目には清かに

2.春の庭先

「おう、何だ、何だ。今日はやけにチビども盛り上がってるなあ」
 持参の健康サンダルを上がり框に放り投げて素足につっかけると、青葉は面白そうに無精髭の顎を撫でた。
 三月のうららかな陽気の午後だというのに外にも出ず、廊下を子供達がばたばたと走り回っている。幼児から小学校中学年ぐらいまでを中心に五、六人の子供達が、入れ替わり立ち替わり一番奥の多目的室のところまで走っていって中の様子を窺っては、またこちらまで歓声を上げながら戻ってくる。中の数人が青葉を見つけて声を上げた。
「園長せんせー! 青葉せんせーきたー!」
「くまの先生きたよ!」
 わあわあと廊下を先触れが飛ぶ。間もなく奥の部屋から白髪交じりのふくよかな園長が出てきて、青葉に頭を下げた。
「まあ、先生。どうもすみませんねえ。来て頂いたのに騒がしくて」
「何かあったんですか」
 青葉が尋ねると園長は品よくにこりと微笑む。
「いえ、今日は東大の慰問サークルの皆さんが来てくれてましてね。これから読み聞かせをして下さるというのでこの騒ぎです」
「ほほう。東大ですか。そりゃあ豪勢だ」
 青葉は愉快そうに笑う。
「で、孝君の具合はどうですか」
「ええ、それが……」
 青葉が尋ねると園長は少し困ったように笑った。
「今日、午後から母親が面会に来る予定になっていたのが都合で来られなくなったと連絡があって……」
「なるほど。いつものあれかな」
「はあ。多分。今はもうそんなには痛くない様子で……」
「まあ、とにかく一度診てみましょう。部屋ですか?」
 園長に一応の確認をすると青葉は先に立ち、往診鞄を手にどんどん廊下を奥へと進んでいった。途中、廊下が左へ折れるところで多目的室から出てきた人影と危うくぶつかりそうになり、慌てて足を止める。
「おっと。こりゃ失礼。急いでたもんで」
「いえ、こちらこそ」
 相手は見上げる上背の青年だった。堂々とした体格の、彫りの深い、しかし浮ついたところのない知的な風貌で、美丈夫という言葉がしっくりとくる。およそ青葉が思い描く東大生のイメージとはかけ離れていた。
「すみません、お手洗いはどこでしょう」
 園長から場所を聞くと青年は会釈をしてそちらの方へと去っていく。
 その姿を見送って無精髭に手をやると青葉は感嘆混じりに一声唸った。
「ううむ。いるとこにはいるもんだなあ。あれも東大生だろう? 一瞬どこの映画俳優かと思ったぞ」
「本当にねえ。天は二物を与えるってことあるものです。水樹君もそうでしたけれど。元気にしてます?」
 園長が微笑んで懐かしそうに尋ねると青葉は笑った。
「ええ。そりゃもう。朱雀にも合格して張り切ってますよ」
「まあまあ。朱雀高校って言えば有名な進学校じゃありませんか。頼もしいこと」
「俺みたいな医者になるんだって、嬉しいこと言ってくれてます。アイツが医者になってくれりゃここも先々まで安泰ですよ。親バカですかな」
 熊のような髭面の男がてれたように頭を掻くのを見て、
「水樹君なら大丈夫です。優しい子でしたもの。きっと立派なお医者さんになりますよ」
 請け合うようにまたにこりと微笑むと、園長は廊下に出て騒いでいる子供達に声を掛ける。
「さあさあ。みんな部屋の中に入って、お行儀よく座ってちょうだいな。そろそろお兄さんやお姉さんのお話が始まりますよ」
「おっと。こっちも孝君を診なきゃな」
 子供達を追い立てる園長声を背中に聞きながら、青葉は勝手知ったる廊下を曲がり奥の子供部屋へと進んでいった。

 ◆

「おい、早渡。どこ行くんだ?」
 拍手に送られて控え席に戻ってくると、透はそのまま自分の席を素通りして部屋の出入り口へと向かった。
「少し外の空気を吸ってくる」
 素っ気無くそう言い置いて谷口に絵本を預けると出ていってしまった透を窓越しに見送って、茶パツの女子大生が心配そうに眉を顰め、小声で隣の席へと話し掛ける。
「えー? もしかして透先輩落ち込んでるのかなー?」
「子供相手じゃありがちなんだけど……」
 話し掛けられた方は軽く肩を竦めてから溜め息を吐く。
「早渡君にしてみれば、失態だったかもね」
 部屋の中央では子供達の拍手に迎えられ、次の読み聞かせが始まろうとしていた。

 午後の庭には冬場とは明らかに違う温かな日差しが降り注いでいた。
 庭先の藤棚にまだまだ緑はないが、敷地の境界に沿って植えられた桜にはもう花がちらほらと見える。
 透は藤棚の下のベンチに腰を下ろした。日影はまだ少し肌寒いが、頭を働かせるにはこのくらいの方がいい。
 建物の中ではまだ読み聞かせが続いていて、子供達の歓声が時折聞こえてくる。
 それを遠く耳にしながら、透は両手の指を組み、足下を見詰めてじっと考える。
 朗読は完璧だった。
 図書館で借りてきた児童図書、安寿と厨子王の物語。
 間違いもなかったし、途中で閊えることもなく読み終った。
 なのに、子供達の反応は薄かった。否、むしろ無視されたと言ってもいいくらいだ。
 よそ見をしたり、隣の子としゃべったり。透が読み聞かせをしている間子供達の私語が止むことはなかった。それどころか途中で寝転んでしまった男の子さえいたくらいなのだ。
 透よりも先に子供達の前に立った谷口や後輩の女の子達の時はそんなことはなかった。アドリブに気を取られ過ぎて話の腰が折れてしまったり、朗読がたまに引っ掛かったり、明らかな読み間違いがあっても、皆それなりに集中して聞いている様子だったのに。
 一体、彼らと自分で何が違うのか。
 透にはわからなかった。

「なかなか難しいもんだろう?」
 突然の声に驚いて振り仰ぐと、いつの間にか傍らに無精髭を生やした白衣の男が立っていた。
 先ほど廊下でぶつかりそうになった男だ。透を見てにやりと笑うと熊のような顎髭を撫でる。
「はあ」
 透は曖昧に返事をした。
 何が、とは聞き返さなかった。透が読み聞かせをしていたとき、この医者らしき白衣の男も園長と一緒に子供達の後ろの方で聞いていたのだ。園長は確か彼を青葉先生と呼んでいた。
「まあ、そう落ち込むな、東大生」
 青葉はぽんと気安く透の肩を叩くと、自分もベンチの隣に腰を下ろした。
「大人よりも、むしろ子供相手の方が難しいことは世の中多い。診察するときも宥めすかして機嫌を取りながらやらにゃあならん」
 視線を落とし、憮然としたまま透は答える。
「……人の話の途中で寝てしまう子がいるのには、正直驚きました」
 勉強にしてもスポーツにしても出来ないことはなく、いつも注目され一目置かれて当たり前に生きてきた透にとって、たとえ幼児と言えども無視されたことは看過できない衝撃的な出来事だった。大げさでなく、生まれて初めて直面した壁なのだ。
 顰めっ面の透を見て青葉が声を上げて笑った。
「ははは。子供は正直だからな。東大の権威は通用せんよ。まあ、孝君はいつも不調気味だしな。君はこういうことは初めてなのか?」
「はい。でも朗読には自信があったのですが……」
「朗読か。うーん」
 青葉は自身の無精髭だらけの顎を撫でて首を捻る。
「学校の授業でやる朗読とはちょっと違うかもしれんなあ」
 透は顔を上げて青葉を見た。
「授業の朗読はありゃ勉強だからな、間違えずに正確に読むことが第一だ。だがなあ」
 そこまで言って青葉は透に目を移す。
「読み聞かせというものには相手がある。相手を楽しませることが第一だ。君らは慰問に来たんだろ?」
 透は青葉の顔をしばしじっと見詰めると、また視線を足下に戻してぼんやりと相槌を打った。
「……そうですね」
「相手が楽しんでくれないとなあ」
 ベンチから立ち上がると、青葉は去り際にまた透の方を振り向いた。
「今度来るときは、あいつらの反応を見ながら読んでみちゃどうだ。何か新しい発見あるかもしれんぞ?」

 

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Fumi Ugui 2008.03.03
再アップ 2014.05.21

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