一通のメールから

その三 忘我の館


 

 辻占は出口を探して走った。
 この屋敷はとにかく敷地が広い。雑木林の中に建物が建っており、自分がどこにいるのか正確なところはわからなかった。とにかく日がある内になんとかしなくては。暗くなったら更に事態は困難になると予想がついた。
 焦って辺りを見回すと、前方に苔むした赤い煉瓦造りの壁のようなものが見えた。敷地の境界に違いない。辻占は急いで壁に駆け寄った。取っ掛かりになりそうな凹凸はない。小柄な辻占ではジャンプしただけでは天辺に手が届かなかった。近くに登坂の助けになりそうな樹も生えていない。
 後方からの物音に気付いて振り向くと、遠くに主人が迫ってくるのが見えた。
 辻占は壁に沿って走り出す。壁ならどこかで門に通じているはずだ。だが、体力が限界に近づいていた。昨日から何も食べていない。力が出なかった。裸足のうえに、ぞろぞろと長いシーツを引きずり足がもつれる。背後からは主人の足音が近づいて来る。
 万事休すか、と思ったそのとき辻占の脳裏で何かが弾け、とある記憶が蘇ってきた。
 番組の企画で新しい携帯に買い替え、試しに丹原の携帯にかけた、あのときのことが――!
 辻占は縋る思いで記憶のままにキーを押した。
 呼び出し音。
 繋がった!
 「つんたの丹原です。只今外出しております。……」
 懐かしい相方の声が聞こえたその途端、足元をすくわれて辻占は転倒した。携帯が手を離れる。
 「まだ、携帯なんてお持ちでしたか?」
 振り向けば、自分の太ももをしっかりと抱え込んで放さないこの家の主人。
 悲鳴が口を突いて出る。
 「放せッ!」
 「いえいえ、放しませんよ。せっかく捕まえたのですから」
 この状況で笑みを絶やさないこの男の精神構造に鳥肌が立った。
 「放せッつってんだろッ!!」
 辻占は半狂乱になってメチャクチャに身をもがいた。一瞬の隙をついて相手を蹴り倒し、なおもシーツの端をしっかり握って放さない男の、その手を蹴って振り切った。

 その後敷地の中を当てもなく必死に逃げ回り、多分離れか何かなのだろうこの小さな建物の地下に逃げ込んだのだ。
 あの電話は確実に丹原の携帯に繋がった。留守電にはなっていたけれど、いずれチェックはされるはず。
 今ごろ探してくれてるだろうか……。
 今は丹原を信じて待つしかない、と思ったそのときだった。
 ガシャン!!
 と大きな音がしたかと思うと、北側の小窓の曇りガラスが砕け散った。思わずシーツを盾に破片を除ける。目も眩むまぶしい光が部屋に差し込み、
 「辻占さ〜ん」
 聞き覚えのある低い猫なで声がした。ビクリ、と辻占のうなじの辺りが震える。
 ガシャン!!
 もう一度ガラスが砕け散る。
 砕けたガラス窓から逆さまに二つの眼が覗き、辻占を凝視した。
 無言の悲鳴を上げて辻占が反対側の部屋の隅に張り付く。がたがたと恐怖のために全身が小刻みに震えた。
 「そんなに震えなくても大丈夫ですよ。可哀相に」
 目許だけを見せて、逆さのまま主人は笑った。
 「今、そこから出してあげますからね」
 「く、来んなっ!!」
 辻占が思わず叫ぶ。それには答えず、主人の顔は窓から姿を消した。変わりにチラリと見えたのは趣味のよい革靴と、何か斧のような武骨な刃物の一部。
 辻占は戦慄した。反射的に扉の前の小山に駆け寄る。
 どんッ!
 と、大きな音がした。目の前の分厚い木製扉にマッチ棒ほどの亀裂が入る。慌てて手前の本棚を押さえる。ガンッと、今度は扉が揺れた。続けて、第2波、第3波――。
 「やめろッ! やめろよッ!!」
 目をつぶって必死で本棚を押さえ付ける辻占の身体にも振動が伝わる。ぐらぐらと頭が揺れ、吐き気がした。
 「辻占さ〜ん」
 間近な声に思わず顔を上げる。すると扉の亀裂越しにこの家の主人と目が合った。
 「来るなぁあああああーッ!!」
 アイツがこの部屋に入ってきたらもう終りだ!
 下を向いて腕を突き出し、渾身の力を込めて本棚を外側へ押す。しかし、主人の力は尋常ではなかった。扉はいつの間にかその用をなさなくなり、主人の上半身が逆光の下、乗り出すように部屋の内部に侵入する。手にした斧で次ぎなる障害、オーク製の机に一撃を加えた。
 「もうすぐですよ、辻占さん……」
 真っ二つに割れた机を半壊した扉ごと蹴散らし、主人の顔が間近に迫る。
 「すぐに出してあげますからね……」
 もう限界だった。辻占は支えていた本棚から手を離し、悲鳴を上げて部屋の隅に逃げ込んだ。そこらに散乱する本や花瓶を手当たり次第に投げ付ける。
 「く、来るなあッ!!」
 分厚いハードカバーの本が命中し、主人の額が切れた。血が滴って、コンクリートの床に赤黒い染みを作る。
 「さあ、もう大丈夫ですよ……」
 笑っている。この男にとっては相手の感情どころか自分の身の安全さえも、最早どうでもよいことなのだ。
 「い、嫌だぁああああああーっ!!」
 渾身の悲鳴で拒絶する辻占に、本棚を蹴倒し主人が一歩踏み出したそのときだった。
 「菱川、体当たりだッ!」
 聞き覚えのある声がしたと思うと大きな塊が入り口から飛び込んで来た。それは、今しも辻占の身体に触れようとしていた主人を付近の残骸ごと奥へ突き飛ばした。嫌悪感から辻占がそれを光速で除ける。どん、と壁にぶつかった音がして、主人はその場に昏倒した。
 「ふぅ〜っ。大丈夫ですか、辻占さん」
 あまりのことに言葉も出ない辻占をよそに、「月刊ひつじが丘」が誇る巨漢の敏腕マネージャー菱川は額の汗を拭き拭き、階段を降りてくる一団に手招きをしたのだった。

 「辻占ッ!」
 警官を押しのけて丹原が現れた。表情が険しい。が、辻占を一目見るなりその表情が一変した。
 「……なんだお前、そのカッコ……」
 その丹原の顔を見て、辻占は幾分震え気味の声を搾り出す。
 「なぁんだって……言われても……」
 素っ裸にシーツを巻き付け、裸足の脚は泥だらけ。白い肌にあちこち擦り傷を作った、もう四捨五入すれば四十だというのにどこか頼り無げな、洗いざらしの子供のような辻占の姿に、丹原は自分の口元が緩んでくるのを禁じえなかった。
 「も〜〜ぉ、やだ……。こんなの……」
 気が抜けたのか辻占が丹原の前にへたり込む。
 「大丈夫か、お前。何だよ、今の声。俺、一瞬やられちゃったのかと思ったよ」
 何故か口元が緩んでいる丹原に、突っ込む気力もなく辻占は力なく笑った。
 「やられてないよ〜。なんか知んないけど、オレ必死になると女みたいな声が出ちゃうんだよ……」
 軽く声を上げて笑い、丹原は立ち上がらせようと座り込んでいる辻占の腕を取った。
 「ほれ、行くぞ。入りまで時間がないんだ。しゃんとしろよ。腰抜けたのか?」
 それでもなかなか立ち上がらない様子の辻占を見て、丹原は菱川を呼ぶ。
 「菱川、悪いけどコイツ車まで負ぶってやって」
 「辻占さん、どうぞ。乗ってください」
 巨体の菱川が腰をかがめ、その広い背を差し出す。背中にしがみついた辻占にどこから出したか伊富が毛布を掛けた。
 「暑いよ、伊富……」
 「いいえ。弱ってるところにまた風邪を引くといけませんから。とにかく、これ飲んだら寝て下さい。寝て起きたら何か食べる物を差し上げます」
 伊富が差し出したのは栄養ドリンク。独り者の辻占にとってあるときは母親、またあるときは女房代わり。どんな時でも用意周到な、こちらもまた敏腕マネージャーなのだ。
 「わかったよ」
 辻占は笑った。
 「ごめんね、伊富。世話かけて」
 どういたしまして、と伊富は笑う。
 「慣れてますから」
 「なんだ、お前。日頃そんなに伊富に迷惑かけてんのか?」
 混ぜっ返す丹原に、
 「かけてねえよ」
 辻占がちょっと気だるそうに笑って反論する。その辻占に相槌を打ちながら、
 「そうですよねえ。たまに大迷惑かけるくらいで」
 と、伊富が澄まして言うのを見て丹原は笑った。菱川もなんだか小刻みに揺れている。その心地よい揺れに身を任せながら、疲労困ぱいの辻占はあっという間に夢の世界に誘われていったのだった。

 さて、この話には後日談がある。
 入り時間には何とか間に合い、収録も無事に済んだ二人。
 しかし、寝不足と極度の疲労のためこの日の辻占のカメラ映りはかつてないほどに酷く、これがまたファンの間で様々な憶測を生み、ネット上でいろいろと議論を醸すことになったのであった。

2008.01.24 改訂版


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