目には清かに

1.慰問サークル

「おーい、早渡! 慰問の行き先決まったぞー!」
 書店から出ようとしたところへびっくりするような大声を掛けられて透は立ち止まった。
 周りの客が何事かと辺りを見回す。
 バツの悪い思いをしながら一旦外へ出て歩道に目をやると、横断歩道を渡って谷口がこちらへやってきたところだった。
 大学はとっくに春休みに入っている。相手が誰なのか思い出すのに一瞬だけ時間が掛かってしまった。
「ここで張ってりゃ現れると思ったんだ」
 谷口は透の顔を見上げてにやりと笑う。
「お前は目立つから、わかりやすくていいや」
 折しも、立ち話している二人の脇を書店から出てきた女子高生が数人通り過ぎていくところだった。皆色とりどりのマフラー越しに透を盗み見ながら小声ではしゃぎ、囁き合っている。
 早渡透は東大生という通常イメージを何もかも覆すような存在だった。法科にはもったいないような、百八十センチは優に越える長身に加え、その甘さのない知的な印象の風貌は男が見てもちょっと感動するぐらいだ。
「わざわざこんなところで待ち伏せか? 一体いつからいたんだ。連絡ならメールですればいいだろ」
「まあ、そう邪険にすんなって」
 溜め息混じりの透の肩をぽんと叩くと、谷口は一歩下がってしげしげと改めて目の前の相手を眺める。
「なあ、お前さ。ホントに演劇やる気ねえ? その顔と、長い手足は舞台向きだと思うがなあ。声も深みがあって通りがいいしさ」
 最近学生の本分をほったらかして舞台演劇にはまっているらしい谷口の誘いを、
「どうせなら法廷向きだと言ってくれ」
 笑って透は軽くいなす。
 透の家は祖父の代から法律家だ。父も母も判事で今は地方に赴任している。透自身、将来法曹界に入ることに何の不満もなかった。既に司法試験にも合格し、卒業したら司法修習生になると決めている。
「今日は何の本漁ってたんだ? また判例集とかか?」
 谷口が透の手にした分厚い本屋の紙袋を見て顔を顰めた。
「よく飽きねえよな。ガッコでも家でも。俺もいずれあの試験受けなきゃなんないのかと思うと気が重いわ」
 反感を買うので口には出さないが、むしろ何故落ちるのかが透にはわからなかった。
 講義は一度聞けば大体頭に入るし、教科書も同様だ。六法全書も判例集もその他の参考書も全部日本語で書いてある。仮にも小中高と都合十二年も人一倍勉強してきたはずの人間に理解出来ない訳がない。意味のわからない単語や用語があれば専門書か辞書を当たればいいし、それでもわからなければ人に聞けばよいだけだ。
「お前はもう試験にも合格したんだからさ、もちっと他のことにも関心持って人生楽しんだらどうよ?」
 この上勉強するのがどうにも納得いかない様子の谷口の顔を見て透はうそぶく。
「だから、サークルに入ったんだろ?」
「そーいうんじゃなくてさ」
 谷口は長めの髪をぐしゃぐしゃと掻き回して透を見上げた。
「お前の場合それだって実益の方が勝ってんじゃん」
 その通りだ。
 と、内心透は頷く。
 透は自分が特にボランティア精神に溢れているとか、慈悲深いなどとは思っていない。
 目の前に老人や妊婦が立っていれば席を譲るぐらいのことはするし、ケガ人がいたら助けるが、それは社会的にそれが当然とされているからだ。正義感についても同様で、自分は当たり前に社会のルールに従い、当たり前にそれを受け入れて生きているだけだという自覚が透にはあった。そういった意味に於ては法の番人として適しているのかもしれないとも思っている。
 慰問サークルに入ったのも「そういった活動をしておいた方が弁護士になるにしても判事になるにしても心証がよい」という甚だ打算的な理由からだった。父の知り合いの弁護士が事あるごとにそう言っていたのを、谷口からサークルに誘われたときに思い出したのだ。
 それに司法試験に合格した今、透には大学を卒業するまでの残り一年間でしなければならないことは特になかった。ならば、心証云々の話は置いておくとしても、一度ぐらいはそういう体験をするのも悪くはないと思えた。
 将来弁護士や判事になるなら、社会的弱者に関する広い見聞や、福祉の現場に接する機会はないよりはあった方がよい。
「で、どこに行くんだ?」
「ん? ああ。さわらび学園って孤児院。何か私立の施設なんだとさ。最後の週の月水金と三日間」
「孤児院か……」
 慰問サークルに入ったのはつい最近のことだ。春休みを利用しようと思い立ってのことで、まだ一カ月も経っていなかった。今回が透にとって初めての慰問になる。
「どした。子供苦手か?」
「いや。ただ、普段あまり馴染みがないからどうかと思って」
 透には一回り年の離れた弟が一人いるが、普段からあまり構ってやっているとは言えない。聞き分けのよい弟なので、手間が掛かるという印象さえなかった。
「まあ、そう堅く考えんな。保育士じゃねんだから子供の世話をする訳じゃない。ただ、本とか紙芝居を読んで聞かせるだけだから」
 確かに、子供と遊びにいく訳ではないのだ。接する機会も限られる。
 朗読は得意な方だ。行けばなんとかなるだろう。
 そう結論付け、谷口とたわいのない世間話をしながら透は帰途についたのだった。

 

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Fumi Ugui 2008.03.01
再アップ 2014.05.21

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