名医の子供達

第3話 暴露

 夏乃が着替えてキッチンに入るとそこには水樹の姿があった。
 いつものジャケットにジーンズ、もう出かけるばかりの格好をして、調理台の上には既に二人分のヨーグルトとサラダのセット、トーストも用意してある。
「兄さん早いね。もういいの?」
 夏乃に話し掛けられても水樹は目を伏せたまま調理台から顔を上げようとはしない。
「……うん。昨日スーパーに自転車置いてきちゃったから、講義に出る前に取りに行こうと思って……」
 俯いたままグラスに牛乳と野菜ジュースをそれぞれ注ぎ、朝食の準備を終えてキッチンを出ようとする。すると、不意に大きな手が伸びてきて水樹の顎を捕らえた。
「まだ少し顔色が優れないようだが。朝食はちゃんと取ったのかね?」
「透さん……」
 何もかも見透かすような見詰める瞳に耐えきれず水樹が目を逸らして口篭ると、透は僅かに眉を顰めた。しかし、口調はあくまでも穏やかに水樹を諭す。
「時には休養をとることも必要だ。そのくらいの余裕はあるだろう」
「……いえ。大丈夫です」
 水樹は透の手から逃れるように身を捻ると、ダイニングの椅子に置いてあったトートバッグを手にして玄関に向かった。後ろからぱたぱたと軽い足音が近付いてくる。その音に追われるように水樹がロックを外しドアノブに手を掛けようとした途端、まるで逃げていくようにドアが開いた。
「早いな、水樹さん。もう出るのか?」
「櫂人君……」
 水樹は懇願するように目の前の、透とよく似た面差しの顔を見上げたが、櫂人はドア枠一杯に立ち塞がって動こうとしない。水樹を外へ出す気がないのは明らかだった。
「ナイスタイミングだよ、早渡」
 夏乃が上がり框まで下りてきて、気遣うようにそっと水樹の腕に触れる。
「兄さん、やっぱり講義休んだ方がいいよ。せめて午前中だけでも」
「……いや。それは出来ないよ。試験が近いし、講義はなるべく聞き逃したくないから……」
 伏し目がちに夏乃を見返して水樹は再び櫂人を見上げる。
「櫂人君、通してください」
 櫂人は水樹の目を見ると、僅かに沈黙を守ってから口を開いた。
「……通してやってもいいけどさ」
「ちょっと、早渡! 何言ってんの。兄さん調子悪そうなのに」
 夏乃の抗議を無視して櫂人は続ける。
「ただし、一人じゃやれねえ。俺の車に乗ってけよ」
 センスがまた現れるかもしれないからとは夏乃の前では口に出せない。
 見上げていた目を伏せて水樹は大人しく頷いた。
「……わかりました。櫂人君に送ってもらいます」
「それじゃ、まだ時間あるから、少しでも朝御飯食べとこうよ。ね? 食欲なかったら野菜ジュースだけでもいいから」
 ほっとしたように夏乃が水樹を奥へと急き立てる。その後ろから上がってきた櫂人見て透は笑みを浮かべた。
「随分早かったな」
「水樹さんの自転車置きっぱなしにしてたの思い出したからさ。早く来て正解だったろ」
「一般企業なら早朝手当が付くところだな。バイト代を払おうか?」
「いいよ、そんなもん」
 櫂人は僅かに顔を顰める。
 当分水樹の送り迎えをすることは昨夜のうちに透と打ち合わせ済みだった。別にバイト代が欲しくて引き受けた訳ではない。
「実費だけ負担してくれ。ガソリン代と、あとパーキングの料金も。大学のは許可ないと使えねえからさ」
「いいだろう。前金が必要か?」
「いいよ。今度領収書持ってくる。ああ、それから」
「何だ。まだ何かあるのか」
 透が怪訝そうに見ると櫂人は腹を押さえて力なく訴えた。
「何でもいいから朝飯食わせてくれ。腹減って力入らねえ……」

 ◆

「水樹さん大丈夫ですか?」
 中央食堂の席に着くと羽鳥が心配そうに顔を覗き込んできた。
「今朝青葉さんと早渡君が揃ってこっちまで送ってきたときは驚いたけど……。まだ少し顔色悪いですよね」
 羽鳥は夏乃と櫂人とは同じ朱雀高校出身。水樹とは全国模試で十位以内を争った仲だが、大学で同期生となってからは、周りとは年齢差がありいろいろと戸惑うことも多い水樹に何かと気を使ってくれる存在だ。
「大丈夫。少し寝不足なだけだから」
 水樹が笑ってみせると隣で中村が混ぜっ返す。
「睡眠不足は大敵よ。医学生は身体が資本なんだから。ここんとこ試験も立て続けにあるしさ。ちゃんと食べて寝とかないと、せっかく頭に入れたこと消えてっちゃう。ま、早渡さんじゃそんなことないかもしれないけど」
「中村さん、食事時にそんなもの広げるのはやめた方がいいんじゃないか?」
 中村が鞄から取り出したものを見て、羽鳥は眼鏡を掛けた生真面目らしい顔を顰めた。
「いいじゃない。薬理学だの衛生学だの、お堅い本ばっか読んでると、たまーに頭空っぽにして右から左に読み流せるもんも読みたくなるのよ」
 中村が手にしているのは週刊誌だった。「週刊ゲンセキ」という、芸能記事からUFO目撃談まで守備範囲は広いが書いてあることの九割はフィクションだと言われているゴシップ誌だ。
「今日もさ、思わず笑っちゃうような記事が載ってて」
 中村はぱらぱらとページを捲ると、羽鳥と水樹にも見えるよう雑誌をテーブルの中央に乗せた。
「ほら、これ。桐生の養子っていうか、例の結婚相手に関する記事なんだけどさ。荒唐無稽もいいところ。何考えてこういうの載せんのかしら」
 誌面を一目見た瞬間、水樹から血の気が引いた。
 モノクロの誌面に踊るのは、アパートのイメージ写真と『桐生に暗雲?呪われた運命』という最大フォント。
 それは桐生の養子に関する暴露記事だった。二十五年前の転落事故のことも、後に東京の孤児院から開業医に引き取られたことも、辛うじて個人名は伏せてあるが細部に亘って詳しく書かれている。そして、当然のように彼らの早すぎる死についての言及も――。
 指一本動かすことが出来ず、水樹はそのページをただ凝視していた。
 思うのは妹のこと。
 ――夏乃。
 水樹は瞳を閉じる。
 こんな形で知らせたくはなかった。
 自分の口から血の繋がらない兄だと、いつかきちんと告げるつもりでいた。
 けれど、すべてがもう遅い。
 蒼白になった水樹を羽鳥が再び心配そうに窺う。
「あの、水樹さん。週刊誌の書くことなんて適当ですからあまり気にしない方がいいですよ。それにこれ、桐生自身についてどうこう言ってる訳じゃないし」
「あ、そっか。早渡さんって桐生のファンだっけ」
 中村が思い出したように水樹を見て、励ますように付け加えた。
「羽鳥君の言う通り。ファンとして心配なのはわかるけど、気にしない方がいいよ。これってどっちも事故じゃん。馬鹿馬鹿しい。面白がって書いてるだけで根拠なんかないんだからさ」
「……うん。そうだよね……」
 中村に合わせて曖昧に頷きながら、水樹は更に暗澹とする。
 こうして公にされた以上、もう自分と夏乃だけの問題ではない。他の芸能マスコミも騒ぎ出せば、透にも劇団事務所にも迷惑を掛けることになる。
「水樹さん、ちょっと失礼」
 今にも倒れそうな水樹の様子を見兼ねて羽鳥が不意に手首を取った。脈を診て眉を顰める。
「少し弱くなってますよ。午後の講義休んだ方が……。それとも今から病院の方行きますか?」
「……いや。大丈夫……。本当にちょっと寝不足なだけ。大丈夫だから……」
 辛うじて微笑んで見せ、羽鳥の提案をやんわりと断る水樹の指は、血の気が失せて紙のように白く、微かに震えていた。

 ◆

 櫂人と夏乃は正門の前で水樹を待っていた。
 本日の予定を終えた学生達が二人の前を通りすぎていく。
「兄さん遅いね。今日は講義だけだから遅くはならないって言ってたのに」
 櫂人が時刻表示を見るために携帯を取り出すと着信音が鳴った。内容を確かめた櫂人は顔を顰めて小さく舌打ちする。
「ちっ。やられた。おい、行くぞ」
 いきなり門を離れて歩き出す櫂人の後を夏乃が慌ててついていく。
「何? 行くってどこへ?」
「ショッピングセンター。水樹さん自転車取りに行ったって」
「え、急に何でよ。帰りも送ってもらうって約束だったのに」
「そんなこと俺が知るかよ」
 普段の水樹なら余程の緊急事態でもない限り約束を反故にすることはない。
「やっぱりおかしいよ。いつもはこんな気まぐれなことしないのに……」
 センスが現れてからの水樹の行動は不可解なことが多かった。事情を知っている櫂人にさえ理解し難いのだ。夏乃が心配するのは無理もない。
 櫂人は夏乃を連れてパーキングに急いだ。

 ショッピングセンターに着くと、夏乃は目の前にある書籍専門店に向かって駐車場を突っ切るように歩いていった。
「おい、どこ行くんだよ。駐輪場は向こうだぞ」
「今日雑誌の発売日なんだよ」
「雑誌なんかいつでも買えるだろ」
 櫂人が露骨に顔を顰めると、夏乃は後ろの櫂人を振り向いたまま自動ドアを開けた。
「専門雑誌だから発行部数が少なくて、どこもあまり置いてないんだよ。発売日逃すと手に入らないの。すぐに済むから」
 雑誌コーナーに足を踏み入れた夏乃はその場に立ち止まった。本日発売のコーナーに平積みしてある一冊の週刊誌を手に取る。
「あ。また桐生の記事が載ってるよ。毎週よく話題が尽きないよね」
 のん気な夏乃の様子に少しイラつきながら櫂人は自分も陳列された雑誌に目を落とす。
「そんなのどうでもいいだろ。お前が探してんの何て雑誌だ? 一緒に探してやるから早くしろよ」
 しかし、返事はない。いつもの反応が得られず不思議に思っていると、少し遅れてぼそりと呟く声がした。
「……何……これ……」
 聞こえてきた声の異様な響きに振り返ると、夏乃が週刊誌を見詰めて棒立ちしていた。雑誌を持った手が小刻みに震えている。
 櫂人はとっさに雑誌を夏乃の手から奪い取った。誌面を見て忽ち形相を変える。真っ先に浮かんだのはセンスの顔。怒りのあまり低く絞り出した声が震えた。
「あの野郎……ッ!」
 それは桐生の養子に関する記事だった。正気とは思えない誹謗中傷と共に桐生の養子に納まるまでの経緯が事細かに書いてある。
「なに? 早渡何か知ってるの? ねえ、この記事なに? こんなの出鱈目だよねえ。兄さんが孤児って、何かの間違いだよね? 早渡! ねえってば!」
 雑誌ごと記事を引きちぎってしまいたい衝動を何とかやり過ごし、腕に縋り付いて見上げてくる夏乃の手を取って櫂人は店を出る。
「水樹さん探しにいくぞ!」
「ねえ、待ってよ、早渡! 今の記事……」
 行く手を見据えたまま、夏乃の小さな手を櫂人は固く握り締めた。
「俺の口からは言えねえよ。聞くなら水樹さんから直接聞け」
 夏乃がぎゅっと指を握り返してくる。
 繋いだその手を、出来ることなら永遠に櫂人は放したくなかった。

 自分の自転車を前にして水樹はぼんやりとひとり佇んでいた。
 ショッピングセンターの裏手の小さな駐輪場。スーパーからは離れた位置にあるためか、夕刻という買い物の時間帯にもかかわらず止めてある自転車は少なく、人影もなかった。
 約束を反故にして自転車を取りにきたのは夏乃と顔を合わせるのが怖かったからだ。
 どの道マンションに戻れば顔を合わせるというのに、姑息な手段で先延ばしにしているという自覚はある。せめて血の繋がりがないということだけでも記事を見て知る前に自分の口から伝えたいという気持ちもあった。
 けれども、実際夏乃と顔を合わせたらどんなふうに接したらいいのか。
 そんなことも今の水樹にはわからなくなっていた。
「よう、水樹」
 不意に背後から掛けられた声に物思いを破られ、水樹はびくりと身を強張らせた。
「今日はあのガタイのいいボディガードはついてないんだ」
「センスくん……」
 揶揄するような声にゆっくりと振り向けば、センスは昨日とほぼ同じ格好でそこにいた。帽子のひさしを上げてにやりと笑う。
「『週刊ゲンセキ』もう見た?」
 水樹は目を見開く。
 やはり、あの記事はセンスが情報源だったのだ。
「どうしてあんなこと……」
「お前がすっかり忘れてるようだからさ、しっかりと思い出させてやろうと思って」
 センスは得意気に笑う。
「いろいろ調べてさ、なるべく詳しく書いてもらったんだぜ。すげえよなあ。一人目は検事、二人目は医者、三人目は弁護士で人気俳優。で、その内の二人は死んでる訳だ。あ、実の父親も入れたら三人か。お前の実の親って何してたかは知らないけどさ、お前の親だもん。さぞかし立派で頭良かったんだろうなあ」
 楽しそうに語るセンスの顔を水樹はただ見詰める。
 センスが何故こんな嫌がらせのようなまねをするのかわからなかった。
 学園で一緒だったときはこんなふうではなかった。子供のことだからたまにはケンカもしたが、だからといって特別な敵意を向けてくることなどなかったのに。
 水樹の思考を読んだかのように、センスが水樹の瞳を覗き込む。
「お前ってさあ。どうして俺の大好きな人ばっか奪ってっちゃうんだろうな? 桐生さんも、青葉先生も、小夏ねえちゃんも……」
 センスが口にした思い掛けない名に水樹は目を見開く。
「小夏ねえちゃんって……。お母さんのこと……?」
 センスは口許を歪めた。
「お母さん……ね。だよなあ。お前のお母さんになっちゃったんだよなあ。で、そのあとすぐに死んじゃった」
 センスの言い様は理不尽だと頭ではわかっていたが水樹には反論できなかった。
 青葉の母が養子になって一年ほどで亡くなったのは事実だ。
 実の両親は約二年。青葉の父も、引き取られて十年余り、四十半ばで亡くなった。
 運命論など信じてはいないが、水樹は親というものに縁がない……。

「兄さん!」
 またも物思いを破られ振り向くと、建物沿いの駐輪場の一番向こうに夏乃の姿が見えた。水樹のところへと駆けてくるその後ろに櫂人の姿もある。
「夏乃……。どうしてここに……」
 思わず半歩ばかり後退る水樹を尻目に、センスはやってきた夏乃をまじまじと見て楽しそうに笑った。
「へえ、この娘が青葉先生と小夏ねえちゃんの子供かあ。そう言えば、小っちゃいところが似てるかなあ」
「センスくん……!」
 水樹が思わずセンスの言葉を遮ると夏乃がセンスに目をやった。
「誰、この人……。兄さんの知り合い? お母さんのこと知ってるの?」
 不審そうに自分を見詰めてくる夏乃を見てセンスは笑う。
「ああ、知ってるよ。小夏ねえちゃんは俺らのところにボランティアに来てたんだ。なあ、水樹?」
 俺ら、と言って水樹をちらりと一瞥するセンスの不穏な笑みに夏乃が僅かに眉を顰めると、追い付いてきた櫂人が舌打ちして前に出る。
「下がってろ、青葉。おい、お前! 青葉に余計なこと言うんじゃねえよ」
「何だ。またあんたか。そんなふうに慌ててるところを見ると、彼女知らなかったんだ。けど、今更隠したって無駄だろ。もう全国的に知れ渡っちまったんだからさ」
 センスは笑ってもう一度夏乃に目をやる。
「夏乃ちゃんも気の毒したよな。水樹を養子にしなきゃ小夏ねえちゃんも、もう少し長生き出来たかもしれないのに」
「センスくん! 夏乃の前でそんな話は――」
 いつになく鋭い水樹の制止の声に夏乃の怒声が割って入った。
「違うッ!」
「夏乃……?」
 水樹が振り向くと夏乃はその場に仁王立ちしてセンスを睨んでいた。小柄な身体の両脇で力いっぱいきつく握られた小さな拳が微かに震えている。
「何も知らないくせに、適当なこと言うなッ……! お母さんの命日はあたしの誕生日と同じだ。お母さんは命と引き換えにあたしを産んでくれたんだ。お兄ちゃんのせいじゃない!」
 怒りに震える夏乃を見てセンスは何故か照れたように小さく笑った。
「勇ましいなあ。そういうとこも小夏ねえちゃんに似てるかもな」
「テメェ……! まだ言うか!」
 櫂人が一歩詰め寄るとセンスは機敏に数歩後ろへ下がる。
「おっと、あんたみたいなのとやり合っちゃ分が悪いわ。まったく、でけえよなあ。桐生ぐらいある?」
 櫂人が思わず顔を顰めている間にセンスは踵を返した。振り返って水樹を一瞥する。
「じゃ、またな。水樹」

 水樹はその場に立ち尽くしていた。
 ――最悪だ。
 妹一人守ることが出来ず、あんなに辛いことを言わせてしまうなんて。
 これもすべて自分がぐずぐずしていたからだ。
 自分が事態から逃げようとせず、今朝の約束通り櫂人に送ってもらっていれば、夏乃がセンスと鉢合わせすることはなく、これほど辛い目にあわせることもなかった。
「お兄ちゃん!」
 それでも夏乃は自分の方に駆け寄ってくる。
 自分にはもう兄と呼ばれる資格など、どこにもないのに。
「ごめん……夏乃……」
 目を合わせずに一言呟くと、水樹は夏乃の視線を避けるように櫂人の陰に回り込んだ。
「櫂人君」
「え、何だよ」
 呼び掛けられて櫂人は動揺した。何故だか随分久しぶりに水樹の声を聞くような気がする。真っ直ぐに見詰めてくる水樹の目は悲しい色をしていた。
「庇ってくれてありがとう。夏乃のこと、よろしく頼みます」
「え、何言ってんだよ、今更……。おい、どこ行くんだよ! 一人はヤバイって!」
「お兄ちゃん!」
 夏乃の声に背中を向けたまま、いつものように腕を取ろうと縋ってくる小さな手を擦り抜けるようにして水樹は自転車のスタンドを外した。
「僕は自転車で帰るから。二人は先に帰ってて……」
 次第に濃くなっていく夕闇のなか、自転車を押していく水樹の背中が遠くなる。
 それっきり、建物の陰に消えるまで、とうとう水樹は一度も振り返らなかった。
 立ち尽くす夏乃がポツリと呟きを漏らす。
「……お兄ちゃん、何であたしの方を見ないの?」
「青葉……」
「早渡には話し掛けるのに、どうしてあたしには話し掛けないの?」
 櫂人は後ろからそっと慰撫するように夏乃を抱き竦めた。
「水樹さんちょっと疲れてるだけだよ。いろいろあったからさ……」
「……うん。そうだよね……。疲れてるだけだよね……」
 夏乃が櫂人の腕に頬を預ける。
「あんなこと書かれて……一番辛いのはお兄ちゃんだよね……」
 櫂人がそっと頭を撫でてやると僅かに表情を歪めて櫂人の胸に顔を埋めてきた。
 それでも夏乃は泣かなかった。泣かない夏乃が不憫だった。

 ◆

 透が帰ってきたのは、三人で会話のまるで弾まない重苦しい夕飯を終えた後だった。
「どうしたんだね? まるで通夜のようだな。夏乃君はどうしたんだ?」
 リビングを見渡して透が尋ねると、言いにくそうな水樹の代わりに櫂人が溜め息混じりに答えた。
「青葉ならもう寝たよ。まあ、いろいろとあってさ」
「なるほど」
 透が目をやるとその視線から逃れるように水樹は目を伏せた。
「……すみません。透さんにもご迷惑をお掛けして……」
「君が言うのは『週刊ゲンセキ』の記事のことかね? あんなものはどうということはない。あの程度の記事で動揺する者など私の周りにはいないよ」
 コートを部屋の隅のハンガーに掛けると、透はソファの反対側から回り込んで水樹の隣に腰を下ろした。逃げを打つ水樹の顔を捕らえて自分の正面に向ける。
「君こそ無理をしているんじゃないのか」
 透がその透徹な瞳で見据えると水樹は僅かに視線だけを逸らした。
「いいえ……大丈夫です」
 透は苦い笑みを浮かべる。
「大丈夫と言える顔色ではないな。素人でもわかる」
 睡眠不足のうえに、恐らく食事もまともに取ってはいないのだろう。顎のライン、頬の稜線、僅か二日で随分やつれたように感じる。
「水樹、私は無理をさせるために君を医学部に通わせている訳ではない。心が休まらないというのなら、専門の医師に然るべき処方箋をもらってしばらく休養を取りたまえ」
「大丈夫です……本当に……」
 水樹は透の視線を断ち切るために目を閉じた。そのままソファから立ち上がる。
「明日は試験がありますし……。失礼します」

 水樹が部屋に引き取ってしまうと、ソファの端に黙って掛けていた櫂人が透を睨んだ。
「兄貴弁護士だろ。何とかしろよ」
 焦れたような、ふてくされたような、子供の頃を彷彿とさせる弟の表情を見やって透はひとつ溜め息を吐く。
「お前までどうした。『ゲンセキ』の件以外に何かあったのか」
「あったさ!」
 遣り場のない憤懣を拳に込め、微かに震えると櫂人は吐き捨てた。
「あの野郎、夏乃泣かしやがったんだ……!」
 透は眉を顰める。
「卯木センスがまた現れたのか?」
「スーパーで水樹さん待ち伏せしてやがったんだ。おまけに夏乃の前で無神経なこと言いまくりやがって。あの口振りじゃ『ゲンセキ』の記事だってアイツが書かせたに決まってる。なあ、ほっとくのかよ! ストーカーの被害届出すとか、何か方法ないのかよ!」
「落ち着け、櫂人」
 溜め込んでいた怒りを吐き出す櫂人を透はあくまでも冷静に諭す。
「ストーカーの被害届は出してもいいが、スーパーで二度遭遇しただけで、特に身に迫るような危険な兆候も見られないというのでは、警察は取り合わないだろう」
「じゃあほっとくのかよ!」
「無論、このまま放置しておくつもりはない。だが、物事には順序というものがある」
「そんな悠長なこと言ってる場合かよ! 水樹さんだってあのままじゃ持たないぞ」
「櫂人」
「何だよ」
 透は両肘を膝に突き、両手の指を組んで櫂人を見据えると口調を改めた。
「今日園長に電話で確認したんだが、例の事件のアパートの住所と学園の記録にあった水樹の母親の住所が一致した」
 櫂人が目を見開く。
「……ってことは、あの記事の子供はやっぱり水樹さんってことか」
「卯木センスを水樹の周りから遠ざけ、マスコミを黙らせたとしても、それだけでは根本的な解決にはならない」
 今水樹を苛んでいるのは、母親とその婚約者に対する罪悪感なのだ。
「んじゃ……どうすんだよ」
 透はおもむろにソファから立ち上がると、バルコニーとその向こうに広がる夜空を望むサッシの前に立った。
「やはり、水樹の母親について調べてみよう。彼女が何故水樹をわざわざ東京のさわらび学園に預けたのか。その理由は恐らく事態打開の重要な鍵だ。水樹はそれを、転落事故が原因で自分が母親に疎まれたからだと思っている」
 サッシに映った櫂人が少し俯く。
「……そんなの水樹さんが気の毒すぎるよ。子供だったんだろ。わざとやった訳じゃないのに」
「だから、真実を探るのさ。『水樹の母親は、婚約者が水樹を庇って死んだのがショックで亡くなった』。お前も卯木センスが言ったことを鵜呑みにしている訳ではないだろう」
「そりゃ、そうだけど」
 櫂人は言い淀む。
「……けど、本当だったらどうすんだよ」
 サッシの向こうに疎らに瞬く冬の星座を見詰め、透は厳かに断言する。
「それでも水樹は乗り越えていかなければならない。医師になればもっと辛いこともあるだろう。人の命を預かるのだからな」
「厳しいよ……兄貴は……」
 櫂人が呟くと透は振り返った。
「もちろん、水樹を一人で悩ませておくつもりはない。私と夏乃君が支える。そのための家族だ。お前は夏乃君を支えてやるんだな」
「わかってるよ……」
 水樹とは血が繋がらないという事実を知って夏乃は随分落ち込んでいる。
 いや、それ以上に水樹の態度が急に冷たくなったことに傷ついているように櫂人の目には見えた。
 夏乃が辛い思いをしているなら慰めてやりたい。抱き締めて安心させてやりたい。
 だが、
 ――互いに兄妹ではないと知ったあの二人は、この先どうなるのだろう。
 ふと浮かんだ疑問に、櫂人は酷く焦りを覚えた。
「なあ、兄貴。俺しばらくここに泊まり込んでもいいか?」
 櫂人の唐突な申し出に、怪訝そうに眉を上げて透が答える。
「節度を守るならな。夏乃君の部屋に入るのは禁止だ」
 一瞬不満そうに口を噤んだが、それでも珍しく素直に頷く櫂人を見て透は笑った。
「では、和室を使え。それとも昔のように枕を持って私のベッドに潜り込んでくるか? 今なら昔より少しは余裕があるぞ。ダブルロングだからな」
「誰がそんなことするか! ざけんなっ!」
 透に悪態を返しながらも、一度浮かんだ小さな焦りと不安は櫂人の中に燻り続け容易に消えることはなかった。

 

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Fumi Ugui 2008.08.04
再アップ 2014.05.21

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