名医の子供達

第9話 月と太陽

「水樹君!」
 谷口が声を掛けると廊下のずっと向こうで水樹が振り向いた。更にその向こう、「ICU(集中治療室)」と矢印がある突き当たりを、櫂人と夏乃と思しき人影が曲がっていく。
「谷口さん……」
 水樹は奥にちらりと目をやってからその場に立ち止まった。小川を伴って現れた谷口に小さく頭を下げる。
「手術終わったのか?」
「はい。たった今……」
「で、どうなんだ」
「……右の腎臓を摘出したそうです」
 谷口の目を見る水樹の瞳は静かだった。表情を動かすこともなく、わざと事務的な態度に徹し、極力感情を抑えているように見える。
「摘出……」
 小川が眉を顰めると、同じように眉根を寄せた谷口がすぐ思い出したように口を開いた。
「ああ、でも腎臓って、確か一個でも何とかなったんだよな?」
「ええ。ひとつあれば問題なく」
 硬い表情で、それでも水樹が頷くと二人は幾分ほっとしたように僅かに表情を緩めた。
「それで、早渡は? 病室決まったのか」
「今ICUに……。取りあえず手術は終わったんですが、まだ危険な状態は脱していないらしくて……今日明日が山だと言われました」
「……そうか」
 谷口が表情を改める。
「あの、僕達はこれからICUの待合室に移りますけど、お二人はどうされますか」
「俺はまだいろいろ処理しなきゃならないことがあるし――」
 今は切ってあるが、「桐生刺される」という第一報がニュースで流れてからというもの、谷口の携帯は撮影中のドラマのプロデューサーやその他の関係者からの問い合わせで引っ切りなしに鳴り続けていた。傷害事件のため芸能マスコミ以外からの取材も多く、さすがに中までは入ってこないが、病院までついてきた記者も少なからずいる。
「俺らがいると身内の邪魔になるだろうから一旦帰るよ。明日の朝また来る。今夜は事務所に泊まり込むから、何かあったら連絡してくれ」
「……ありがとうごさいます」
 水樹が深々と頭を下げると小川が心配そうに顔を覗き込んできた。
「大樹(たいじゅ)君、大丈夫? 顔色悪いけど」
「ありがとう、小川さん。……大丈夫です。あの、お母さんの方は……」
 小川は実家に帰っていたはずなのだ。
「心配してくれてありがとう。でも全然問題なし。先生の一大事だっていうのにマネージャーの私がこたつでのん気に渋茶なんか啜っていられるもんですか」
 水樹は仄かに微笑んでみせる。今はこれが精一杯だった。
 谷口がぽんと労うように水樹の肩をひとつ叩いて踵を返す。
「あんまり無理すんなよ。じゃあな」
「大樹君。これ、あげる」
 帰りしな唐突に愛用の大きなバッグを開いたかと思うと、小川は中からスナック菓子のパッケージを取り出して、それを水樹に押し付けた。すぐには受け取ろうとしない掌を無理矢理開いて小さな箱を掴ませ、その上から自分の両手を重ねてぐっと力を込める。
「辛いだろうけど、ちゃんと食べなきゃダメ。大きく育たないぞ。先生の望みはね、君が立派に大成することなんだから」
 青葉茂れる緑の大樹に――。透は小川にそう言ったのだ。
「おい、何やってんだ。行くぞ、小川君」
「はいはい。ただいま! じゃあね、大樹君。私も事務所にいるから」
 水樹から手を離すと小川が慌てて谷口を追い掛けていく。
 その背中に水樹は深々と頭を下げた。二人の姿が見えなくなるまで見送ると、近くにあった椅子に頽れるように腰掛けた。
 ――腎臓はひとつあれば問題なく機能する。
 そのこと自体は医学的には間違っていないし、実際の日常生活にも何ら支障はない。
 それはわかっている。
 だが、苦しかった。
 水樹のせいで透は臓器をひとつ失ったのだ。
 当面の危機は脱したが、依然として透は意識不明の重体。櫂人も夏乃も毅然と対処しているが、きっと不安に違いなかった。こんな時こそ多少なりとも医学の知識がある自分がしっかりしなければならないと思う。けれど、こうして一人になると挫けてしまいそうになる。
 水樹は小川から手渡されたスナック菓子のパッケージをじっと見詰めた。
 既に封が切ってある厚紙のパッケージには新鮮な野菜をたっぷり使用と謳ってあった。フタを開いてみると、中の菓子はひとつひとつが指の先ほどの大きさで様々な野菜の形をしている。
 水樹はホウレンソウの形をしたものを一つだけ取り出すと、しばらくじっと見詰めてから毒でも呷るような決意の瞳でそれをそっと口に入れた。さっくりとした食感はあるが味はわからない。口の中は乾いていて、まるで味覚を失ってしまったようだった。
 二つ目のニンジンは口にすることが出来ず、水樹が震える息を吐いて目を閉じると、不意に遠くで太い声がした。
「青葉」
 呼び掛ける調子の、懐かしい響きだ。
 けれど、もう自分は青葉ではないし、夏乃も今はここにはいない……。
 水樹が反応しないでいると、もう少し間近でまた声がした。
「もしかして、お前、青葉じゃないか?」
 その声が自分に向けられたものだと気付いて、水樹はのろのろと頭を上げた。
 他は誰もいない静謐とした廊下に白衣を着た大柄な青年が立っていた。日に焼けた丸い顔にそばかすが点々と。その愛嬌のある童顔に見覚えがある。
「……和佳水(わかみず)君?」
 茫として水樹がその名を口にすると和佳水は眩しいくらいの笑顔で大股に近付いてきた。
「やっぱり青葉かあ。懐かしいなあ。お前、学校辞めてからどうしてたんだ?」
 親しげに他愛のないことを聞いてきた和佳水は、水樹の様子を見てすぐに表情を改めた。
「どうしたんだ? 顔色悪いぞ。今日はこんな時間に何? 誰か病気か。それとも事故か?」
 水樹は俯いた。声が震える。
「……父が……刺されて」
「刺された? そりゃ尋常じゃないな。……あ、もしかして」
 一瞬眉を顰めた和佳水は廊下の突き当たりに目をやった。そこには大きくICUへの矢印が出ている。
 緊急手術を終えたばかりの重体患者、俳優桐生がICUに運び込まれたのはつい先程のことだ。その桐生が年のそう違わない養子を迎えて一時期騒がれたことは和佳水も何となく記憶していた。
「ってことは、お前が桐生の養子なのか」
 水樹は力なく頷く。
「……そっか。そりゃ心配だな。実はあのオペ俺も立ち会ったんだけど」
 目を見開き水樹が顔を上げた。
「ちょっと前から救急に配属されててな。当直でたまたまだったんだが」
 両手で縋るようにして水樹は和佳水の逞しい腕を掴む。
「で、透さんは? 君から見て透さんの容体はどうなんだ? ここ一両日中ぐらいが山だろうとは言われてる。具体的にはどうなんだ?」
「具体的にと言われてもな……」
 素人には説明が難しいと思ったのか和佳水は言い淀む。その和佳水の目を見て水樹は懇願した。
「僕も今は医学生だ。詳しく聞かせてほしい」
 和佳水が瞠目する。
「……そっか。お前やっぱ医者になるんだ」
 感慨深気にしばし水樹の顔を見ていた和佳水は頷いた。
「よし。そんじゃ話す。よく聞けよ」

 ◆

 専用の予防衣に着替え帽子とマスクをすると水樹は櫂人と共にエアシャワーに入った。
 モーターが唸りを上げ、エアーが吹き荒れる。
 透がICUに入ってまる二日が過ぎようとしていた。
 その間に透は幸いにも救急救命ICUから経過観察用のHCUに移されていた。命の危機を脱し容体は安定していたが、依然として意識不明の状態は続いている。

 エアシャワーを出てHCUの内部に入るとそこは光で満たされていた。時刻はもう午後六時を過ぎているが、室内は明るい照明と各種モニターの液晶やランプで隅々まで照らされている。
 その中を、いくつかのベッドを通りすぎ、水樹と櫂人は透のベッドに近付いていった。
 相変わらず人工呼吸器を付け、点滴や各種モニターに繋がれた痛々しい姿だったが、二十四時間ぶりに見る透の顔にはうっすらと髭が生えてきていた。
 たったそれだけのことがうれしくて、涙が出そうになる。透は確かに生きているのだ。
 櫂人が低く囁いた。
「俺、兄貴の髭面なんて初めて見るぜ」
「僕もです」
「写真に撮っときてえよな」
 水樹は頷く。髭の生えた部分を透の顔の稜線に沿ってそっと撫でてみると、ちくちくと髭が指先を刺激する。
 ICUに運び込まれた夜、和佳水から実はオペの最中に一度心肺停止状態になったと聞いた時には生きた心地がしなかった。
 それでも透は還ってきてくれたのだ。
 和佳水はあの太陽のような笑顔で透はとても強運だと言った。
 水樹は上掛けの上から出ている透の手を両手でそっと握った。その手は熱っぽかった昨日よりもずっと平熱に近くなって、脈も正しく打っている。
 出来ればずっとこうして傍らで看病していたいがHCUではそれは叶わない。
「透さん」
 名前を呼んで握る手に少し力を込めてみると、透の指が微かに動いたような気がした。
「……透さん?」
「どうしたんだ、水樹さん?」
 櫂人が怪訝そうに聞いてくる。
「今、透さんの指が……」
「え?」
 櫂人が見守るなか水樹がもう一度握った手に力を込めると、またぴくりと何本か、透の指が動いて握り返そうとする。今度は傍目からもはっきりと動きが見て取れた。
「兄貴、気が付いたのか?」
 櫂人が呼び掛けると、それに応えるようにまぶたがぴくぴくと動き、透は僅かに眉根を寄せた。ぴたりと閉じた睫毛が微妙に震え、今まさにその眼がうっすらと開かれようとしている。
 透の覚醒を確信した途端、泣きたいような喜びに満たされるのと同時に水樹はにわかに恐ろしくなった。そっと透から手を離す。
「僕……看護師さんに知らせてきます」
 透の指が、半ば開いた瞳が、水樹を探して僅かに惑うような動きを見せるのを見守りながら、櫂人に席を譲ると水樹はベッドを離れた。中央のナースステーションまで行き、看護師に透が覚醒したことを伝えると、そっとそのままHCUを後にした。

 ◆

 夜の歩道を水樹は歩いていた。
 闇の中を時折車が通りすぎていく。車道の向こうは隅田川だった。暗い水面の向こう側に疎らな光の群れが見えている。
 広大な病院の敷地の隣、緑地公園の常緑樹の並木を過ぎ、テニスコートの金網に沿ってとぼとぼとただ歩く。
 行く当てなどなかった。
 ただ、透に合わす顔がなくて逃げ出したのだ。
 行く手には夜の闇が広がっていた。外灯だけが道標のようにぽつりぽつりと奥へと続いている。
 しばらく歩いて水樹は立ち止まった。
 後ろを振り返る。
 常緑樹の黒い森の向こう側、闇路を照らす灯台のように病院には煌々と明かりがついていた。
 あの明かりの中に意識を取り戻したばかりの透がいる。
 水樹のために血を流し、腎臓をひとつ失った透がいる。

 ――透さん。

 側にいて看病したい。
 けれども、申し訳なくて目を合わせることも出来ない。
 相反する思いに結論を見出せないまま時だけが虚しく過ぎ、何台もの車が水樹を追い越していく。
 今もまた一台の車が水樹の脇を通りすぎていった。
 水樹が変わらず病院の明かりを眺めていると、すぐ後ろでエンジンを切る音がした。
 水樹はぼんやりと振り返る。
 この辺りにはコンビニもガソリンスタンドもない。パンクでもしたのかと思っているとルームランプが点灯した。白色のライトに照らされて、助手席で若い女性がぐったりとしているのが見える。
 胸騒ぎを覚えて水樹が近付き、
「すみません。どうかしましたか?」
 少し強めに助手席のガラスを叩くと窓が開いた。
「あ、あの、ゆみが……! あの、つ、妻が突然頭が痛いって言い出して……。どうしよう。臨月なのに……」
 顔を出したのは水樹よりもずっと若い、二十歳そこそこに見える男だった。髪を金色に染めて眉を剃り鼻にピアスをした一見恐ろしげな風貌だが、ぐったりとした身重の妻を抱えてすっかり取り乱し、縋るように水樹を見詰めてくる。
「すみません、ドア開けてもらっていいですか。僕は怪しいものじゃありません。東大医学部の学生です」
 夫が慌ててドアを開けると水樹はざっと妻の様子を診た。夫が名を呼べば反応し、辛うじて意識はあるようだったが、混濁し始めている。マタニティドレスに吐瀉した跡を見つけて、水樹は眉を顰めた。
「ちょっと、いいですか?」
 一声掛けると、夫の返事を待たずに妻の身体を締めつけているシートベルトを外し、助手席のシートを倒して彼女を横向きに寝かせた。口を開けさせ、咽喉に残っていた吐瀉物を指で掻き出す。
「ブラジャーをしているようなら外してください。横に寝かせたまま身体の向きは動かさないで。身体を締めつけるようなものは全部外して」
 夫に指示してから夫婦に背を向けると水樹は携帯を取り出した。一一九をコールする。
「救急です。強い頭痛を訴えて現在意識は混濁、吐瀉した跡があります。はい。二十代前半ぐらいの女性で妊娠しています。臨月だそうです。ええ……」
 後ろを向いたまま水樹が夫に声を掛ける。
「旦那さん、下から出血してるかどうか確かめてもらえますか?」
 若い夫は慌てて下着を確かめた。
「し、出血はしてないです」
「わかりました」
 水樹は背を向けたまま小さく頷くと、オペレーターにその旨と場所を告げて通話を切った。
「学生さん、ゆみは大丈夫でしょうか」
 妻に寄り添うまだ若い夫に向け安心するよう頷いてみせる。
「大丈夫です。救急車すぐ来ますよ」

 ◆

 若い夫婦を収容すると、救急車はサイレンを鳴らしながら赤い点滅する光となって一路病院を目指して交差点を折れていった。

 ――僕は何をしているんだろう。

 救急車のサイレンを追うように水樹はのろのろと歩き出した。

 やはり病院へ戻ろう。
 今の自分にも透のために出来ることがある。
 目を覚ました透にきちんと謝って、看病して。それで償えるかどうかはわからないけれど、立派な医者になろう。
 そして、これから先もずっと――。

「よう、水樹」
 不意に掛けられたその声に水樹の背中は凍り付いた。
 その場から一歩も動けない。手足からは血の気が引き、心臓だけが早鐘を打つ。それでも半ば無理矢理に、ゆっくり首を後ろにねじ向けると、闇の中にセンスが立っていた。
 いつもとは随分印象が違っている。リュックは肩に掛けているが、キャップは被っていない。その代り地味な色合いのパーカーのフードをすっぽりと被っていた。
 水樹はやっとのことで咽喉から言葉を絞り出す。自分でも滑稽に感じるほど声が震えた。
「……センスくん。……どうしてこんなところに?」
 この二日間、センスは警察の捜索網を掻い潜り行方をくらませていたのだ。
「あの人どうした? あれからちっとも続報なくてさあ。俺は近付けないし、カメラの望遠にも限界あるしさ。外からじゃどうなってんだかさっぱりなんだ」
 センスの態度には悪びれたところなど一切見られなかった。余裕の笑みさえ見て取れる。だが、その目は笑ってはいない。暗く冷たく鋭利なものを含んで水樹をじっと見詰めている。
 見ているうちに苦しくなって、水樹は顔を歪めた。
「どうして……どうしてなんだ、センスくん。僕が嫌いなら僕を刺せばいい。どうして透さんにあんな酷いことを……」
「お前を殺したって意味ないだろ。お前なんかどうでもいいんだよ」
 水樹を見たままセンスはうそぶく。
 無造作に発せられた「殺す」という言葉に水樹はびくりと震えた。
「俺はあの人にわかってほしいんだよ。お前と関わると早死にするって。お前にちやほやしてる他の奴等にも、世間にもさ」
 水樹はその場に立ち尽くす。センスの目から、その強い敵意を宿す瞳の色から目を逸らすことが出来なかった。
 こんなに憎まれていたのだと愕然とする一方で、記憶の底からぼんやりと、唐突に浮き上がってきた思いがある。

 ――こんな目を以前にもどこかで見たことがある。

 物心ついてからというもの水樹は誰かに特別憎まれ疎まれたという記憶はない。
 今、その敵意を隠そうともせず目の前に立っているセンスでさえ、幼い頃はこれほど直接的に憎しみを水樹にぶつけてくることはなかった。
 だが、どこかで見たことがある。
 センスではない。
 憎しみに満ちた、別の誰かの刺すような視線――。
 それはかつて、確かに自分に向けられていた。

「じゃあな、水樹」
 センスの声に、はじかれたように水樹は我に返る。
「待って、センスくん!」
 踵を返しかけたセンスの背中に水樹は夢中でしがみついた。カメラの入った硬いリュックが頬骨やこめかみに酷く当たって痛かったが構わなかった。ここで捕まえておかなければ、また何をするかわからない。
「珍しいじゃん、水樹」
 組み付かれたセンスは笑った。ゆっくりと首だけを後ろへねじ向け、水樹を見下ろす。
「力尽くか? ガキの頃は一度も俺に勝ったことなかったよな、賢い水樹くん?」
 二人の間にはかなり歴然とした体格差がある。水樹も決して華奢ではなかったが、センスの方が背も高く、骨格もがっしりとしていて筋肉質だった。それ以前に、こういう場合の経験が水樹とセンスでは決定的に違う。
 センスは身体を捻ると勢いに任せて自分の身体ごと道路脇の電柱に水樹を打ち付けた。後頭部を打った水樹が腕の力を緩めると、一旦身体を離して水樹の髪を掴み鳩尾の辺りを膝で蹴り上げる。一声呻いてその場に頽れた水樹を見下ろし、センスは口許を歪めた。
「無理すんなよ。ケンカどころかプロレスのまね事だってしたことねーんだろ」
「……お願いだから……自首して……」
 咳き込み、鳩尾を押さえて辛そうに見上げてくる水樹の懇願をセンスは一蹴した。
「そいつはダメさ。俺の言ったこと本当だってあの人にちゃんと伝わったって確認してからでなきゃ」
 水樹は目を見開いてセンスの顔を見上げる。
 それは透が死んだらという意味なのだろうか。
「透さんは……死んだりしない。死んだりなんか……」
 震えながらそれでも黙っていられずに水樹が口答えすると、センスは言下に宣言した。
「だったら、また俺が刺してやるよ。俺の言ったことが真実だってわかってもらえるまで何度でも」
「止めてくれ!」
 水樹が絶叫した。
「養子縁組は解消する! だから、透さんにはこれ以上何もしないで――」
「なあ、水樹」
 センスはその場にしゃがみ込む。水樹と目の高さを合わせて、その顔を覗き込んだ。
「お前がその気でもさ、あの人にはその気はないんだよ。言いたい事があるなら法廷で聞くってさ。俺はっきり言われたんだ。あの人はあの記事のこと全然気にしてないし、自分の立場や命よりもお前の方が大事なんだよ。それくらい愛されて本望だろ?」
 水樹はセンスの目を見て瞠目する。
「もしかして……君もゲイ疑惑のこと本気にしてるのか……? あれは誤解だ。僕と透さんはそんな……」
「勘違いすんなよ、水樹」
 センスは立ち上がる。
「俺はさ、俳優桐生の大ファンで、別にお前とあの人が実質夫婦だろが親子だろうが、そんなことはどうでもいいんだよ。ただ、あの人に俺の言ってる事が正しいってわかってもらいたいだけなんだ。お前と関わると早死にするってさ、証明したいだけ」
「センスくん!」
 悲鳴に近い声を上げ、足下に縋ろうとする水樹の顔をセンスがリュックでなぎ払い、強かに数度蹴り付ける。鼻血に塗れ、地に伏した水樹を見下ろしてセンスは笑った。
「だから、言ってんだろ。無理すんなって。力でお前が俺に敵う訳ないんだからさ」

「おい! そこで何やってる!」
 後方からにわかに眩しい光が射した。
 車から降り、駆け付けてくる人影を見つけてセンスは身を翻した。
「またな、水樹」
「セ、センスくん……待って……」
 追い掛けようとして顔を上げた途端鼻血を吸い込んで咳き込む水樹を、側までやってきた男がしゃがみ込んで覗き込む。
「おい、君。大丈夫か? 鼻血出てるな。待ってろ、今止血を――」
「……す、すみません……。大丈夫。自分で……出来ますから……」
 ティッシュで血を拭こうと差し出した手を水樹が押し止めるようにすると、男は動きを止めた。
「お前……。青葉?」
 水樹は目の前の男を見上げた。
 丸顔の、愛嬌のある童顔が、自分を心配そうに覗き込んでいる。
「……わ……みず……く……」
 和佳水の顔を見た途端、安堵感が広がった。緊張の糸がふっつりと切れ、そのまま意識が遠のいていく。
「おい、どうしたんだよ? しっかりしろ」
 和佳水が頬を軽く叩いてみても水樹はもう反応しなかった。取りあえず呼吸と脈が正常なことを確かめてから止血を施すと、和佳水はほっと小さく息を吐く。
 辺りに目をやれば、すぐ側にウサギとニンジンのトートバッグが放り出されていた。
 その見覚えのあるバッグを拾い、医者にしてはいささか逞しすぎる肩に水樹を担ぎ上げると、和佳水は自分の車に戻った。
 時間を確かめてみるとまだ八時前。寝るだけの家に戻るには早かった。いつもならどこかで夕飯を食べていくのだが。
「ま、いっか」
 冷蔵庫を探せばレトルト食品ぐらいあるだろう。滅多にないたまのことだ。旧友の寝顔と思い出を肴に缶チューハイを空けるのも悪くはない。
 助手席で小さく寝息を立てる水樹を一瞥すると、和佳水はなるべく静かに車を発進させた。

 ◆

 微かに低い震動音が聞こえていた。
 断続的に規則正しく。
 この音には聞き覚えがある。とても馴染み深い。……洗濯機の音だ。
「お。気が付いたか?」
「……和佳水……君……」
 水樹が目を覚ますと最初に視界に入ってきたのは壁際に立つ和佳水の姿だった。手にしているのは水樹のジャケットとハンガー。その向こうには見知らぬ部屋の小さな風景が広がっている。
「……ここは?」
「俺のマンション。つってもワンルームだけど」
 そろりと半身を起こして自身の姿に目を落とせば、いつの間にかぶかぶかのジャージの上下に着替えさせられていた。ジャージは和佳水のものらしく、袖が余って僅かに中指の先だけが覗いている。
「悪いが、血だらけの酷い有り様だったんで一通り診察させてもらった。鼻血の付いたシャツとジーンズは洗濯中だ。ジャケットは丸洗いする訳にもいかんから、染み抜きだけ頑張ってみた。ま、後からクリーニングにでも出しといてくれ」
 愛嬌たっぷりの表情で和佳水は笑う。
「痣だらけで酷いご面相だが、内蔵は傷ついてないようだ。どこか痛いところはないか。気持ち悪いとかは?」
 フローリングに敷かれた薄いクッションの上で上体を起こし、水樹は黙って首を振る。ただ、頭が重かった。身体も重い。
「本来、気を失うようなケガの程度でもないんだがな……」
 和佳水は間近までやってくるとしゃがんで水樹の顔を覗き込む。
「顔色が悪いな。貧血気味なのかもしれん。お前、もしかして寝不足か?」
 言われてみれば確かに睡眠不足かもしれなかった。
 センスがその姿を現してからというもの、睡眠薬は常用していたが一日として熟睡できた夜はない。透が刺されてからはほとんど睡眠を取っていなかった。
「これ、飲んどけ」
 和佳水は棚から鉄分補給用のサプリメントを持ってきて水樹に渡した。
「市販のものだが気休めにはなるだろう。ちょっと待ってろ。水汲んでくるから。お前、飯食ったか? 肉まんならあるけど食うか」
 冷凍庫から肉まんと、ついでにミニグラタンを取り出すと和佳水はそれを電子レンジに放り込む。
「……ごめん、和佳水君」
 キッチンから戻ってきた和佳水は、水の入ったマグカップを水樹に手渡して笑った。
「いいってことよ。朱雀で席次を争った仲じゃん。ま、実際お前にゃ全然敵わなかったけどさ」
 水樹は和佳水の笑顔にしばし見蕩れた。
 昔と同じ、太陽のような明るい笑顔だ。
 同じクラスの出席番号一番と最後尾の四十番。入学早々ラグビー部の次世代エースと期待され、文武両道の手本のようだった和佳水と、如何にも文学青年らしいと言われた水樹。
 懐かしかった。もう十年以上も前のことだ。
 ――周りからは太陽と月だと言われたっけ。
 そこまで思い出して水樹は急に情けなくなる。
 太陽は常に自力で輝く。
 だが、月は誰かに頼らなければ光を反射することさえ出来ない、ただの鉱石の塊に過ぎない……。
 チンと電子レンジが鳴った。
 和佳水は肉まんとグラタンをトレイに並べて持ってくると、水樹の前に差し出した。フローリングに座り込み、自分は缶チューハイを開けて口にする。
「さ、食えよ。でさ、今日はもう遅いから泊まってけ。桐生だって容体かなり落ち着いてきたんだろ? お前もたまには身体休めた方がいい。久しぶりに会ったんだから、寝物語に積もる話でもしようぜ。ウチに連絡すんなら、ほれ」
 和佳水が水樹のトートバッグを引き寄せる。バッグも血で点々と汚れいていた。携帯を探そうともしない水樹を和佳水が訝しげに見守る。
「連絡しないのか? 妹いたんじゃなかったか?」
「……僕は家へは帰れない。もう……透さんのところへは戻れない」
 俯いて水樹が小さく零すと、和佳水は眉を顰めた。
「おいおい。何言ってんだ、青葉……」
「……だって」
 水樹の声は次第に震え、感情が滲んで、暗く重たくなっていく。
「透さんを刺したのは僕の幼馴染みなんだ。センスくんが……僕への面当てにしたことなんだ。僕は、本当は……透さんに合わせる顔なんてない……」
 あんなに良くしてもらったのに。結果的に恩を仇で返してしまった。
「青葉……」
 和佳水はひとつ溜め息を吐く。
「何か知らんけど、俺でよければ聞いてやるから話してみろよ。口に出したら少しは楽になるかもしれないぜ?」
 短い沈黙の後、水樹はぽつりぽつりと話し出した。自分が青葉家の養子だったこと。さわらび学園で一緒に育ったセンスとの因縁。そのセンスがもたらした事実――二歳当時自分を庇って母の婚約者が亡くなったこと、母がそのショックで亡くなったことも。
 同級生というだけで直接関わりのない和佳水だからこそ、負い目も罪悪感も何もかも率直に口に出すことが出来た。
「僕のせいなんだ……。僕のせいで……」
 水樹の話を聞き終わった和佳水は顔を顰めた。
「俺に言わせりゃ、どれもこれもお前のせいじゃねえと思うけど。大体、お前はそいつの言うこと鵜呑みにし過ぎだ。今回のことは逆恨みだし、お母さんのことにしたって、お前を嫌ってる相手なんだからお前を困らすための出鱈目かもしれないだろ」
「……でも」
 水樹は言いかけた言葉を直前で飲み込むと、両手で自分の膝を抱いた。
 羅天検事が自分のために死んだのも事実なら、透が刺されたことも事実なのだ。しかも、センスはまた同じ事を繰り返そうとしている。たとえ今回逮捕されたとしても、センスが水樹への恨み辛みを忘れない限り何年経っても同じこと。センスを思い止まらせるには、なるべく早く自分が透の元を去るしかない。
 小さくうずくまり膝に顔を埋めたままの水樹を見やって和佳水はもう一度溜め息を吐いた。
 一旦傍らから立ち上がり、クローゼットから毛布を引き摺り出すと、それを水樹の頭の上から被せた。
「とにかく、もう、それ食ったら寝ろ寝ろ。身体が弱ってるときは人間ろくな考えが浮かばない。今夜はもう何も考えずに寝ちまえよ。考え事は明日、朝日を浴びてからにしろ。な?」

 

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Fumi Ugui 2008.09.26
再アップ 2014.05.21

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