名医の子供達

第4話 兄妹

 翌日も水樹は大学に向かった。

 前の晩も満足に眠ることが出来ず、酷い顔色の水樹を透や夏乃は引き止めたが、本人は試験だということを理由に頑として譲らなかった。
「仕方ない。櫂人、送ってやれ」
「いいのかよ?」
 櫂人が見返すと、透は上がり框で靴を履く水樹の背中をじっと見詰めて口を開いた。
「本人にその気がない以上マンションに終日閉じ込めておくことは不可能だ。睡眠不足と栄養不足が長く続けばどうなるか。医学生ならよくわかっているはず。そうだな、水樹?」
「透さん……。兄さんも、意地張ってないで休もうよ。ね?」
 プライベートでは滅多に見せることのない透の突き放したような態度に、夏乃が心配そうに二人を見比べるが、水樹は振り向かない。透に背を向けたままドアノブに手を掛ける。
「……行ってきます」

 車に乗ってからも水樹は誰とも目を合わせようとはせず、必要最低限の会話しか交わさなかった。
 大学に着いてからもそれは同様で、羽鳥や中村が心配したが取り合わず、ただ黙々と講義を受け、試験を受けた。
 幸いなことに試験の最中はここ二、三日の不摂生の影響は特になく、むしろ何もしないでいるより楽だとさえ思えた。このまま試験が永遠に続いてくれたら、問題を解くことだけに集中でき、余計なことを考えずに済む。
 けれども、そんな願いが叶うはずもない。解答欄はすぐに埋まったし、見直しも永遠には続けられなかった。
 やがて試験の終了が告げられ、仕方なく席を立った水樹は急な眩暈を感じてふらついた。後頭部が底なしに落ちていくように重くなり、視界がぐらぐらと大きく揺れる。それでも退出しようと少し身体を屈め、トートバッグを持ち上げた途端だった。急速に目の前が暗くなり水樹は頭から吸い込まれるように椅子に倒れ込んだ。
「水樹さん!」
 慌てた様子の羽鳥の声が聞こえる。
 大丈夫だと伝えようとするが、声にならなかった。
 頭を上げようとしてまた酷い眩暈に襲われ、そのまま意識が遠のいた。

 ◆

 透がマンションに帰り着くと、水樹は自室のベッドで静かに横になっていた。
「大学で倒れたそうだな」
 部屋の入り口から声を掛ける透を見て水樹は僅かに目を伏せる。
「……すみません、透さん」
 今朝の様子から叱責されるのを覚悟していたが、予想に反して透の表情は穏やかだった。枕元まで寄ってきて水樹の顔を覗き込み、ゆったりと心地良い声で話し掛けてくる。
「まあ、この際だ。ゆっくり休養を取りたまえ」
「……すみません。養子にまでして頂いたのに……こんな体たらくで……。青葉の父にも申し訳ないです……」
 水樹が目を閉じ、その上を腕で覆い隠すようにすると、透は子供にするように大きな手で水樹の柔らかい髪を一撫でした。
「余計なことは考えずに今は休むんだ。食事は取ったのかね?」
 枕元を一瞥すると、病院でもらったと思しき薬が置いてある。
「……はい。病院で点滴を打ってもらいました」
「点滴は食事ではない」
 眉を顰めて溜め息を吐くと透は部屋を出ていった。ほどなくして戻ってきたその手には水樹がほとんど手付かずで残した夕飯が盆に納まって乗っていた。
 透は勉強机の椅子を手元へ引き寄せるとそこへ腰掛け、食事が乗った盆を水樹の前に差し出す。
「さあ、一口ずつでも食べたまえ。さっきつまみ食いをしたんだが、この風呂吹き大根は美味かったよ。夏乃君の傑作だ」
「……あまり食欲がないんです」
「そうか」
 水樹が半身を起こす気配もないのを見て取った透は、手にしていた盆を一旦自分の膝の上に置いた。それから左手に茶碗を取って水樹をちらりと見ると、おもむろに口を開く。
「では、私が親鳥のように口移しで君に与えることになるが、それでいいんだな」
「え……?」
 透は空いた右手で水樹の首筋から顎の辺りを捕らえるといささか強引に自分の方へと向けさせた。仰向けになったままの水樹の瞳が大きく見開かれる。
「いつもの戯れ言だと思うかね? だとしたら、残念ながらそれは間違いだ。本音を言えば私だっていい歳をした男同士でこういうまねは極力避けたいところだが、君が自分で食事を取る気がない以上仕方がない。このまま衰弱していくのを黙って見過ごす訳にはいかないからな」
 透がその右手を離し、ご飯に箸をつけるのを見て水樹は慌てて身体を起こした。
「ま、待ってください……!」
 眩暈でぐらつく上半身を腕の力だけで透が支え、如何にも怪訝そうに水樹を見る。
「どうしたんだ、急に。食べさせてやろうというのだから、そんなに慌てて起きる必要はない。それとも、気が変わったのかね?」
「……じ、自分で食べますから」
 消え入るような声を漏らし、水樹が掛け布団の上に盆を受け取ると、透はおかしそうに小さく笑った。
「そうか。残念だ。箸で手ずから食べさせるぐらいのことはしてもよかったんだが」
「……困ります。櫂人君に見られたらまた誤解されますし……」
 諦めたように少しずつのろのろと、それでもご飯を口に運ぶ水樹を見て透は満足そうに小さく頷く。
「残すなとは言わない。少しずつでいいからすべての料理に手を付けるんだ」
「あの……」
 水樹が箸を休めて透を見る。
「何だね?」
「一人で食べられますから」
 困惑気味の水樹の顔を眺めて透は長い脚を組んだ。両手も組み合わせてその上に置き、観察のための姿勢を整えてから澄まして答える。
「見張っていないと君はさぼるからな。それに食べ終わった食器をキッチンに持っていく係が必要だ。気になるなら、私のことはカボチャぐらいに思っておきたまえ」
 水樹は小さく溜め息を吐くと、透に見守られながら久しぶりのまともな食事を続けたのだった。

 透がダイニングに戻るとテーブルに頬杖を突いた櫂人が声を掛けてきた。
「水樹さん食べたのか?」
 透が黙って盆を少し傾け食器の中が見えるようにすると、驚いた様子で声を上げる。
「お、減ってるじゃん」
 さすがに残らず全部なくなっているものはないが、ご飯も他の総菜も器の半分ぐらいは手が付けてあった。
「ここんとこ誰が勧めても全然だったのに。どうやって食わせたんだよ」
 眉間に皺を寄せて訝しむ櫂人を見て透は笑った。
「まあ、それはお前の想像に任せるさ。ところで、夏乃君はどうしたんだ?」
 キッチンスペースから見渡してみると、ダイニングにもその向こうのリビングにも姿がない。
「さっきから和室で何かごそごそやってる」
 櫂人がリビングの隣の和室に目をやると、襖が開いて夏乃が出てきた。両手一杯に布団用の折りたたみマットレスを抱えている。夏乃は小柄なので、そうやっているとほとんどスリッパと頭の天辺しか見えない。襖の向こうにはカバー付きの枕と布団も見えた。現在居候中の櫂人が使っているものとは色違いの別物だ。
「何やってんだ?」
 側に寄って櫂人が尋ねると、夏乃はマットレスを一旦フローリングの床に下ろしてから答えた。
「布団を兄さんの部屋に運ぶの。看病するから」
 櫂人が眉を顰める。
「……看病って。お前が一晩中付きっ切りでいる気かよ?」
「そうだよ」
 当たり前のように言って再びマットレスを抱え上げる夏乃の、華奢な腕を掴んで櫂人が引き止めた。
「やめろよ」
「何で? 兄さんの看病するの当たり前でしょ」
 見返してくる夏乃に他意はなさそうだ。だが、櫂人は自分の中で急速に形をなしていく水樹への嫉妬を抑えることが出来なかった。
「ただの寝不足と貧血だろ。付きっ切りで看病する必要あんのかよ」
「だって、こんなふうに倒れるの初めてなんだよ。今までこんなこと一度もなかったんだから」
 今まで夏乃に散々水樹との仲の良さを見せ付けられても仕方がないと思えたのは、二人が本当の兄妹だと思っていたからだ。
 だが、実際は二人に血の繋がりなどない。
「心配なのはわかるけど、よく考えろよ。お前と水樹さんは兄妹じゃないんだぞ。他人なんだぞ!」
 口にした瞬間、櫂人の顔を平手が見舞った。
「他人なんかじゃない!」
「青葉……」
 身長差があるため夏乃の平手は櫂人の顎を擦った程度で、さして威力もなかったが、櫂人にはそれで十分だった。
 茫然とする櫂人を夏乃が怒りの形相で睨み付ける。
「お兄ちゃんはあたしのお兄ちゃんだ! 二度とそんなこと言うな! 早渡の馬鹿ッ!」
 それっきり、夏乃は櫂人を無視して布団を運び始めた。
 悄然としてダイニングに戻ってきた櫂人に透が穏やかに声を掛ける。
「不用意な一言だったな」
「……わかってるよ」
 夏乃が水樹の部屋に布団を運び込むのを、櫂人はただ遠くから見ていることしか出来なかった。

「何をしているんだ、夏乃……?」
 来客用の布団を部屋に持ち込む夏乃を見て、水樹はベッドに横たわったまま僅かに目を見開いた。
「あたし今日こっちに寝る」
「何を言ってるんだ。そんな必要ない」
「だって、昔あたしがインフルエンザにかかって熱出したとき、お兄ちゃん付きっ切りで看病してくれたでしょ」
 夏乃は寝具を一式運び込んでしまうと、お湯を張った洗面器とタオル数枚を持ち込んで枕元近くの机に置いた。タオルを一枚浸してきつく水気を絞る。
「だから、今度はあたしが看病してあげる。今日お風呂入らないんだよね? あたし身体拭くの手伝ってあげるね」
「そんなことは自分でする。もう、いいから。部屋に戻りなさい」
 水樹が素っ気無く言い放つと、夏乃はタオルを放り出し、ベッドの前に跪いて掛け布団の上から水樹の腕に縋った。
「やだ。ずっとここにいる。お兄ちゃんの側にいる……!」
 水樹は静かに瞳を閉じる。
 やっとこの時が来たのだ――。
 こんな形で告げたくはなかったけれど、もう他にどうしようもないところまで来てしまった。
 水樹は布団の中でそっと拳を握った。静かに瞳を開き、夏乃の方は敢えて見ずに、だが、はっきりと告げる。
「……夏乃。もうわかっているんだろう。僕は君の兄ちゃんじゃない」
「違う! 違う! そんなの嘘だ! あんな記事出鱈目だもん!」
 夏乃が痛いほど腕に縋ってきても、水樹は冷徹な態度を崩さなかった。
 ゆっくりと夏乃の方に顔を向ける。
「本当のことだよ。証拠を見せようか」
「証拠……?」
 ベッドに顔を伏せていた夏乃が恐る恐る顔を上げた。水樹は僅かに半身を起こすと、自分を見詰めたままの夏乃の唇にそっと唇を重ねた。しばらくしてからゆっくり離すと、自失して目を見開いたままの夏乃をじっと見据える。
「僕は君に欲情したことがある。そんなのはもう……夏乃の兄ちゃんじゃないよ」
 精一杯の愛想尽かしだった。
 いつだったか、女らしくなった夏乃の裸を偶然見てしまい一時的に欲情してしまったことがあるのは事実だ。だからと言って夏乃をどうこうしたい訳でも櫂人から奪いたい訳でもない。欲情してしまったのは視覚的な刺激に対する単純な生理現象だと割り切ることも出来る。対象が夏乃だろうがグラビアアイドルだろうがAV女優だろうが多分同じなのだ。欲情したとかしないとか、そんなことは夏乃を自分から遠ざけてしまうための単なる口実に過ぎない。
 けれども、幼い頃に自分が人を死なせたことを知り、センスから夏乃を守りきれなかった今、水樹はもう自分を夏乃の兄だと思うことは出来なかった。血が繋がらないという事実を知っても尚慕ってくれる夏乃はいじらしく、いとおしさは増すばかりだが、自分は最早夏乃の兄としてあらゆる意味で相応しくはない。このまま兄妹として接していては心苦しいばかりだ。いっそ軽蔑され、嫌われた方が楽だった。
「嘘ばっかり……」
 それなのに、夏乃は水樹を睨み付けて反論する。
「あたしもう子供じゃないよ。今のキスなんて嘘っぱちだよ。お兄ちゃんあたしに欲情なんて全然してないよ。あたしのこと女として見てるならどうして押し倒さないの? ベッドあるのに。二人切りなのに!」
「……体調が悪いからだよ。こんな状態でなかったら……」
「なかったら何? あたしのこと抱くの? 本当にその気があるならはっきり言ってみてよ! もっとちゃんと態度で示してみてよ!」
 あまり酷いことを自分の口から言わせないでほしい。
 目を逸らしてしまいたかった。けれども、ここで先に逸らしたら負けだ。
 水樹が尚も無言で目を逸らさずにいると、不意に夏乃が俯いた。
「……いいよ」
「……夏乃?」
 不穏な気配に水樹が訝しげに眉を顰め、僅かに身を引く。次の瞬間、顔を上げた夏乃と目が合った。その挑むような、縋るような、真剣な眼差しに一瞬怯み動きを止めた水樹の首に遮二無二しがみつくと、夏乃はベッドへ倒れ込んだ。
「お兄ちゃんならいいよ。お兄ちゃんがあたしのこと欲しいって言うなら、愛人でも、お妾でも! お兄ちゃんと一緒にいられるなら、あたしもう、それでいいから! だから……!」
 何もかもなげうった涙声を耳にした瞬間、水樹は反射的に夏乃の手を振り解いた。起き上がり様に夏乃の肩を押しやり、なるべく遠くへと突き放す。
「馬鹿なこと言うもんじゃない! 出ていきなさい!」
「お兄ちゃん!」
「出ていけッ!」
 びんと響く大声に、持ち込んだ寝具の上で横様に座り込んだ夏乃がこちらを見たままびくりと身体を震わせる。
 誰かに対して声を荒らげたのは初めてだった。もちろん、夏乃に対しても。
 貧血のせいか酷く眩暈がする。それでも夏乃から目は逸らさなかった。
 急速に暗くなっていく視界の中に、俯いたままにわかに立ち上がり、踵を返して部屋を出ていく夏乃の姿が見えた。

 水樹の部屋を飛び出した夏乃は危うく誰かとぶつかりそうになった。
「どうしたんだね?」
 独特の深みのある優しい声に顔を上げる。
 テレビや映画で見るのとはまったく違う、包容力のある穏やかなその顔を見た途端、夏乃の頬を堪えてきた涙が伝った。
「透さん……! お兄ちゃんが……お兄ちゃんが……!」
 夏乃は透にしがみついた。込み上げてくる涙を抑え切れず、顔を伏せて泣きじゃくる。
「あたしのこと妹じゃないって言うの。あたしのお兄ちゃんじゃないって……! ずっとあたしのお兄ちゃんだって言ったのに! 何も変わらないよって……言ったのに……!」
 夏乃はしっかりと自分を支える腕に縋って透を見上げた。
「ねえ、透さん。何が変わったの? わからないよ。お兄ちゃんにとってはあたしが血を分けた妹じゃないって最初からわかってたはずなのに。なのに、どうして急にあんなふうに冷たくするの? あたしに分かっちゃったから? そんなの……」
「夏乃君……」
 透が悲痛を滲ませた瞳で見返すと夏乃は叫んだ。
「あたし、そんなの気にしないよ! 全然関係ないのに!」
 腕の中で泣き続ける夏乃の背中を、安心させるようにそっと擦ってやりながら、透は諭すようにゆっくりと話し掛ける。
「そんなに泣くことはない。何があっても水樹は君の兄さんだ。何も変わりはしないよ。ただ、水樹は今、自信を失っているんだ。君には知らせてなかったが、ここのところいろいろとあったからね。今夜のところは私が話をするから、君は風呂に入ってもう休みなさい。――櫂人」
 透が振り向いて声を掛けると、櫂人は廊下の壁に張り付くようにして憮然と立ち尽くしていた。視線は透の腕の中の夏乃に注がれていて離れない。
「櫂人、聞こえているのか」
 もう一度透に声を掛けられ、櫂人は我に返ったようにぴくりとその身を動かした。怒っているような、しかし、何処か泣き出しそうな複雑な表情で透を見返す。
「ああ。……聞こえてるよ」
「夏乃君を頼んだ」
 透は夏乃を自分の腕から解放すると櫂人の方へと促した。櫂人がいつものように肩に手を回すと夏乃は大人しく櫂人に身体を預けてくる。
「私は少し水樹と話をしてくる」
 目の前の扉をノックして透が中に入っていく。
 二人切りになれたのを確認すると、ようやく自分の腕の中に戻ってきた夏乃を櫂人は抱き締めた。
 悄然と打ち拉がれた様子の夏乃はいつもより一層小さくて、何故か櫂人を不安にさせる。
 まだ残っている涙を親指で拭ってやり、謝罪の意味も込めて額に小さくキスをした。
「ごめんな、青葉……。さっき酷いこと言って……」
「……うん」
 さっき、部屋の前で立ち聞きしてしまった夏乃の言葉が頭の中から消えない。

 ――お兄ちゃんならいいよ。お兄ちゃんがあたしのこと欲しいって言うなら、愛人でも、お妾でも!

 夏乃を奪われたくなかった。
 水樹にも、透にも。
 夏乃を抱き締めたまま櫂人は額から目許、頬へとキスを落としていく。唇に触れると夏乃はぴくりと震えた。
「……キス……やだよ。お風呂に入れなくなっちゃうよ……」
「風呂には後で俺が入れてやるから……」
「だって……お兄ちゃん達いるのに……やだ」
 一瞬凶暴なほどの強い衝動に駆られ、発作的に櫂人は夏乃の唇を奪った。
「俺より水樹さんや兄貴の方が大事なのかよ」
 焦れたように小さく呟いてもう一度、さっきよりも更に深いキスを繰り返す。
 夏乃はそれ以上抵抗しなかった。
 櫂人の貪るようなディープキスは同時に水樹の無機質で温度のないキスを思い出させる。
「……違うよ。……早渡とお兄ちゃんとじゃ……全然違う……」
 全身から力が抜けて重くなり、くたりとその場に座り込んでしまいそうな小さな身体を抱き上げると、夏乃の部屋に入って櫂人は鍵を締めた。
 透には後で何か言われるだろうが、それももうどうでもよかった。

 ◆

「君にもあんな声が出せるんだな。リビングまで聞こえてきたよ」
 透が椅子に腰掛けて様子を窺うようにすると、水樹はまだ重い頭を枕に沈めたまま僅かに目を伏せた。
「すみません、透さん……。いろいろとご迷惑お掛けして……」
「いいさ。君達兄妹は日頃はまったく手が掛からないからな。庇護者としては張り合いがないと思っていたところだよ」
 透が穏やかに微笑んでみせると水樹が躊躇いがちに口を開いた。
「……あの、夏乃は」
「部屋に引き取らせた。妹を泣かせるのは感心しないな。たったひとりの妹をあんなふうに突き放して、可哀相だとは思わないのかね?」
 透が問うと水樹は僅かに目を逸らす。
「夏乃はもう子供じゃありません。櫂人君だっているし……」
「櫂人に君の代わりは務まらないよ。夏乃君が必要としているのはあくまでも兄としての君であって恋人じゃない」
「僕は……夏乃の兄として相応しくありません」
 夏乃を誰からも後ろ指を指されない立派な人間に育てるために、いつだって手本となるよう振る舞ってきた。けれど、人を死なせ、母を悲しませた自分は誰かの模範になどなりえない。
 本当は医師たるに相応しい人間でもないのかもしれない。だが、医師となることまで途中で投げ出しては、これまで多額の援助をし、自分を養子にまでしてくれた透に申し訳が立たない。
「相変わらず君は頑固だな」
 透は苦笑混じりにひとつ溜め息を漏らした。
「まあ、そのことはいいだろう。一朝一夕に片が付く問題だとも思えないからな」
 椅子の上で脚を組み、透は枕元の薬を一瞥する。
「だが、これだけは言っておく。これから先も毎日大学に通うつもりなら、食事と睡眠はきちんと取りたまえ。一々倒れていては傍迷惑だ。薬は飲んだのかね?」
「……いいえ。まだ」
 透はおもむろに立ち上がると机の上の水差しから備え付けのグラスに水を注いだ。席に戻って睡眠薬を一錠、グラスと共に水樹に差し出す。
「飲みたまえ。それとも口移しの方がいいのか」
「い、いいえ……」
 半身を起こし渋々受け取る水樹を見て、透は大仰に溜め息を吐いてみせた。
「こう何もかも指示されなければ出来ないようでは、とてもじゃないがイブの独演会には連れていけないな」
「え、それは……」
 水樹は驚いて透の顔を見返す。
 イブの独演会とは、毎年クリスマス・イブの夜に透がさわらび学園で催している独り芝居の会のことだった。完全なプライベートのボランティア活動で、事務所も通さずファンクラブにも通知が行かない。劇団代表とマネージャー、少数の身内だけが知る恒例行事だった。
 さわらび学園は孤児だった水樹が、大学生だった透が、学園のホームドクターをしていた青葉と出会った場所だ。その思い出深い場所を水樹と夏乃、櫂人も含めた四人でイブに訪問するのが、水樹が養子となって以来早渡家の慣例となっていた。
「不満かね? だが、当然だろう。子供達の楽しいクリスマス会に青白い憂鬱な顔をした男は似付かわしくない。会場で倒れられでもしたらことだからな」
「……そう……ですね」
 グラスを持ったまま悄然と俯く水樹を見詰めたまま、諭すように透が話し掛ける。
「嫌なら、きちんと寝てまともな食事をすることだ。イブまではまだ一週間ほどある。それまで規則正しく健康的な生活を送っていれば、まあ、何とかなるだろう。手始めに、そのさっきから手にしたままの薬を飲んでみてはどうだね?」
 水樹はしばしグラスの水を見つめると、大人しく錠剤を口に入れ、水を飲み干した。

 

次へ


Fumi Ugui 2008.08.13
再アップ 2014.05.21

prev*index*next

Copyright(C) Fumi Ugui since 2008 無断複写・複製・転載は御遠慮下さい