小さな訪問者 賢者の家の物語

 北西に渓谷を望む針葉樹の森林地帯。その森林地帯の入り口に村があった。
 渓谷を流れる川と源流を同じくする水脈から井戸を掘って生活用水を得、村人の大半がきこりを生業としている小さな村だ。
 ある日のよく晴れた朝、人々がそれぞれの仕事に取りかかろうとする頃、その村の手前の、少しだけ開けた細やかな街道に突如として流星が現れた。
 蒼穹を遥か彼方に去っていくかと思われたそれは見る見る高度を下げ、次第に速度を緩めて街道目掛けて下りてくる。星かと見えていた光は降下するに連れて徐々に光度を落とし、中に人らしき姿が朧に浮かび上がる。
 ふわりと天から舞い降りたのは一組の若い男女だった。
 男は中背だが堂々とした体躯の持ち主で、その褐色の肌の下半身のみを薄物の裳で覆い、その上からどこかの民族衣装と思しき明るい柄の一枚布を腰巻きの様にざっくりと重ねていた。手には樹の杖を携え、色素の薄い、銀に近いような腰まで届く長い髪にやはり銀の細いサークレットをしている。
 女の方はやはり流れるような長髪の、ルビーの瞳も冴え冴えとした美女で、薄物の裳の両脇から大胆に脚線美を露出させていた。こちらも男と同様に銀のサークレットをしている。
 もう十分に肌寒い季節だというのにどちらもほとんど薄物だけの半裸姿だった。
 二人が街道を進み、やがて大樹を道の両脇に配しただけの素朴な魔除けの門を潜ると、辺りで遊んでいた子供のうちの一人が気付いた。
「あ! 賢者さんだ!」
 巡回にやってきた賢者の姿を目に留めた子供たちは一斉に先触れに駆け出していく。

 ◆

 サティヤとゾフィーがこの村を訪問するようになったのはつい最近のことだ。
 きっかけは村の裏手の森に新しい《通路》が出来たことだった。それは天に向かって音もなく立ち昇る水とも光とも知れない渦潮状もので、ある日突然出現したそれを怪しんだ村人が、二人を賢者と見込んで遥々遠隔の地から南国アリヤン・カーンまで頼ってきたのだ。
 《通路》は空間を縮める性質を持った文字通りの通路のようなもので、生物でも無機物でも中へ入れば忽ちのうちに遠隔の別の場所へ移動することが出来た。《通路》が開く場所と形状は様々で、大樹の天辺から湖の底へ通じることもあれば、何もない虚空にぽっかりと穴が開くこともあった。単純に距離を縮める他に次元の壁を抜ける作用が働くこともある。どこに通じているのかは向こう側に出てみなければわからない。《通路》自体が安定していれば問題はないが、不安定な場合は現れたときと同様突然消えてしまうこともありうる。最悪の場合向こうへ行ったきり還れなくなってしまう可能性もあるのだ。
 現在この世界で確認されている《通路》は僅かに一個所。それは古から伝わりきちんと管理されている安定したものだ。故に動向の予測できない新規の《通路》が出現した場合は当面注意深い観察が必要なのである。
 もちろん、《通路》の向こうからこちら側に訪問者がやってくることも十分考えられる。用心のため、万が一邪悪なものが現れた場合は森の外からでも一目でわかるよう特別に反応する魔方陣を《通路》の周りに描き、村長には見張りを立て少しでも異変が起きたら知らせるようにと言ってあった。
 月に一度の訪問はこの《通路》の様子を確かめることと村人の健康相談にのることが主な目的であった。

 ◆

 二人が村の集会所で簡易診療所を開いていると村人が村長の訪問を伝えてきた。
 姿を現した村長は、後ろに赤ん坊を抱えた村人をひとり連れていた。
 数日前、当番の者が《通路》の様子を見に行くと、この赤ん坊が渦潮の側でひとりで泣いていたのだという。村人に心当たりはまったくなく、発見した場所が場所だったので賢者にお伺いを立てようということになり、わざわざ村長自ら出向いて来たのだ。
 赤ん坊は健康そうな男の子で、この辺では見慣れない作りの水色の上等な産着を着ていた。首には涎掛けの代わりに赤い蔓草模様のスカーフを巻いている。色の薄い髪の毛はまだ産毛のように柔らかで完全に生え揃ってはいないようだ。しかし、首は既にきちんと据わっており、自由になりたいのか小さな腕を精一杯突っ張らせて伸び上がり、村人の腕の中でしきりに手足をばたつかせている。
「元気な子だね」
 サティヤが目を細めて感想を述べると、
「はあ。それはもう大変なもんで」
 赤ん坊をしっかりと抱き直し、村人がここぞとばかりに訴えた。
「うちが乳飲み子をもっとりますもんで預かったですが、もう、一時もじっとはしとりませんです。はい。ちょっと目を離すとすぐ家の外へ出ていってしまうんですわ」
「あらら、そうなの。やんちゃさん。よほどお外が好きなのね」
 ゾフィーが指先で小さな鼻の頭をちょんとつつくと赤ん坊は彼女の方へ身を乗り出した。
「……それか、とても気になっていることがあるか、だね」
「気になること?」
 赤ん坊からサティヤに視線を移しゾフィーが首を傾げる。
「大人だってそうじゃないか。気になることがあると、居ても立ってもいられない。そうだろう、坊や?」
 サティヤが顔を覗き込むように問い掛けると赤ん坊はむずかるのをやめサティヤを見上げた。小さな口をきゅっと結びサティヤの顔をじっと見守る。つぶらな瞳で何事か訴えている様子だ。
 サティヤは赤ん坊の方へ両手を差し伸べ、微笑みかけた。
「わかったよ。さあ、こっちへおいで」
 何がわかったのか不思議に思いながらも村人がサティヤに促され抱く手を弛める。と見るや、赤ん坊は大人達の手を逃れ、まるで子犬か子猫のように機敏に地面に着地した。そのまま一直線にどこを目指してか、恐ろしい勢いではいはいを始める。
「こらこら。どこへ行く。勝手にどこかへいっちゃいかん!」
 慌てて赤ん坊を抱き上げようとする村人をサティヤが制する。
「いいんですよ。やはり彼には何か気になることがあるんだ」
「みたいね。脇目も振らずにはいはいしていくわ。赤ん坊にしてはすごい集中力よね。感心しちゃう」
 あっけにとられる村人をその場に残し二人は赤ん坊の追跡を始めた。


Fumi Ugui 2008.02.22