名医の子供達

第6話 透の一番長い日(前編) 桐生、立つ

「センス! センスってば。もう昼だよ。今日午後からどっか行くんじゃないの?」
 甲高い声に揺さぶられてセンスは目を覚ました。
 まだ半分塞がった眼で枕元の携帯を見ると十二時四十分を過ぎている。
「何でもっと早く起こさねえんだよ!」
 慌てて布団から跳ね起き文句を言うと、エプロン姿のサチは怒って反論した。
「起こしたわよ! でも起きなかったの! これで三度目なんですけど!」
「……ああ、わかった。悪かったよ」
 耳元できいきいと響く声に顔を顰め、センスはあくびを噛み殺す。
「昨日遅くてさ……」
 昨夜は雪の中、徹夜でアイドルのマンションを張っていたのだ。しかし、結局空振りで目当ての場面には遭遇せず、寝床に入ったのは明け方だった。
「デートをキャンセルするぐらい大事な用なんだから、さっさと出かければ?」
 サチはぷいと横を向くと、そこにたまたま張ってあった桐生の大判ポスターを睨み付けた。
 このイケメン俳優のせいで、今までデートの約束がどのくらいキャンセルになったかわからない。
 桐生の熱狂的ファンを自認するセンスの部屋は、市販のポスターや彼自身が撮った桐生の写真で埋め尽くされていた。壁はもちろん、台所との仕切りのガラス戸や押し入れの襖、果ては天井まで、狭い六畳のどちらを向いても桐生だらけだ。その他にも、押し入れに入り切らないパネルや関連グッズ、ビデオ類などが部屋の隅に積み上げてある。
 付き合い始めて一年ほどになるが、サチが初めてこの部屋に足を踏み入れたときは本当に唖然としたものだ。
「今日はこれから本人に会いに行くんだぜ。お前も来る?」
 如何にも自慢気に聞いてくるセンスを見て、サチはまだスッピンの顔を顰めた。
「いいよ。どうせまた、植え込みの陰に隠れて何時間も待つんでしょ。付き合ってらんないわ。店だってあるし」
 サチが隣の狭い台所に引っ込むと、目の前の撮影現場のスナップ写真を眺めてセンスはひとり笑った。
 もちろん、桐生と会うなら二人っ切りの方がいい。
 ご機嫌斜めのサチを尻目に、出された朝食兼昼食の焼きそばを空きっ腹に掻き込み、手早く着替えてアパートの部屋を出ると、センスは道路沿いの小さな駐輪場からスクーターを引っ張り出した。
 まだ地面に雪は残っているが、天気は上々だ。
 機嫌良くスクーターに跨がり、センスは指定された待ち合わせ場所へと急いだ。

 ◆

 センスは物心付いたときには既にさわらび学園にいた。
 水樹とどちらが早く預けられたのかも記憶になかった。二人は当たり前のように、もうそこにいたのだ。
 学園での生活について幼いセンスには何の不満もなかった。園長は優しかったし、誰かが病気になるとやってくるクマのような髭面の青葉も面白くて好きだった。少し大きくなると、小夏が姿を見せるようになった。歌とオルガンの上手な小夏はとても明るく優しくて、センスは他の子同様彼女がやってくるのを心待ちにしていた。
 やがて「水樹が青葉先生と小夏ねえちゃんのウチの子になる」と聞かされたときも、センスはそれを大した問題だとは思っていなかった。水樹が小夏ねえちゃんのウチの子になっても、今まで通り自分も遊んでもらえると思っていたのだ。しかし、水樹がもらわれていくと小夏は学園に姿を見せなくなった。園長に聞いてみると「小夏お姉さんは水樹君のお母さんになったのよ」と言われた。そこで初めて「水樹が青葉先生と小夏ねえちゃんのウチの子になる」とは、水樹が二人を一人占めすることなのだとセンスは知った。
 青葉の方は以前と変わらず学園に病気の子が出るとやってきて、そのついでにセンスや他の子供達を構っていったが、その青葉が園長や他の職員と水樹についてうれしそうに話をするのを見ているとセンスは何だか切なく、もやもやとして、いたたまれない気持ちになった。
 そんな状態が何年も続くうち、水樹の消息を聞くのが嫌でセンスは青葉に近寄らなくなってしまった。小夏の死も、園長や職員が子供達の耳には入らないようにしていたため、随分後になってから知った。水樹が都内で一番の進学校に合格したと聞いたときは、中卒で働かなければならない我が身と引き比べて何だか無性に腹がっ立った。
 だから、就職してしばらく経ち、青葉が事故で死んだと伝え聞いたときはざまあみろと思った。
 青葉にではない。水樹にだ。
 これで水樹も自分と同じだと思ったのだ。

 その頃、既にセンスは生きていくための新たな心の支えを得ていた。
 それは強烈な同性への憧れだった。
 その人は、センスが中学を卒業して独立する直前の春休みにさわらび学園へ慰問にやってきた東大生で、俳優のような端整な容貌と堂々とした体躯の持ち主だった。
 最初見た時は大して気にも留めなかった。イケメンだとは思ったが冷たそうだったし、東大生など自分とは掛け離れた無縁の存在だと突き放して見ていたのだ。ところが、慰問の最終日、読み聞かせを中断して子供を助けたその人の姿に強烈なカリスマを感じたセンスは、その場で出来たばかりのファンクラブに即入会するほど深く傾倒した。慌てて用意したコピー用紙にサインをもらったその晩は興奮して眠れず、翌日の初出勤に遅刻しそうになった。
 やがてその人が、桐生という名で舞台俳優としてデビューしたとファンクラブから連絡があったときには天にも昇る気持ちだった。
 それからというものセンスの生活は寝ても覚めても桐生一辺倒となった。
 働くのも生きるのも桐生のため。
 生活は決して余裕のあるものではなかったが、僅かな小遣いと余暇はすべて桐生のために注ぎ込み、舞台公演やファンの集い、映画館には必ず足を運んだ。出演ドラマはすべてチェックしDVDを購入するのはもちろん、スペシャルゲストとして声優をやったレア物のCDブック等もすべて集めた。それがセンスの唯一の生甲斐で楽しみだった。
 桐生が養子を迎えたと知ったときもセンスは憧れの人の決断を受け入れ、軽い嫉妬を覚える程度で特に相手を嫉んだりはしていなかった。むしろ、批判する者がいると擁護に回った。
 センスにとって桐生の言動は既にバイブルだった。

 今の仕事に就けたのも言わば桐生のお蔭だった。
 最初は桐生を撮るために高性能ズームアップ機能付きのカメラや盗撮用の特殊なカメラを買った。舞台挨拶やサイン会での撮影禁止の規定を掻い潜り、桐生をカメラに収めるためだ。センスが撮るのは専ら桐生のみで、たとえその隣にどんな美人女優が寄り添っていようとも他の被写体には一切注意を払わなかった。
 しかし、そんなある日のこと。いつのもようにロケ先で出待ちをして撮った写真の中に、偶然にも女と車に乗り込む別の若手俳優の姿が小さく写り込んでいたことがあった。相変わらず桐生以外の俳優などに興味はなかったが、それが人気俳優だったこともあり、連れの女の顔にも見覚えがあるような気がして写真週刊誌に連絡を取ったところ、これがスクープ写真として翌週の誌面に採用されたのだ。
 それからというものセンスはそれらしい写真が撮れるとしばしば編集部を訪れるようになった。幸いセンスには走行中の車の内部等、動いているものをぶれずに写す才能があり、その手の写真はほとんどが採用された。
 やがてセンスは中学卒業以来勤めていた左官の仕事を辞めて、スクープ写真を週刊誌に売って生計を立てるようになった。収入は左官時代よりもむしろ少なく不安定なものだったが、芸能カメラマンになれば桐生との接触の機会が増えるかもしれないと思ったのだ。
 事実、フリーのカメラマンになってからは時間もかなり自由が利くようになり、望遠レンズ越しではあるが桐生との接触の機会も増えた。撮った写真もそれなりに評価されて仕事も楽しかった。
 だからはっきり言って、センスは水樹のことなどすっかり忘れていたのだ。
 数カ月前のあの日、桐生のマンションを張っていて、桐生が水樹と親しげに話しながら出てくるところを見るまでは――。
 最初はわからなかった。
 噂の養子だろうという見当は付いたが、それが自分の幼馴染みだとは思いもしなかった。だが、桐生の口から「ミズキ」という親しげな呼び掛けの声が漏れた刹那、まるで根拠はなかったが、センスは直感した。
 あれが自分の知っている水樹だということを。
 彼らが「ナツノ」という、青葉と小夏の娘の名を口にしたことで直感はどす黒い瞋恚(しんい)を伴う確信に変わった。
 許せなかった。
 自分と同じ立場になったとばかり思っていた水樹がまた幸せを掴んでいる。
 しかも、今度は選りにも選って桐生の養子に。
 自分はいつもこんなに近くにいながら桐生とは言葉も交わせないのに理不尽だと思った。
 何故、水樹ばかりを自分の大好きな人達は選ぶのだろう。
 青葉、小夏、桐生。それだけではない。園長も他の職員も思い返せば皆水樹にちやほやしていた。
 だから、センスは改めて水樹のことを調べることにした。
 孤児院に預けられる子供は家庭に何かしら問題を抱えているもの。弱みを握ってちょっとした嫌がらせをしてやろうと考えたのだ。ほんの軽い気持ちだった。
 ところが――。
 昔さわらび学園で偶然耳にした水樹の祖父母の消息と、養子に行く前の橘という姓を取っ掛かりに遡って調べていくうちに、センスはある重大なことに気付いた。
 水樹には秘密があったのだ。
 恐ろしい秘密が……。
 このことを桐生に知らせなければならない。
 それは知ってしまった自分の使命だと思った――。

 しかし、それらのことも今のセンスにはどうでもよかった。
 今日はこれから自分が桐生を独占できるのだ。
 言葉を交わすことができるのだ。

 目の前の信号が青に変わると、センスは上機嫌でスクーターのアクセルを入れた。

 ◆

 昼下がりのオープンカフェは賑わっていた。
 ビルの地下から続く広い中庭に配置されたオープンスペースにはまだ雪が残り、さすがに利用者は少ないが、アクリルガラスで保護された内部スペースはほぼ満席状態だった。
 だが、どこかしら落ち着きがない。
 元々内部席も通路上に設けられており、慌ただしく行き交う人々も多いが、それはいつものこと。
 では、クリスマス・イブで街中が浮かれている余波なのかというと必ずしもそうではなかった。
 どちらかと言えば店内は奇妙な静けさに包まれていた。それでいてどこか落ち着きがないのだ。先程からウエイターはやけにそわそわとスペースを動き回り、たまに通行人が訝しげに立ち止まる。客は皆時折ちらりちらりと余所見をしながら、同じテーブルの者同士で低く囁き合っている。
 彼らが一様に盗み見ているのは、オープンスペースとの境に近い、カウンターからは少し離れたところにある席だった。
 そこに座を占めているのは一人の男。
 黒と茶が基調のシックなカフェの空間にあって、明るい色合いのブランドのスーツがその無視できない圧倒的な存在感と相まって異彩を放つ。
 端整で、だが、甘さのない知的な印象の、テレビや映画でよく見かけるその美丈夫は、今一人の青年と向かい合っていた。

「お、お待たせしました。アメリカンのお客様は?」
 現れた若いウエイターの第一声を耳にして桐生は僅かに口許を緩めた。
 余程緊張しているのか声は上擦り、差し出そうと手にしたカップが小刻みに震えている。
「そちらの彼に」
 桐生が笑みを湛えて穏やかに向かいの席を示すと、ウエイターはカップを二つ慎重に配置して、ぎくしゃくと席を離れていった。
「さ、せっかく来たんだ。冷めないうちにどうぞ」
「は、はい……」
 自分もエスプレッソに口を付けると、透は改めて自分の正面に腰掛けた俯き加減の青年を眺める。
 卯木センスは水樹よりも僅かに体格の良い、一見したところ普通の青年だった。
 身形にも態度にも特におかしなところはなく、きちんと脱帽して、キャップをリュックと一纏めにして隣の椅子に置いている。最近の若者にしては礼儀はきちんとしている方だ。
 緊張に少し顔を上気させ、先程からしきりに手汗を気にしている様子のセンスは、注文したコーヒーにも手を出さず、カーゴパンツの太股の辺りに何度も掌を擦り付けていた。そうしたところはサイン会などで見掛ける他のファンと何ら変わりはない。
「あの、サ、サインお願いできますか?」
 センスは顔を赤らめて、傍らのリュックから色紙とサインペンを取り出した。
「持っているんじゃないのかね?」
「え……?」
 目を見開くセンスに透は穏やかな笑みを返す。
「副島君から君のことを聞いてね。読み聞かせの頃から私のファンだそうだね。ありがとう」
「も、もちろん、あの時のサインは大切に飾ってあります!」
 一瞬自分のことを覚えているのかと期待したが、違うとわかってセンスは急いで言い訳をした。
「でも、あの時はまだ桐生じゃなかったし……」
「ああ、なるほど。そうだったね」
 透は色紙を受け取ると丁寧にサインをしてセンスに返した。
「ありがとうございます!」
 センスはうれしそうにそれを眺めると丁寧にリュックに仕舞い込む。
「他に済ませておく用はないかな?」
「はい」
「では、本題に入ろう」
 透は口調を改める。
「卯木センス君。君に今日ここに来てもらったのは他でもない。例の記事のことだ。『週刊ゲンセキ』のあの記事、情報源は君だと考えていいのかな」
 静かに見据える透を昂然と見返してセンスは言い放った。
「そうです。だって、全部本当のことだ」
 記事のことに触れた途端目の色が変わり、瞳の奥に狂気がちらつき始めたセンスを、透はただ淡々と見返す。
「俺水樹のこと遡って調べたんです。そしたら気付いたんだ」
 センスは禁忌に触れるように僅かに声を低くする。
「実の両親も、母親の再婚相手だった検事も、養子先の青葉先生と小夏ねえちゃんも。あいつの親はまだ若いのにことごとく死んでる。生きてるやつは一人もいない。いないんだ」
「それがすべて水樹のせいだと君は言いたいのかい?」
 あくまでも冷静に透が尋ねると、センスは上目使いに透をしばらくじっと見詰めてから口を開いた。
「誤解しないでほしいんだけど」
 一旦視線を落とし、センスは手持ち無沙汰にスプーンでコーヒーを掻き回し始めた。
「俺だって水樹が直接やったとは思ってないよ。あいつはガキの頃から大人しくて、それこそ虫も殺せないやつだったから」
 コーヒー皿にスプーンを戻して一口啜ると、センスはおもむろに顔を上げ、透の目を見る。
「だけど、あいつはそういう運命なんだ……」
 センスのガラス玉のような瞳孔の向こうに、暗い、だが、どろどろと滾るような情熱が透けて見える。
 透は敢えて遮ることなく、黙ってその視線を受け止めた。
「両親が死んでるだけなら俺だって何とも思わないよ。俺だって親いないし、そんなの学園じゃ珍しくもない。だけど、五人全員なんだ。あいつに関わった大人は、親と名乗った人間は全員なんだよ。百パーセントでハズレがないんだ。これはもう、あいつに悪気がなくても、きっとそうなる運命なんだ。あいつ自身がどんなにいいやつでもまったく関係がない。あいつがどういう訳か検事とか医者とか、立派な大人に好かれるのと同じぐらい、避けようのない、誰にもどうしようもない運命なんだよ」
 滔々と語るセンスは誰も見ていない。目の前の透でさえも。ただ自分の言説に酔っているだけのように見える。
 最後に透に焦点を戻すとセンスは正気付いたように付け加えた。
「だから桐生さんも気を付けた方がいい。あいつとは養子縁組を一刻も早く解消すべきです」

「残念だが、卯木君」
 センスの話が一通り終わったと見て取ると、透はおもむろに口を開いた。
「私は運命論者ではなく現実主義者なんだ。先程からの君の主張が正当な根拠に基づく妥当なものとはとても思えない。それに、君は忘れているようだが、私は水樹の父親だ」
 透が水樹の名を口にした途端、センスの頬が僅かにひくりと痙る。
「ひとつはっきりさせておこう」
 透はセンスと視線を合わせ、狂気を孕んだその目をまじろぎもせず正面から見据える。
「仮に君の言う通り水樹が私の命を糧に生きているのだとしても、私は彼を手放す気はない」
 一瞬瞠目したセンスの表情が歪んでいく。だが、透は構わず先を続けた。
「私が彼を養子にしたのは青葉先生のような立派な医師になりたいとう彼の希望を叶えてやるためだ。そのために必要だというのなら、私の屍など幾らでも踏んで行けばいい。近い将来私が死んで残った財産を水樹がすべて相続し、それが彼の勉学の足しになるというのなら、それこそ本望というものだよ」
 澱むことなく言い切った透の双眸にはいささかの揺るぎも恐れもない。
 そこにあるのは絆だ。
 水樹と固く結ばれ、センスを拒絶する絆。
「……何で……そこまで」
 僅かに視線を落とし、センスは歯ぎしりした。
 目の前が真っ赤に染まり、チカチカと黒い染みが点滅を始める。
 息苦しくて堪らない。
 そこまで桐生に思われている水樹が憎くて堪らなかった。
「卯木君。今後君が水樹への中傷を一切しないと約束するのなら、水樹の友人として君を歓迎しよう。出来ないと言うのなら、私にも覚悟がある」
 溶岩のようにどろどろと全身を隈無く巡る瞋恚に身を焼かれながら、やっとの思いで顔を上げ、それでもセンスは昂然と透を見返した。
「中傷なんかじゃない。全部本当のことだ。真実を報道して何が悪いんですか」
 テーブルの下で拳が震える。
「俺はあなたに知らせるためにやったんです。こうするより仕方ないでしょう。あなたも世間も、この恐ろしい事実を知らないんだから!」
 互いに目を逸らさずしばらく対峙すると、透は静かにその瞳を伏せた。
「君の存念はよくわかったよ。これ以上は話し合っても平行線のようだ」
 再び瞳を開くと、透は後ろに首を巡らせて、先程から斜向かいの席に陣取り観葉植物の陰からずっとこちらを窺っていた一台のカメラに目をやった。レンズ越しに目が合った途端、カメラマンが慌てて椅子の陰に身を隠す。そのまま姿勢を低くしてそっとその場を去ろうとするのを透が呼び止めた。
「待ちたまえ。君はどこのカメラマンだね?」
 まだ若いカメラマンはきまり悪そうに振り返り、おずおずとその場に立ち上がった。
「……『日刊デジスポーツ』です」
 透はその顔に見覚えがあった。午前中にさわらび学園で見掛けた顔だ。
「ここまでついて来たのは慧眼だ。ちょうどいい。これから私の言うことを記事にしたまえ。私の息子の過去など暴くよりも、ずっと人目を引くスクープ記事になるはずだ。保証するよ」
 戸惑うカメラマンを尻目に透はおもむろに立ち上がり、まるで舞台から観客席を見渡すようにぐるりと首を巡らせた。先程から桐生を盗み見ていた人々が何事が起こるのかと興味津々に注目する。
 衆目の注意を十分に惹き付けると、透は莞爾(かんじ)として微笑み、声を張る。
「ここに居合わせた方々にも証人になって頂こう」
 密やかな騒めきが広がる昼下がりのオープンカフェに朗々と独特の深みのある声が響き渡る。
「一部報道でご存知の方も多いかと思われますが、ここのところ連日に亘り私と私の息子は芸能マスコミによって謂われない中傷を受けています。そのために我が子が食事も睡眠も取らず、心痛のあまり日々衰弱していく……。親として家族として、これほど耐えがたいことはありません」
 そこで一旦口を噤み、透が沈痛な面持ちで静かにその双眸を閉じると、カフェはしんと静まり返った。
 ウエイターも通行人もテーブル席の客も、そして、センスも、皆透に注目したまま彫像のように動かない。
 固唾をのんで人々が見守るなか、透は決然とその双眸を開く。
「よって、私は、かの記事の情報提供者と、私と私の息子を誹謗中傷する記事を掲載した『週刊ゲンセキ』の両者を、名誉棄損罪で告訴することをこの度決意致しました。この旨、この場を借りてご報告申し上げます」
 店内がどよめき、フラッシュが続け様に瞬いた。シャッターを切りながらカメラマンが上擦った声で尋ねる。
「そ、それは、他誌に対しても同じ措置を取るということですか?」
「今後も中傷記事の掲載を止めないのなら、そういうことになるでしょう」
 今やカフェは騒然としていた。
 桐生は弁護士の資格を持ちながら今まで芸能マスコミの捏造記事に構うことは一切なかった。その彼が、結婚相手として騒がれた養子を守るために『週刊ゲンセキ』を名誉棄損罪で訴え、自ら法廷に立とうというのだから話題性は十二分にある。
 透が質問に答えている間も、向かいの席では若いグループの何人かが興奮気味にメールを打ったり、透に向けて携帯をかざしたりしている。
 そのなかでセンスだけが今だぴくりともせず、色を失ってただ透を見上げていた。
「卯木君。君にも言い分はあるだろう。だが、先程も言ったように私は彼の父親だ。謂れのないことで彼の名誉を傷つけ泣かせ、この先も態度を改める気がない者をこのままにしておくつもりはない」
 尚も止まないフラッシュを浴びながら、透はその目に微かな憐れみの色を浮かべてセンスを静かに見下ろす。
「マスコミというのは浮気なものだよ。よりセンセーショナルな出来事の前ではそれ以前の事件などあっと言う間に忘れ去られる」
 透はマスコミの習性をよく知っていた。
 桐生が派手に振る舞えば振る舞うほど芸能マスコミはそちらに飛び付く。
 オープンカフェという人目の多いところでの芝居がかったパフォーマンスも、すべては世間の同情を引き、彼らの注意を水樹から自分に引き付けるためのもの。この場に居合わせた人々のうち一人でもネットに書き込めば、尾鰭が付いてそれもまた話題になる。
 薬が効きすぎて、また二人の関係についてゲイだの何だのと騒がれるかもしれないが、このまま水樹が過去の傷口を抉られ続けるよりは遥かにマシだ。
「今後、意見がしたければ法廷でしたまえ。受けて立とう」
 最後にセンスに一言残すと、フラッシュが瞬くなか、透は振り向かずに席を後にした。

 ◆

 中庭には紫煙が一筋漂っていた。
 センスがカフェから出て何となくそれを眺めていると、脇から疎らな拍手が聞こえ、のんびりとした声が掛かった。
「いや、面白いものを見せてもらいましたよ。相変わらずやることが派手だな、桐生という男は」
 まだ雪の残るオープンスペースのテーブルに、紫煙をくゆらせながら男が一人腰掛けていた。真冬で分厚いコートを着込んでいるというのにいささか痩せすぎた印象の男で、歳は四、五十代に見えた。
「……あんたは?」
 センスが尋ねると、
「これは、自己紹介が遅れてしまった」
 男は笑ってコートの下から名刺を取り出す。
 センスが受け取った名刺には海潮新社『週刊海潮』編集長比良坂保とあった。
「大手雑誌の編集長さんが俺に何の用ですか」
 訝しげにセンスが見返すと比良坂はにやりと相好を崩した。
「いや、ここのところ業界を騒がせている台風の目に興味があってね」
 センスは僅かに眉を顰めた。
「確か『海潮』さんには扱ってもらってませんよね」
 センスは他の雑誌同様『週刊海潮』にも水樹のネタを持ち込んでいたが、記者にも会わせてもらえず受付で門前払いされたのだ。
「まあ、ウチはちょっと編集方針が違っていてね……」
 比良坂ははぐらかすように笑った。
 馬鹿にされたような気がしてセンスは眉根を寄せる。
「あなたも信じられませんか。あの記事……」
「さて、何とも言えないが……」
 タバコを一口吸うと比良坂は午後の空に向かって大きく煙りを吐き出す。
「まあ、そういう巡り合わせというのはあるのかもしれないなあ。例えば、好きになる女、好きになる女、その度に何故か既に男がいる、というぐらいにはね」
 センスは俯き、足下の踏み荒らされて汚くなった雪を睨み付ける。
「……青葉先生も小夏ねえちゃんも、羅天って検事も皆死んだのに。何で信じようとしないんだ……」
「まあ、人間どんなことでも実際自分の身に起こってみないことにはその恐ろしさは実感できないものだよ。天災や交通事故、通り魔殺人、薬の副作用なんかと同じでね」
「実際自分の身に……」
 比良坂の言葉に、俯いたままセンスは瞠目する。
「まあ、そのくらい鈍感でないと生きていけないってことかもしれないなあ。大地震がいつ来るかなんて一々びくついていたら、日々の仕事も手に付かない訳だからねえ」
 センスの耳に比良坂の言葉はもう聞こえていなかった。
 希望が見えてきたのだ。
 桐生を翻意させ、自分を認めさせる希望が。
「……そうか。そうだよな。あの人は弁護士なんだから、納得させるには確かな証拠がないと……」
 センスはひとり呟くとその場を離れる。
「ああ、それから」
 ふらりとオープンスペースを出ていくセンスの背中に再び比良坂が声を掛けた。
「君は確か桐生のファンだったね。傍からいろいろと楽しませてもらったお礼に、ひとつ耳寄りな情報を教えよう」
 桐生という言葉に反応してセンスが立ち止まる。
「桐生は毎年クリスマス・イブの夜にさわらび学園という孤児院で独演会を開いているらしいよ。その日は事務所で身内と待ち合わせをしてから学園に向かうそうだ。こいつはファンクラブの会報にも載らないプライベート情報だよ。覗いてみたら案外桐生の新しい一面が見られるかもしれないな」
 比良坂が口を閉じると、センスは振り向かずにその場を立ち去った。

「どうだったね、比良坂君」
 相手が携帯に出たときには既にセンスは地上への階段を上り切り、その姿は中庭からは見えなかった。
「ええ、一応ほのめかしてはおきましたよ」
「首尾よく行きそうかね」
「さあ、どうですか……」
 比良坂は小さくなったタバコを手に軽く頭を掻く。
「でも、まあ、思い込みの激しい性格のようですから、五分五分と言ったところですかね。しかし、先生。敢えてここまでする必要があるんですか」
 比良坂は近くの吸殻入れ目掛けてタバコを放り投げた。吸い殻は四角い吸殻入れの角に当たり、踏み荒らされて解けかけた雪の上に落ちて、小さく断末魔の音を立てる。
 携帯の向こうからはあまり感情の起伏のない事務的な声が聞こえてきた。
「皮肉なことに、ああ見えて早渡透は司法修習時代には羅天知尋の再来とまで言われた優秀な男だ。厄介事にならないうちに機会があれば危険な芽は摘んでおきたい。それだけのことだよ。仕損じたなら仕損じたで今はそれでいい」
「ま、それがいいでしょうな。お互い無理は禁物です」
 比良坂が濡れた吸い殻を拾って吸殻入れに放り込むと、耳元で密やかな溜め息が漏れた。
「それにしても、その卯木とかいう若造もつくづく余計なことをしてくれたものだ。選りにも選ってこの時期に……」
 携帯の向こうの声に苦々しさが滲む。
「まったくですなあ。それに関してはまったく同感です。僕も余計な仕事が増えて困ってますよ」
「皮肉かね」
「事実です。まあ、大恩ある先生のためですから便宜は図らせてもらいますが。持ちつ持たれつということをお忘れなく」
「食えない男だな、君は」
 比良坂がまた新しいタバコに火を付ける。
 ゆらゆらと紫煙が立ち上り、澄んだ十二月の空に吸い込まれていった。

 

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Fumi Ugui 2008.08.29
再アップ 2014.05.21

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