一通のメールから

その二 真夏の戦慄


 

 「どういうことなんですか、丹原さん。辻占さん昨日もう、東京に帰ったって……」
 劇団事務所でマネージャー伊富・菱川と合流し、丹原は夜の街をワゴン車でロケ地に向かっていた。
 「それ、辻占から直接聞いたのか?」
 「いえ……」
 運転席の伊富が首を横に振る。
 「打ち上げパーティー開いてくれた洋館からちょっと離れた所にも映画に使われたことのある別荘があって……。辻占さんそっちも見てみたいって出掛けたって、館のご主人から伝言が。帰りはそのまま送ってもらうから、先に帰れって……」
 「騙されたんだよ」
 「え?」
 「あいつ、その洋館が気に入ったらしくて、珍しくオレのパソコンにメールで報告してたんだ。2日前から。読んだのはついさっきだけどさ」
 丹原の表情は険しい。
 「最後のメールは今日の5時半頃、携帯からだった。家主の様子がおかしい、部屋に閉じ込められたって」
 「え……」
 伊富の顔色が変わる。
 「極め付がこれ」
 丹原は携帯を取り出すと、伊富に聞こえるよう耳元で留守電を再生した。
 流れてきたのは悲鳴に似た甲高い怒声。紛う事無き辻占の――。
 「……大変だ」
 伊富がアクセルを踏む。
 「とにかく、急げ」
 菱川の手渡したペットボトルの水を一口含み、丹原は夜の高速の遥か前方を睨みつけた。

 心の中でずっと悲鳴をあげ続けながら、辻占はなんとか自分の身を守ることに成功していた。
 そこは小さな地下室のようなところ。
 部屋のたった一つの出入り口である扉の前には、辻占が必死の思いで積み上げた机や椅子、本棚等が小山をなしている。
 部屋の中はコンクリートがむき出しで、夏だというのにひんやりと冷たい。部屋の北側、丁度辻占の目線の辺りに曇りガラスをはめた小さな窓が一つ。そこから淡く微かな外の星明かりが漏れてくる。
 辻占がここに逃げ込んだのは日が落ちる前だった。あれからどのくらいの時間が経ったのだろう。もう部屋の中は真っ暗だった。最初は扉の向こうでしつこく出てくるように促していたこの屋敷の主人も、今は近くにいる気配がない。
 足に鈍痛を感じて辻占は自分が奥の壁に張り付いたまま数時間立ちっぱなしだったことに気付いた。パニック状態だったのだろう。我ながら間抜けな姿だと思った。幾分震え気味に大きく息を吐き、ゆっくりと床に腰をおろす。コンクリートの床は氷室のように冷たく感じる。その冷たさに辻占は今日の夕方、目覚めたときの戦慄を思い出して身震いした。

 辻占が目覚めると、そこには目があった。
 見つめる二つの眼。それが一体何を意味するのか理解できるまでに数秒かかった。
 「ひっ……!」
 引きつった悲鳴を上げて、辻占は半身を起こした。瞬間移動かと思われる程の恐ろしい勢いでそのまま後退る。そこで気付いた。

 ない……!

 辻占は何一つ身に付けていなかった。
 自分の視界に自身のむき出しの白い腕と太ももがある。その先にはベッドに横たわり、自分を見つめる二つの眼。
 たちまち羞恥心が頭をもたげる。辻占は反射的に近くにあった枕で身体を隠し、取りあえずの抗議の声を上げた。
 「なななな、何ですかっ、あなた!?」
 「おやおや。驚かせてしまいましたかな?」
 ロマンスグレイのこの家の主人は何事もなかったようにゆっくりと身体を起こした。
 いつもと変わらぬ落ち着きぶり。きちんとした身なりをしている。この男だけを見ているとおかしいのは自分の方なのではとさえ思えてくる。
 それでもこの状況は絶対に尋常じゃない。
 辻占の健全な平衡感覚が人生最大級の警鐘をガンガン鳴らす。
 「ぼ、僕の着ていたものはどうしたんですか……?」
 相手の様子を警戒し、ベッドの上をゆっくり後へいざりながら辻占が尋ねた。
 「ああ、それならクリーニングに出しました。ズボンが汚れてしまったので」
 「よ、汚れた……?」
 思わず声が裏返る。辻占には身に覚えがなかった。
 ロケが終り、打ち上げに参加して、それから……。
 それから先の記憶がない……!
 家主が意味あり気に含み笑いをするのを見て、辻占は真っ青になった。思わず股間を押さえる。
 (ま、まさか!!)
 全身からどっと汗が噴きだす感覚。
 (なっ、何もされてないよな、オレッ!!?)
 しかし、こんなところで相槌を打ってくれる者などいるわけもなく、必死に記憶を探るも悲しい事にさっぱり覚えがない。
 「と、とにかく何か着るもの貸してくれませんか。それと、何か食べる物……」
 動揺を必死で押さえ付け、辻占は苦し紛れに要求した。とにかく一度一人になる必要がある。自分の気を落ち着かせるためにも、大勢を立て直すためにも。腹は実際に減っていた。今はいったい何時なのだろうか。
 「ああ、そうでした。お茶に起こしてさしあげようとして来たのでした。あまりに寝顔が可愛らしいので、つい見とれてしまいましてな」
 それで裸の三十男に添寝をしたというのだろうか、この男は……。
 辻占の背筋を冷たいものがぞっと走り抜ける。
 「いま、こちらにお持ちしますから。少々お待ちを」
 家主はそう言い置くと優雅に挨拶をして部屋を出ていった。直後にガチャリ、と鍵を締める音。どうやら辻占をここから出す気はないようだった。
 家主の足音が遠ざかるのを確認すると、辻占は取りあえずベッドのシーツを剥がして身体に巻き付け、部屋の中を探索し始めた。
 南向きが全面ガラス張りのサンルームのような造りの部屋だ。扉は主人が先ほど退出していったものが一つ。南側の窓の鍵も全部外側から固定されているようだ。あれだけいたスタッフや関係者はどこに行ったのか、余人の気配もまったくなかった。辻占のパソコンやその他の持ち物も影も形もない。諦めきれずに床の上も探していると、ベッドの下に携帯を見つけた。多分、服を持って出るとき落としていったのに気が付かなかったのだろう。手を伸ばし、やっとの思いで拾い上げる。電源を入れ液晶表示を見て、ほとんどまる一日寝ていたことを知った。今日は打ち合わせもあったのにすっぽかしてしまったのだ。ここで初めて辻占に怒りが込み上げてきた。
 こんなことで仕事に穴を空けるなんて……!
 とにかく、家主が戻って来る前に今の状況を誰かに知らせなくてはならない。マネージャー伊富に連絡を入れようとして辻占は愕然とした。メモリが全部削除されているのだ。
 伊富の携帯も事務所の電話番号もうろ覚えだった。唯一ちゃんと覚えているのは、ここのところパソコンで頻繁にメールを送っていた丹原のメールアドレス。丹原は今日帰国のはず。辻占は一縷の望みを託して丹原にメールを打った。次いで、伊富の携帯番号をプッシュし始める。うろ覚えだが、こうなったら思い付く限りの組み合わせで掛けてみるつもりだった。間違いを気にしている余裕はない。数撃ちゃ当たる大作戦である。
 扉の向こうで物音がした。
 どきりと心臓が波を打つ。作業を中断し、携帯を急いで後ろ手に隠す。
 鍵を開ける音がして、主人がワゴンを押して入ってきた。ワゴンの上にはサンドイッチ等の軽食とティーセットが一式のみ。どうやら辻占に衣服を与える気はないようだった。うんちくを傾けながら、手慣れた様子で主人は紅茶を入れ始める。
 辻占は主人に悟られないよう手探りで慎重に携帯のキーを押す。この状況では声は出せない。メールに切り替える。
 「さあ、どうぞ。冷めないうちに」
 主人が辻占に紅茶を勧めた。ゆっくりと慎重に左手でカップを持ち上げた辻占に、笑みを浮かべて主人が歩み寄る。
 「その後ろに回した手に何をお持ちですかな?」
 辻占の顔からさっと血の気が引いた。今携帯を取り上げられたら外との連絡が一切取れなくなる。
 迷ったのは一瞬だった。
 辻占は身に纏っていたシーツを頭から被り直すと、南側の飾り窓に向かって牡鹿のようにジャンプした。枠ごと窓をぶち破る。古い建物であったことが幸いし枠は難なく砕けた。無数のガラスの破片と共に庭の芝生の上に転がり出た辻占は、すぐさま起き上がり建物を背にして全力で駈け出す。
 この一連の動作をこの家の主人は身じろぎもせず、ただ呆けたように見ていた。そして、辻占の姿が視界から消える頃、夢見るようにやっと呟いたのだった。
 「すばらしい……!」


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