◆
「あ、気が付いたの、透さん?」
透が目を覚ますと、夏乃が僅かに顔を近付けて覗き込んできた。
久しぶりに感じる陽光に目を細め、透は視線を彷徨わせる。
八畳ほどの部屋だった。中央に透の寝ているベッドがひとつ。窓に目をやると、病院の建物とその向こうのこんもりとした深い緑、更にその上に広がる穏やかな青い空が見えた。
「……ここは? さっきはICUにいたと思ったんだが……」
夏乃は小さく微笑む。
透の声は小さく掠れていたが、その言葉も話す内容も明瞭だった。
「うん。昨日まではね。今朝ICUから個室に移ったの。透さん、まる二日ICUに入ってたんだよ。お兄ちゃんも早渡もずっと心配してたんだから」
夏乃がちらりと後ろに目をやる。櫂人は部屋の隅のソファで仮眠を取っていた。
「……水樹は」
「うん。今ちょっと外してるみたい。ウチに寝に帰ったのかな。昨日もその前もずっと待合室で頑張ってたから……。せっかく透さんの意識が戻ったのに、肝心なときにいないなんてダメなお兄ちゃんだよね」
夏乃は柔らかく笑った。
「でも、よかった。気が付いて。今先生呼ぶね」
ナースコールをしようとする夏乃の指先にそろりと透が触れる。
「……君のお陰だよ、夏乃君」
「え?」
振り向いた夏乃を見て透は仄かに笑った。
「……意識が遠のく前に君の声が聞こえたんだ。……アイツの言うことなんて嘘だと証明してみせてくれとね」
夏乃は目を見開く。
「君のもう一人の兄としては、期待に応えなければならないからな……」
「うん」
手で目を擦りながら、夏乃は笑って何度も頷いた。
「もう、大丈夫だよね。何も心配することないよね。ありがと、透さん……!」
◆
「羅天検事の父親が現れた? この病院にか?」
「ああ。兄貴の手術中にさ」
寝起きの櫂人は二人掛けの小さなソファに腰掛けたまま頷いた。いつもの習慣で携帯を見るが、オフにしてあるため時刻はわからなかった。窓から見える太陽の位置から察するに、どうやら午前中ではあるようだ。
「参議院だか衆議院だか知らねえけど、いけ好かねえジジイでさ」
不愉快そうに顔を顰める櫂人を見て、透は目を閉じ、少し考えるようにする。
「羅天……雅武なら、参議院議員だろう」
「ああ、それだ。そんな名前だった」
櫂人が思い出したように頷くと透はソファに視線を戻す。
「それで、水樹は?」
「随分動揺してたみてえ。ちょうど、桐生のじいさんが来てさ。向こうが兄貴の代わりに学費を出すだの養子に欲しいだのって無神経なことばっか言うから、水樹さんはウチの身内だって啖呵切って追い払った。ちょっと見直したぜ」
櫂人の話を一通り聞いて透は眉を顰めた。
羅天雅武が水樹を探していたというのは本当のことなのだろう。水樹の母親が三橋園長に言い残していった内容とも辻褄が合う。若くして亡くなった息子と縁があると思えば、父親として援助したくなる気持ちもわからなくはない。
だが、本人の人柄も知らずにいきなり養子に欲しいと思うものだろうか――。
透にはどうしてもその点が納得いかなかった。
事故当時の二歳の幼児ならいざ知らず、水樹はとっくに成人している。二十五年の間にどんな人間に育っているかは一目見たぐらいではわからない。
撮影現場で水樹のおおよその人となりを知り、出会ったその日に援助の話を切り出した透でも、さすがにその場で養子にすることまでは考え至らなかった。養子縁組を考えるまでには、水樹という人間を知るための相応の期間が必要だったのだ。
政治家という人種がリスクも考えずに養子を迎えるとは透にはとても思えない。たとえ羅天雅武本人が性善説に立ち、如何に慈悲深くあろうとも、周りが慎重になるだろう。
或いは、既に水樹の身辺は調査済みなのかもしれない。
それとも、相当のリスクを覚悟しても水樹を是非とも養子にしなければならない理由があるのか。
どちらにしても、羅天雅武の行動からはある種の執拗さを感じる。
そもそも水樹の母親は羅天の何を警戒していたのだろう。この執拗さと何か関係があるのだろうか――。
「櫂人、水樹を羅天氏に会わせるな」
「何だよ、兄貴。嫉妬かよ」
櫂人が呆れたような声を出す。
「心配すんなって。押しが強すぎてさ、返って水樹さん怖がってたみたいだし。兄貴見捨ててあっちに乗り換えるってことはねえよ」
「そうじゃない。とにかく、今すぐ水樹を探すんだ」
兄の表情に、見たことのない僅かな焦りと苛立ちを感じ取り、ひとつ溜め息を吐くと櫂人はソファから立ち上がった。
「わかったよ。昨夜は携帯に出なかったからさ、とにかくウチに一度帰ってみる」
「頼む」
櫂人が部屋を出ていくのを確認すると透は目を閉じた。
肝心なときに自分がまったく動けないことが歯痒かった。
だが、焦りは禁物だ。焦っても何一つ事態は良い方向へは進まない。今の自分に出来ることは考えることだ。幸いものを考える時間だけはたっぷりとある。
傷ついた身体はまだ睡眠を要求していたが、透は僅かの間だけそれを抑え付けた。考えることだけに全神経を集中させる。
水樹の母親や羅天雅武の言動を考え合わせれば、やはり二十五年前のあの事故には何か裏があるのだろう。そして、それは水樹に関係があり、今も尾を引き何らかの影響力を持っている――。
一頻(ひとしき)り思考を巡らせ現状で得られるいくつかの推論に至ると、透はやっと自身の身体の欲求にその意志を委ねた。
◆
一旦マンションに戻っていた夏乃が再び病室に姿を現したのは、午後一時を過ぎた頃だった。
「水樹が帰ってこなかった……?」
仮眠から目覚めた透は夏乃の報告を聞くと僅かに眉を顰めた。
「……うん。早渡にも聞いたんだけど、全然ウチに戻った形跡がないし、携帯にも出ないの……」
夏乃は不安を隠せない様子で悄然としている。
「いつ頃から姿を見ないんだ?」
「昨日の夜六時半頃、透さんがICUで目を覚ましたときには早渡と一緒にその場にいたんだって。でも、あたしが七時に病院に着いたときにはもういなくて、携帯にも出なくて……」
「早渡さん、回診です」
ノックの音が聞こえて担当医が部屋に入ってきた。医師や看護師に会釈をし、場所を譲りつつ、夏乃は泣きそうな小声で先を続ける。
「でも、寝てると思ったの。食欲もなかったし寝不足だったから、一度休みに帰ったんだとばっかり思ってたのに……。どこ行っちゃったの、お兄ちゃん。せっかく透さんの意識が戻ったのに……」
「夏乃君……」
尚も話を続けようとする二人に担当医がやんわりと釘を刺す。
「血圧を測るときにおしゃべりはいけませんな」
「申し訳ありません、先生。少し取り込み中でして……」
透が僅かに苦笑したところで、一緒に入室してきた大柄な若い医師が口を開いた。
「あの、ちょっといいですか。青葉なら昨夜はウチに泊まりましたけど」
「君は?」
唐突に話に割り込んできた部外者に、透が警戒を色濃く滲ませた鋭い視線を向けると、その若い医師はホールドアップとばかりに小さく両手を上げた。
「ああ、そんなおっかない顔で睨まないでくださいよ。いやあ、さすが桐生だ。眼力だけでも迫力あるなあ」
「失敬。少し込み入った事情があってね」
相手のどこか憎めない愛嬌たっぷりの様子に表情を和らげると、透は担当医の方に首だけ向けた。
「先生、診察の前にこちらの先生と少し話をしてもよいでしょうか。すぐに終わります」
「いいでしょう。ですが、手短に願いますよ。意識が戻ったとは言っても貴方は依然として重体患者なんですから」
担当医はそう言って傍らの若い医師を促す。かなり大柄な若い医師は担当医に会釈をすると前に出た。話をしやすいように透の枕元に寄る。
「俺、ここで外科医をやってる和佳水といいます。朱雀高校で青葉……じゃなかった、水樹君とは同級生でした」
「お兄ちゃんの同級生……」
夏乃が茫然と見上げると、和佳水はベッドの向こう側に笑顔を返す。
「やあ。もしかして君が妹さん? ええと、そうだ。確か夏乃ちゃんだったよね」
「お兄ちゃんが先生のところに泊まったってホントですか?」
「うん。昨日は泊まった」
「それで、今日は? 今日はどこ行ったの?」
ベッドの向こうから身を乗り出すようにして聞いてくる夏乃は迷子の子供のような顔をしている。
和佳水は直接夏乃には答えずに透に視線を戻した。
「病院には来てませんか?」
「ええ、まだ」
透の返事を確認すると和佳水は僅かに眉根を寄せて答える。
「残念ながら今朝は僕の方が早く家を出たので、その後水樹君がどうしたかはわかりません。寝不足らしくて少し貧血気味だったので、もう少し休んでいけとは言っておきましたが……」
「和佳水先生、水樹の様子はどうでしたか?」
透に尋ねられると和佳水はその愛嬌のある丸顔を少し曇らせた。
「かなり落ち込んでいるようでした。貴方が刺されたのは自分のせいだと言って。あまり一人にしておかない方がいいと思いますが」
「申し訳ないが、もしも水樹がまたそちらに伺うようでしたら連絡をもらえませんか」
「ええ、それはもちろん。ちょっと待ってください」
手帳の切れ端にボールペンで走り書きをすると和佳水はそれを夏乃に渡す。
「これ、俺のマンションの電話番号と住所。ひょっとしてまだいるかもしれないから。あいつが出るかどうかは半々だけど」
「ありがとうございます!」
夏乃がメモを握り締め、電話をしに急いで部屋を出ていく。
それを見送って和佳水が呟いた。
「……あいつバカだなあ。こんなに皆に心配されてるのに」
透を振り返って愛嬌たっぷりの笑顔を見せる。
「きっと貴方の顔見たら、憂鬱なんて一度で吹き飛びますよ」
「そうありたいものです」
透は仄かに笑うと、担当医の手に身を委ねた。
◆
ロビーの椅子に腰掛けて、携帯の液晶を見詰めながら夏乃は悄然と俯いていた。
あれから和佳水の自宅に何度か電話をしたが水樹は出なかった。念のため外に出ていた櫂人と合流して和佳水のマンションを訪ねてみたがそこに人の気配はなく、もしかしたら入れ違いで透のところに行ったのかもしれないと急いで戻ってきた病院にも水樹の姿はなかった。
「ねえ、どこ行ったの、お兄ちゃん」
夏乃に泣きそうな目で見上げてこられても櫂人は答えてやることが出来なかった。
透に頼まれ、バイト先の屋敷弁護士をはじめ知り合いに連絡を取り、自宅はもちろん、劇団事務所やさわらび学園、念のために大学、馴染みの本屋やスーパーと水樹が立ち寄りそうな場所は一通り回ってみたが、姿を見かけたという情報ひとつ得られなかったのだ。
「わかんねえよ。羅天がしつこく口説いてたから、案外アイツのとこかもな」
当てずっぽうで櫂人が何気なく漏らした一言に夏乃の顔色が変わる。
「それってどういう意味? あの人の言ってた通り、あっちの世話になるってこと?」
「知るかよ。水樹さんが何考えてるのかなんて俺にわかる訳ないだろ」
夏乃の真剣さに気圧され、櫂人が少し突き放すように言うと、夏乃は唐突に櫂人の腕を強く掴んだ。
「やだよ!」
「青葉?」
夏乃の今にも泣き出しそうな、切迫した瞳の色に櫂人は一瞬息を飲む。
「透さんとこに養子に行くときも、どこに行ってもお兄ちゃんはあたしのお兄ちゃんだからと思って納得したのに。我慢したのに……! なのにホントは血も繋がってなくて、妹じゃないって言われて。それで、住むとこまで別々になっちゃったら、あたし、ひとりになっちゃうよ。ひとりぼっちになっちゃうよ!」
「一人じゃない。俺がいるだろ?」
櫂人が両手でその華奢な肩をそっと掴んで瞳を覗き込むと、夏乃は目を逸らさずに呟いた。
「早渡はお兄ちゃんじゃない……」
「青葉……」
櫂人が嫉妬と絶望の入り交じった複雑な声を漏らすと、夏乃は泣きそうな表情を更に歪めた。
「だって、あたしのお兄ちゃんは水樹兄ちゃんだもん。お母さんの代わりに何でもしてくれて、お父さんが死んだときだって学校中退してあたしを育ててくれたお兄ちゃんなんだから……。お兄ちゃんがいい。……お兄ちゃん」
不意に立ち上がった夏乃を櫂人が見咎め、その手を捕らえた。
「どこ行くんだよ?」
「お兄ちゃん探しに行く」
「探しに行くって……当てあんのかよ?」
「ないけど、ここでぼーっとしているよりマシだよ」
言うなり身を翻し、夏乃は櫂人の手を振り払う。
「待てって!」
立ち去ろうとする夏乃の手をもう一度掴んで引き寄せると、櫂人は半ば強引にキスをした。
「や……だ……」
抵抗を無理矢理押さえ込んで抱き込み、深く口づけると夏乃の腕の力が抜けていく。
夏乃がディープキスに弱いのは承知の上。夏乃の動きを封じ、手元に置いておくためだ。卑怯だとは思うが、それでも今水樹のところへは行かせたくなかった。
「……やだ!」
思いの外強い抵抗を感じて櫂人は手を離した。反応がいつもと違う。
「お前……何で……」
夏乃は脱力状態にはならなかった。よろめいてはいるが自分の力で立ち、壁伝いに櫂人から遠ざかる。
「だって、だってこんなの……全然幸せじゃないよ。……こんなの、やだ……」
「夏乃……!」
覚束ない足取りでロビーを出ようとする夏乃の腕を、櫂人の手が追い縋るように掴む。
「やだ……っ!」
引き戻そうとするその手を振りきり、勢い余ってよろめいたところを、夏乃は誰かに抱き止められた。
ふわりとよい匂いが微かに薫る。
「あらあら。こんなところで痴話喧嘩?」
涼しい声に続いて、夏乃の上でくすりと笑う気配がした。
「若い人はいいわねえ、情熱的で」
夏乃が見上げると、髪をアップにした女がこちらを覗き込んでいた。落ち着いた口調の割にはまだ随分若い。小紋に羽織を纏った細面の、日本人形のようなすっきりとした目許の美人だ。
女は羽織の袖で庇うように夏乃を抱き込むと、艶っぽく微笑んで下から櫂人を見上げた。
「でもねえ、いくら惚れた仲でも女を力尽くでどうこうしようなんて……あら」
櫂人の顔を一目見て女は瞠目した。
「な、何?」
情けないところを見られたうえにじっと見詰められ、櫂人が動揺を隠せずに僅かに身を反らすと、女はおかしそうに赤い口許を綻ばせた。
「谷口さんから連絡をもらって桐生のお見舞いに来たんですけど、病室をご存じかしら?」
「こんにちは。お加減いかが?」
女が夏乃を伴って病室に姿を見せると、透は一瞬だけ意外そうに目を見開き、すぐに極自然な笑みを浮かべてその名を呼んだ。
「胡蝶」
「兄貴、誰だよ、この人」
遠目に自分と透を見比べる櫂人を見て、胡蝶と呼ばれた女は艶やかに笑む。
「やっぱり、こちら弟さん? 道理で――」
「色男だと思った?」
透が代わって先を続けると胡蝶は袂で口許を隠して低く笑った。
「だって、同じ年頃でしょう。あなたと出会った頃と」
「櫂人、夏乃君、こちらは新橋で芸妓をしている胡蝶姐さんだ」
透の紹介を受け、胡蝶は艶然と微笑み、傍らの夏乃と次いで部屋の隅の櫂人にしとやかに頭を下げる。
「桐生様にはいつも贔屓にして頂いております。これを機会にどちら様もどうぞご贔屓に」
すると、また仄かに風が薫った。
「よ、よろしく……」
自分も頭を下げながら櫂人は唖然とする。
この匂いには覚えがある。
司法修習を終えて演劇を始めた頃からだ。たまに透がふわりとよい匂いをさせて遅く帰ってくることがあった。
香水とは違うこの匂いを、一体何なのかと女と付き合うようになってからもずっと櫂人は訝しんでいたのだが、よもや芸妓が着物に焚き染める香の匂いだったとは。並の女といくら付き合ったところでぶつからない訳だ。
櫂人が察するに、この二人はとうに出来上がっている。要するに、透はゲイ疑惑を煙幕にずっと胡蝶と付き合っていたのだ。
「珍しいじゃないか。こんなところまで出てくるなんて」
「さすがに刺されたなんて聞いちゃ見舞いに来ない訳にもいかないでしょ」
「すまないな」
親しげに話を始める二人に呆れ果てた櫂人が眉を顰める。
「のんきに挨拶なんかしてる場合なのかよ」
「そうだったな」
ひとつ微笑むと透は表情を改めた。
「胡蝶、君は羅天雅武氏の自宅がどこにあるか知らないか」
「参議院議員の羅天先生ですか?」
透の傍らで胡蝶は僅かに首を傾げる。
「ご自宅は存じ上げませんけど、今夜お座敷に出ることになってますよ」
「え、羅天の?」
今まで側で大人しくしていた夏乃が胡蝶を見上げた。胡蝶はきっぱりと頷く。
「ええ。今朝急に『瑞雲亭』からお呼びが掛かって」
「以前から羅天氏のお座敷に呼ばれることはあったのかい?」
「いえ、初めて。誰か来てほしいと言うから『瑞雲亭』さんが私を推薦してくださったみたいで」
「それは羅天氏が『瑞雲亭』を押さえること自体も急だったということかな」
「ええ、多分」
胡蝶の返事を聞くと透は莞爾(かんじ)と微笑んだ。
「さすが新橋一の売れっ子だ。助かったよ」
「何かあったの?」
胡蝶が訝しげに小首を傾げる。
「すまないが、今夜の君のお座敷はお流れになるかもしれないよ」
透から事情を聞いた胡蝶は頷いた。側に控えた夏乃の肩を労るようにそっと抱く。
「そういうことなら夏乃ちゃんは私が預かります。『瑞雲亭』に一緒に連れていって隣の座敷にでも隠しておくことにしましょう。今夜水樹さんが現れるといいわねえ」
胡蝶が後ろから顔を覗き込むと夏乃は頷いた。ちらりと櫂人の顔を見る。
櫂人は何も言えなかった。夏乃が今自分に何を期待しているかわかってはいたが、嫉妬やプライドが邪魔をして言葉が出て来ない。
「それじゃ、準備がありますから私はこれで。お大事に」
柔らかに微笑み、透とほんの一瞬だけ目を見交わすと胡蝶は踵を返した。夏乃を促して病室のドアを開ける。夏乃は物言いた気に櫂人の顔をしばらくじっと見詰めていたが、やがて何も言わずに胡蝶について出ていった。
病室のドアが閉まるのを見ると、櫂人はソファに身を投げるように腰を下ろした。そのまま頭を抱えて髪を掻きむしる。
「……要するに、嫌われたってことかよ……!」
夏乃は櫂人に助けを求めなかった。
キスしたのにひとりでちゃんと歩いて、水樹のところへ行ってしまった――。
「……お前は行かないのか」
間を置いて聞こえてきた透の声は、からかうふうでも、とがめるようでもなかった。透が実際どんな表情をしているのかはわからない。顔を上げて確かめる気にもなれなかった。あまり情けない顔を兄に見られたくはない。
「俺なんか行ったって意味ねえよ。あいつはやっぱり水樹さんが一番なんだ。血の繋がっていない妹を、自分のことなげうってひたすら大事に育ててきた人に俺なんかが適う訳ない」
二人きりの静けさのなか、小さく溜め息が聞こえた。
「……櫂人、自分と水樹をどれほど比べたところで意味はないぞ」
まだ本調子とは程遠い透の声は所々掠れて、それでも淡々と室内に響く。
「お前は夏乃君の親でも兄でもない。夏乃君の中にある家族との思い出に取って代わることなど出来はしないんだ」
俯いたまま櫂人は答えなかった。
時刻は四時に近付き、冬の陽は早くも僅かに翳り始めていた。
Fumi Ugui 2008.10.05
再アップ 2014.05.21