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電車が行ってしまうとホームはひっそりと静まり返った。
夏乃について高架鉄道の改札を出た櫂人は首を巡らせて辺りを眺めてみる。
ガードに沿って狭い歩道が続き、道路の向こう側にはこんもりとした緑の茂み。どうやら公園らしいのだが、特に子供の声などは聞こえてこなかった。裏道のためか道路に車は見当たらず、歩道にも人の姿はほとんどない。
「早渡、こっち」
夏乃について歩道をしばらく行くと、人通りのある通りに出た。
と、言ってもあまり道幅はない。この辺りはガード下の建物や個人商店の立ち並ぶ商店街など、東京の昔ながらの風景が残っている地域だ。
あまり下町には縁のない櫂人が物珍しそうに辺りを眺めながら歩いていると、
「あ!」
先に立って歩いていた夏乃が突如猛然と駆け出した。
「おい! 何だよ、いきなり!?」
おいてけぼりを喰らって唖然とその場に立ち尽くす櫂人を振り返り、夏乃が叫ぶ。
「タイムサービス始まっちゃう! お一人様一本までなんだ。せっかくいるんだから早渡も一緒に来て」
取りあえずついていくとスピーカーらしい売り出しのだみ声が聞こえ、前方に小さなスーパーが見えて来た。既に群がる人々で店舗に面した狭い歩道は塞がっている。
「ちょっと待て。お前あんな中に突っ込んでく気かよ?!」
思わず櫂人がその場に立ち止まると、夏乃は走る速度は緩めずに首だけで振り返った。
「あったり前だろ! 半期に一度の醤油とみりんの九割引なんだよ、九割引!」
近付いてみるとスーパーの店内はタイムサービス目当ての殺気だった主婦達で立錐の余地もないほどに溢れ返っていた。
「んなこと言ったって、これ以上はどう見たって入れねえだろ! 既に入り口からはみ出してんじゃねえか!」
「何言ってんだ。朝のラッシュに比べりゃどうってことないだろ、こんなの」
そうは言うが、朝の通勤タイムに血走ったオバサンの群れはいない。黙って電車に揺られる眠そうな学生とおじさんがいるだけだ。
「あと十秒!」
スピーカーからカウントダウンが聞こえる。
「ゴー、ヨン、サン……」
尚も二の足を踏んでいる櫂人を尻目に、信じられない早業で小さな手提げから財布と布製のマイバッグを取り出した夏乃は、
「ああ、もういいから! 早渡はここで待ってて!」
と、言い捨てるやマイバッグに財布と手提げを放り込み、スピーカーの「ゼロ」の声と共に躊躇いなく目の前の人垣に突進した。跳ね返されるかと思いきや、その小柄な身体を最大限に活かして堂々たる体格のオバサン達の間を器用に掻い潜り、見る見る肉厚の壁の中に消えていく。
店の前に突っ立ったまま櫂人はそれを唖然と見守るしかなかった。
あれをどう表現したらいいのだろう。
フキの下を掻い潜るコロボックル?
いや、そんなリリカルなものではない。
あの凛々しさ逞しさは鬼に立ち向かっていく一寸法師をこそ彷彿とさせる。夏乃の年不相応の妙な迫力はきっとこの辺に起因しているに違いなかった。
「おい、あんた。もしかして夏乃ちゃんの彼氏かい?」
だみ声に振り向くと、さっきまでカウントダウンをしていた店員が櫂人を見ていた。
「はあ……」
店内の喧騒を茫然と眺めながら櫂人が曖昧に返事をすると店員は笑った。
「夏乃ちゃんのことなら心配いらねえよ。なんたって、初参戦が十一歳っていう歴戦の勇者だからなあ。そのうち必要なもんゲットして出てくるよ」
店員の言葉通り、しばらくして店を出てきた夏乃は目当ての醤油とみりんの他にちゃんと買い物もしてきていた。
客の数は完全に店の許容量を超えていたというのにどうやって店内を移動したのか、その手並みの鮮やかさには驚くばかりだ。
その後も忙しなくスーパーや個人商店を三軒ほど回って野菜や魚など単品の買い物を済ませると、荷物持ちの櫂人を従えて夏乃はやっと家路へと向かったのだった。
夏乃と水樹の住むアパートは、最初に降りた駅から商店街とは反対方向に百メートルほど行ったところにあった。
ガード下の、築何年だか櫂人には見当もつかない随分古い建物だ。
目の前の狭い道路を渡ると、一階の赤提灯らしき店舗の前を掃除をしていた中年女性が愛想よく夏乃に声を掛けてきた。
「あら、夏乃ちゃんお帰り。今日は彼氏と一緒なの?」
注目されて櫂人が一応会釈すると、夏乃は違う違うと軽く手を振る。
「そんなんじゃないよ。ただのクラスメイト」
「おや、そうなの」
荷物を一杯抱えた櫂人を見上げて彼女は笑った。
「親切そうだし、背も高いし、今時流行りのイケメンなのに勿体ないねえ。ああ、そうだ」
夏乃をその場に待たせて一旦店の中に入ると彼女はラップに包んだ焼き鳥を持って出てきた。タレのいい匂いがする。
「これ。残り物なんだけど、兄さんと二人でお食べ」
「いつもありがとう、おばさん」
焼き鳥を受け取って笑顔でぺこりと頭を下げると夏乃は傍らの櫂人を促した。
「早渡、こっち」
老朽化して錆だらけの狭い階段を恐る恐る上る。上りきっても通路の天井は低く、背の高い櫂人は常に頭上を注意しなければならなかった。
部屋の前に到着すると、鍵を開けて先に中に入った夏乃が櫂人を振り向く。
「お疲れさま。お茶でも出すから上がってよ。荷物はその辺に置いといて」
櫂人は戸口に立ったままぼんやりと家の中を見渡した。
バラエティ番組などでよく見かける、若手芸人の住まいを小奇麗にしたような佇まいだ。
手前の台所込みの六畳には物がほとんどなく、大きな冷蔵庫と小さな茶箪笥があるばかり。通された奥の部屋も小さなテレビと、こたつ兼用のテーブルがあるだけで、他は扇風機と、部屋の隅に通学用の鞄。鴨井にハンガーが二つ。それからテレビの下がラックになっていて、僅かばかりの本と目覚まし時計と新聞が入れてあるだけだった。
「……電話ないのか?」
「携帯あるから。二つもいらないよ。あ、もし暑かったら扇風機つけて」
南の窓を全開にした夏乃は押し入れを開けると座布団を出してきて櫂人に勧める。
「お茶冷たいのでいい?」
台所から声だけで聞いてきた夏乃に返事をしようと櫂人が口を開いた途端、細かい振動と共に電車の轟音が天井の上を通り過ぎた。櫂人の声がかき消され、台所の方から夏乃が顔を出す。
「ごめん、聞こえなかった。冷たくてもいい?」
「ああ、別に何でもいいけど……。酷い音だな。こんなんじゃテレビの音とか聞こえないだろ」
「うん、まあね。ニュース以外はあんまり見ないかな。あと桐生さんのドラマと」
桐生と聞いて忽ち顔を顰める櫂人に内心溜め息を吐き、夏乃は麦茶と一緒に、もらってきたばかりの焼き鳥を皿の上に乗せて櫂人に差し出した。
「どうぞ」
櫂人は出された焼き鳥と夏乃を見比べる。
「いいのかよ。水樹さんにってもらったんじゃないのか?」
「兄さんの分はちゃんと除けといたから。なるべく早く食べちゃった方がいいって、おばさんにも言われてるし。遠慮しなくていいよ。男子ってすぐお腹空くんでしょ? 燃費悪いよね。早渡って身体も大きいしさ」
自分も一本つまみながら夏乃は笑う。
「燃費が悪いって何だよ」
櫂人は再び顔を顰めた。
しかし、さっきハヤシライスを食べたばかりなのにもう腹が減っているのは事実だ。あの場を早く離れたい一心で、お代りをしてこなかったことも地味に利いている。
空腹には勝てず、櫂人も焼き鳥を一本手に取る。
「それじゃ、遠慮なく……」
「そーそー。人の厚意は素直に受け取るのが一番」
夏乃は焼き鳥を食べながら、マイバッグから財布を取り出してレシートの確認を始めた。テレビの下のラックからノートを引っ張り出すとテープで貼り付ける。
「家計簿付けてんのか?」
「うん。節約ためにね。進学するにはお金が要るからさ」
貼り付けたレシートを眺めていた夏乃は唐突に声を上げた。
「あ! そうだ。忘れてた。明日ケーキ買わなきゃ」
「ケーキ?」
櫂人が聞き返すと夏乃は頷く。
「誕生日なんだ」
「え、誕生日って、お前の?」
「そ。誕生日は兄さんと二人でショートケーキって決まってるんだ」
細やかな幸せに夏乃はうれしそうだ。
「……そっか。誕生日か」
櫂人が少し考え込むようにすると顔を覗き込んでくる。
「あ、何かくれる?」
「何か欲しいもんあるのか?」
尋ねてみると夏乃はテーブルに頬杖を突いて首を捻った。
「うーん。何かあんまり思い付かないなあ」
「何だよ。思いつかねーのに言うなよ」
「だって別に、日々満ち足りてるし……」
その割にはあまり幸せそうではない。櫂人は訝しげに夏乃を見た。
「何だよ。言いたいことあるなら言えよ」
「あたしは満ち足りてるけど、兄さんは随分損してるなって……」
小さく溜め息を吐き、櫂人は僅かに顔を顰める。
どうも夏乃と話をしていると結局水樹のところに話が流れていってしまう。
「アイツの養子になるんだから、医学部には行かせてもらえるんだろ?」
「そのことに反対してんのはどこの誰な訳?」
ちらりと睨付けられ、うっと櫂人は言葉に詰まる。
しかし、夏乃は養子の件についてはそれ以上追及してこなかった。
「あたしが言ってんのはそういうことじゃないの」
「じゃあ、何だよ」
「兄さんあたしのために苦労してきたな、回り道してきなって」
「……考えすぎなんじゃねーの? 兄貴なら妹養うのは当然じゃん」
高校を中退して妹を養うことが並大抵の苦労ではないことは櫂人にも想像がつく。しかし、現実問題として他にどうしようもなかったのだろうから、夏乃に非はない。もちろん、水樹にも。
それでも夏乃は納得し難いようだった。
「だって、本当は水樹兄さんの方があたしなんかより何倍も優秀なんだよ? 学校の成績だって性格だって。なのにあたしのために学校やめたんだから……」
夏乃の顔を眺めながら、櫂人はかねてから思っていたことを口にしてみた。
「……お前ってさ、もしかしてブラコン?」
「かもね」
夏乃は笑った。
「だって、父さんが死んでからあたしには兄さんしかいなかったから」
あっさり認めた夏乃を見て櫂人もぼそりと呟く。
「まあ、二人切りってことじゃ俺も似たようなもんだけど。親はどっちも地方に赴任してて、小三の頃から兄貴と二人暮らしだし」
考えてみれば、母の元にいた年数より透と二人で過ごした年数の方が僅かながら長いのだ。あまり認めたくはないが、確かに小学生の頃からこの十年間、透は櫂人の面倒を見てきたのだった。
「へえ、そうなんだ」
意外そうに夏乃が櫂人を見る。
「早渡も案外苦労してるんだね」
「苦労って訳じゃねえけどさ。高子さんもいたし……」
夏乃にそんなふうに言われるのはさすがに心苦しいものがある。夏乃や水樹に比べれば自分はぬくぬくと何の不自由もなしに育ってきたのだ。
決まりが悪そうにふいと横を向いた櫂人を見て夏乃はくすくすと笑った。
「本当はあたし、兄さんとは半分しか血が繋がってないんだ」
「え?」
唐突な告白に櫂人が言葉を返せないでいると、夏乃はテレビの上に目をやった。
「ほら、そこの写真」
そこには写真立てが二つ並べて置いてあった。一つは髭面の中年男で、もう片方はまだ学生だと言っても通用しそうな若い娘だ。
「お母さんすごく若いでしょ。あたしを産んですぐ亡くなったから、この写真は二十歳ぐらいなんだ。で、兄さんとは十五しか離れてないの」
「……十五?」
「そ。中学生だよ。衝撃の事実だよね」
唖然とする櫂人を見て夏乃は笑った。
「それまではよく考えてみたことなかったんだけど、高校の入学手続きするときに戸籍見て、いくら何でもおかしいと思ったから兄さんに聞いてみたら、お母さんが違うんだって」
これは水樹が辻褄合わせに考えた作り話だった。
父茂徳(しげのり)は三十をとうに過ぎてから、さわらび学園でボランティア活動をしていた女子大生の小夏と結婚し、五歳の水樹を養子に迎えた。特別養子である水樹の戸籍上の記載は制度上の配慮から「養子」ではなく「長男」となっているが、養母の生年月日まではさすがに配慮の外。誤魔化しが利かない。水樹としては、一回り以上も年の離れた男が中学生に子供を産ませたという話は、両親の名誉のためにも避けたかったので、取りあえず母親が違うということにしておいたのだ。
水樹の母親が誰で今はどうしているのかとか、戸籍に記載がないということは父とは一体どういう関係だったのかとか、後から考えればいろいろと突っ込み所は満載なのだが、この話は少なくとも水樹が養子という可能性よりは信憑性があったらしく、夏乃は今でも疑いなく信じていた。
「ああ、だから水樹さんってお前とあんまり似てないんだ。お父さんにも似てねえけど」
父の写真を見て櫂人が漏らした一言に夏乃は笑った。
「お父さんに似てても困るよ。だって、お父さんって、人はすごく良かったけど顔クマだもん。兄さんがそんなんだったらヤだよ」
「お前……。言いたいこと言うな……」
櫂人は呆れて夏乃を見る。
無精髭を生やした写真の顔は確かにクマに似ている。さすがに遠慮して、櫂人は口には出さなかったのだが。
「でも、いいんだ。半分でもお兄ちゃんはお兄ちゃんだもん」
頬杖を突いたまま夏乃は櫂人の顔をじっと見る。
「早渡って、桐生さんに似てるよね」
「似てねえよ」
途端、櫂人が嫌そうに顔を顰める。
「似てるよ。だって、兄弟だってわかる前から、早渡って芸能人に喩えるなら桐生だよねって松野さんと話してたもん」
「勝手に人のこと話してんじゃねえよ」
夏乃を一瞥して櫂人はふいと横を向く。
「取材の連中が一目見て弟だってわかんねーんだから、似てねえんだよ」
兄の事となると忽ち不機嫌になり、子供のように言い張る櫂人を見て夏乃は肩を竦めた。
「バッカみたい。いいじゃん。似てたって。桐生に似てるってことは、間違いなく色男ってことなんだから」
「るっせえな。似てねえったら似てねえんだよ。今度言ったらその口塞ぐぞ」
ちらりと横目で睨んだその表情を見て夏乃は笑った。
「あ、その顔。桐生が前にやってたインテリヤクザにそっくり」
「テメっ……!」
一声唸ると腕を伸ばし、櫂人は頬杖を突いていた夏乃の腕を掴んで引き寄せた。逃げられないようにもう片方の腕を背中から回し、横抱きにする形で身体ごとホールドする。
「ちょ、何すんだ」
「プロレスごっこ。青葉が口で言ってもわかんねえからだろ」
「口で敵わないから暴力っていうのは最低だと思うんですけど」
夏乃が何とか体勢を立て直し、斜になって櫂人を睨付けてくる。座っているため、いつもはかなり下の方に見える小生意気な顔が今は随分間近だ。少女体型の夏乃に凹凸はあまりないが、こうしていると抱き心地はそんなに悪くない。
少し困らせてやろうと思い、ぐっと顔を寄せてから、からかい半分に口にしてみる。
「あのさ、女を黙らせるには所謂暴力の他にも手があるんだけど」
「は? 薬物使うとか?」
一瞬脳裏に浮かんだのは、サングラスをした黒服の男達と白いハンカチに染み込ませたクロロフォルム――。
「……あのな」
このシチュエーションで、どうやったらそんな過激且つ色気のない発想になるんだか。
何を言われているのかまったくわかってない様子の夏乃の反応に、櫂人が呆れて溜め息を吐いたところで、ドアの開く音がした。
「ただいま」
ドアを開けた水樹は、奥の部屋の櫂人と夏乃の有り様を見ると一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに櫂人に微笑みかけた。
「いらっしゃい。やっぱり櫂人君だったんだ」
突然の保護者の登場に櫂人が気まずく固まっていると、夏乃が腕の中からするりと抜けて水樹のところへと駆けていく。
「やっぱりって?」
「アパートの前でね、夏乃がすごく背が高くてカッコイイ彼氏を連れてきたって騒ぎになってたから」
「あはは。おばさん達暇だねえ。あ、そうだ。また焼き鳥屋のおばさんから頂き物したよ」
「そっか。それじゃ今度会ったらお礼言わなきゃな。知ってたらさっき会ったときに言えたんだけど……」
本当にこの兄妹は仲がいい。
水樹が帰ってきた途端、夏乃は水樹にべったりだ。透のマンションで見た時とは違い、別段櫂人に見せ付けるつもりもなさそうだった。
年の離れた兄と妹とはこうしたものなのか、青葉家が特別なのかは櫂人にはわからない。確かなことは、自分はこの場に居場所がないということだけだ。
水樹が部屋に入ってくるのと同時に櫂人は立ち上がった。
「じゃ、俺帰るから」
「え、もう帰るの?」
「あの、せっかく来てくれたんだし、もう少しゆっくりしていったら……」
引き止める水樹とは目を合わせずに台所まで出る。
「荷物持ちに来ただけだから」
挨拶もそこそこに櫂人がドアを開けて通路に出ると、水樹がサンダルを突っ掛けて追いかけてきた。
「あの、櫂人君」
「……何だよ」
どうせさっき夏乃としていたことを聞かれるか、でなければ養子縁組のことでも言い出すのだろうと思い、いささか構えて櫂人が振り向くと、水樹は思いも寄らないことを口にした。
「どうか夏乃とはこれからも仲良くしてやってください。君には僕のことで迷惑を掛けて申し訳ないけれど、僕のせいで夏乃がクラスメイトとぎくしゃくするのは困るから……」
「……あんた、ホントに人いいな」
櫂人は呆れて内心溜め息を吐く。
「妹が男と二人っ切りで、心配しねえの? さっき何してたとか気にならない訳?」
水樹は意外なことでも言われたように目を丸くした。
「え、でも、あれは別におかしなことをしてた訳じゃないよね? 見ず知らずの他人が勝手にウチに上がり込んで夏乃に何かしたっていうならともかく、櫂人君は桐生さんの弟さんだし……」
その桐生の弟に対する全幅の信頼はどこから来るのか。兄妹揃って無防備すぎるのではなかろうか。
「あんたと兄貴のことはともかくさ、俺はあんたと友好的とは言い難いんだけど。あんたに対する嫌がらせで、妹にちょっかい出したりするかもとは思わないんだ」
櫂人が少し意地悪く言ってみると、水樹は僅かに困惑したような表情を見せる。
「それは……そうこともあるのかもしれないけど。でも、夏乃が嫌がってたり酷いことされてるようなら見ればわかるから。櫂人君がそういうことするとも思えないし……」
「もう、いいや」
ひとつ溜め息を吐くと櫂人は水樹に背を向けた。
水樹を相手にしていると皮肉や当て擦りを言っている自分が情けなくなってくる。
「心配しなくても青葉に八つ当たりはしないよ。じゃあな」
◆
透の引っ越しから二週間ほどが過ぎた。
十月に入り、もうすっかり秋の気配の放課後。教室の掃除を終えた夏乃が帰ろうとすると、廊下で待っていたらしい櫂人に声を掛けられた。
「ちょっとこれから付き合えよ」
「別にいいけど……。どこ行くの?」
夏乃が尋ねると、櫂人はそれには答えず一旦教室に入って自分のロッカーから通学鞄ともうひとつ、あまり見掛けないスポーツバッグを引っ張り出した。何が入っているのか随分重そうなそれを肩に掛け、夏乃を振り返る。
「取りあえず、お前んちまで行くから」
「は?」
今一つ意図が掴めなくて困惑気味の夏乃には構わず、櫂人は廊下をどんどん先に行く。
「一体、何の用なのよ」
結局、肝心なことは何一つ話さずにアパートまでやってきた櫂人を、夏乃はドアの前で呆れて見上げた。
「いいから、早く開けろよ。荷物があるんだからさ」
「荷物?」
今更ながら櫂人が肩から掛けているスポーツバッグをまじまじと見る。
この中には何が入っているのだろう。
さほど大きくはないが何か箱状のかなり重い物らしく、布製のバッグはそこだけ重みが掛かって不格好に変形している。
いつまで眺めていても仕方がないので夏乃が鍵を開けて中に入ると、櫂人も後について上がってきた。奥の部屋に入ってバッグを下ろしファスナーを開ける。
夏乃が興味津々に覗き込むと、出てきたのは家庭用ゲーム機ぐらいの箱だった。完全に梱包されていて、封を切った様子はない。表面に社名と製品コードらしき数字が大きく印刷されているが、それだけでは中身が何なのか判別は出来なかった。
「何これ……?」
「ちょっと遅くなったけどさ……」
櫂人は梱包の封を切りながら、夏乃の方は見ずに答える。
「誕生プレゼント」
「え? 誕生プレゼントって……」
箱の中に整然と並んでいるものを見て夏乃は唖然と目を見開いた。
金属で出来た平たい円柱状の見慣れた容器。いつも夏乃が使っている製品とは違うが、ハンドクリームであることは一目瞭然だ。
「何これ! 箱買いって、バッカじゃないの? こんなにいっぺんに使いきれないよ!」
ひとつ手に取り底の能書きを確かめながら、半ば呆れた様子で文句を垂れる夏乃に櫂人は顔を顰めた。
「いいだろ。ただでもらうんだから、水使う度にたっぷりつけとけよ。そんで、夜は風呂から出たらもういっぺん塗って、寝てる間は手袋しとけ」
ビニールで梱包された白い布手袋の束をこれまた大量にバッグから取り出した櫂人は、それを夏乃に押し付けるようにする。
「保湿になるから手荒れにはいいんだとさ」
「……それって、何……。調べたの?」
手袋の塊を抱え、茫然と見上げて夏乃が問うと、
「悪いかよ」
櫂人はわざと顔を顰めていささかきまり悪そうにそっぽを向いた。それでも相手の反応が気になり、ちらりと目をやって、
「ううん。ありがと。今日からやってみる」
素直にうれしそうにする夏乃に一瞬ドキリとする。
「……お、おう。これも、おまけにやるよ。霜焼けにいいんだとさ」
最後にビタミンEの錠剤を一箱テーブルに置くと、櫂人はそそくさと立ち上がった。
「じゃ、俺帰るから」
あの日、家に帰ってからネットで手荒れについて調べまくり、ハンドクリームの良しあしについて高子はもちろん、滅多に連絡を取らない母親にまで意見を聞いてメーカーを選んだなどとは夏乃には絶対に言えない。本当は、職業柄スキンケアには詳しいかもしれない透にも相談してみようかとほんの一瞬だけ考えたのだが、それはもっと口外出来なかった。
ともあれ、細やかな数日の努力は報われた。
アパートの階段から夏乃に見送られ、軽くなったスポーツバッグを手に櫂人は帰途についたのだった。
◆
「どうしたんだ、夏乃。その手袋……?」
定時制の授業から帰宅した水樹は、台所まで出てきた夏乃の手を見て目を見開いた。蛍光灯の下、白さが眩しい真新しい手袋をまじまじと見る。
「うん、今日早渡にもらった。してると手荒れにいいんだって。そこのハンドクリームも一緒に。あとビタミンEも」
水樹が夏乃の視線を追って奥の部屋を見ると、部屋の隅に箱が置いてある。
「え、ハンドクリームって、これ? 凄いな……」
箱を覗き込み、水樹が感嘆したような声を出すと夏乃は振り向いて笑った。
「一生分ぐらいあるよね。誕生日のプレゼントだって」
「そうか。良かったじゃないか。ありがたく使わせてもらいなさい。いい子だな、櫂人君は」
「うん。まあね」
夏乃が運んできた遅い夕食の膳に着くと水樹が尋ねてきた。
「夏乃、櫂人君は養子のこと許してくれそうかな」
「うーん。どうかなあ」
兄の質問に夏乃は眉根を寄せる。櫂人のことについて二人で話すのは初めてだった。
「何て言うか、アイツって自分の兄貴のことになると人変わるんだよね。理性がブッ飛ぶっていうか子供に戻るって言うか……。学校じゃあんなじゃないんだよ」
夏乃はちらりと自分の手に目をやる。
他の人間には普通に接して気遣いも出来るのに、自分の兄に対してだけ何故ああも意固地になるのか訳がわからない。
「でも、いくら何でも理由もないのに反対している訳じゃないよね。どうして許してくれないのかな。僕のこと気に入らないのかな」
「多分、そういう問題じゃないと思う」
「それじゃ、やっぱりゲイ疑惑が原因?」
「それもあるけど、アイツって自分の兄貴に対して凄くコンプレックスあるみたい。人のことブラコンなんて言ってたけど、あれは自分だって相当だよ」
水樹は目を見開く。
「ブラコン……。ブラザーコンプレックスってことか?」
「うん。だってさあ。この間だって悪口言ってるように見えて、実は自分の兄貴が如何に凄いかってこと滔々と語ってたもん。玄武坂で六年間首席だったとか、三回生の時に司法試験一発合格だったとか。二回試験受かった後あっちこっちから引き合いがあったとか」
夏乃は肩を竦めてみせる。
「その優秀で完璧な兄貴が、積み上げてきた評判も実績も長男としての責任も全部放り出してとんでもない方向へ逸れていっちゃったのが許せないって感じ」
「……そっか」
生真面目に考え込む様子の水樹を見て夏乃は小さく溜め息を吐く。
「もう、アイツのことなんか無視して養子縁組しちゃえば? アイツも勝手にしろって言ってることだし」
「そうはいかないよ」
水樹は穏やかな、けれども少しだけたしなめるような眼差しで夏乃を見てから微笑む。
「せっかく縁があって櫂人君の身内になるんだから、僕とのことも桐生さんとのことも、ぎくしゃくしたままなのは何だか寂しいよ」
「うーん。何かさ、桐生さんが復権できる大イベントとかあるといいんだけどね。でも、肝心の法曹界から離れちゃってるからダメか」
「いや。実はそうでもないんだけど……。でも、そうか。イベントか……」
箸と茶碗を持ったまま、何事か思い付いた様子で静止してしまった水樹を見て、夏乃が笑った。
「兄さん、考え事は後にしてご飯食べちゃったら? 冷めちゃうよ」
Fumi Ugui 2008.06.08
再アップ 2014.05.21