名医の子供達

第11話 復活の呪文

 日が落ちると、辺りは急に冷え込みを増した。
 クリスマスを過ぎた繁華街は年末商戦一色。電器店もスーパーも賑やかなチラシで彩られ、正月用の買い出しを終えた家族連れや、これから年末セールの特価品を物色しようという人々が絶え間なく行き交っている。
 駅前の通りに入ると水樹はジャケットの襟を立て、マフラーを頭からすっぽりと目深に被った。昨日センスに蹴られた顔は鼻を中心に頬骨からこめかみの辺りまで酷く痣になっていた。人通りの多いところで殊更に晒して楽しい気分の人々を驚かせるのは気が引ける。
 通りに並ぶ家電店のひとつに近付いて時計代わりに放映中のテレビ番組を確かめる。昨夜から携帯の電源はずっと切ったままだった。
 何台も並べてある液晶画面の中では、民放でローカル情報番組、教育テレビではアニメをやっている。時刻は既に五時半を回っていると見えた。
 そろそろ時間だ――。
 水樹はすぐ近くに見えている山手線の駅に向かって歩き始める。

 今夜は六時から羅天雅武と会うことになっていた。
 水樹が自分から連絡を取ったのだ。
 雅武に会って今後の援助を仰ぐつもりだった。
 彼に頼れば、顔を見るたび転落事故のことを思い出して苦しい思いをするのはわかりきっていたが、透の元を離れると決めた水樹には他に当てなどなかった。
 医学部を辞めて働くことは考えていなかった。
 最早水樹にとって医者になることは、今まで良くしてくれた透に、育ててくれた青葉に報いるたったひとつの道だった。どんなことがあっても途中で投げ出す訳にはいかない。

 足取り重く新橋駅の構内を出た水樹は、裏小路に入って懐かしい簡素な門の前で立ち止まった。
 低い生け垣も料亭らしくない佇まいも記憶のままだ。
 前にここへ来たときは透と一緒だった。
 今は透を、夏乃を、家族を切り捨てて、水樹は一人でここにいる。

 ――この門を潜ってしまえばもう後戻りはできない。

 透に一言もなしに雅武を頼るのは不義理だとわかっている。本当は透との養子関係を解消してから雅武に頼るべきだ。
 けれどもきっと、透の顔を見れば決心が揺らぐ。
 今夜雅武に会うのは自分を追い詰めるためでもあった。先に雅武に接触して援助を仰いでしまえば、もう前に進むしかなくなる。
 水樹は一度目を閉じた。
 静かに息を吐き、再び目を開くと、思い切って格子戸のその門を潜った。

 

 女将は水樹の顔を覚えていた。
 痣を見ても驚いた素振りひとつ見せず、以前と変わらぬ笑顔で水樹を座敷へと案内する。通されたところは、前に屋敷と会った座敷よりも更に縁側をずっと奥に行ったところにある離れだった。
 そこは箱庭のような日本庭園に囲まれた八畳ばかりの独立した建物で、母屋との間には小川が流れ、四方に縁側が付いている。女将について渡り廊下を過ぎ、離れの建物に沿って縁側をひとつ曲がると、障子戸の開け放たれた明るい座敷が見えた。先を行く女将が中に向かって水樹の来訪を告げる。水樹が重く緊張した足取りで障子の陰から明かりの中へと踏み出した途端だった。
「お兄ちゃん!」
 静謐な庭園に鋭い声が響いたかと思うと、水樹達が来た方向とは反対側の建物の陰から小さな影が飛び出してきた。
 水樹が茫然とその場に立ち竦む。
「夏乃……」
 一体いつからそこに潜んでいたのか。ダウンジャケットに身を包みマフラーと手袋をした完全防備の夏乃は、座敷の明かりに照らされた水樹の顔を一目見て、その瞳を大きく見開いた。
「どうしたの、お兄ちゃん。その顔……」
 急いで水樹に近付くと泣きそうな目で、たったの一日で変わり果ててしまった兄の顔を見上げる。
「……酷いよ。どうしてそんなケガしてるの……?」
「何でもないよ」
 水樹が顔を背けると、座敷に控えていた雅武の秘書が二人の間に割って入った。
「何だね、君は。人の座敷にいきなり。無礼だろう」
「いや、待て、吉井君。確か君は……」
 秘書を制止して窺うように見てくる雅武に向き直り、挑むように一瞥すると、夏乃はその場に跪き両手を突いた。そのまま廊下に額を押し付けて懇願する。
「お兄ちゃんをあたしから奪わないでください! お願います! お願いしますッ!」
「……夏乃!」
 初めて見る妹の姿に水樹は震えた。不甲斐ない自分自身への憤りで血が沸騰してしまいそうだった。
「よしなさい! 夏乃がそんなことをする必要はまったくない!」
 夏乃にはいつも、誰に対しても毅然としていて欲しかった。
 自分のために夏乃が誰かに頭を下げることなどあってはならない。
 水樹が後ろから両腕を掴んで無理矢理顔を上げさせると、
「お兄ちゃん……」
 夏乃は縋るような目で水樹を見上げてきた。その視線に耐えきれず、水樹は逃げるように踵を返す。
「お兄ちゃん! 待って!」
「待ちたまえ、水樹君」
 水樹を追って座敷を出ようとする雅武の前を、遮るようにさっと色鮮やかな影が差した。仄かに風が薫る。
「まあまあ。先生の値打ちもわからずに去っていく者など、放っておおきなさいましな。縁があれば、また会う機会もございますよ」
「君は?」
 上司に対する度重なる無礼に秘書が眉間に皺を寄せて誰何すると、島田に引き着の胡蝶は艶やかに微笑んで、裾を優雅に翻し縁側にぴたりと三つ指を突いた。
「お初にお目に掛かります。瑞雲亭さんからご紹介に与りました胡蝶と申します。どうぞ、ご贔屓に」

 ◆

「お兄ちゃん! 待って! 置いてかないでっ!」
 追い縋る夏乃の声を振り切るように、水樹は母屋の縁側を大股に走り抜けた。
 店の者から急かすように靴を受け取り、女将への挨拶もそこそこに、玄関に続いて格子の門を飛び出す。料亭の敷地沿いに裏小路を抜けて表通りに出ようとすると、塀の陰から大きな人影が現れて水樹の前に立ち塞がった。
「逃げんのかよ」
「櫂人君……」
 立ち止まって見上げると、外灯の明かりの下、櫂人は怒っているのか拗ねているのかよくわからない表情で水樹を見下ろしていた。
「妹泣かすなよ。兄貴だろ?」
「夏乃には君がいる。僕の役目はもう終わりだ」
 辛うじて目を逸らさずに水樹が答えると櫂人は沈黙した。水樹の顔を睨むように一瞥すると僅かに顔を背ける。
「……悔しいけど、俺じゃあんたの代わりにはなれないんだよ。抱き締めてもキスしてもダメなんだ。俺といたって、後ろにあんたがちゃんといてくれないと、アイツちっとも幸せじゃないんだよ」
 水樹は一瞬だけ逡巡するような素振りを見せたが、すぐに俯いて弱々しく首を横に振った。
「でも、僕は透さんのところに戻る訳には……」
 途端、櫂人が水樹の方に向き直った。一歩詰め寄ると水樹の肩に両手を掛け身を屈めて、俯いたままの顔を覗き込む。
「おい、まさか本気で出ていく気じゃないだろうな? あのいけ好かないジジイの養子になるとか言わないよな?!」
「お兄ちゃん!」
 ようやく追い付いてきた夏乃が料亭の門から飛び出してきた。
 逃げ場を完全に失った水樹は櫂人を見上げると悲しげに面を揺らす。
「僕はもう……誰の養子にもならない……。透さんのところへも戻らない……」
「何でだよ!」
 櫂人が噛み付くように問い質す。
「透のどこが気に入らないんだよ。羅天に乗り換えなきゃなんない理由は何だよ。兄貴にも夏乃にもあんなに心配されて。何が不満なんだか言ってみろよ!」
 だが、それには水樹は答えなかった。ひたすら俯いて顔を上げようともしない水樹に焦れたように櫂人が水樹から手を離す。
「……だんまりかよ。だけど、俺はあんたが出ていくのは絶対認めねえ」
 低く呟かれた言葉に水樹が顔を上げる。
 頭上の櫂人は怒ったように水樹を睨み付けていた。水樹の顔を見て僅かに表情を歪める。
「意外そうな顔してんじゃねえよ、情けねえ。理由が欲しけりゃ言ってやるよ。あんたが俺の身内だからだ。もう早渡の人間だからだ!」
「櫂人君……」
 茫然と見上げる水樹の胸倉をにわかに掴むと、自分の方へと引き寄せて櫂人は吼えた。
「馬鹿にすんなよ。俺なんか、あんたにとっちゃ透の弟ってだけの存在かもしんねえけど。あんたと夏乃ほどの絆はないかもしんねえけど。こっちにだって感情はあるんだよ!」
 ジャケットを握る拳に力が篭り、その熱さが水樹を揺さぶる。
「昨日まで身内だったのに、明日から他人だって言われて、そう簡単に割りきれるか! 納得できるわけないだろ!」
 胸倉から乱暴に手を離すと、櫂人は水樹の肩を掴んで突き放すように夏乃の方へと押しやった。
「夏乃! 水樹さん放すな。押さえとけ」
 櫂人の言葉に弾かれたように夏乃がその小さな身体をぶつけるようにして水樹にしがみつく。
「やだやだ! お兄ちゃん行っちゃやだ! 独りにしないで。独りにしないでよ!」
 夏乃は子供のように泣いていた。
「透さんとこに行く時もあたし我慢したんだよ。余所の子になってもお兄ちゃんはあたしのお兄ちゃんだって、お兄ちゃんが言ったから……!」
「夏乃……」
 しがみついてくる体温を感じながら、水樹は養子に行くと告白したときの夏乃の表情を思い出していた。
 茫然とこちらを見詰めて。それでも、最後には諦観したように笑ってくれた。
 やはり夏乃はあの時かなり無理をしていたのだ。
 自分はそんな夏乃に甘えていた――。
「なのに、ホントは兄妹じゃなくて、妹じゃないって言われて。今までのお兄ちゃんとの思い出も何もかも、全部、全部嘘で……!」
 悔恨と、それよりも尚勝るいとおしさを抑えられず、咳き込みながら泣きじゃくる夏乃の背中に水樹はそっと手を添える。
「それでまたどこか行っちゃったら、あたし独りになっちゃう! 思い出も何もかも全部なくなって、ホントに独りになっちゃうよ!」
 遮二無二ぐいぐいと押してくる夏乃を支えるため水樹が僅かに身じろぎすると、逃がすまいと夏乃はしがみつく手にぎゅっと力を入れて泣き叫んだ。
「やだ、行かないで! 行かないでよ、お兄ちゃん……。お兄ちゃんっ……!」
 完敗だった。
 こんなふうに頼られ、泣かれては、その手を振り払っていくことなど水樹には出来はしない。
 抱(いだ)きあって路地に佇む兄妹の前に車が滑り込んだ。
 窓が開いて櫂人が顔を出す。
「筋ぐらい通せよ。この先どうするかは、一度兄貴と会って話をしてからだ」

 ◆

 夜間の入院病棟はひっそりとしていた。
 入院した当初程ではなかったが、棟の出入り口には張り番の刑事と記者が立ち、通行人を目で追っている。
 櫂人と夏乃に付き添われた水樹は、俯き加減のままナースステーションの前を通りすぎ、廊下の一番奥まで進んでいった。突き当たりの病室の前で櫂人が立ち止まり、ドアを開けて中に入るよう水樹を促す。
 僅かに震える身体を励まして、それでも顔を上げる勇気はないまま、水樹は病室に足を踏み入れた。
 背後でぴたりとドアの閉まる音がする。
「どうしたんだね、その顔は?」
 水樹の痣だらけの顔を見て透は眉を顰めた。
「何でもありません」
「黙秘するつもりか」
 沈黙したままの水樹をしばらく眺めて透は質問の内容を変える。
「まあ、そのことはいいだろう。羅天氏に会いに行ったそうだな」
「はい」
「何をしに? ただ、ご機嫌伺いに行った訳でもないだろう」
 透の問いには答えず、水樹はぽつりと呟いた。
「……養子縁組を解消してください」
 透は表情を動かさずしばらく黙って水樹の顔を見ていたが、やがておもむろに口を開いた。
「学費はどうするつもりだね。まさか、養子縁組は解消して、援助を再開してくれなどと言うつもりではないだろうな。それとも医者になるのは諦めたのか」
 水樹は僅かに身を竦ませ奥歯を強く噛みしめた。
 透の感情を殺した事務的な声音と容赦のない追及に、覚悟していたとは言え身体が少しだけ震える。
「……学資は羅天さんが出してくださると……そうおっしゃってます……」
「それはつまり、君にとっては学資を提供する相手なら、私でなくとも一向に構わないということか」
「そ、そんなことは……」
 水樹の顔が切なげに歪む。
 怯む様子の水樹を見据え、透は尚冷徹に畳み掛ける。
「援助する側とされる側。この七年間で私達の関係は出会った時と少しも変わらなかったと君は言うんだな」
「そんなことありません……!」
 思わず顔を上げ、水樹は口走っていた。
「透さんには言葉では言い尽くせないほど感謝してます。信頼もしてます。養子にって言われたときすごく嬉しかったし、透さんと夏乃と三人で暮らして幸せで……。僕にもし本当に兄さんがいたらこんなふうなのかなって……」
 水樹の本音を引き出せた透はここでやっと口調を緩めた。
「ならば――」
「でも、だからこそ嫌なんです!」
 強く言い切ると水樹は俯いた。
「透さんが危険な目に遭うのは嫌なんです。遭わせてしまったことが嫌なんです。透さんにも櫂人君にもおじい様にもご両親にも、申し訳ないんです。……もう、これ以上透さんに何かあったら僕は……」
 消え入りそうな最後の呟きを透は聞き逃さなかった。
「卯木センスに会ったのか?」
 水樹は答えない。
「その顔は卯木君にやられたんだな? 彼に何を言われたんだ」
 水樹は俯いたまま黙って首を横に振った。
 あんなことを自ら口にするのは辛すぎる。思い出すのも嫌だった。
「話してくれ。彼が今何を考えているのか知ることは、こちらの被害を最小限に抑えるためにも必要だ」
「センスくんは……」
 震えながら、水樹は言葉を吐き出す。
「自分の言ってることが正しいって透さんに証明するって……。僕と関わると……早死にするって透さんにわかってもらえるまで……何度でも……何度でも刺すって……」
 はたり、はたりと水滴が滴って、水樹の足下を濡らしていく。
「僕が養子を解消するって言っても聞かないんです。透さんにはその気がないからって。でも、実際に養子縁組を解消したらセンスくんもきっと考え直してくれます。結局、彼が憎いのは僕だから……だから……」
 水樹が詰まらせた言葉の先を引き取って透が続けた。
「要するに、私の身に危険が及ぶから養子縁組を解消せよということかね?」
「……はい」
 尚うな垂れたまま水樹は頷く。
「センスくんはまだ逃亡中だし。今度のことだって僕が透さんの養子にならなかったらこんなことには……。これ以上透さんに迷惑は掛けられません……」
「馬鹿なことを言うものじゃない」
 透の声が僅かに険しさを増す。
「私はそんな半端な覚悟で君を養子にした訳ではないよ」
「覚悟……」
 俯いていた水樹がにわかに顔を上げた。微かにその身体が震えている。
「覚悟って何ですか? 死んでもいいってことですか? そんなの僕が嫌です!」
「水樹」
 瞠目する透に向かって水樹は一気に感情をさらけ出した。抑えようと思っても一度昂ぶってしまった感情は抑え切れなかった。
「今までいろいろ援助してもらったことも親切にしてもらったことも、頑張ればいつかは恩返しできる日が来ると思ってました。でも、でも……! もし透さんが死んでしまったら僕どうすればいいんですか?!」
 青葉の父にも何も返せなかった。ただ愛情を注いでもらうだけで自分からは何も出来ないままに死に別れてしまった。青葉の母も、産んでくれた実の母も、羅天知尋という人も、難病で亡くなったという実の父も。自分に愛情を注いでくれた人達は皆亡くなって、水樹ひとり何も返せないままに生きている。
 これではセンスに親の命を吸って生きていると言われても仕方がない――。
「……どうやって、今までのことに報いたらいいんですか」

 ひとつ溜め息を吐くと透は水樹に付添いの椅子を促した。
「水樹、そこに掛けなさい」
 水樹は俯き、黙って立っている。
「掛けないのか。君が自分で掛けないというのなら――」
 透は掛け布団を撥ね除けると半身を起こした。辛そうに顔を顰めながら水樹の方へと手を伸ばす。
「何するんですか! 寝てなきゃダメです!」
 覚束ない動作でベッドから降りようとする透を、慌てて水樹が押し止める。その手を、透は重体患者とは思えないほどの握力で掴み、引き寄せた。血の気の失せた顔で水樹を見据える。
「そこに、掛けなさい……」
「わかりました、わかりましたからッ! 無茶はやめてください……!」
 水樹は自分とはかなりの体重差のある透を苦労してベッドに戻すと、すぐさま繋がれたチューブやカテーテル、点滴に異常がないかを点検し、傷口の具合を確かめた。幸い傷口が開いた様子はなく、ほっと安堵の息を吐く。それから、泣きそうな顔で透を睨み付けた。
「安静が必要な重体患者のくせにこんなことして……卑怯です」
 透はさすがにぐったりとしていたが、それでも目の力は失われていなかった。布団を掛け直す水樹の手を再び掴む。
「……緊急事態だ。手段を選んでいる暇はない。ケガ人に対する同情でも、医師を目指す者としての義務感でも使命感でも……何でも構わない」
 透は掴んだその手に力を込める。
「今は私から離れるな」
「……透さん?」
 水樹はその意図を推し量ろうとするように透の瞳を覗き込んだ。
 こんな透を前に一度だけ見たことがある。水樹が透に内緒でホストクラブでバイトをした時だ。あの時もこんなふうに形振り構わず力尽くの行動に出た。掴んだ腕を決して放さなかった。
「言っておくが、私は君を手放す気はない。私の目の黒いうちは絶対だ」
 絶対などという言葉を透が口にするのは珍しい。
 にわかに心配になって、水樹は椅子にそっと腰を下ろすと透の表情を窺った。
 透はただ水樹を見ていた。表情に特に変化はないが、水樹の手を握った掌は酷く熱く、透の強い意志を代弁しているように感じられる。
「……今日の透さんは変です。何だか感情的になってます」
「当たり前だ」
 透は心外そうに水樹を見る。
「これはまさしく感情の問題だ。君を手放したくないという私の気持ちの問題なんだよ」
「透さん……」
 思わず目頭が熱くなって、水樹はとっさに俯いた。
 何と言ってよいのかわからず、自分の手を掴んだままの透の熱い手に、そっと自身の手を添える。
 顔を上げると、透はまだこちらを見ていた。
「今の君はここ一連の出来事の影響で精神的に不安定だ。そんな状態でまともな判断が出来るとは思えない。そこに付け込まれる可能性も十分にある」
 思い掛けない話の展開に透の目を見たまま水樹が瞠目する。
「……付け込まれるって……。一体何の話をしてるんですか……?」
「水樹。私は今君を手放す気はないと言ったが、正確には条件によりけりだ。私のところにいるよりも遥かに有益で明らかに君が幸せになれるというのなら、養子縁組の解消も検討する。私にとっては寂しいことだがね」
 水樹に向かって僅かに微笑んでから透は表情を改める。
「だが、君を羅天の家の者には渡さない。これは絶対だ」
 またしても出て来た絶対という言葉。
「絶対……。どうしてですか?」
 水樹が訝しむように尋ねると、透は水樹の目を見据えて厳かに答えた。
「それが君のお母さん、橘加菜子さんの遺言だからだ」
「……え。……母の?」
 唐突に口にされた実母の名に水樹は目を見開く。
「そうだ。君はお母さんから疎まれていた訳では決してない。君のお母さんは君を預けて行くとき再三振り返って去り難くしていたそうだよ。これは三橋園長から私が直接聞いた話だ。間違いないよ」
「お母さんが……」
 たったそれだけのことが水樹に劇的な変化をもたらした。
 日照りで萎れていた緑が僅かな慈愛の雨によって生気を取り戻すように、水樹の表情を覆っていた憂鬱な翳りが見る見るうちに晴れて、痣があっても尚青白かった頬に仄かな赤みが差す。
 水樹の変容する様を注意深く見守って、透はおもむろに口を開いた。
「水樹。この際いろいろとはっきりさせておこう」
 水樹が我に返ったように透を見返してきた。真っ直ぐなその瞳を透はしっかりと見据える。水樹はもう目を逸らそうとはしなかった。
「君は今回の事件のことをすべて自分のせいだと思い込んでいるようだが、それは間違いだ。副島君から聞いてわかったんだが、卯木センスは公認ファンクラブの会員番号二番。さわらび学園で読み聞かせをした時からの熱烈な私のファンだったそうだ」
「そんなに前から……」
 それは水樹が透と出会う遥か以前。まだ青葉が健在だった頃だ。
 やや茫然とする水樹に透は頷いてみせる。
「君と彼との因縁も、もちろん今回の一連の出来事の原因のひとつではある。しかし、同時に彼が私のファンでさえなければ、恐らく彼が君に対する憎しみを再燃させることも、私が刺されるような事態になることもなかったんだ」
 或いは、センスに向かって告訴するなどと宣言しなければ彼は凶行に及ぶことはなかったのかもしれない。だが、透が透である限り水樹の危難を黙って看過することはあり得ない。ならば、これは必然だったのだ。
「まあ、それほど誰かに見入られるというのは役者冥利に尽きるがね。つまり、君の考え方に沿えば、半分は私の自業自得ということだな」
「そ、そんなことは……」
 水樹が困惑したように僅かに身を乗り出すと、
「それでも貴方は悪くない、か」
 揶揄するように水樹を見やって透は仄かに笑った。
「そうやって、余分な罪悪感を背負い込むのは君の欠点だな」
「余分……ですか」
「水樹」
 透はその透徹な瞳で水樹を見据える。
「誰も世の中の罪のすべてを自分の身ひとつに背負い込むことなど出来ないよ。神ならぬ人の身ではね」
 水樹は少し考えるようにしてから、ゆっくりと小さく頷いた。
「……はい」
「相手を思いやることが出来るのは君の美徳のひとつだが、過ぎた罪悪感は自分のためにも相手のためにもならないよ。覚えておきたまえ」
 水樹は小さく溜め息を吐くと、じっと透の顔を見詰めた。
 透はもう無精髭は生やしていなかった。人工呼吸器も付けてはいない。たった一日のことなのに随分長い間顔を見ていなかったような気がする。
「大分落ち着いてきたな。私のとことろに留まる気になってくれたかね?」
「……でも」
 一番重大な問題が解決されていないことを思い出し、水樹は僅かに震える。
「センスくんはまだ透さんを……」
 水樹の手を掴む透の手に力が篭る。
「彼のことは警察に話して対策を取ってもらおう。私も十分に気を付ける。必要なら警備員を雇うよ。心配はいらない。逃げてばかりでは何の解決にもならないよ」
 語りかけてくる透の手が熱い。
「透さん……」
「何だね?」
「……僕は貴方の厚意にこの先も……甘えていいんでしょうか……」
「いいも何も」
 透は水樹の手をしっかりと握り直す。
「君はとうに私の息子だ。私の気持ちは、青葉先生が亡くなってからずっと夏乃君を養い育ててきた君ならわかるはずだ。そうだろう。それはきっと君のご両親も同じだ」
「……はい」
 見返りなど期待してはいない。
 ただ、いとおしくて、辛い思いをさせたくなくて守り育ててきたのだ。
「水樹」
 透は表情を和らげた。
「私の愉しみを奪わないでくれないか。君が君の希望通り立派な医者になることが、夏乃君が立派な社会人に育つことが私の愉しみなんだ」
 水樹の口許から仄かに笑みが零れた。
「……何だか、お年寄りのようなこと言ってます」
「老後は君頼みだ。見捨てないでもらいたいな」
「大丈夫です。ここ二、三日で介護はしっかりと予行練習しましたから」
「少しは元気が出たようだな」
 透は微笑むとドアの方に目をやった。少し声を張る。
「そこの二人、入ってきなさい」
 病室のドアが静かに開いた。櫂人と、続いて櫂人に促された夏乃がおずおずと顔を覗かせる。
「夏乃……」
 水樹が椅子から立ち上がり僅かに動揺した瞳で瞠目すると、
「お兄ちゃん……」
 夏乃は恐る恐る兄の前に進み出た。
 兄に笑顔はまだない。けれども、夏乃が近付いても見上げても、もう目を逸らすことはなかった。
「もう、どこにも行かないよね?」
「うん。行かない」
 水樹は頷くと泣きそうに顔を歪めた。
「……ごめん。ごめんね、夏乃。僕なんかが兄ちゃんでいいのかな。面倒ばっかり掛けて、夏乃を守りきれなかった頼りない兄ちゃんでいいのかな」
「ねえ、お兄ちゃん」
 一歩近付いて夏乃は水樹の腕にそっと触れた。下から覗き込むようにして水樹を見上げる。
「あたし大人になったよ。お兄ちゃんのお蔭で立派に育ったよ。だから、お兄ちゃんが少しぐらい挫けても、こうして支えてあげられるよ」
「夏乃……」
 半泣きの笑顔で見詰めてくる夏乃の小さな身体を、水樹は両手でそっと抱き締めた。
「……ありがとう」
 夏乃が背中に手を回してぎゅっとしがみついてくる。その小さな背中を撫でてやりながら、水樹はドアの前に立っている櫂人に目をやった。
「櫂人君もありがとう。……いろいろ迷惑掛けて、ごめん」
「……もう、いいよ。水樹さん出ていかねえなら、それで」
 櫂人がぼそりと呟くと夏乃が顔を上げた。水樹から身体を離して、散々泣いて赤くなった目を擦ると櫂人の方を見る。
「早渡……。来てくれてありがと……」
「……お、おう」
 あらぬ方向を向いて、それでもこちらを横目で窺う櫂人を見て、夏乃は照れたように笑った。
「いっぱい泣いたらお腹空いちゃった」
 呟くように宣言すると水樹の方を振り向く。
「あたし、その辺のコンビニ行って食べる物買ってくる。お兄ちゃんも食べるよね」
 夏乃の問い掛けに水樹は頷いた。
「うん。久しぶりにちょっとお腹が空いた。軽く何か食べたいな」
 夏乃の顔がぱっと輝く。
「わかった。兄さんの好物いっぱい買ってくるね。いこ、早渡」
 櫂人の手を取ると夏乃は病室を出て行った。
 二人きりになると透が水樹を見て笑った。
「君が何かを食べたいと口にするのは久しぶりだな」
「はい」
 感慨深く水樹は頷いた。
「自分でも、随分長い間食事を取ってなかったような気がします」
 実際は何かを口にしていたはずだが、味も、何を食べたのかも、ほとんど覚えていない。長い間夢を見ていたような心地だった。
「食欲があるのはいいことだ。私も何か食べたいところだが……」
「すみません。透さんはまだ絶食中ですよね」
 水樹は付添いの椅子に戻ると、慰めるように柔らかく微笑んだ。
 透は僅かに肩を竦めてみせる。
「絶食というのもなかなか辛いものだな。食べ物の匂いというのは許可も得ないで勝手に入ってくる。誘惑が多くて困るよ」
「食べられるようになったら、僕がハヤシライス作って持って来ます」
「ああ、楽しみにしているよ……」
 無茶をして疲れたのか、透は穏やかに笑って目を閉じたかと思うと、速やかに眠りに落ちていった。
 その安らかな寝顔を見ながら、水樹は心から安堵した。
 長い迷路を抜けて、自分はやっと自分の居場所へと戻ってくることができたのだ。
 身動きが取れなくなっていた自分を救い出してくれたのは、櫂人や夏乃や透や、そして、母の熱い思いだった――。

 透の傍らに両腕を乗せ頬を凭せ掛けると、水樹はそっと目を閉じた。
 その表情は透同様、穏やかだった。

 

【第一部 完】

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Fumi Ugui 2008.10.17
再アップ 2014.05.21

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