賢者の家の物語 エスコート

エスコート

 音楽が流れ出した。
 楽団の四拍子につられるように何組かのカップルがフロアの中央に滑り出し踊り始める。パートナーを求める貴族の子弟達がお目当ての女性の元に歩み寄る。
 その様子をソファに身を沈めてぼんやりと眺めていたゾフィーの元へ一人の青年が歩み寄ってきた。礼儀正しくゾフィーをフロアへと誘う。物腰が優雅というよりは頼りなげだ。
 元々魔物や猛獣と戦って勝つような勇気も知恵も人並み以上の男達と対等に付合っているゾフィーにとって、大抵の男が頼りなく見えてしまうのはある程度は仕方がないことだ。だが、それを差し引いてもこの青年はどこかしらなよなよとした印象を人に与えるようだった。話を聞けば、この国の大臣の一人息子ということだが、一国の将来を担う人物にしては些か線が細すぎる。
 例によってサティヤに婚約者の振りをしてもらい、ゾフィーは申し出をやんわりと断った。素直に引き下がるところを見ると知性も教養もあり人柄は決して悪くないようなのだが……。
 「どうしてあんなのばっかり寄ってくるのかしら?」
 盛大に溜息を吐くゾフィーを眺めながらサティヤは笑いをかみ殺す。
 「人間誰しも自分にないものには憧れるからねえ」
 「それって、どういう意味?」
 ちらりとサティヤを睨付けてカクテルジュースを一杯呷り、いつもの癖で果実酒を勝手に継ぎ足すゾフィーの手から、サティヤが笑ってボトルを取り上げる。
 「手酌はやめた方がいいよ」
 「もう。お酒も自由に飲めないなんて……。ねえ、いつまでこんなことしてたらいいの?」
 意気消沈気味にソファの背もたれに身を投げるゾフィーにサティヤはいつものように穏やかに微笑む。
 「そうだねえ。ここに長居をしていてもあまり意味はないかな。君が花婿探しをする気なら別だけど」
 「まさか」
 この場の空気がよほど性に合わないのか、ゾフィーは心底うんざりしたように大きく溜め息を吐いた。
 「それじゃ、主催者に挨拶がすんだら帰ろうか」
 サティヤはソファから立ち上がると、ごく自然な動作でゾフィーの手を取った。意外な行動に目を丸くするゾフィーを上手くリードしてフロアの中央へと誘い出す。フロアにはいつの間にか三拍子の音楽が流れていた。
 「主催者が現れるまでの余興だよ。たまにはこういう経験も悪くない」
 「呆れた人ね。こんな気障っぽいことも出来たんだ」
 ゾフィーの明け透けな言い様にサティヤは苦笑する。確かに旅の間は披露する機会がなかったが。
 「気障っぽいはないよ。僕の生まれて育った環境では取りあえずの嗜みなんだよ。これもね」
 「庶民のあたしは踊ったことないんだけど?」
 「大丈夫。すぐ覚えるよ。僕もさほど得意って訳でもない」
 「あなたの『得意じゃない』ほど当てにならないものはないと思うけど」
 「君の大嫌いな古代文字を覚えるよりはずっと簡単だよ」
 サティヤに促され、楽団の三拍子にあわせてゾフィーは生まれて初めてのステップを踏む。
 最初はぎこちなく簡単な基本のステップ。次第に複雑なステップにターン。そして、いつしか華麗なアリヤン・カーン風の振り付けへと見事に二人のダンスは変貌を遂げる。
 一度ステップとパターンを覚えてしまえば、戦闘や修行で鍛えられたゾフィーの身のこなしは一般人の比ではない。さすがに優雅とまでは言えないが、ゾフィーがいくら大胆に動いてもそれを支えるサティヤが安定しているお陰で一体化したその動きは少しもぶれることがなかった。
 サティヤのリードが促すまま、ゾフィーがターンする度にフロアに純白の大輪が咲き誇る。ゾフィーが身に纏った薄絹の民族衣装の裳裾は、ターンにスピードが乗れば乗るほど舞い上がりよく広がった。巻き起こる風に剥き出しになった足が直接触れる。それが単純に気持ちよくて、ゾフィーは何度もサティヤにターンを要求した。
 「宮廷ダンスはお気に召したかい?」
 「すっごく! 宮廷ダンスというか、ターンが。疾風の呪文使ったらもっと速く回れるかしら?」
 サティヤの問い掛けに答えながら、ゾフィーがうれしそうにターンを促す。望まれるままにサティヤがリードすると、二人はまたくるりと一つ、大きく回った。
 「それはよかった。せっかく来たのに楽しい想い出のひとつもないんじゃね」
 「うん。ありがと、サティヤ」
 踊る二人の見栄えのよさと、異国風のダンスという物珍しさも手伝って周りにはいつの間にか人垣が出来ていた。賢者のダンスの評判は僅かの間にさざ波の様に王城全体に広まり、国王や王子の耳にも届いて、その登場を些か早めさせる効果をも生む。
 さしもの二人も散々踊って疲れ始めた頃、唐突に三拍子が途切れファンファーレがなった。
 それを合図に賢者のダンスを見ようと集まっていた人々の囲みが左右に割れる。すると、正面の大扉が開き、国王と王子が姿を現した。
 皆が一斉に礼を取る。フロアの中央に取り残されたゾフィーもサティヤに促され作法通りに会釈をした。何となく落ち着かない気分を感じてゾフィーが顔を上げたその途端、無遠慮に見詰める視線とぶつかった。
 いつの間に近寄ったのか目の前に王子の顔がある。緑を基調とした正装と濃い金髪のせいでカボチャの様に見えるでっぷりとしたユーモラスな体付きに、小さな目。その人を品定めするような不躾な視線に晒され、瞬間顔を上げてしまったことを後悔したが、今更視線を逸らすわけにもいかず曖昧に微笑みかける。王子が後方の国王に話しかけた一瞬の隙をついて、ゾフィーは素早く踵を返した。
 「ゾフィー?」
 唖然とするサティヤをその場に残し、まるで戦闘から離脱するような身のこなしで人込みに紛れ込む。念のためにサンダルを脱ぎ隠れ身の呪文まで唱えたことに苦笑しながら、ゾフィーは音もなく広い廊下を中庭に向かって走り抜ける。
 あの一瞬、視線を交わしただけで賢者の直感がすべてを理解した。
 相手の人格。自分への並々ならぬ興味。
 外見だけで人を判断するわけではないが、どう考えてもあの王子が自分の一生の伴侶とすべき男だとは思えない。話がややこしくなる前に逃げるが勝ちだ。
 中庭に出たところで隠れ身の効果が切れ、それを見てどうやらテラスから飛び降りたらしいサティヤが追い付いてきた。
 「どうしたんだい? 敵前逃亡なんて君らしくもない」
 「ああいうタイプはしつこいから苦手なのよ。あなたの千分の一も知性がなさそうだったし」
 ゾフィーの王子評を聞いてサティヤは苦笑した。
 「手厳しいね。一目でわかるの?」
 「長年酒場で働いてきた女のカンよ。あなたは彼に人の上に立つだけの器量があると思う?」
 キョトキョトと落ち着きがないうえに憶病さと小狡さの入り交じった小さな目。ゾフィーを追うように命じた時の部下に対する尊大な態度。女性に対する値踏みするような視線は、一流の作法を身に付けているはずの一国の王子にしては不躾だ。一瞬のうちにこれだけ欠点が見て取れる男も珍しい。
 サティヤは挙式直前に逃亡したという元婚約者の姫君に密かに同情した。
 「サティヤ……」
 唐突にゾフィーの腕がサティヤの首筋に絡み付いた。どうしたのか、と問う暇もなく彼女の唇が自分のそれに押し付けられる。唇が離れると耳元で囁く声がした。
 「恋人の振りして。王子が見てるから」
 「了解したよ」
 低く囁き返すとサティヤはゾフィーの細い身体に腕を絡めた。取りあえず抱き締め彼女の胸元に顔を伏せる。
 「彼、まだいるのかい?」
 「うん。テラスの下ね。生け垣の後ろ。動かない。あのデバガメ野郎、もしかしてずっと見てるつもり?」
 「口の悪いレディだね」
 鉄火な言い様がおかしくて思わず低く笑い声を洩らすとゾフィーが軽く身じろぎする。
 「ちょっと。そんなとこに顔を押し付けたまま笑わないでよ。くすぐったいじゃない」
 「ごめん、ごめん。思い人にデバガメ呼ばわりされてるなんて、あの王子様は夢にも思ってないだろうと思ってね」
 「言われて当然でしょ。用があるなら声を掛けるか、それも憚られると思ったら黙って立ち去ればいいのよ。いつまでああしてるつもりなのかしら」
 二人が囁きあっている間も生け垣の向こうの影は一向に動く気配がない。
 「きりがないから脅かしてみようか?」
 「やってみて」
 自分の身体をゾフィーから離すとサティヤは後方に向かって一喝した。
 「そこにいるのは何者だ!」
 途端、生け垣が大きく揺れ、情けない悲鳴とともにカボチャのような体形の男が転がり落ちて来た。ぶつけた鼻を押さえながら金切り声で泣きわめくその様はゾフィーの指摘通り知性のかけらも感じさせない。
 「ぶぶ、無礼者! 僕は王子だぞ……!」
 「おやおや……。王子様が覗きのまね事とは感心いたしませんね……」
 サティヤが溜息を吐く。
 「そなたは何者だ? そちらのお嬢さんとの関係は?!」
 不躾な態度だったが、そこは大人の余裕で、纏った民族衣装のショールを典雅に翻しサティヤが礼儀に適った返答をする。
 「お初にお目にかかります。私はアリヤン・カーンの賢者サティヤ。本日はこちらの賢者ゾフィーを同郷のよしみでエスコートして参りました」
 「御苦労だったな。帰っていいぞ。以後彼女のエスコートは僕がする」
 いくら王族とは言えこのあまりの身勝手で非礼な言い様に、さすがの根が鷹揚なサティヤも唖然とする。
 「お言葉ですが、王子様」
 唐突にゾフィーが口を開いた。
 サティヤが目をやれば、酔っ払っている訳でもないのに目が完全に据わっている。放たれた言葉から伝わってくるのは明かな怒りの波動。
 「サティヤはあたしの大切なパートナーです。必要ないのはあなたの方よ」
 一国の王子を見据えゾフィーが昂然と言い放つ。
 憎からず思っている相手からの手痛い反撃に、面目を潰された怒りか、それとも怯えなのか、王子は小さな目を白黒させながらただ口をぱくぱくさせている。
 「おいおい、ゾフィー。いくらなんでもそれは言い過ぎだよ」
 なだめる様子のサティヤを振り返り、地団駄を踏みそうな勢いでゾフィーは吼えた。
 「言い過ぎなもんですか!」
 不羈の者、真に目覚めた者の矜持が夜の冷たい空気をビリビリと震撼させる。
 「冗談じゃないわ! 押しも押されもしないあなたは賢者よ! 何でこんな礼節も知らないバカ王子に偉そうに言われなきゃならないの!」
 自分に向け突き出された指先。その指先が今にも火を噴きそうな相手の剣幕に気圧され王子がたまらず後退る。
 「りょ、慮外者っ……! お、王子の僕に無礼を働いてただですむとでも……」
 裏返った声で逃げ腰になりながら、なおも権力を振り回そうとする王子にゾフィーが一歩、また一歩と間合いを詰めていく。
 「ただですまなきゃどうなるのかしら?」
 なまじ美しい容姿をしているだけに、彼女の追及は神々しいまでの威厳と迫力に満ちていた。それは容赦なく王子の張りぼての威厳を引き剥がしていく。
 「やれるものならやってごらん。こんなのをのさばらせておいたら異界にアーリヤ・キルティを残してきた甲斐だってない。あたしがその性根を叩き直してあげるわ!」
 ゾフィーの発する怒りの圧力に耐えきれなくなった王子がついに悲鳴を上げた。
 呼応して衛兵の姿が現れる。既に腰が抜けて尻餅をついている王子を取りあえず保護すると、彼らは狼藉者二人に向かって槍を構えた。
 しかし、ゾフィーの怒りは衰えない。それどころか、魔物との戦いでも見せたことのないような苛烈なオーラが全身からゆらゆらと立ち上る。
 「このくらいの人数でこのあたしを相手にできると思ったら大間違いよ」
 情けなくも衛兵達の陰に隠れようとする王子をルビーの瞳が射抜き、前方に延ばされた掌がゆっくりと持ち上がる。さすがに刃傷沙汰はまずいとサティヤが止める暇もなく、ゾフィーの唇から詠唱が漏れ出し、それは瞬く間に完成した。
 紡ぎ出されたのはまどろみの呪文。
 荒れ狂うドラゴンも一瞬で眠らせるその威力に衛兵が次々と頽れていくなか、同様に夢の世界へと落ちた王子に近づき、そのカボチャのように大きな臀部に踵で一発蹴りを喰らわすとゾフィーは唖然と佇むサティヤに向き直った。
 「さ、もうこんなところに用はないわ。さっさとアリヤン・カーンに帰りましょ」

 ◆

 「あんなに激した君はちょっと久しぶりに見たよ」
 陽光の燦々と照らすアリヤン・カーンの森の午後。
 庭先でゾフィーと木陰のテーブルを囲み、フルーツジュースをグラスに注ぎながらサティヤは軽く溜め息を吐いた。
 あの後、中庭に姿を現した国王にサティヤが事情を説明し丁寧に謝罪することでことはなんとか収まった。国王が王子とは似ても似付かぬ分別をわきまえた人格者であったからよかったものの、そうでなければ大変な事態に発展していたに違いない。
 「賢者としての品性を欠いたことに関しては十分反省しているわ……」
 グラスを受け取りながらゾフィーもまた溜め息を吐く。しかし、しおらしいのもそこまで。たちまちその整った眉間に皺が寄る。
 「でもね、あのバカ王子に言ってやったことについては別よ。あんなこと言われて反論も出来ないのが作法なんだとしたら、王宮や社交界なんてうんざり! あなたと二人ここに隠棲してた方がよっぽど有意義だわ」
 不遜で傲慢な王子の顔を思い出しでもしたのか興奮気味にまくし立てる。
 そんなゾフィーを見て、サティヤは愉快そうに咽喉で低く笑う。
 「昔の君を思い出したよ。よく酔っ払い相手に啖呵切ってたよね」
 賢者になってからはさすがになくなったが、酒場で働いていた頃のゾフィーはよく酔っ払い相手に喧嘩をしたものだった。女だてらに気っぷが良くて、権力を振りかざす品行のよくない貴族連を相手に一歩も引かないその堂々とした態度にサティヤは驚かされたものだ。
 「懐かしいわね」
 「君にまだそういうところが残っていて、なんだかちょっとうれしいよ」
 「何よ、それ。からかってるの?」
 「いや。物分かりがやたらといいのは僕らの欠点だからね」
 事なかれ主義に陥っているつもりはない。だが、物事に鷹揚になりすぎて行動が遅くなる。それは賢者の、否、サティヤ自身の欠点だ。だからこそサティヤは行動本位の勇者アーリヤ・キルティに魅かれ、憧れる。
 (憧れの対象がもう一人、すぐ近くにもいたことをすっかり忘れていたよ……)
 サティヤは改めてゾフィーを見る。
 大いなる旅の仲間にして最初の弟子。そして現在、寝食を共にする相方。いつもと変らないルビーの瞳の賢者がそこにいる。
 「何よ。人の顔じっと見て。おかしな人ね」
 「いや。相変わらず君は眩しいなと思ってね」
 いつもの様に飾らない正直な思いを口にしてサティヤは笑う。ゾフィーも余裕で受け止める。
 「誉めても何も出ないわよ」
 「とんでもない。むしろ今日は僕が君のために何かさせてもらうよ。いろいろ思い出させてもらったお礼にね」
 「ふうん……?」
 ゾフィーはしばらく頬杖をついてサティヤの顔を探るように眺めていたが、やがて好奇心いっぱいに身を乗り出した。
 「だったら天文教えてくれない? いくら書物見ても全然頭に入らなくて困ってたのよ。今日はいい天気だし星もよく見えそうじゃない?」
 相手のあまりにも賢者らしい申し出にサティヤの口許も綻ぶ。
 何だかんだ言っても結局彼女も賢者。知の虜なのだ。
 色気よりも、食い気よりも、知を愛す者。
 「お望みとあらば一晩中でも付き合うよ。星を追って流星の呪文で各地を巡るというのも悪くないね。その方が君の頭にも入るよ」
 「さすが、サティヤ。そうと決まったら夜食用のお弁当作らなくっちゃね」
 楽しそうに夜食のメニューを考えるゾフィーを見てサティヤも立ち上がる。
 「買い出しに付き合うよ」
 二人は呪文を唱えた。
 忽ち流星と化したその姿は晴天の空の下、熱帯の森を掠め、アリヤン・カーンの街に向けて消えていった。

 【完】


Fumi Ugui 2008.02.09