断然兄貴、絶対兄貴!

第五話 イブの告白

 何の進展もなく十一月は過ぎた。
 夏乃と櫂人は二学期に入った当初のことを思えば打ち解けてきて勉強なども一緒にしていたが、透の名を出すと櫂人が不機嫌になるのは変わらなかった。
 何事か思い付いた様子だった水樹もそれ以来特別行動を起こすともなく、朱雀高校は本格的な受験シーズンに入り、師走の日々は慌ただしく過ぎていった。

「あーあ。世間はクリスマスだっていうのに。うちら灰色だよねー」
 箒を手に、ごみをちり取りに追い込みながら松野がぼやくと夏乃は笑った。
「しょうがないよ。受験生だもん。松野さんクリスマスの予定何かあるの?」
 松野は眉根を寄せて、ちり取りを押さえている夏乃を見る。
「ないよー。受験一色。だから灰色なんじゃん。青葉さんこそ早渡君とどっか行く予定あるんじゃないの?」
「何でそこで早渡?」
 気のない様子で夏乃が聞き返すと、松野はにやにやとうれしそうに笑って夏乃の肩をぽんとひとつ叩いた。
「またまた、とぼけちゃってー。テレビで堂々と宣言したくせにー。今更何言ってんのー」
 夏乃は内心溜め息を吐く。
 どうやら透の引っ越しの時に遭遇したテレビカメラは生放送のものだったらしく、夏乃と櫂人が付き合っているという噂は月曜日の朝、夏乃が登校する頃には学校中に広がっていた。
 あれは違うのだと何度説明しても松野以下クラスメイトには本気に取ってもらえず、下手に詳しく話して桐生の弟だと知られることを恐れる櫂人は誤解を訂正するどころかむしろ便乗している始末。夏乃の方も、兄達の事情を説明するのも面倒なので最近では一々訂正することさえしていない。
「期待に応えられなくてごめん。クリスマスは先約あるんだ」
「えー。そうなんだ。逆ナン王袖にするなんて青葉さんてば、やるなあ」
 いつか櫂人の言っていた通りだ。マスコミの影響力は恐ろしい。
 楽しそうに小突いてくる松野を見て、夏乃は今度こそ本当に溜め息を漏らしたのだった。

 掃除を終えると夏乃は図書室へと向かった。
 このところ放課後は櫂人と一緒に図書室で勉強するのが習慣になっていた。
 元々放課後に図書室で自習というスタイルは、経済的な事情でなかなか参考書もその他の本も買えない夏乃の小学校の頃からの習慣だったが、櫂人が成績が落ちたというので一緒にすることにしたのだ。
 夏乃が図書室に入ると櫂人はもういつもの場所に落ち着いて参考書を広げていた。
「どう。進んでる?」
 夏乃が側まで寄って小声で尋ねると顔を上げる。
「まあ、そこそこ……」
 隣に腰掛けた夏乃をちらりと見ると櫂人は少しだけ夏乃の方に身体を寄せて、極低く囁いた。
「なあ、青葉。お前クリスマス・イブ予定ある?」
「あるけど。何で?」
 夏乃があっさり答えるといささか意外そうに瞠目する。
「え、あるのか……」
「何、その言い方。失礼な」
 夏乃は櫂人を睨付けると、それでも気を取り直したように、うっとりとうれしそうにした。
「観劇に行くの。桐生さんに誘われたんだ」
「何だ。アイツとかよ」
 櫂人は顔を顰める。
 腹が立つような、ほっとしたような複雑な気分だ。
 実は観劇の件は櫂人も誘われてはいた。もちろんその場で断ったのだが。
「クリスマスに因んだ独り芝居をやるんだって。面白そうじゃない? あたし、生でお芝居を見るのって初めてだなあ。暇なら早渡も一緒に来れば?」
「絶対行かねえ。透の芝居なんざ誰が見るか」
 櫂人がふいと横を向き、夏乃が諦めの溜め息を漏らしたところで、櫂人の太股の辺りで携帯が振動した。ポケットから出して確かめてみると着信が一件ある。
 メールの差出人を確認した櫂人は、そこに思い掛けない名を見て僅かに目を見開いた。
「どしたの?」
 怪訝そうに夏乃が声を掛ける。
「別に。俺もイブに予定が出来た」
「ふうん。よかったじゃん。さっすがモテ男。引く手数多だよね」
「まあな」
 さほどうれしそうにでもなく肯定した櫂人は、携帯を手にしたまましばらく考えた末、ただ「YES」とだけ打って返信する。
 何の用かは知らないが、どうせ予定はない。暇潰しにはなるだろう。
 携帯をポケットに仕舞うと、櫂人は再びシャープペンを手にして参考書に目を落とした。

 ◆

 凍てついた夜空から粉雪がちらほらと舞い降りてきていた。
 それは地上に近付くに連れ人々の熱気に当てられたように解け、細かな水滴となって散っていく。
 クリスマスソングがあちこちから聞こえてくる表通りを、夏乃と水樹は桐生が所属する劇団事務所に向かって歩いていた。
「ねえ、今日桐生さんが独り芝居をする所って、昔お父さんがよく往診に行ってた所だよね」
 通学用の地味な紺のコートに女の子らしい明るい色のマフラーと手袋。防寒着に身を固めた夏乃が見上げると、同じく着古した地味なコートにマフラーの水樹は頷いた。
「うん。そうだよ。桐生さんは学生時代そこでお父さんに出会ったんだって。だから毎年クリスマスになると独演会をするんだ。僕も一緒に行くのは今日が初めてだけどね」
「それって凄いね。だって、売れっ子で忙しいのに。それくらい桐生さんにとっては思い入れのある場所ってことだよね」
「そうだね」
 水樹が穏やかに頷くと夏乃は何を思い出したのか僅かに顔を顰めた。
「早渡も一緒に来ればよかったのに。意地張っちゃってバッカみたい」
 大通りから左へ折れると、他のビルとは少し毛色の違った三階建ての建物が見えてきた。
 水樹が二階部分を指し示す。
「ほら。あそこの二階が『劇団オオムラサキ』の事務所だよ」
 建物の脇に立っている張り番記者の前を素知らぬふりで素通りして二階へ到達すると、二人が来るのを窓から見ていたらしい谷口が階段のところまで出てきて歓迎した。
「いらっしゃい、夏乃ちゃん。よく来たな」
「夏乃、こちらが劇団代表の谷口さん。ほら、証人の欄に名前があっただろ」
 水樹の紹介を聞くと夏乃はぺこりと頭を下げた。
「はじめまして。夏乃です。兄がいつもお世話になってます」
 夏乃の挨拶を見て谷口がおおらかに笑う。
「おお、何だかきちんとしてるなあ」
「無論だ。育てた人間がきちんとしているのだからな」
「おいおい……」
 唐突に頭の上から降ってきた声を後ろに振り仰いで、谷口が呆れたように口を開く。
「デカイ図体で音もなく忍び寄るなよ」
「私は普通に歩いてきたつもりだが?」
 軽く谷口を一瞥して肩を竦めると、透は夏乃に微笑み掛けた。
「よく来てくれたね、夏乃君」
「お邪魔します」
 ぺこりと頭を下げた夏乃は、目の前に広がるフロアをしばし眺めてから透を見上げる。
「ねえ、桐生さん。どうしてここを集合場所にしたの? マンションの方が落ち着けると思うけど」
「な、夏乃っ。失礼だよ」
 慌ててたしなめる水樹を余所に、透と谷口はおおらかに笑う。
 夏乃の疑問はもっともだった。
 クリスマスシーズンは劇団が最も忙しい時期でもある。公演の準備で劇団員が忙しく行き交い、大部屋も廊下も大道具や工具が散らかって、足の踏み場もないほどだ。人を招ける雰囲気には程遠い。
「ここへは独演会の衣装を取りにくるという都合もあったが……」
 透は見上げてくる夏乃を改めて見ると、極自然な笑みを浮かべた。
「夏乃君には一度私の仕事場を見ておいてほしくてね。庇護者になろうと言うからには隠し事はなしだ」
 夏乃を促すように廊下の奥へと向きを変え、透が長い脚で足下の工具箱を造作もなく跨ぎ越すと、
「コイツは邪魔だな」
 谷口が足で工具箱を脇へと押しやった。
 そのまま夏乃と水樹に先行して、行く手を塞ぐ段ボールやら備品やら、その他の細々した物を次々と足だけで器用にどけていく。
「そういやお前、今年は何やるんだ?」
 足での露払いを続けながら谷口が尋ねると透は簡潔に答えた。
「ディケンズの『クリスマス・カロル』だ」
「お前また、そんなおどろおどろしいものを……。出だしでチビさん達大泣きするぞ」
 谷口が大仰に呆れてみせると透は僅かに振り返って笑った。
「加減もするし、台本は児童劇団の脚本家に頼み込んでチェックしてもらった。抜かりはない」
「ったく、熱心なことだな。一銭にもならねえってのに」
「だからこそプライベートでやっているんだが」
「わかってるって。だから、ちゃんとこのクソ忙しい時期に毎年スケジュール空けてやってるだろ」
「すまないな」
 苦笑する透を見上げて谷口は肩を竦める。
「日頃我がままひとつ言わねえ稼ぎ頭の唯一の道楽だ。しょーがねえさ」
 透と谷口の遣り取りは当たり前な友人同士のもので、庇護者としての透しか知らない夏乃には酷く珍しかった。興味深げに黙って耳を傾けていると、谷口の頭越しに透が振り返った。
「ここが私の細やかな事務所だ。どうぞ、夏乃君」

 勧められて接客用のソファに腰を下ろすと、夏乃は首を巡らせて部屋の様子を一通り眺めた。
 書棚が並んだ小さな部屋は整然としていて塵一つ落ちていない印象だ。
「へえ。ここが兄さんが電話番してる部屋かあ」
「ほとんど自習室だけどね」
 水樹が苦笑すると、テーブルの向こう側に足を組んで深く掛けた透が思わせぶりな笑みを浮かべて夏乃を見る。
「たまに読み合わせに付き合ってもらうこともあるよ」
「え、兄さんそんなこと出来るの?」
 目を丸くする夏乃を見て透は笑う。
「前に君も見ただろう。水樹の舞台度胸の良さは。それに彼は映画に出たこともあるんだよ。知っていたかい?」
「え?! 何それ。ホントなの?」
 半ば呆れた様子で夏乃が傍らを振り返ると水樹は慌てて首を横に振った。
「い、いや。あれはほんの偶然というか、成り行きで……」
「あれを偶然や成り行きと言い切ってしまうことには抵抗があるな」
 水樹を眺めて透は笑う。
「私としてはむしろ、あれこそが運命的な出会いだったのではないかと思っているくらいだよ」
「ま、またそんな思わせぶりなことを……」
「おいおい。いい加減にしとけよ、お前は。夏乃ちゃんだっているんだぞ」
 うろたえる水樹や顔を顰める谷口を余所に、夏乃はむしろうっとりと息を吐く。
「運命かあ。そうだよね」
「え?」
 その意外な反応に水樹と谷口が思わず夏乃を見返すのを遠目に眺め、
「君もそう思うかね?」
 透が面白そうに水を向けると夏乃は躊躇いなく頷いた。
「うん。だって、それまではまったく接点がなかった二人なんだよ?」
 透と水樹を見比べて夏乃はにこりと笑う。
「きっとお父さんが引き合わせてくれたんだよ」
 その笑顔にしばし瞠目すると水樹は穏やかに頷いた。
「そうだね。夏乃の言う通りかもしれない」
「やー……なんつーか、まいったなあ。おじさん一本取られたわ……」
 部屋の入り口で立ったままの谷口はきまり悪そうに頭を掻き、透は目を細めて夏乃を見るとその端整な面に極上の笑みを浮かべた。
「夏乃君、君とは気が合いそうでうれしいよ」
「先生、そろそろ時間です」
 いつものように、ジャストのタイミングで小川が廊下に姿を現した。
 目が合った夏乃に笑顔で軽く会釈してから小川は透に目を戻す。
「車はどうします? よければ回しますが」
「今日の独演会はあくまでもプライベートだ。送迎には及ばないよ。君もたまのオフの夜を楽しみたまえ」
「それじゃ、駅まで運転していきます。どの道私、車がなければ電車移動だし。それならカモフラージュにもなるでしょ」
 小川の提案に透は苦笑した。
「何だかすまないな、小川君」
「いえいえ。お気遣いなく。野次馬根性で勝手に出てきただけですから」
 小川がにっこり笑って廊下に消えると、透は衣装鞄を持ち上げて水樹と夏乃に声を掛けた。
「さて。そろそろ行こうか」

 ◆

 バスを降りると雪は出がけの粉雪状態からもう少し本格的な降りになっていた。
 傘や地面に触れても全部は解けず、時間の経過とともに少しずつ降り積もっていく。
 夜の闇のなか、白くなり始めた視界を櫂人はぐるりと見渡した。
 極普通の住宅街だ。天候のせいか道行く人はいない。クリスマスで浮かれている繁華街の賑わいが嘘のようだった。道路を挟んで左側は普通の住宅が並び、櫂人の立っている右側は行く手にブロック塀がしばらく続いている。
 受け取ったメールには住所と降りるべきバス停だけが書かれていて建物の名前はなかったが、バス停から四つ角を右に折れてそう遠くはないとあったから大体この辺りのはずだ。
 約束の時間より十五分ばかり遅刻だが、この雪ではどうせ建物の中に入っているだろう。目印がないと探すのが面倒だと思いながらブロック塀を少し進むと、遠く雪景色の中に人が一人立っていた。
 歩道と敷地の境界辺り。門のようにブロック塀が途切れている所の少し内側だ。随分そこに立っているらしく、コートの肩や頭の上に雪が薄く積もっている。
 雪だるまのように動かなかったその男は、櫂人の姿を認めるとうれしそうに手招きした。
「あ、櫂人君。こっちです」
「何やってんだ、あんた! いつからここに立ってんだよ?! こんな雪の中馬鹿じゃねえの! 受験だって控えてんのに!」
 櫂人が大股に近付いて傘を差し掛けると、水樹は穏やかに笑って頭からすっぽりと被っていたマフラーを外した。ぱらぱらと雪が滑り落ちていく。
「大丈夫。厚着してるし、コートも着てるし。使い捨てカイロも持ってるから」
 マフラーを巻き直し、コートのポケットからカイロを取り出してみせる水樹を見て、櫂人は渋い顔で溜め息を吐いた。
「で、何だよ。イブの夜だっていうのに、こんなイルミネーションもねえようなとこに呼び出して」
 時間はまだ早いのに辺りはまるで寝静まったようで、クリスマスソングひとつ聞こえてこない。
「あの、櫂人君に是非見てもらいたいものがあって」
「見せたいもの?」
 櫂人が僅かに眉を顰めると水樹は踵を返す。
「こっちへ」
「おい。勝手に入っていいのかよ。ここって、何? 公共施設かなんか?」
 水樹は門を入ると、建物の玄関へと通じる舗装された細やかな道は無視して勝手に庭を突っ切り、どんどん奥へと進んでいく。
 敷地の広さや庭の隅に植えられた樹木の種類、建物の佇まいから櫂人が連想したのは保育園や幼稚園、児童館などの子供用施設だった。だが、それにしては鉄棒やブランコなど、遊具の類いは見当たらない。
 櫂人が訝しんでいると、建物の一番奥、比較的大きな部屋の窓の前で水樹が立ち止まった。白いスプレーでメリー・クリスマスとペイントされた窓からは明かりが煌々と漏れている。
 中を覗くように促され、目の前の花壇を一跨ぎにして櫂人が窓に近付くと目に入ってきたのは子供達の姿だった。
 幼児から中学生ぐらいまでの様々な年齢の子供達が二十人ばかり行儀よく椅子に腰掛けている。どうやらパーティーの最中らしく、部屋の中は色紙で作られた色とりどりの鎖で取り巻かれ、所々に金銀の星や天使の人形などがつり下げられていた。子供達の後ろには電飾付きの立派なクリスマスツリーもある。
 けれども子供達の関心は今はそこにはないようだった。皆前を向き、熱心にひとつところを見ている。
 櫂人が子供達の視線を追ってそちらに目をやると、思い掛けない光景が飛び込んできた。
 子供達ばかりの中で一際目立つ長身。目鼻立ちの整いすぎた、けれども嫌というほど見慣れたその男――。
「な、何をやってんだ。アイツは……」
 透は時代掛かったコートのようなものを着ていた。声は聞こえないが、何か芝居をしているのはわかる。透が手振りをし、身振りをし、或いは表情を動かすたびに子供達が何かしら反応する。それは驚いたり笑ったり怖がったり様々だったが、彼らが楽しんでいることだけは確実だった。
 雪が降っていることも忘れ、茫然と櫂人が部屋の中の光景に見入っていると、不意に声を掛けられた。
「早渡先生」
 早渡という名に反応して反射的に振り返ると、花壇を挟んだ水樹のもう一つ向こうにコートを着込んで傘を差した三十代ぐらいの女性が立っていた。
 櫂人は怪訝そうにその人を見る。自分は確かに早渡だが、人から先生と呼ばれる覚えはない。
 櫂人の顔を見るとその人は笑顔から一転、驚いたようにその場に固まった。一拍置いて慌てて頭を下げる。
「す、すみません! 知ってる方に後ろ姿が似ていたものですから、つい……」
 恐縮しているらしい彼女に心得た様子で水樹が穏やかに声を掛ける。
「先生はまだ独演会の最中です。直に終わると思いますので中でお待ちください。どうぞ」
 物腰柔らかく彼女を玄関の方へと導いて、水樹は櫂人を振り返った。
「櫂人君も。もうそろそろ中へ入りましょう」

 

 玄関に備え付けられた呼び鈴を鳴らすと、廊下の奥からふくよかな初老の女性が出てきて彼女を出迎えた。
「まあ、堀田さん。いらっしゃい」
 老婦人を見上げて彼女が深々と頭を下げる。
「園長先生、ご無沙汰しております。その節は孝がお世話になりまして」
「いえいえ。孝君、一年の間に大きくなって、健やかそうで。見違えましたよ。やはりお母さんと暮らすのが一番ですね。さあさあ、どうぞ、お上がりになって。孝君は一番奥の部屋で先生のお芝居を観てますよ」
 廊下の奥へと孝の母親を見送ると、園長は玄関に佇む二人の若者に目を移した。柔らかな笑みを見せ、僅かに首を傾ける。
「お二人は?」
 穏やかな園長の視線を受け、水樹はマフラーを取ると丁寧に頭を下げた。
「園長先生、お久しぶりです。僕のこと覚えてらっしゃいますか?」
 面を上げた水樹の顔を改めて見た園長は瞠目した。驚きを言葉にしようと開いた唇が微かに震える。
「もしかして、水樹君……水樹君なの……?」
「はい。ご無沙汰してます。園長先生にはお変わりなく」
 水樹が柔らかな笑顔で肯定すると園長は上がり框まで下りてきて、水樹の両手を取った。少し冷えた指先を温めようとするかのように優しく握り締める。
「まあ、こんなに大きく立派になって! 待ってましたよ。先生が今日は水樹君も連れてくるとおっしゃっていたのに、なかなか顔を見せないからどうしたのかしらと思っていたところだったのよ。あまり心配させないでちょうだい」
 思わず俯く園長を慰めるように水樹はそっと握り返した両手に力を込める。
「すみません。少し用事があったので」
「まあ、本当に……」
 幼い子にするように水樹の髪をそっと撫で、園長はまだ少しだけ残っていた雪を綺麗に払い落とした。
「よく顔を見せてちょうだいな。まあ、本当に大きくなって。ああ、でもこの柔らかい髪の毛の質は小さな頃と変わらないのねえ」
 感慨深気に髪を梳き、その手をそっと離すと園長は改めて水樹を見た。
「早渡先生から聞きました。医学部を受験するそうね。本当によかったこと。亡くなったお父様もよろこんでいらっしゃるでしょう。あなたのこと、自分の後を継いで医者になると言ってくれたって、それはそれはうれしそうに話してらしたのよ。水樹君が医者になってくれれば安泰だって……」
 目尻に滲んだ涙を慌てて拭うと、
「ああ、最近涙もろくていけないわ。歳のせいかしらねえ。せっかくおめでたいことなのに」
 園長は照れたように微笑んで来客用のスリッパを二足揃え、ふと気付いたように櫂人の顔を見る。
「こちらの方は……? 早渡先生に似ていらっしゃるようだけれど……」
「え、いや、俺は……」
「こちらは先生の弟さんです」
 口篭る櫂人の代わりに水樹が答えると園長は口許を綻ばせて櫂人に向かって丁寧に頭を下げた。
「まあ、そうでしたか。先生にはいつもお世話になって。私共も子供達もどのくらい感謝しておりますことか……」
「い、いや、俺は別に……」
 櫂人は思わず目を逸らす。
 先程からの二人の遣り取りを聞いていると、自分がとんでもなく場違いな人間のような気がして仕方がなかった。
「さあ、上がってください。外は寒かったでしょう。お茶でも差し上げましょうね」
 園長が先に立って案内を始めると、櫂人は小声で水樹をつついた。
「お世話になってるって、兄貴のヤツ一体ここで何やってんだよ」
 水樹が口を開こうとした途端だった。
 唐突に、辺りに拍手の音が鳴り響いた。
 長らく拍手は鳴り止まず、程なくすると廊下に面した一番奥の部屋から、コートを羽織った長身の男が姿を現した。すると、すぐに同じ部屋のもう一つ向こう側の戸が開いて、中学生ぐらいの少年と先程の母親が出てきた。
「早渡先生!」
 少年が呼び掛けると振り向いて、透はそのクールな印象の表情を和ませる。
「やあ、孝君。久しぶりだね。その後どうだね、相手の出方は」
「はい」
 歯切れのよい返事をすると孝は遥か頭上の透へと尊敬の眼差しを向けた。
「先生のお蔭であの男も姿を見せなくなりました」
「警察もたまに巡回に来てくださいますし。会社の方への嫌がらせもなくなりました。本当に先生、ありがとうございました」
 母親も丁寧に頭を下げる。
「そうですか。それはよかった。また困ったことがあったらいつでも言ってきてください。相談に乗ります」

「……アイツは一体、ここで何してるんだ。っていうか、結局ここは何なんだ……?」
 櫂人はただその場に立ち尽くしていた。
 疑問ばかりが先に立ち、頭が上手く働かない。
 いや、新たに判明した事実から導き出される結論は薄々わかってはいる。しかし、それを感情がまだ納得出来ないでいた。
「ここはさわらび学園という児童擁護施設です」
 櫂人の呟きに答えたのは傍らの水樹だった。
 櫂人は水樹を見返す。
「……孤児院だったのか」
 櫂人に頷き返すと水樹は透に目を移した。
「桐生さんは、事情があって預けられている子の家庭に何かトラブルがあると、あんなふうに相談に乗ったり、知り合いの弁護士事務所を紹介したりしてるんです。ここの顧問弁護士は桐生さんですから」
「顧問弁護士……」
 親子と親しげに話している透を櫂人がただ眺めていると、やはり一番奥の部屋から出てきた夏乃が水樹と櫂人に目を留めた。
「あれ、早渡来てたんだ。兄さんも、どこ行ってたの? もう桐生さんの独演会終わっちゃったよ」
 夏乃が二人の方へとやってくると、堀田親子との話を終えた透も櫂人に目を向けた。
「何だ、櫂人。お前も来ていたのか」
「別に。水樹さんに呼び出されただけだ」
 櫂人はふいと横を向く。その傍らの水樹はいつもと何ら変わらず、その温かで穏やかな眼差しを透に向けてくるだけだ。
 透はふと笑みを浮かべると、廊下を一人玄関へと向かった。
「どこ行くんだよ」
 上がり框まで至ると、ついてきた櫂人を振り返る。
「少し話をしないか」

 ◆

 玄関を出ると雪はもう止んでいた。
 分厚い雪雲の隙間から時折月影が差し込む庭を、ゆっくりと透が歩いていく。その大分後ろを櫂人はむっつりと黙ってついていった。
「……何でこんなとこでこそこそ顧問弁護士なんかしてんだよ」
 唐突に後ろから投げ付けられた質問に透は振り向かずに応じる。
「それは、何故弁護士として表立った活動をしないのかという質問か? それとも、この学園の顧問弁護士をしているのは何故かという質問か」
「両方」
 後ろから聞こえてくる声はぶっきらぼうだ。
 根が素直で正直な弟は、いくら意地を張ったところでどうしても本音が態度に出てしまう。
 少し黙っていると、またじれたような声がした。
「勿体振ってんじゃねえよ」
 櫂人からは見えないところで透はこっそりと笑みを漏らす。
「では、まず第一の問いに答えよう。私の本業はあくまでも俳優だ。事務所を構えて本格的に開業するほどの時間はない」
 短い沈黙の後、反応がある。
「……で、二つ目は」
「二つ目の理由は――」
 一度目を閉じると、透は真冬の夜空を見上げた。
 思い出すのは三月も終わりの高い青空――。
「この場所が、私の師父とも思う人との思い出の場所だからだ。それに、ここは私の役者としての原点でもある」
 凍てついた夜空を見上げたまま、透はふと笑みを漏らす。
「そう言えば、あの時はお前にも随分協力してもらったな」
「……覚えてねえよ。そんなもん」
 あらぬ方向を向いて櫂人はうそぶく。
 きっとまた余分なことまで思い出したに違いない。読み聞かせの怪談が怖くて泣いたことや、そのせいでしばらく一人では風呂にも入れずトイレにも行けなかったこと、揚げ句の果てに一緒に寝てもらったこと等々、どれもこれも今思い返せば赤面するようなことばかりだ。
 話を変えようと櫂人は話題を振る。
「んで、その師父がどうしたって?」
 櫂人の問いには答えず、透は建物に沿ってゆっくりと藤棚の下まで来るとベンチの雪をざっと払った。着ていた衣装のコートを脱いで敷くと、その上に腰掛けて足下に目を落とす。櫂人が怪訝そうにしていると顔を上げておもむろに口を開いた。
「私はこうしてここに座っていた。読み聞かせが上手くいかなくてね。少し気鬱にしていたら、その人が声を掛けてくださったんだ」
 透は目の前に佇む櫂人を見上げ、その目を真っ直ぐに見詰めた。
「その人はこの学園のホームドクターをしていた。名を青葉茂徳先生という」
「青葉って……」
 目を見張る櫂人に頷いてみせる。
「そう。水樹と夏乃君のお父さんだ」
 雪の藤棚越しに透は雪雲に覆われた夜空を仰ぐ。
 何もかもが生き生きと眩しく見えたあの日の午後同様、直接目には見えなくとも星は今も輝いて、透の目には決して色褪せて見えることはない。月を覆う雪雲でさえも今の透には輝いて見える。
 それもこれも透の中に青葉から教わったことが生きているからだ。
「あの時もしも青葉先生に出会わなかったら、私は人と向きあうことも何かに打ち込むことも人生の喜びも愉しみも知らずに今頃過ごしていただろう」
 ただそこに棒立ちしている櫂人の顔を見て透は笑った。
「お前とこうやって腹を割って感情の遣り取りが出来るのも先生のお蔭だ。お前は、私が青葉先生に出会う前と後で変わったとは思わないか」
 確かに。と櫂人は心の中で頷く。
 透が急に櫂人に構い出したのは大学のサークルで慰問に行った後のことだ。両親の留守を守ってきちんと自分の面倒は見てくれるが、いつもは必要なとき以外はほとんど話もしない兄が、突然本を読んでやるなどと言い出してびっくりしたのを覚えている。それまで櫂人は何でも出来る完璧な兄のことは尊敬していたが、それだけに何となく近寄りがたい存在だと感じていたのだ。
 考えてみればあれ以来だ。
 いろいろと透の言動に迷惑を被るようになったのは。
 それ以前は、いじめられる訳でもないが構ってもらえる訳でもなく、兄弟で同じ家に住んでいながらほとんど関りというものがなかったのだ。
「私が法曹界に進まなかったとお前は怒るが」
 目を伏せて透は僅かに苦笑する。
「もし私が先生に出会わず、あのまま法曹界に進んでも、人の気持ちを慮ることもなく想像することも出来ず、ただ淡々と事務的に人を裁く人間になっていたかもしれない。そう思うと今も時々ぞっとするよ」
「兄貴……」
 いつの間にか櫂人の後ろに夏乃と水樹が姿を見せていた。水樹に目をやって透は続ける。
「水樹から先生が亡くなったと聞いたとき、私は心底後悔した。先生が亡くなったのは五月の半ば。私が先生と出会って僅か二カ月足らずのことだ。私はたった一人の師父とも思う人の死を四年も知らずにいたんだよ」
 近付いてきた水樹が黙ってそっと透の傍らに寄る。その水樹に透は大丈夫だとでも言いた気に穏やかな眼差しを向けた。
「いつかお礼をと思いながら延ばし延ばしにしてきた自分が許せなかった。その間、生きる喜びに、人生の愉しみを見つけたことに、ただ浮かれていた自分が許せなかったんだ」
 最後に透は櫂人に視線を戻す。
「私の話はこれで終わりだ」
「……それで水樹さんのことにそんなに肩入れしてんのかよ」
 ぶっきらぼうな物言いは相変わらずだが、すっかり毒気の抜けた櫂人を見やると、透は笑った。
「それはもちろんそうだが――」
 おもむろに立ち上がると傍らの水樹にちらりと目をやって、再び櫂人に視線を戻す。
「私自身が水樹に惚れたことが第一の理由だな」
「な……?!」
 透の一言に櫂人の弛みかけていた空気が一瞬で固まる。
「き、桐生さん……! またそんな紛らわしい言い方を……!」
 慌てて抗議する水樹を振り返り透は大仰に眉を上げてみせた。
「私の言っている事はそんなに問題があるかね? これぞと見込んだ、心底惚れ込んだ男でなくて、どうして嫡出子扱いなぞ出来ると思う」
「それはもちろんそうでしょうけど……いや、そうじゃなくて! どうして今このタイミングでそんなこと言い出すんですか!」
「タイミングも何も」
 塩の柱と化して言葉もなく固まっている櫂人を横目でちらりと一瞥してから笑みを浮かべ、透は水樹に向き直る。
「私はいつでも君に対する気持ちを公言する覚悟はあるつもりだよ。何なら今ここで記者会見でも開こうか」
「桐生さん! ホントに冗談はそれくらいで……!」
 不穏な空気を背中に感じて水樹は後ろを振り向いた。
 櫂人は先程の位置から微動だにしていなかったが、心なしか全体が微かに震えているような気がする。
「水樹」
「は、はい?」
 不意に名前を呼ばれ見返すと、いつの間にか透の顔が間近にあった。
「一度はともかく、二度目は聞き捨てならないな」
「え?」
 水樹がきょとんとしていると、透はその理知的な面に含みのある笑みを浮かべた。
「桐生ではないだろう。私の名を忘れたのかね?」
「え。あ、はい。ええと、透さん」
 何か企みがあると思いつつも逆らえず水樹が名前を呼ぶと、
「そう。それでいい。最近やっとまともに呼べるようになってきたな」
 透は満足げに頷いて極上の笑みを浮かべる。
 その完璧な営業スマイルを目にして、これはまずいと水樹が反射的に櫂人の方に目をやった瞬間、
「やっぱそういうことかよ……!」
 低く唸って櫂人が突っ込んできた。
「……わっ?!」
 びっくりしてとっさに反応出来ない水樹を、心得た様子で両手に抱えて身を捻り、押し出すようにして脇へ逃がすと、透は手にしていたコートを闘牛士よろしく櫂人の頭から素早く被せた。そのまま後ろへ回り込み、コートごと羽交い締めにする。
「すぐ暴力に頼るのは感心しないな。法学部に入るつもりなら、いきなり拳で語らず、まず言葉を尽くさないか」
「んだよっ! 放せ、このっ! 冷てえんだよ! 風邪引いたらどうしてくれんだよ!」
 じたばたと暴れる弟を締めつけて、しかし、あくまでも穏やかに兄は延々と説教を垂れ始める。

「ええと……夏乃。透さんがさっき言ったことはあまり真に受けないでくれると助かるんだけど……」
「うん。わかるよ。面白がってるだけだよね……」
 少し離れたところから先程までの遣り取りを眺めていた夏乃が呆れたように呟く。
 傍から見ていれば、からかわれていることは一目瞭然なのに。やはり櫂人には兄のこととなると悟性が吹き飛ぶ性癖があるらしい。
 せっかく雪解けムードだったのに、これでは結局元の木阿弥かと夏乃と水樹が兄弟ゲンカを見守っていると、櫂人が透を振りきり頭から被ったコートをかなぐり捨てて、お決まりの捨て台詞を吐いた。
「少しは見直したと思ったのが間違いだった! テメーとは絶交だ! もう二度とウチの敷居は跨がせねえからな!」
「あ、あの、櫂人君」
 引き止めようと慌てて出てきた水樹を無視しするかと思いきや、櫂人は不機嫌そうな顔を水樹に向けた。パーカーのポケットから何やら紙を取り出して、黙って水樹に押し付ける。
「え、……櫂人君?」
 水樹が広げてみると、それは先日持っていかれた切りになっていた養子縁組届だった。
「返してくれるんですか?」
 目を見開いて驚いたように見上げてくる水樹に櫂人がむっつりと答える。
「……医者になりたいんだろ?」
「ありがとう、櫂人君」
 水樹が表情を綻ばせると櫂人はふいと横を向いた。視線だけを戻して水樹の顔を見る。
「礼なんか言うなよ。別にあんたらの仲を認めたわけじゃないからな。ただ、俺もあんたは絶対医者になるべきだと思っただけだ」
 透が夏乃が園長が、亡くなった水樹の父親も、更にはたった二カ月間の担任だった石原教頭までもが彼を医者にと望んでいるのだ。それほどに望まれる男なら、やはり医者になるべきなのだろう。
 水樹の人柄も嫌いではなかった。むしろ透には勿体ないぐらいだ。
「じゃあな」
 水樹に背中を向け、そのまま帰ろうとすると後ろから呼び止められた。
「櫂人」
「何だよ」
 面倒くさそうに櫂人が振り向くと、建物の方を示してついて来いと透が促す。
「せっかく来たんだ。一仕事していけ」

 

「メリー・クリスマス!」
 食堂の戸を開けてサンタが現れると、ケーキを食べていた子供達から歓声が上がった。忽ち興奮した様子で戸口にどっと押し寄せる。
「みんな押しちゃダメだよ。プレゼントはちゃんとみんなの分あるからね。並んで、並んで!」
 サンタの後ろに控えた夏乃の呼び掛けも効果はない。どの子もサンタとプレゼントを巡って大騒ぎだ。食堂の窓が一斉に開き、そこからも子供達の興味津々な顔が覗く。
 勢いに押されてサンタが一歩下がった途端、堰を切ったように子供達が食堂から飛び出してきた。あっと言う間に周囲をぐるりと取り巻かれる。
「櫂人君大変なことになってますね……」
 廊下の少し離れたところから様子を窺っていた水樹が呟くとその傍らで透が笑った。
「日頃子供には縁がないからな。まあ、いい経験になるだろう」
「はあ……」
 白い付けヒゲとまゆ毛のせいで表情はよくわからないが、水樹の目には櫂人は相当困惑しているように見えた。
 何しろ体格差があり過ぎる。小さい子供達は櫂人の膝ぐらいまでしかなかった。
 小柄な夏乃は違和感なくその場に同化していたが、櫂人は子供達を前にしてどう立ち振る舞っていいのか、その長い手足を持て余しているように見える。
「やっぱり、僕ちょっと行ってきます」
 水樹は手にしていた届出用紙を透に託すと素早く踵を返した。そのまま喧騒の輪の中に飛び込んでいこうとするのを透が呼び止める。
「まあ、待ちたまえ。その前に、君には是非ともやってもらいたいことがある」
「え?」
 振り返って立ち止まり、怪訝そうに見返してくる水樹に微笑み掛けると、透は側で一緒に子供達を見守っていた園長を振り返った。
「園長先生、少し応接室をお借りしたいのですが」
「ええ、どうぞ。控室としてお貸ししたのですから、遠慮はいりません。ご自由にお使いください」

 応接室に入ると、透はまずソファの上の大きな衣装鞄の中からいつも持ち歩いているブリーフケースを取り出した。それをテーブルの上にきちんと置くと、入り口に立ったままの水樹と園長を振り返る。
「水樹、そこに掛けたまえ。園長先生も、どうぞ、お掛けください」
 促されるままに水樹と園長が正面に腰を下ろすと、透は先程預かった養子縁組届を水樹の前に広げた。
「水樹、せっかく届出用紙が手元に戻ってきたんだ。ここでサインをしてくれないか」
「え、今ここでですか?」
 水樹が少し驚いたように目を見開くと透は頷く。
「そうだ。園長先生に立ち会って頂こう」
 透が水を向けると園長は柔らかく微笑む。
「私でよければ立ち会人になりますよ」
「でも、透さん。サインはともかく判がないと……」
「心配は無用だ。印鑑ならここにある」
 透は上着の隠しに手を入れると印鑑ケースを取り出した。
「ついでに届出用紙の予備もね」
「そんなのいつも持ち歩いてたんですか……」
 ブリーフケースの中から現れた真新しい届出用紙と、青葉の三文判にいささか唖然とした体の水樹を見て透は苦笑した。
「随分と待たされたからな。察してくれたまえ。期限までに君の気が変わってサインをしてくれるのではないかとね、淡い期待を抱いていたんだよ」
 透はキャップを外すと、水樹に向けてボールペンを差し出す。
「先生のことがあって以来、私は今日出来ることは今日のうちに済ませてしまうことにしているんだ。君の気持ちに変わりがないのなら、今ここでサインをしてほしい」
「透さん……」
 水樹は少しだけ切なく笑むと透からボールペンを受け取った。園長と透だけが静かに見守るなか、粛々としてサインをし印鑑を押す。最後に届出用紙を手に取り、改めて透に向けて差し出すと水樹は丁寧に頭を下げた。
「どうぞ、よろしくお願いします」
「こちらこそ。末永く頼むよ」
 透は極自然な、けれども水樹が見たこともないような奇麗な笑みを浮かべると届出用紙を受け取った。丁寧に折り畳むと封筒に入れて上着の隠しに納める。
「これは私が明日届けておこう」
 透が水樹を見て晴れやかに宣言すると、
「はい。お願いします」
 水樹も透を見上げて穏やかな笑みを浮かべる。
「おめでとう、水樹君」
 二人を黙って見守っていた園長もにこやかに言祝ぐ。
「きっとお父様もよろんでいらっしゃいますよ。受験頑張って立派なお医者様になってちょうだい」
「はい。ありがとうございます。園長先生」

 応接室を出ると、食堂の前の廊下ではどうやらプレゼントを配り終えたらしい櫂人と夏乃が子供達と遊んでいた。
 幼児を抱いた櫂人はヒゲをむしられカツラを取られて酷いことになっている。
「やれやれ、仕方ないな。あれ以上劇団の財産を壊されても困る。半分肩代わりするとしようか」
 笑って透が近付いていくと忽ち子供達が反応した。一番に走ってきた子供を抱き上げると透は輪の中に入っていく。
 水樹もその後を追う。

 いつの間にか夜空を覆っていた厚い雪雲は吹っ切れて、聖夜に相応しく星が煌めいていた。

 

【完】


Fumi Ugui 2008.06.19
再アップ 2014.05.21

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