小さな訪問者 賢者の家の物語

 いかに足(?)が速いと言ってもそこは赤ん坊。追い付くのに訳はなかったが、相手は何分身体が小さいため思いもよらぬルートを開拓していく。
 大人なら一跨ぎの小さな水たまりを迂回し、狭い木々の間や向こう側のまったく見えない薮の小さな隙間を躊躇いもせずに通り抜け、段差をよじ登っていくその姿はそれだけでひとつの小さな勇者の冒険譚を思わせる。が、それを見守る二人にとって、見失わないようについて行くのは意外と骨が折れる仕事だった。古い民家のクモの巣だらけの垣根の隙間を四つん這いになり腹ばいになりながら賢者が二人慎重に進む。
「なんか大変なところを通っていくわね。子供の頃に戻った気分だわ」
「僕はこういう経験は初めてだ。なかなか興味深いよ」
 先を行く小さな勇者はたまに猫や犬、トカゲや蛇にもに出くわしたりしたが、それでも怯む様子はないようで、
「あ、頭突きした……」
 二人の手を煩らわせることもなくどんどん先へと進んで行く。
「結構肝が据わってるわよねえ、あの子。どこへ行くつもりなのかしら?」
「このまま行くと例の《通路》の近くに出ると思うんだが……」
 最後に狭い民家の隙間を通り抜けると赤ん坊は村の裏手の井戸端に出た。女達は井戸端会議を終了したのか人影はない。赤ん坊は井戸端の小さな広場を横切り、その向こうの森に向かう様子だ。少し先には《通路》がある。
「やっぱり《通路》に用があるのかしら?」
「さあ、どうだろう。あの子が《通路》から現れたという確証もまだない訳だが……」
 サティヤは井戸端に出ると隠れ身の呪文を唱えた。瞬く間にその姿が見えなくなる。
「森に入るとどんな危険があるかわからないからね。遠くから見守るという訳にもいかないだろう」
 魔の影響は絶えたとは言っても元々この辺りの森には猛禽類や熊、狼などの野生動物がいくらでも普通に生息している。
「そうね。いくら勇敢でもまだ赤ちゃんだもんね」
 ゾフィーもまた呪文で姿を隠すと、二人は左右からそっと赤ん坊に近寄り歩調を合わせた。赤ん坊は下生えを踏む音に反応し耳を澄ますように少しだけその場に止まったが、また脇目も振らず目的地に向かって歩み始める。
 程なく、薄暗い森の中に天に向かって逆流する渦潮状の光が見えてきた。その水とも光とも知れない渦は、途切れることなく地表より大量に涌き出して樹々の間から遥か天空高く吸い込まれていく。これがつい最近新しく出現した《通路》、つまり赤ん坊が発見された場所だ。
 しかし、赤ん坊は特に《通路》自体には関心を示さず、渦潮を取り囲むように地面に描かれた魔方陣の手前でしばし歩みを休めると左に方向転換した。
 進路を決めた赤ん坊は相変わらず恐れ気もなくひたすら前進していく。

「もう随分来てるわよ。どこまで行くのかしら?」
「このまま行くと森を抜けて渓谷へ出てしまうかもしれないね」
 二人で極々低く囁き合いながらしばらく行くと、微かに川のせせらぎの音が聞こえてきた。樹々の間から遠く対岸の切立った断崖が見え、薄暗かった森に徐々に光が差し込んでくる。
 と、赤ん坊の行く手の遥か向こうを何かぼんやりと小さな光が横切った。
 サティヤとゾフィーが目を凝らし警戒して身構える。
 ほぼ同時に赤ん坊も歩みを止めた。顔を上げて、現れた光を目で追っている様子だ。
 細やかな星辰の瞬きの様に頼りなげなその小さな光は、滲むような残像を残しながら虚空をふらふらと赤ん坊の方へ近付いてきたかと思うと唐突に速度を増して接近し、声を発した。
「あ、王子! こんなところに!」
 目の前までやってきたそれを見て、ゾフィーが思わず声を漏らす。
「なあに、あれ……。サティヤ知ってる?」
「しっ。静かに。気付かれてしまうよ」
 それはさしもの博識な二人でさえ見たことも聞いたこともない生き物だった。
 身の丈は掌に収まるくらい。上半身は裸体に装身具をたくさん身に付けた可愛らしい少女の姿なのに、腰から下は彩りの美しい長い尾羽根を持つ小鳥の形をしている。自然の摂理に反した実に奇妙な生き物だが不思議と邪悪さは感じさせなかった。むしろ、精霊や神々、或いは、二人が大いなる旅の末に出会った尊き人と同類の神聖さを感じさせる。
 彼女は虹色の羽根を広げて赤ん坊の鼻先まで飛んでくると、その周りをくるくると回って歌うような美しい声音で文句を言った。
「もう。どこ行ってたんですか、ユパ王子。ずっと探してたんですよ。魔法の小槌はあそこです。私じゃ動かせなくって。急いで持って来てくださいな」
 小さな指が示す方向を見れば、森の終りの崖っ縁に鷲か鷹のものらしき巣が設けてあった。まだ巣作りの途中らしく卵は見当たらない。その代わりに奇妙なものが入っていた。
 それは一言で表現すれば麺棒のようなものだった。棒の片側がかなり太く出来ていて槌のようにも見える。太くなっている部分には彩度を落とした明るく柔らかな色合いで彩色が施されていた。
 その奇妙な道具を見た途端、赤ん坊は巣に突進した。飛び付くようにしてその道具に小さな手を伸ばす。と、その時だった。
 さっと、天から大きな影が差し、舞い降りた羽音が赤ん坊を襲った。
 赤ん坊を庇うためとっさにサティヤが飛び出し、ゾフィーが一番短い加護の呪文を唱え始める。だが、どちらも僅かに距離が足りない。大鷲の鉤爪が赤ん坊を引き裂くと見えた刹那、奇妙な音が辺りに響き渡った。
 一瞬、行く手から吹き飛ばされそうな圧力が掛かり、大鷲の死角になって見えなかった赤ん坊が姿を現す。
「サティヤ、見て!」
 赤ん坊は懸命に、一心不乱に道具を振っていた。
 その鼻先紙一重のところで、まるで何かにぶつかった様に前進を阻まれた大鷲が羽ばたきを繰り返し、徐々に後退していく。それはちょうど強風に押し戻されている様にも見えた。

 ガラン。ゴロン。リン。ゴロン。

 奇妙な、だが不思議と心安らぐ音がわんわんと渓谷に木霊する。
 直接頭の芯に響くような、不思議な音色を茫然と聞いていたサティヤとゾフィーは、いつの間にか隠れ身の術が解け、お互いの姿が見えるようになっていることに気付いた。ゾフィーが唱え終ったはずの加護の呪文も、距離が足りなかった赤ん坊はともかく、ゾフィー自身にもサティヤにもどうらや発動していない。
「これって、あの小槌のせいなの?」
 赤ん坊が振る小槌の音色は物理的な圧力をも伴って辺りに充ち満ち、針葉樹の森を揺らし谷底の渓流を波立たせる。
 やがて大鷲は翼を広げたまま赤ん坊の目の前にぱたりと落ちた。同時に不思議な音もはたりと止む。
「やったー! さっすが王子!」
 大きく息を吐いて小槌を下ろす赤ん坊の周りを、小鳥の少女が長い尾羽根を靡かせて嬉しそうに何度もくるくると回った。
「驚いたな。その小槌には魔法を無効にする力があるようだね」
 徐に近付いて、サティヤが小槌ごと赤ん坊を抱き上げると、少し離れて少女が尋ねてきた。
「貴方達はだあれ? 魔法の小槌で眠らないなんてただ者じゃないでしょう」
 サティヤは赤ん坊を抱いたまま、小さな彼女に恭しく礼を取る。
「失礼。申し遅れました。私はアリヤン・カーンの賢者サティヤ、そちらは同じく賢者でゾフィーといいます。赤ん坊を一人で森にやっては危険だと思いついてきたのですが……」
 サティヤは腕の中の赤ん坊に目を遣り、見上げてくる瞳と目を合わせると微笑む。
「彼があまりに勇敢なので、結局出番はありませんでした」
「ふうん。賢者さんなんだ」
 彼女はサティヤを見て可愛らしく小首を傾げる。
「だからかなあ。あの小槌って、基本的には悪い心を持ってたり敵意を持った相手にしか効かないから」
「貴方のお名前は? 可愛らしい小鳥のお嬢さん?」
 ゾフィーが手を差し伸べると彼女はちょこんとその掌に乗った。腕を伝って肩までやってくると、サティヤに抱かれた赤ん坊を見遣って答える。
「あたしは《道しるべの》ビンガっていうの。そっちはウーパールーパー王家の王太子でユパ王子」
「ユパ王子か」
 サティヤは腕の中の小さな王子を改めて見ると、ビンガに尋ねる。
「君たちはこの森にある《通路》、つまり、あの天高く続く渦潮の中から来たんだね?」
「ええ。なんか間違って迷い込んじゃったみたいなの! ここへ来てすぐ魔法の小槌はあの話のわかんない大きな鳥に持ってかれちゃうし、そのごたごたで王子とははぐれちゃうし」
 ビンガは羽根を広げ、滲む光の残像を辺りにきらきらと散らしながら、小さな身体で今までの憤懣を力いっぱい訴える。
「もう滅茶苦茶よ! 魔王退治の旅の途中なのにコースから外れちゃうなんて!」
「魔王退治? こんな小さな子が?」
 ゾフィーがユパ王子を見て目を見張る。王子はどう見ても赤ん坊だ。もしや呪術の類いでこんな姿に甘んじているだけなのかもしれないと思い尋ねてみたが、ビンガは首を横に振って大仰に溜息を吐いた。
「大人はいないの。みんな楽しい所があるよって魔王に唆されてどこか行っちゃった。奇麗なおにーちゃんやおねーちゃんがいて美味しいものがあるところなんて、ぼったくりに決まってるじゃない。どうしてこう大人って誘惑に弱いのかしら」
「耳が痛いね」
 サティヤが苦笑する。
「大人がいないのに子供達はどうしているの?」
 ゾフィーが尋ねると、ビンガはサティヤの肩に飛び移ってから話し相手の顔を見て口を開いた。
「最初は王子のお城だけだったからあたしたちの仲間が世話してたんだけど、そのうち世界中から大人がいなくなっちゃったものだから、神様と相談して子供達はみんな眠らせてあるの。子供達に万一のことがあっちゃいけないから他の生き物も全部お休み中」
「それはまた……随分と静かな世界ね」
 ゾフィーが呟くとビンガは頷いて眼下の王子へと視線を落とした。
「そ、あたしたちの世界はね、今時が止まっているの。ユパ王子だけを除いてね」
 サティヤも王子に目を向ける。お腹でも空いたのか王子は熱心に小槌の天辺を舐めたり噛ったりしていた。
「それはおいしいのかい?」
 サティヤが尋ねてみると、きょとんと見詰め返してくる。少し考える様にすると涎でべとべとの小槌を差し出してきた。
「いやいや。僕はいらないよ。それは君に必要なものなんだろう?」
 涎掛け代わりのスカーフで口の周りを拭ってやりながらサティヤが穏やかに笑って辞退すると、王子は無垢な、けれども強く真っ直ぐな瞳でサティヤをじっと見詰め返す。
 それはいつかどこかで見た懐かしい瞳の色だった。
 サティヤは王子を両手で抱き上げて高く掲げると微笑みかける。
「なるほど。勇敢な訳だ。こんなに小さくても立派な勇者なんだね、君は」
 アーリヤ・キルティもこんな目をしていた。その勇敢さで、行動力で、世界を善き方へと導いた。
 この小さな王子も間違いなくそういった種類の人間なのだ。
「でも、そうすると、早く戻った方がよくない?」
「そうだね。新しい《通路》は安定性が怪しい。なるべく早く戻った方がいい」
 ゾフィーの提案に頷いてサティヤはもう一度腕の中に戻った王子を見る。
「君の世界は君を必要としてるのだから」

 《通路》の場所まで戻ると、魔方陣の手前で片膝を突きサティヤは王子を地面に下ろした。
「さ、ここでお別れだ」
「早く早く、王子! 早くしないと戻れなくなっちゃうかも!」
 周りをくるくると回って急かすビンガなど気にも留めず、王子はサティヤを振り仰いで物言いた気にしばらくじっと見詰めていたが、やがてくるりと方向転換すると、恐れ気もなく魔方陣の中に踏み込んでいった。忽ち魔方陣が反応して複雑に色合いと波形を変える。
「さようなら、ユパ王子。魔王を退治したらまた遊びにおいで」
 手を振るサティヤのはなむけの言葉に反応し、渦潮の中から首だけをこちらに向けると、小さな王子は別れの挨拶の様に小槌を振った。
 すると、辺りにまたあの不思議な音色が響き渡り、見る間に天から何万何千という淡い色合いの細かな華が、針葉樹の深い緑の中をゆっくりと舞い降りてきた。
「わあ……。キレイねえ……」
「ああ、本当だね……」
 散華の華は天を仰ぐ二人の頭上にふわりふわりと舞い続け、森の下生えの緑の上に淡く柔らかく降り積もる。
「まるでいつか見た雪の様だ……」
 やがて、緑を覆い尽くし、すべての華が舞い落ちてしまうと、積もった華も幻の様に消えていった。
 気が付けば王子とビンガの姿は既になく、残ったのは相変わらず盛んに天へと逆巻く水とも光とも知れない渦潮と、闖入者を飲み込んでようやく落ち着きを取り戻し、色合いが元に戻りつつある魔方陣のみだった。

 ◆

 一カ月後に二人が村を訪れると《通路》は随分小さくなっていた。
 相変わらず光は渦を巻き天へと届いてはいるが、先日見た時ほどの迫力はない。渦の直径が小さくなり、地表から涌き出す光量も目に見えて減っている。
「どうする? 《通路》を確保するために術を施してみる?」
 ゾフィーが窺うように見るとサティヤはその面を静かに振った。
「いや。止めておこう。自然に出来た《通路》が閉じていくのは世界がそれを欲していないということだよ。無理に逆らうことはない」
「そうね」
 随分小さくなった《通路》をじっと見守るサティヤを見てゾフィーはくすりと笑った。
「残念だったわね」
「何がだい?」
「弟子にでも欲しかったんじゃないの? あなたって子供大好きだものね」
「まあ、縁がなかったってことさ。赤ん坊と言えども使命半ばの者を引き止める訳にはいかないからね」
「あの子ちょっと似てたわよね」
「どの辺が?」
「うーん。そうねえ……」
 サティヤは誰にとは敢えて聞かなかった。
 きっと彼女もあの真っ直ぐな瞳にアーリヤ・キルティの勇姿を見たに違いない。
「とにかく突き進むところが」
 ゾフィーは笑った。
「違いない」
 サティヤも笑う。
「今頃どこで何しているのかしらね」
「彼ならどこにいても元気でやっているよ。きっとね」
 彼は死んだ訳ではない。
 そこがどこかはわからないが、《通路》の綻びに足を取られ違う世界に迷い込んでしまっただけだ。
 だから、サティヤとゾフィーは《通路》の研究をしている。新しい《通路》を観察し、その仕組みを解明し、いずれはこの世界に負担を掛けずに《通路》を自由に開き、そして閉じるその術を得る。
 たとえ何年掛かっても、いつか再びアーリヤ・キルティと見えるために。
「ああ、でも早くしないとおばあちゃんになっちゃう。お互いしわくちゃになっちゃったら、擦違ったぐらいじゃわかんないわよ。きっと」
 ゾフィーが小さく肩を竦めるとサティヤは笑った。
「それじゃ、不老の術でも試してみるかい?」
「それもいいけど、まずは健康維持のために基礎体力つけなきゃ。早寝早起き。規則正しい生活と食習慣。それに修行。いくらでもやることあると思わない?」
「そうだね。それじゃまず健康法でも試してみようか」
「どうするの?」
「単純なことだよ。流星の呪文を使わずに近くの大きな街まで歩いて帰るというのはどうかな?」
「あら、いいわね。負けないわよ」
 ちらりと挑戦的にサティヤを見るとゾフィーは笑った。先に立って歩き出す。
「お手柔らかに頼むよ」
 ゾフィーの背中に笑みを返し、自分も後を追って歩き出したサティヤはふと歩みを止めると後ろを振り返った。
 《通路》は静かに、まだそこにある。
 仄かに微笑み、サティヤは小さく呟いた。
「さようなら、ユパ王子」

 その後も《通路》は徐々に小さくなっていき、数週間もすると跡形もなく消えてしまった。
 村人は《通路》のあった場所をぐるりと取り囲むように神聖とされる樹木を植えた。
 その中央に賢者が新しく施した魔方陣は、森の中に夜毎不思議な古代文字の碑文を浮かび上がらせて永く村人の目を楽しませた。
 ある時、村人がその意味を尋ねると、賢者は笑ってこう答えた。

 『勇敢なる小さな王子、ここよりい出て、ここより還る』
 ――と。

 【完】


Fumi Ugui 2008.02.22