人君」
水樹の邪気のない笑顔に一瞬後ろめたさを感じて櫂人は僅かに目を逸らす。
「まあ、その……遅くなるといろいろ物騒だからさ。それより水樹さん一人かよ。兄貴どうしたんだ」
もう十一時近いというのに透の姿が見当たらない。
「透さんは今日は泊まりだから」
水樹が答えると櫂人は眉根を寄せた。
「何だよ。講義終わってから屋敷先生のとこに一緒に出掛けたんだろ? もしかして、例の噂の相手と会ってんじゃないだろな。水樹さんほっといて何考えてんだ」
「い、いや、櫂人君。それっていろいろ誤解してるから。そもそも透さんが誰かと会ってたとしても僕的には全然問題ないし……」
櫂人を宥めていた水樹がふと動きを止めた。何事かと櫂人が怪訝そうに見返すと、夏乃と櫂人を不思議そうに見比べる。
「……何だか二人ともふんわりいい匂いがするね。シャンプーの匂い?」
「うん。お風呂入って来たから」
「え?」
夏乃の返事に水樹が目を見開く。
「ば、馬鹿……!」
「あっ……!」
櫂人に小突かれて自分の失言に気付き、夏乃が慌てて言い訳を始めた。
「あの、あのね。お酒飲み過ぎちゃって変な汗かいちゃったから、スーパー銭湯寄ってきたんだ。ねっ、早渡?!」
「お、おう。ついでだから俺も入って来たんだよな」
夏乃の話に櫂人も合わせるが、内心気が気ではない。
水樹はお人好しだが馬鹿ではないのだ。こんなその場凌ぎの適当な作り話を鵜呑みにする訳がない。
水樹はしばらく二人を見比べていたが、最終的に櫂人の方を見上げた。
「櫂人君、ちょっと」
視線だけを残し、促すように廊下の方へと向かっていく。
――さすがにこれはまずい。
水樹の視線にひやりとしたものを感じて櫂人は襟を正す。
如何に温和な性格の水樹と言えども、保護者としてここで一言もないなどということはあり得ない。
少しだけ心配そうな夏乃をリビングに残し、叱責覚悟で神妙に後をついていった櫂人は水樹の部屋に通された。
水樹は黙って部屋の隅まで行くと、箪笥の引き出しから何かを取り出して櫂人の方を振り向く。
「あの、櫂人君。よかったら、これ使って」
いつもと何ら変わらない柔和な表情で目の前に差し出された物は、今朝透の寝室で見掛けた小さなパッケージだった。
櫂人にそれを手渡して、水樹は少しだけ恥ずかしそうに笑う。
「僕やっぱり当分使うことないと思うし。それにこれ、サイズ合わないみたいだから……」
用を済ませ、部屋を出ていこうとする水樹を、我に返った櫂人が呼び止めた。
「え、ちょ……! どういうつもりなんだよ!?」
ドアノブに手を掛け、水樹が怪訝そうに振り向く。
「え、どういうって?」
夏乃との仲を公認するということなのか。
それとも、出来ちゃった婚は許さないと釘を刺されたのか。
思わず呼び止めてしまったが、さすがにそんなことを口に出して聞くのは躊躇われ、櫂人が言葉に詰まっていると水樹は困惑したように少しだけ首を傾げた。
「……ええと。僕は使わないから、使う人にあげた方がいいかなと思ったんだけど。もしかして、迷惑だったかな? 決まったメーカーのしか使わないとか……」
「い、いや。そんなことはねえけどさ……」
「だったら、遠慮なく使って。僕はまた自分で買うから」
ほっとしたような笑顔を残して部屋を出ていく水樹を見送って、櫂人はその場に立ち尽くす。
ふと、北風と太陽という使い古された比喩が浮かんだ。
容赦のない言葉で直接釘を刺してくる透が北風で、もちろん水樹が太陽だ。他意のない言動で人の良心を揺り動かしてくる。
櫂人がリビングに戻ると、ソファで水樹と一緒にテレビを見ていた夏乃がこっそり話し掛けてきた。
「ねえ、兄さん何て言ってた?」
「いや、別に何も……」
櫂人が曖昧に言葉を濁すと不思議そうにする。
「別にって……じゃあ、何しに行ったの?」
「何って……ちょっと、もらい物しただけだよ」
「もらい物?」
怪訝そうにしている夏乃をそのままにして、櫂人は脇でニュースを見ている水樹の横顔をじっと見る。
やっぱり、あの人は侮れない。
夏乃と名実ともに恋人同士になれた有頂天から、水樹に対する訳のわからない敗北感という名の奈落のどん底へ――。
ジェットコースターのように浮き沈みを繰り返す、悩みはまだまだ尽きない早渡櫂人、十八歳の春だった。
【完】
Fumi Ugui 2008.07.11
再アップ 2014.05.21