名医の子供達

第12話 旅立ち

 水樹が病室の隅のソファで目を覚ますと透は既にベッドの上に半身を起こしていた。
 スプーンでスープのようなものをゆっくりと口に運んでいる。目を覚ました水樹を見るとにこりと笑った。
「おはよう。よく眠れたようだな」
「は、はい。おはようございます」
 寝過ごしてしまったと気付いた水樹はソファから飛び起きるとベッドに近付いた。備え付けのトレイの上には、重湯とお粥の中間のような朝食が乗っている。
「食事できるようになったんですね」
「やっとお許しが出たよ。細やかなものだがね」
 それでも透は嬉しそうだ。一口一口を味わうように口にする。
「君も何か食べて来たまえ。ウチに一旦帰ってシャワーでも浴びてくるといい」
 病院は基本的に完全看護、透の容体も安定していて特に付添いが必要というわけでもなかったが、水樹は昨日一晩透の傍らで過ごしていた。
「はい。取りあえず何か食べてきます」
 ソファのトートバッグに手を伸ばした水樹は、表面にプリントされたマスコットキャラクターのうさ子ちゃんを見てふと動きを止めた。よく見ると、鼻血で汚した痕が結構酷く染みになっている。
 さすがにもう持ち歩くことは出来ないかもしれない。
 少しだけ感慨深気にうさ子ちゃんを見ると、水樹はトートバッグを大事そうに抱え込んで病室を出た。
 病室のすぐ前には見知った顔の刑事が立っていた。水樹を見ると僅かに会釈をしてくる。
 会釈を返しながら、院内の警備が強化されたことを知って水樹はほっとする。
 センスが未だに透に対して殺意を抱いていることを昨夜のうちに張り番の刑事に話しておいたのだ。迅速に対応してくれたことがありがたかった。

「よ、青葉。じゃなかった、今は早渡か」
 和佳水と顔を合わせたのは入院病棟を出てすぐのロータリーの前だった。
 夜勤を終えたばかりの和佳水は、あくび混じりに水樹の痣だらけの顔を見て笑った。
「おーおー。随分と勇ましいご面相になったな。で、雲隠れの期間は終わったのか」
「うん。ごめん。和佳水君にも迷惑掛けて」
 随分情けないところを見せてしまったと恥じ入ったように謝る水樹に、和佳水は大仰に顔を顰めてみせた。
「ああ、まったくだ。お前を泊めたって言ったら、桐生にすっげー目で睨まれちまったよ」
「え、透さんが?」
 水樹が目を丸くする。和佳水は愛嬌たっぷりに笑った。
「あんまり家族に心配掛けるなよ」
「うん」
 柔和に頷いて、水樹はそっと後ろを振り返った。
 病院は今も変わらずそこにある。
 不思議だった。二日前はあんなに切ない気持ちで病院の建物を眺めていたのに。今はまったく別人のような心持ちがしている。
 冬の朝の間はまだ寒さが厳しいが、空は晴れて清々しく穏やかだった。公道までの病院の私道をゆっくりと歩きながら水樹は後ろの和佳水に問い掛けてみた。
「ねえ、和佳水君。母親が我が子を物凄く遠くの施設へ預けるのにどんな理由があると思う?」
「何、それ。お前の話?」
「うん。僕はお母さんに嫌われてたからだって思っていたんだけど、違った」
「よかったじゃないか。まず一個解決だ」
 水樹は頷く。
「うん。でも、だったら、何でだろうって……」
「そりゃ何か都合の悪いことがあるからだろうな。親子関係に問題がないとしたら、外的な要因、例えば、環境的な何かかもしれない」
「環境的な何か……」
 和佳水の見解を吟味するように水樹は口の中で小さく繰り返した。
 それは多分、母の遺言と何か関係があるのだ。つまりは、羅天雅武と。
 母が自分を雅武から遠ざけておきたかった理由は何なのだろう。
 考え事をしながらぼうっと前を行く水樹を、駐車場の入り口のところで和佳水が呼び止めた。
「おいおい。どこ行くんだ?」
「え?」
 水樹が怪訝そうに振り返ると、ジャケットのポケットから車のキーをこれ見よがしに取り出してみせて、和佳水は笑った。
「どこへ行くつもりか知らんけど、外へ出るなら送ってやるから乗ってけよ。この辺随分歩かないと何もないぞ」

 ◆

 瞭三郎が櫂人とやってきたのは午後の面会時間になってからだった。
「よう、透。どうだ、調子は?」
「大分いいですよ」
 相変わらず下駄履きの祖父の顔を見て透は笑った。
「この通り、離乳食ぐらいのものなら少しは食べられるようになりました」
 透は水樹が器に擦り下ろしたりんごをスプーンで少しずつ食しているところだった。
「ははは、そりゃあいい。赤ん坊に逆戻りだなあ。悪役桐生も形無しだ。ファンにゃあ見せられねえ姿だが、まあ、せいぜい伜に親孝行してもらいな」
 瞭三郎がソファに落ち着くと、水樹が残りのりんごを剥いて持ってきた。
「どうぞ、おじいさん。櫂人君も」
「おう、こりゃあ美味そうだ。どれ、ひとつ頂くかな」
 瞭三郎に続き自分もひとつ摘んで櫂人がソファの脇のサイドボードに目をやる。そこにはメロンやパイナップル等、季節感を無視した高級フルーツが盛られた大きな篭が鎮座していた。
「豪勢だな。どこからもらったんだ?」
「やっと食べられるようになったからって、劇団の人達からのお見舞いなんですよ。さっき谷口さんが届けてくれました」
 うれしそうに答える水樹を見て瞭三郎が笑った。
「お前さんも、ちょっと見ねえうちに痣なんか作って随分と箔が付いたな。男はそのくらいでなきゃいけねえよ。顔色もよくなったじゃねえか」
「はい。お陰様で」
 水樹が柔和に笑って答えると、僅かな量のおやつを済ませた透が改めて祖父の方に顔を向けた。
「ところで、おじいさん。羅天雅武氏とはお知り合いですか? 僕の手術中に顔を合わせたそうですが」
「んー? ああ、まあ、一応はな。今は議員なんてやってるが、元は判事だからな。何度か顔を合わせたことはあるぜ」
「あのじいさん元判事だったのか……」
 傍で聞いていた櫂人が二つ目のりんごを口にしながら顔を顰める。
「どんな人物ですか」
 透が尋ねると瞭三郎は白髪頭をくしゃりと掻いた。
「まあ、特別親しかった訳でもねえからそう詳しくもねえが、あまり融通の利かなそうな、生真面目な印象ではあったなあ。特に問題を起こすこともなく最高裁の判事を真面目に務め上げて定年退職してったと思ったがな」
 唐突に、櫂人が酷く咳き込んだ。気管にりんごでも入り込んだのか、なかなか止まらない。
「大丈夫、櫂人君? 吐き出した方がいいよ。ほら、ここ」
 水樹にティッシュをあてがわれ背中を擦られながら、涙目になって櫂人が零す。
「……最高裁の判事だったのかよ。道理で、何か難しい面してると思ったぜ」
 任命に内閣が絡む最高裁判事は誰でもなれるものではない。判事の息子の櫂人としては、自分がそれを目指すかどうかは別にしても、何はともあれ特別な存在だった。
 そんな弟を余所に、同じく判事の息子で自らは弁護士の透は、淡々と祖父に質問を続ける。
「では、羅天知尋という人物をご存知ですか。検事だった人ですが」
「羅天知尋?」
 瞭三郎は僅かに眉を顰めると、一拍置いてからぽんと膝を打った。
「おう、羅天とこの二男坊な。ヤツなら随分前に死んだぞ。ヤツがどうかしたか。死んだのは確か二昔は前だぞ」
「おじいさんは彼と面識はありますか。どういう人物でした?」
「どうってなあ。仕事の面じゃあ、司法試験を現役一発合格したぐらいの切れ者だったが――待てよ。そういや一度俺んとこに依頼を持ちかけて来やがったことがあったな」
 瞭三郎は首を捻る。
「そうだ。確かにあった。事故で死ぬ直前だったな、ありゃ」
「おい、じいさん! それ、もうちょっと詳しく!」
 櫂人が勢い込んで急き立てるのを僅かに身を引いて除け、瞭三郎は皺深い顔を顰めた。
「何でえ、薮から棒に。急ぐのか? そんじゃあ、ちっと待て。資料探してくっから」
 ソファから腰を上げる瞭三郎を櫂人が慌てて見上げる。
「おい。資料って、事務所かよ?」
 瞭三郎はじろりと櫂人の顔を見た。
「他にどこにあんでい。とっとと立たねえか、運転手」
「ちぇ。薮蛇かよ……」
 ぼやく櫂人を引き連れて瞭三郎は病室を後にしたのだった。

 一時間もすると瞭三郎は戻って来た。
 再びソファに腰を落ち着けると、櫂人が抱えてきた変色した段ボール箱を受け取り、中から日付の入った大判の封筒と紙製のファイルを取り出す。
「おう。これだ。これだ」
 眼鏡を掛け、無造作に表紙の埃を手で払うと瞭三郎は古びたページを捲る。
「そうそう。そうだった。何だか、どっかの企業の研究所で働いていた若い研究員が不治の病になったとかで、残された母子のために労災認定出来ないかとか何とか。ええ……依頼人は橘加菜子となってるな」
「え……」
 瞠目する水樹の脇で、透と櫂人が顔を見合わせる。
「で、おじいさんはその依頼を受けたんですか」
「いいや」
 瞭三郎は首を横に振る。
「何でだよ! 親子が困ってんのに! じいさん弱いもんの味方じゃねーのかよ!」
 耳元で食ってかかる櫂人に瞭三郎は顔を顰めた。
「おうおう、そう興奮するねえ。俺も一応下調べはしてみたが、この病気ってえのが並の医学書には載ってねえ、聞いたこともねえようなシロモンでな」
 瞭三郎が口にした病名は水樹も耳にしたことがないものだった。
「だろう」
 瞭三郎は然りと頷いてみせる。
「知り合いの医者にも聞いてみたんだが知らんと抜かしやがる。調べさせたら、どうやら症例が極端に少なくて、原因も治療法もほとんどわかってねえってシロモンなんだな。それじゃどうしたって仕事と病気の因果関係なんか立証できねえから仕方ねえ。どっちかっていやあ、言い掛かりの部類に近ぇもんだったぜ」
 瞭三郎はここで一息吐くと顎を撫でた。
「第一な、東京在住の俺が福岡の依頼をまともに扱える訳がねえ。せいぜいこっちにしてやれることって言ったら難病の会や専門の基金を紹介してやることぐれえだ。ヤツも本気で俺に任せるなんて気はなかったろうよ」
「あ、そっか。じいさんこっちに住んでんだっけ」
 櫂人が思い出したように瞭三郎を見る。瞭三郎はファイルを閉じると眼鏡を外した。
「若い時分に検事を辞めてからはずっとこっちよ。俺ぁどうも引っ越しってえのが性に合わなくてなあ」
「あれ? んじゃ何で福岡の羅天と?」
「ちょうどお前らの母親が福岡に赴任している時でな。俺ぁ孫の――まあ、何だ。要するに透、お前の顔が見たくて福岡に行ったのよ。ついでに地裁に寄ったらたまたまヤツと出くわしたってだけさ」
 櫂人が呆れたように口を開ける。
「え。何だよ、それ。そんな適当な依頼の仕方ありなのか……?」
「普通はねえさ。言ったろ。本気で裁判沙汰にする気は端からねえのよ、ありゃあ」
「それじゃ何で?」
 怪訝そうにする櫂人を一瞥すると瞭三郎はにやりと人の悪い笑みを浮かべた。
「女に近付く口実さ。どんなトラブルも何とかすると持ち掛けりゃ困り果ててる女は親切ヅラに気を許すって寸法よ。冷静に考えりゃとても無理だろうと警戒するような内容でもよ、ヤツは正真正銘本物の検事だ。検事が何とかなるかもしれんと言えば、素人考えじゃ一縷の望みに縋ってみようって気にもなるじゃねえか。結果はともかくよ、実際こうして弁護士だって紹介するしな」
 透が苦笑する。
「なかなか巧妙ですね。僕ではとても思い付きませんよ」
「まあ、知能の程度は同じでも思い付くことにはいろいろ違いがあらあな」
「感心してる場合かよ。人の弱みに付け込みやがって。俺は好かねえな、そんなやり方」
 櫂人が眉根を寄せると瞭三郎は笑った。
「まあ、お前らみてえに黙ってても女が寄ってくる色男と違ってな、世の並の男共は女を口説くために涙ぐましい策をいろいろと弄してみるもんよ」
「……でも」
 水樹が遠慮がちに口を挟む。
「亡くなった時には婚約したというか、結納が決まってたんですよね」
「きっかけや経緯はどうあれ、努力の甲斐あって最終的にはそこまで持ち込んだということだな」
「そりゃ本人同士さえ良けりゃいいんだろうけどさ……」
 悟りきった透の見解に一応の理解を示しつつも櫂人はまだ不満そうだ。
「なんだ、お前らこの親子と知り合いなのか?」
 瞭三郎が怪訝そうに尋ねると水樹が答えた。
「あの、知り合いというか、この橘加菜子というのは僕の母なんです」
「何だあ? 本当か、そりゃ」
 驚いて調子の外れたどら声を上げる瞭三郎に透が頷く。
「ええ。羅天知尋が死んだときにその腕に抱かれていた子供が水樹です。おじいさんは転落事故については?」
「ああ、何だか子供を庇って死んだってえのは聞いてたが、それがお前さんだったとはなあ」
 水樹を見て腕を組むと瞭三郎は感慨深気に一声唸った。
「うーん。こいつぁ奇縁だ。そういやあ、最近週刊誌に何だか書かれてたなあ」
「ええ。それで、水樹の今後のためにも羅天知尋の事故死について調べているのですが」
「じいさん、何でもいいから当時のこと教えてくれよ。まだもうろくしちゃいねえんだろ?」
「おう。透の可愛い伜のためだ。何でも思い出してやるがな」
 打てば響くように威勢よく櫂人に応じた瞭三郎は顰めっ面で顎を撫でた。
「しかしそりゃ、いっぺん篤子のヤツにも話を聞いた方がいいかもしれねえな」
「お袋に?」
「おうよ。何たって当時アイツは福岡に赴任してたんだ。ヤツとも顔見知りだったはずだ。噂ぐらいなら何か聞いているかもしれんぞ」
 官公庁は今日が仕事納めだ。篤子は沖縄、衡平は北海道の帯広に赴任している。
「二人とも明日には病院に顔を出すとメールが来てましたよ。話はそれからですね」
 透が傍らの携帯を取って確かめると、櫂人がソファから立ち上がった。
「よし。そうと決まったらじいさん、とっとと帰ろうぜ。送ってくからよ」
 瞭三郎は顔を顰めた。
「何でえ、何でえ。年寄りを追い立てるみてえに。こちとら齢(よわい)八十過ぎて老い先短ぇんだ。もちっと可愛い孫と話をさせねえか」
「こっちはこれから夏乃の買い出しに付き合う約束があんだよ」
 櫂人があらぬ方向を向いて答えると、
「けっ。何でえ、そういうことか。こりゃ下手に逆らって馬に蹴られるといけねえや」
 にやりと笑ってソファを離れる。
「水樹、君もついでにマンションに戻るといい」
「え、でも」
 躊躇う水樹に透は微笑む。
「ここのところまともに寝ていなくて疲れただろう。早めに家に帰ってゆっくり休みたまえ。私のことならもう心配いらないよ。明日また来てくれたらいい」
 水樹はしばらくじっと透を見ていたが、すぐに柔和な笑顔を見せて素直に頷いた。
「はい。それじゃ今日はこれで帰ります」
 櫂人、瞭三郎と共に病室を出ると、目の前の廊下に立っている張り番の刑事に透のことを頼みますと丁寧に頭を下げて、水樹はその日病院を後にしたのだった。

 ◆

 翌日も良い天気だった。
 布団干しやマンションの大掃除を夏乃に任せると、水樹は櫂人の車で病院に向かった。透の経過は一見して良好で、特に事件もなく、事務所から回収してきた郵便物に目を通す姿を見て水樹はほっと息を吐く。
 透が郵便物を一通り見終わった頃、午前中の回診が始まった。
 術後の経過は順調だった。何事もなく診察が終わって担当医が部屋を出ていく。すると、入れ替わりに廊下から調子のいい声が聞こえてきた。
「あ、どうもー。いつもウチの早渡がお世話になってます」
 去っていく医師と看護師にぺこぺこと何度も頭を下げて、谷口は病室に入ってきた。後ろに小川の姿も見える。
「よ、早渡。調子はどうよ」
「あれ、谷口さん。何で今頃?」
 ソファに所在なく腰掛けていた櫂人が声を掛けると谷口は笑った。
「よっ! 櫂人君、おはよー。今日も水樹君の送迎ごくろーさん」
 悪びれたところのまったくない親友の顔を見て透は小さく溜め息を吐く。
「見舞いはありがたいが、面会時間は午後からだぞ」
「まあ、そう言うなって。こっちにだって都合ってもんがあんだよ。一応回診が終わるまでは大人しく外で待ってたろう?」
 谷口は言い訳すると廊下の方を振り返った。
「おーい、お二人さん。こっち入って来て」
 水樹と櫂人が怪訝そうに開けっぱなしのドアを見ていると、警備員らしき制服を着た男が二人入ってきた。一人は三十代ぐらいのがっしりとした体格の持ち主で、もう一人はもっと若く二十代前半ぐらいに見えた。
「頼まれてたボディガード。環都警備の宮崎さんと栗田君だ。さっそく今日から付いてもらうことになったから」
「早渡です。こんな状態ですが、どうぞよろしくお願いします」
 紹介を受けて透がにこやかに声を掛けると、二人は礼儀正しく挨拶をしてさっそく持ち場に赴いていった。
 部屋を出ていく二人の後ろ姿を見送った透は谷口に目を戻す。
「すまないな。費用は私のギャラから引いておいてくれ」
「いやいや、それには及ばねえよ。警備の費用は全部経費で落とすことになったからさ」
 僅かに目を見開く透を見て谷口はにやりと笑った。
「何だよ。そんなに意外そうな顔するこたないだろ。何たって桐生は劇団オオムラサキの大事な大事な稼ぎ頭だからな。こういうところに金を使わなくてどこに使うかってーの。いろんな損害の方も保険で穴埋めバッチリな上におつりが来そうだし、それにお前、例の『外道』な、あれが事件の効果で大ヒットだってよ」
「え、そうなのか? あれって結構地味な、小難しい映画だろ」
 櫂人が思わず口を挟むと、そちらを振り向いて谷口は笑った。
「いや、ホント、ホント。連日満員御礼。DVDの売り上げも相当見込めそうなんだとさ。まったく世の中何が幸いするかわっかんねーよなあ」
 再び透に視線を戻す。
「そんなこんなで長い目で見りゃ黒字になりそうなんだよ。それもこれも保険に入ってたお蔭だよな。いやー、保険料高かったけど、払っといてホントよかった」
「まったく敏腕プロデューサーだな」
 透が口許を綻ばせると、谷口は身体を反らせて胸を張って見せた。
「どうよ、ちったあ見直した?」
「恩に着るよ」
「ま、動けるようになったら返してくれればいいさ」
 谷口がにやりと笑うと、代わって小川が口を開いた。
「でも、まあ、当面は芸能活動はオフですね」
「その間はせいぜい裁判の準備に勤しむさ。君には骨休めになるだろう。たまの纏まった余暇を楽しんでくれたまえ」
「甘いなあ、先生」
 澄まして答える透を見て小川はにんまりと笑う。
「こういう時こそマネージャーの腕の見せ所ってもんです。そんなに長く入院してる訳じゃなし。一カ月もすれば復帰できるんでしょう。ねえ、大樹君?」
「え?」
 唐突に話を振られて水樹は曖昧に笑った。
「ええ、まあ……そうですね。経過次第ですし、退院後もある程度は定期的に通院が必要になるとは思いますけど。でも、詳しいことは担当の先生にお聞きしないと……」
「体調が整い次第、即仕事に入れるようにしておかないと。何事も先を見据えた計画性が肝心です」
 水樹の話など半分も聞いていない様子でひとり頷く小川を見て透が苦笑した。
「相変わらず人使いが荒いな。重体患者相手にもう仕事の話かね? まあ、暴漢に刺される役のオファーでもあったら受けておいてくれたまえ」
「あ、それいいですねえ。今度どっかのプロデューサーに話しときます。どこがノリがいいかなあ」
「おいおい、お前ら……」
 傍で二人の遣り取りを聞いていた谷口が呆れたような声を出す。
「ほんっとに転んでもただじゃ起きないよな。いいコンビだわ」
「あったり前です。何たって目標が庭師付きの豪邸ですから。がんがん稼がないと」
「まあ、稼いでくれりゃこっちは助かるが。程ほどにしとけよ。程ほどにな……」
 谷口が諦観の溜め息を吐いたところで、ノックの音が響いた。

 顔を覗かせたのは四十絡みの馴染みの刑事だった。谷口の顔を見ると会釈をする。
「これは、劇団の代表の方でしたな。今日は打ち合わせで?」
「いや、犯人がまだ諦めてないって聞いたんで、今後のために桐生にボディーガードを付けることにしたんですよ。今日はその顔合わせに」
「そう言えば警備員が立ってましたな。いや、しかし、残念ですが、それは無駄に終わりそうです」
「えっ! もしかして、もう捕まえたんですか」
 谷口が目を剥く。
「いえ、それならよかったんですが……」
 刑事は言葉を濁し谷口から目を転じると、透と水樹の方へ向き直った。
「実は早渡さん、卯木センスが遺体で発見されました」
「え……」
 水樹がその場に固まったように瞠目する。その様子を一瞥して刑事は続けた。
「もっと正確に言うなら、卯木センスらしき遺体です。持ち物からの推定でして、身元は目下確認中です」
「発見されたのはいつですか」
 透が尋ねると刑事は後ろを振り返った。後ろに控えた若い刑事が手帳を見て答える。
「今朝の六時頃、大濠(おおほり)公園をジョギング中の男性が池に浮いているのを見かけて近くの交番に通報したそうです」
「大濠公園というと……」
 透が眉を顰める。年嵩の刑事はひとつ頷いた。
「そう。福岡ですな」
「……福岡。どうしてそんなところにセンスくんが……」
 茫然と水樹が呟くと、刑事は僅かに眉根を寄せた。
「それはまだわかりません。事故と殺人の両面で捜査を進めています。死亡推定時刻は昨日の深夜から今日の未明にかけてです。それで念のために皆さんが昨夜どこにいたのか教えて頂きたいのですが」
 透はもちろん病院から動けない。水樹と櫂人は瞭三郎を都内の自宅に送ったあと夏乃と買い物をして、午後六時頃にはマンションに戻っていた。
「わかりました。いや、お手数をお掛けしました」
 メモを取り終わった刑事の顔を見て透は苦笑する。
「身内同士の証言ではアリバイとしては弱いですね。まあ、今の水樹では福岡に移動する途中で誰かと接触すれば、嫌でも記憶に残るでしょうが」
 水樹の顔にはまだ一目でそれとわかる痣が広範囲にくっきりと残っている。
「あの、刑事さん。センスくんにはどこに行けば会えるでしょうか」
「何言ってんだよ、水樹さん」
 聞き咎める櫂人を半ば無視して水樹は透を振り返る。何故だか胸騒ぎがした。
「透さん、僕これから福岡へ行ってきてもいいでしょうか」
 透は静かに水樹の顔を見返す。その透に水樹は更に言い募った。
「僕なんか行ってもセンスくんは喜ばないかもしれないけど……。でも、センスくんには身寄りがないし。あの、お別れだけしたらすぐに帰ってきますから」
「出来れば身元確認のためにも行って頂けるとこちらとしても助かるんですが」
 刑事も口添えするように透を見る。
 しばらくじっと水樹を見詰めていた透はやがておもむろに口を開いた。
「いいだろう。ただし、一人では行かせられない。櫂人」
「わかってるよ」
 諦め顔で櫂人がソファから離れる。
「ついてきゃいいんだろ。こんな時に水樹さん一人でふらふらさせられねえよ」
「櫂人君……。ごめん」
 申し訳なさそうに櫂人を振り返る水樹を見て透は仄かに苦笑した。
「君は言い出したら聞かないからな」
「透さん……」
 真っ直ぐに見返してくる水樹の瞳を見据えて、透は静かにはなむけの言葉を贈った。
「行ってきたまえ。君がどこで何をしていようと帰ってくる場所はここにある」

 十二月二十九日。
 帰省客で賑わう羽田から、櫂人と共に午前の便で水樹は福岡へと旅立った。

 

【インターミッション 完】

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Fumi Ugui 2008.10.25
再アップ 2014.05.21

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