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その日、透は青葉の言葉を反芻しながら帰途についた。
相手を楽しませることが第一。
正直そんなふうに考えてみたことはなかった。
ただ聞き取りやすいよう明瞭な声で間違いなく朗読すればそれでよいと考えていたのだ。
青葉は相手の反応を見ながら読めと言ったが、その意図するところを判然と理解出来たかと言えば、今のところ透には否としか言えない。
「おい、早渡」
掛けられた声に気付き我に返ると、透は呆れ顔してこちらを見ている谷口と駅の前に立っていた。ロータリーを見覚えのある車が走っていく。どうやらここまで送ってもらったらしい。
自分の思考に集中し過ぎていたことに気付いて透は小さく溜め息を漏らした。
その溜め息をどう解釈したのか、ぽんぽんと谷口が慰撫するように背中を叩く。
「あんま深刻に考えるなって。こっちの思惑通りにはいかんさ。相手は子供なんだから」
「そのようだな」
「大体、お前さ。あの演目は何だよ」
透は怪訝そうに谷口を見る。
「『安寿と厨子王』は語り継がれている名作だろう。勧善懲悪で、姉弟や親子の絆も描かれている。子供に読ませるには妥当な物語だと思うが」
透の言い分を聞いて谷口は大げさに溜め息を吐く。
「お前、自分が子供の頃のこと考えてみろよ。そんな説教臭い話より、ヒーロー戦隊とか、くっだらねえ下ネタ満載のギャク漫画の方が好きだったろ?」
「いや。テレビや漫画はあまり」
谷口はぽかんとしばし口を開けて透の顔を見ていたが、すぐに納得したように頭を掻いた。
「そっか。お前だもんなー。そーか、そーか。子供の頃からかよ。まあ、いいけどさ」
気を取り直したようにもう一度透の顔を見る。
「けど、受けを気にするんだったら、もうちっと演目考慮してもいいんじゃね?」
「……そうだな」
透は谷口の顔を見てから僅かに頷いた。
「考えておく」
五時頃自宅に帰り着くと、高子が仕事を終えて帰るところだった。
透の顔を見ると、まるい身体を前後に揺らして愛想よく挨拶をする。
「お帰りなさい、透さん」
家政婦の高子はもうすぐおばあちゃんになるという壮年の女性で、早渡家では透がこの家で一人暮らしを始めて以来もう七年ぐらい世話になっている。
「ただいま戻りました」
透が礼儀正しく挨拶を返すといつも通りに細々とした申し伝えをする。
「お総菜は冷蔵庫とおナベに入ってますから、温めて食べてくださいね。それから、お風呂のマットを洗っておきましたから雨でも降ったら取り込んでやってください。多分降らないとは思いますけどねえ……」
これは透が中学生の頃からの帰り際の儀式のようなものだった。透がいない場合は弟相手にやっているらしい。
「いつもご苦労様です」
すべての事項を伝え、透が了解したと頷くのを見ると高子は安心したように自転車に乗って帰っていった。
「ただいま」
居間に入ると弟が一人でテレビゲームをしていた。
帰ってきた透をちらりと見てお帰りなさいと一言応じるとまたゲームに集中する。
弟の櫂人(たくと)は九歳。考えてみれば孤児院の子供達と同じ年頃だ。
夕食の時間までにはまだ間がある。
透は取りあえず櫂人を観察してみることにした。
櫂人はゲームを夢中でやっている。忙しくコントローラーを握った指先を動かしながら、目は画面を見詰めて身体は微動だにしない。大した集中力だ。
ソファに腰を据えてしばらく観察を続けているうちに透は櫂人につむじが二つあることに気付いた。そう言えばあまり櫂人をじっくりと見たことなどなかったと気付く。
もしかしたら、自分自身についてもよく見たことなどなかったかもしれない。
透は人からは風貌についてあれこれよく言われるが、自身はあまり気にしたことがなかった。透が目指している法律家に求められるものは外見ではなく、知識と判断力を兼ね備えた優秀な頭脳と、人間としての品性・品格なのだから。
一時間もすると櫂人は手を止めた。
ゲームをセーブすると大きく一息つき、そこで初めて自分を見ている兄の存在に気付いて怪訝そうに見返してくる。
「どうしたの?」
「いや。お前つむじが二つあるんだなと思って」
「うん。そうだよ。前にお母さんが鏡を二つこうやって見せてくれたんだ」
櫂人は両手をかざして合わせ鏡のマネをした。
「兄ちゃんも子供の頃は二つあったってお母さん言ってたよ」
「そうなのか?」
初めて聞く話だ。
思わずつむじに触れてみたがよくわからなかった。自分は母とその程度の日常会話もしたことがなかったらしい。
透はソファを移動して櫂人に近付くと相変わらず怪訝そうにしているその顔を覗き込んだ。
「実は兄さん、今櫂人ぐらいの子供達に絵本の読み聞かせをしてるんだ。一度読んでみるから、感想を聞かせてくれないかな」
櫂人は戸惑う様子でじっと透の顔を見ている。無理もない。今までこんなことは一度もなかったのだ。
透はリュックの中から『安寿と厨子王』を取り出した。
「それ何の本? 時代劇?」
表紙の絵を見て櫂人が首を傾げる。
「『安寿と厨子王』。浄瑠璃でも演じられる有名な昔話だ。読んでみるから、聞いててくれないか?」
浄瑠璃という部分に少し首を傾げた櫂人はそれでもすぐに機嫌よく頷いた。
「うん。いいよ」
透の朗読は出だしは順調だった。
しかし、普段はろくに構ってくれない兄が読んでくれるとあって最初のうちは興味津々だった櫂人も、しばらくするとあくびを漏らした。透が読むのを止めて顔を見ると小さく首を竦める。
「退屈か? 面白くないか?」
櫂人は叱られるとでも思ったのか、小さくなって黙っている。透は意識して表情を和らげてみた。
「正直に言っていいんだ。怒らないから。櫂人の意見が聞きたいんだ」
すると櫂人はおずおずと口を開く。
「……うん。よくわかんないし、なんか暗いし……。おもしろくない」
「そうか。だったらどんな本ならいいと思う? 櫂人なら何を読んで欲しい?」
「うーん」
櫂人は少し考えてからさっきまで遊んでいたゲームソフトのパッケージに目をやった。それを拾い上げて透に渡す。
「RPGみたいなの。ええと、ファンタジー……? アクションでもいいよ」
これには困惑してしまった。透はそれほどゲームソフトに詳しい訳ではない。
櫂人から手渡されたソフトのパッケージには、中世の騎士のような男と牛のような化け物が戦っている場面が描かれていた。
「ファンタジーとは例えばどんな話だ? このゲームについてでいいから教えてくれないか」
「ええと……」
透が尋ねると、櫂人はテレビの下の収納ボックスから有りったけのソフトを出してきて、それを透の前にずらりと並べた。それらはどれも、非現実的で不合理極まりない肌も露な衣装を身に付けた少女と、いささか装飾過剰な剣を持った少年の絵がパッケージに描かれている。
「ほら、こういうの。ドラゴンとか勇者とかモンスターとかが出てくるんだよ。それでね、魔法の使える仲間とかと一緒にいろんなところへ行ってね、悪と戦うんだ。お城とかダンジョンとか。あ、たまに異世界とかもあるよ。ラスボスやっつけたらエンディング」
櫂人が中から説明書を取り出して、登場人物を指さしながら説明する。兄に頼まれて知らないことを教えるとあって少し得意気だ。仲間キャラは剣士、魔法使い、司祭、ニンジャ、トレジャーハンター等々。それから敵キャラクターについて云々。
透が知っている物語の中でそれらに一番近いのはチャイコフスキーのバレエ『眠れる森の美女』だった。
「ありがとう。参考になったよ」
透は櫂人の頭を一撫ですると、夕飯の支度をするためにソファから立ち上がった。
Fumi Ugui 2008.03.08
再アップ 2014.05.21