目には清かに

4.健康診断

 水曜日。透は入念に下調べをして読み聞かせに臨んだ。

 さすがの透もバレエ用に書かれた脚本をそのまま読んで聞かせたところで子供達が喜ぶだろうとは思っていない。
 慰問前日、自宅から一番近い図書館の児童書コーナーに数時間居座って『眠れる森の美女』とそれに類似する物語を読み漁った。
 結果わかったことは、作品によってそれぞれストーリーに違いがあるということだった。『眠れる森の美女』は元々ヨーロッパに分布する昔話の一種で、国や地方によってストーリーの細かい部分に違いがある。また、原形の伝承に近いものほど冒険と言えるような場面は少なく、後年に脚色されたアニメ版や舞台版などには王子の戦いの場面が好んで挿入される傾向があった。
 透は前の晩の櫂人の話や図書館にいた子供達の意見を参考に、王子と魔法使いの戦いの場面があるアニメ版の絵本を借りてきたのだった。

 ――そして、当日。

 私語はかなり減った。
 ページを捲る合間などに子供達の様子を見てみると、大部分の子供達はちゃんと透の方を見ている。
 どうやら最後まで興味を持たせることには成功したようだ。
 透は内心ほっとして控え席に戻る。
 ただ、前回寝転んでしまった男の子だけは今回も不調そうで、辛うじて寝転びはしなかったが始終俯き加減のままだった。
 彼の不調はその後も続き、とうとう一度も笑顔を見せずにその日の読み聞かせは終ってしまった。

 子供達のお礼の拍手に送られてサークルメンバーが全員廊下へ出てしまうと、谷口が声を掛けてきた。
「よ、早渡。今日は途中で外に出なかったな」
「人の読み聞かせもいろいろと参考になるからな」
 透が答えるとにやりと笑う。
「ほほう。やけに研究熱心じゃん。ま、アニメ版選んだのはいいとこ突いてると思うぜ。展開が派手だからな。退屈しねえし」
「成果は今一つだがな」
 透が窓越しに部屋の中に目をやると、それぞれにしゃべっている子供達の中で件の男の子だけがまだ俯いて憂鬱そうにしている。
「そう欲張るなよ。こないだよか随分マシになったろ? いくらお前でも一朝一夕でそう上手くはならねーって。努力は認める。ま、気を落とすな」
 ぽんぽんと背中を叩く谷口はやたら嬉しそうだ。
「何をにやついているんだ?」
 怪訝そうに透が尋ねるとますます嬉しそうに相好を崩す。
「いやいや。お前がやる気になってるのはいいことだと思ってさ。……お?」
 透から一転して廊下の遥か前方へと視線を向けると、谷口は逆光で薄暗い玄関先に立った人影に目を凝らした。
「ありゃ、この間もいた熊の先生じゃねーか?」

 青葉は右肩にアルミ製の角材のようなものを担いでいた。
 近付いてよく見るとそれは身長計で、反対側の小脇には何か小型の測定機器らしきものも抱えている。
「どうしたんですか、その荷物は」
 上がり框まで出迎えて身長計を受け取りながら透が尋ねると、青葉は笑った。
「おう、また来とったか。東大生。いや、今日はチビどもの健康診断でな」
 抱えていた測定機器と手に持っていた診療鞄を上がり框に下ろすと、透の顔を見上げて無精髭を撫でる。
「それでどうだ。お前さんの方は少しはマシになったか」
「はい。まだほんの少しですが」
「そうか、そりゃよかった。ところでな」
 青葉は目の前の身長計の支柱をぽんぽんと叩いた。
「使ってすまんが、東大生。こいつを先に例の一番奥の部屋まで運んでくれんか。俺はまだ下ろすもんが残っとるんだ」
 青葉が視線を投げた先に見えるのは一台の軽自動車。後部座席にまだどっさりと計測器機と思しきものが積んである。
「それはもちろん、やぶさかではありませんが……」
 透は少しだけ顔を顰める。
「その東大生っていうのは止めてください。僕には早渡透という名があります」
 透の抗議を聞くと青葉は如何にも愉快そうに声を上げて笑った。
「こりゃ失礼した。では、早渡君。そこの荷物を運んでもらえるかな」
「はい。よろこんで」
 長身の透が身長計を造作もなく持ち上げる。
「おう、さすがだな。天井に気をつけてな」
「んじゃ、俺らも手伝いますよ」
 谷口が靴を履いて外に出ると、
「おう。そりゃすまんな」
 谷口の後を追うように青葉も車の方に戻る。見ていた他のメンバー達もそれぞれに青葉を手伝いを始めた。

 

 測定機器を部屋まで運んでしまうと慰問サークルのメンバーは帰っていったが、透だけはその場に残った。
 何となく青葉の仕事振りを見てみたいと思ったのだ。
 そういう気持ちになったこともよくよく考えてみれば初めてのことだった。
 身内にさえ関心の薄かった自分の変化に多少の戸惑いは覚えるが、悪い気分ではない。
 学園の職員に混じり、青葉のちょっとした助手を務めながら、透はただただその仕事振りを眺める。
 挨拶程度に話し掛けるときも診察するときも、青葉はいつも子供達の目を見ていた。
 必ず正面から向き合って、相手の表情や態度をよく見ながら宥めたりすかしたり。機嫌が悪かったり泣きそうだったりする子供には全然関係のない話を織り交ぜたりして気を逸らせ、その隙に診察を終えたりする。その髭面に似せず青葉の対応は実に細やかだった。
 やがて診察は孝君と呼ばれている子供の番になった。
 まだ就学前の四、五歳の子供だ。このときも気分が優れない様子で、頭が痛いお腹が痛いと曖昧な症状を訴えた。青葉に錠剤をもらうと一応納得したように職員に付き添われて引き下がる。
 その後も辛抱強く子供と向き合い、すべての診察を終えてしまうと青葉は大きく伸びをして宣言した。
「よぉーし! 春の健康診断終り! 皆お疲れさん!」
「まあまあ、お疲れ様でした」
 タイミングを計ったように園長がお盆に湯呑みとお菓子を乗せて現れる。
「粗茶ですが一杯どうぞ。そちらの学生さんも」
「ありがとうございます」
 青葉に続き透にもお茶を配ると園長は思い出したように青葉を窺った。
「先生、孝君は」
「ああ。特に異常はありませんでした。取りあえず、いつものビタミン剤出しときましたから。また調子が悪くなったり、いつもと様子が違うようならいつでも遠慮なく呼んでください」
「本当にいつもありがとうございます」
 園長は深々と頭を下げると部屋を退出していった。
「そう言えば、前にあの子はいつも不調だとおっしゃってましたね。病気なんですか?」
 その辺にあった椅子を引き寄せて腰を落ち着け透が尋ねてみると、青葉は無精髭を撫で上げて少しだけ顔を顰めた。
「うむ。まあ、あの子にはちょっと事情があってな」
 脇の机に湯呑みを置くと、南に面した窓の外を眺めやる。
 外では春の穏やかな日差しの下、健康診断を終えた子供達が遊んでいた。
 しばし黙ってその風景に見入るようにしてから中の透に視線を戻すと、青葉はおもむろに口を開いた。
「この学園にいる子供達は、まあ、何というか、二種類にわかれる。身寄りのない所謂孤児と言われる子供達と、身寄りはあるが経済的な事情や家庭内の事情で一緒に住めない子供達だ」
 透は黙って頷く。実の母親によるネグレクトや、母子家庭に入り込んだ男が幼児虐待をする事件が跡を絶たないことは透も知っている。
「孝君の場合は後者でな。たまに母親が会いにくるんだが……」
 そこで青葉は口ごもり、言いにくそうにがりがりと頭を掻いた。
「すっぽかすことも多い」
 口に出してしまうと大きく溜め息を吐く。
「約束しておいてな、その日は来なかったり。直前になってキャンセルしたりな。そのたびに、まあ、調子が悪くなる。お腹が痛くなったり、頭が痛くなったりな」
 透は自分の親子関係について振り返ってみる。
 もちろん、ここの子供達とは比べられないが、透も家族とは縁が薄い方だ。
 判事の父と母は常にどちらかが家を空けている状態で、中学までは辛うじて母親と一緒にいた透も将来の受験に備え中三で都内の実家に腰を落ち着けて一人暮らしを始めた。以来、両親とは数えるほどしか顔を合わせていない。
 それでも透の両親は子供達とした約束を違えることはなかった。出来ないことは最初から出来ないと言うし、交わした約束は必ず守る。期待させておいて突き放すようなことはしなかった。透自身、まだ幼い弟とした約束は必ず守るようにしている。
「可哀相な話ですが……そのたびに先生が呼ばれるんですか。大変ですね」
「まあ、実際毎度大したことはないんだが、子供は実際診てみんとどうなのかはわからんしな。いつもは大したことなくても、今回は大事ということもあり得る。ストレスが溜まりゃあ子供だって胃に穴を開けるかもしれん。それにな」
 青葉は透の顔をじっと見る。
「調子が悪くなるのは寂しいというサインだ。構ってほしいという心の救難信号だな。放っておいたらますます救われんだろ」
「それは……そうですね」
 透は少し俯き曖昧に返事をする。
 透にはそういう経験はなかったが、もしかしたら青葉にはあったのかもしれない。だから寂しい子供の気持ちがわかるのかもしれなかった。
「まあ、何か気晴らしになるようなことがあればいいんだがなあ」
 青葉は茶を一口飲むと思い出したように透の顔を見た。
「そういや、お前さん達はもう来ないのか?」
「いえ。もう一度、あさっての金曜日に来る予定です」
「おう、そうか」
 青葉は相槌を打ちながら診療鞄を手探りし、中からボールペンと手帳を取り出した。
「先生、そのボールペンは……」
 透は思わずそのボールペンにまじまじと見入ってしまった。
 青葉のボールペンは握りの太いファンシーピンクで、天辺に可愛らしい子猫の人形が付いていた。透はそちらの方面には詳しくないがCM等で見かけたことがある。確か女の子に人気の有名なキャラクターだ。
「可愛らしいですね」
 どう反応していいのかわからず、透が取りあえずボールペン自体に対する感想を口にすると、
「似合わんだろう?」
 青葉は無精髭を生やした顔で笑った。
「娘が誕生日にくれたものでな。使わないと怒るんだよ」
「なるほど。娘さんのプレゼントでしたか」
「こっちの手帳は息子がくれたものでな。無精者であまり手帳なんてものは使わんのだが……」
 口ではそう言いながら青葉は嬉しそうに手帳をぱらぱらと捲って何やら書き込んでいる。
 黒革のビジネス手帳にファンシーピンクのキャラクター付きボールペンは如何にもちぐはぐだったが、青葉のてれたような笑顔を見てしまうとそれもほほ笑ましかった。
 そう言えば、自分は家族や友達とそうやって贈り物を交換したことがないと透は気付く。
 親から進学祝いや誕生プレゼントをもらったことはあるが、もらったときにお礼を言ってそれっきり。それを使うことで相手が喜ぶとか喜ばないとか気にしてみたことなどなかった。

 自分は何か大変な落とし物をしたままここまで来たのかもしれない。
 
 ふとそう考え、透は弟櫂人の顔を思い出していた。

 

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Fumi Ugui 2008.03.12
再アップ 2014.05.21

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