名医の子供達

第7話 透の一番長い日(後編) 赤い華

「よ、医学生。勉強の方はどうだ。進んでるか?」
 谷口が軽く手を上げ自分のデスクから陽気に声を掛けると、久しぶりに姿を見せた水樹は深々と頭を下げた。
「はい。何とか試験もレポートも落とさずに済みました。谷口さんにもお変わりなく」
 穏やかに微笑む水樹は少し痩せたようだが、そのことには敢えて触れず、谷口は背中から手を回して近付いてきた水樹の肩をぽんぽんと気安く叩いた。
「ま、そんな堅苦しい挨拶は抜きにしようぜ。コーヒー飲むか? 今年の冬はカンウォーマー入れたんだぜ、カンウォーマー」
 聞き慣れない言葉に水樹が小首を傾げていると、谷口は先に立って鼻歌交じりに隣の給湯室に入り、駅の売店やコンビニでよく見掛ける小さな飲み物用のヒーターから缶コーヒーを取り出して水樹に手渡した。
「ウチはしがない小劇団だけど、稼ぎ頭が頑張ってくれてるからさ。毎年公演の予算に頭悩ませることもねーし。いや、助かる、助かる」
 勧められるままに少し熱めの缶コーヒーに口を付け、水樹は懐かしげに大部屋の中を見渡した。
 以前はバイトのために毎週通っていたこの劇団事務所にも今では年に一回イブに顔を出すだけになってしまったが、活気のある雰囲気はあの頃のままだ。
 毎年クリスマス公演真っただ中のこの時期はフロア全体が雑然としていた。大部屋も廊下も工具や衣装箱、作りかけのパネルや資材で溢れ返り、それらを器用に跨ぎ越しながら階段と大部屋の間を慌ただしく往復する劇団員が水樹の顔を見てはそれぞれに声を掛けていく。のほほんと缶コーヒーを啜り暇そうにしているのは劇団代表の谷口だけで、それが如何にも劇団オオムラサキらしかった。
 しばらく部屋の様子を見ていた水樹はふと思い当たって小首を傾げた。
「あの、今日は小川さんは……?」
 たとえオフでも、今まで何だかんだと理由を付けては必ずイブに顔を出していた小川の姿が見当たらない。
「ああ、小川君なら今日は実家に帰ってるよ。お母さんが転んで腕折ったから様子見てくるって」
「え、雪でですか?」
 水樹が心配そうにすると、いやいやと谷口は首を軽く横に振る。
「何か家の中で階段踏み外してよろけた拍子にやっちまったらしい。独り暮らしって訳じゃなし、利き腕じゃねーから、日常生活は何とかなるとは言ってたらしいけどな」
 一応の神妙な顔付きから一転して谷口は笑う。
「ま、日頃家にも戻らねーで事務所に連日泊まり込むような出たきり娘だ。たまには親孝行もいいんじゃね?」
 水樹が釣られて少し笑うと、谷口はすぐ脇の壁に掛けてある、半分宣材パネルに埋もれた時計を覗き込むようにして見上げた。
「にしても、早渡のやつ遅いな」
 水樹も見ると時刻は五時を過ぎている。
「たまの運転で今頃どっかでエンストでも起こしてんじゃねーの?」
 谷口が軽口を叩くと大部屋の入り口から心外そうな声がした。
「失礼なことを言ってくれる」
 所狭しと物が積み上げられた部屋の中を、纏った純白のロングコートを優雅に捌きながら代表のデスクまでやってきた透は、眉を上げて谷口を軽く睨付けた。
「私は公道でエンストを体験したことはまだ一度もないんだが」
「そりゃ、そもそも運転すること自体が少ないからじゃね?」
 軽く肩を竦めた谷口はにやりと笑って水樹を見る。
「知ってる? コイツ仮免試験でエンスト起こしたんだぜ」
「えっ?」
 水樹は驚いて傍らの透を見上げた。
 透とエンスト。脳裏に一瞬浮かんだ光景はあまりにも透にそぐわない。
 透が珍しく、酷く嫌そうな顔をして谷口を睨む。
「誤解を招くような言い方は慎んでもらいたいな。それではまるで私に問題があったかのように聞こえる。あれは教習所側の不備だったんだ」
「またまたあ。とぼけんなって。問題はその後だろ?」
 にやにやと谷口がうれしそうに揶揄する。
「教習所側から、後が詰まってるからやり直しはまた日を改めてと言われたのを、校長と膝詰め談判して、とにかくその日のうちに終わらせたんだよな。今でも語り草になってる」
 水樹は小さく笑ってしまった。
 それはとても透らしい気がする。
「こちらはその日にスケジュールを合わせて来ている。非は向こうにあるんだ。当たり前だろう」
 自己弁護をしながらも、久しぶりの水樹の笑顔を見て透は仄かに微笑んだ。
 どうやら谷口や他の劇団員と話すことは気分転換としてプラスに働いたようだ。
「その様子なら今夜は子供達の前に出しても問題なさそうだな」
 透が話を振ると水樹は素直に頷いた。
「はい。頑張ってみます」
「では、首尾よくいったら、私から君にクリスマスプレゼントを贈ろう」
「プレゼント……ですか?」
 水樹は透の顔を見上げて小さく首を傾げた。じっと見詰めてくる水樹の真っ直ぐな視線を穏やかに受け止め、透は笑みを返す。
「そうだ。楽しみにしていたまえ」

 冬至は過ぎたと言ってもまだ冬の日は短く、午後五時ともなるともう外は暗かった。
 夕暮れの薄暗闇のなか、ぽつりぽつりと等間隔に並んだ外灯と建物から煌々と漏れる明かりが、まだ雪の残る歩道を仄かに照らし出している。
 事務所の建物から外へ出た途端、水樹はその場に立ち竦んだ。
 高揚していた気分が急速に翳りを帯びていく。
 あの記事を見て以来、水樹は雪景色が何となく恐ろしかった。
 まだ大地に薄く積もり、所々に吹き溜まりを作る雪は、水樹に幼い日の記憶の断片を思い起こさせる。
「どうしたんだ?」
 先に立っていた透が振り返った。数歩戻って水樹の様子を窺うようにする。
「気分が悪いのか」
「……いいえ」
 水樹は首を横に振った。
 今夜は子供達のクリスマス会だ。こんなことで一々動揺していてはいけない。
「気分が優れないのなら正直に言いたまえ。君に無理をさせるつもりはない」
「いえ、大丈夫です」
 水樹が微笑んでみせると、透は何かを見極めるようにじっとその笑顔を見詰めてから頷いた。
「では、車を回してこよう。君はそこで待っていてくれ」
 駐車場は劇団事務所の裏手にある。ワンブロック先のコーナーを曲がって行かねばならなかった。
 颯爽と身を翻し、雪明かりに照らされて薄暗闇を行く、純白のロングコートに身を包んだ透は堂々と輝いてまるで光の王のようだ。その姿が徐々に闇に溶け込んで、遠く、小さくなっていく。
 離れていく透の背中を見ているうちに水樹は急な不安に襲われた。
「……透さん!」
 思わず呼び止めると透が怪訝そうに振り返る。
「何だね?」
「いえ……あの」
 離れていってほしくなかった。
 側にいてほしかったが、いい大人がそんなことを口にするのは躊躇われ、せめて自分もついていこうとすると背後から声が掛かった。
「水樹さん」
 振り返ると表通りの角を曲がって櫂人と夏乃がやってきたところだった。
「時間通りだな」
 二人の姿を認めて腕時計にちらりと目をやった透は、不意に背後から強い衝撃を受けて身体ごと前へと押し出された。前にのめりそうになるのを反射的に一歩踏み出し足腰に力を入れて踏み止まる。と、その瞬間。
 焼け付くような激痛が右腰部から下腹部全体に突き抜けた。
 あまりの激烈さに一瞬目が眩む。堪らず小さく呻くと、極間近で囁くような声がした。
「……わかったろ? 水樹に関わったヤツは早死にするってさ」
「君……は……!」
 声は背後から。顔はわからないがこの声には聞き覚えがある。
「……馬鹿な……ことを……」
「俺の言ったこと、嘘じゃなかったろ?」
 センスは一度透から離れると、前に回ってもう一度、開いたコートの中を深く抉るように左脇腹へ包丁を突き刺した。
「ぐ……!」
 貫かれ、前のめりになった透が堪えきれずに呻き声を漏らす。
「透さん……?」
 異変に気付き、振り向いた水樹の目に映ったものは、もつれるように重なる透ともう一人の姿。
 キャップの下の短く刈り込んだ髪。
 見覚えのあるリュックと、カーゴパンツ――……。
「く……来るな……みず……き」
 いつも通りのよい透の声に力がない。掠れて、途切れ途切れに聞こえてくる。
 センスがゆっくりと振り向いた。その手元から何かが滴り落ちて、まだ雪の残る地面に点々と小さな溜まりを作る。
「お前が悪いんだぜ、水樹。お前に関わるやつはさ、やっぱこうなる運命なんだよ」
「……センスくん?」
 茫然と立ち竦む水樹に薄く笑い掛けると、センスは何かを透の脇腹から無造作に抜き取った。それは根本からペンキを塗ったようにべっとりと赤い。そこから同じ色のとろりとした塊が柄に沿って滴り落ち、地面の溜まりが一際赤く、大きくなったと思った瞬間、透が頽れるようにその場に膝を突いた。
「透さん!」
 水樹の叫びと夏乃の悲鳴が交錯した。センスが踵を返す。
「待て、この野郎ッ!」
 センスを追って反射的に飛び出す櫂人の腕に夏乃が縋る。
「やだ! 早渡、やめて!」
 相手は刃物を持った狂人だ。何をするかわからない。
「警察呼ぶから追わないで! 行っちゃダメっ!」
「櫂人君! 先に救急車ッ!」
 夏乃の悲鳴のような懇願を、水樹の鞭打つような鋭い声が遮った。普段聞いたこともない有無を言わせぬその響きに櫂人が思わず足を止めると、血まみれの透を抱きかかえ水樹が再び切迫した指示を出す。
「透さん二個所刺されてます! 救急車呼んでくださいッ! 一分一秒を争うんです! 早く! 早くッ!」
「畜生おぉぉッ!」
 逃げていくセンスの背中に一声喚くと、櫂人は持てる怒りのすべてをぶつけるように携帯のキーを乱暴に押し始めた。

 

「透さん! 僕の声聞こえますか? 気をしっかり持って。僕が誰だか答えてください。透さん……! 透さんっ……!」
「……何だ。泣いているのか……水樹……」
 自分を抱きかかえ、覗き込んでくる水樹の目に涙が滲んでいるのを透はぼんやりと見ていた。水樹の腕は意外と逞しく、力の入らない自分の身体をしっかりと支えていてくれる。
「いけませんか」
 透の頬に落ちた自分の涙を指で丁寧に拭って水樹は表情を歪めた。
「……だって、僕はもう嫌なんです。これ以上、誰かを亡くすのは……」
 青葉の父のときも、母のときも自分は何も出来なかった。ただ、亡き骸を見守ることしか出来なかった。
 今も同じだ。
 透が死に瀕しているのに、医学生というだけで自分は何もしてやることが出来ない。
「……死にはしないよ。安心したまえ……。私はそんなに……柔ではない。こうして君もついている……医者の……タマゴだろう……?」
「あまりしゃべらないで……」
 透の額に浮かぶ冷や汗をハンカチで拭き取って低く囁くと、水樹は傷口に目を落とした。状況の厳しさに口許をきつく引き結び、僅かに眉根を寄せる。
 脇腹の傷口は深く、後から後から血が染み出して沼のようだった。後ろから刺された傷も出血が止まらない。透の身体を支える水樹のコートは透の純白のコート同様既に真っ赤に染まっていた。
 それでもまだ透はしゃべるのを止めない。己を鼓舞するかのようにしゃべり続ける。
「……意識は保って……いた方がいいと聞いた……が……違うのか……」
「おしゃべりが過ぎます。大人しく僕の言うこと聞いてください」
「……そんな顔……するのは……やめたまえ……」
 透は大儀そうに手を持ち上げると、そっと水樹の頬に触れた。
「……そうだ。……私は……まだ君に……!」
 不意に透が顔を歪めた。傷口から鮮血がほとばしり、スーツを新たな朱に染める。
「透さん、お願いですから……!」
 まだ辛うじて温もりのある透の手を握り締め、水樹が泣きそうな顔で懇願すると透は仄かに笑った。
「……わかったよ。君の……言う通りにしよう……。これ以上君を……泣かせたくは……ないから……な……」

 

「水樹さん、救急車来るって!」
「お兄ちゃん、警察ももうすぐ来るよ」
 ほぼ同時に駆け付けてきた二人の声を耳にすると水樹は夏乃を振り返った。
「夏乃、事務所に行って谷口さんにタオル借りてきてくれ。清潔で厚めのものをなるべく多く。出来れば新品のゴム手袋も。頼む!」
「うん、わかった!」
 夏乃が身を翻して駆けていく。
「櫂人君はこっちへ。透さんを支えていてください。なるべく心臓を低くして、血には手で直接触れないように」
 透を託すと水樹は自分のコートを脱いで地面に敷いた。櫂人と二人で血の付いていない奇麗な部分にそっと透を仰臥させる。
 後ろの傷に触ったのか、透は蒼白な顔を顰めた。
「……ケガ人は……もう少し……丁寧に扱わないか……」
「るっせえよ。二個所も刺されといて贅沢言うな」
 脇に膝を突いた櫂人が悪態を吐くと僅かに笑みを漏らす。
「……まさか……男に刺されるとはな……。我ながら……話題を……提供しすぎだ……」
「そんなチャラチャラしたこと言ってっからあんな野郎に刺されんだ!」
 櫂人は一瞬声を荒らげるとすぐに沈黙して小さく吐き捨てた。
「……だから気をつけろって言ったのにッ」
「……水樹の……前だ。……少し……口を……慎まないか……」
「水樹さんには全然関係ねえよ! あの野郎がイカレてるだけだろ! わかってんだよ、そんなこと! ってゆーか……!」
 櫂人は両手でひったくるようにして透のコートの襟元を掴んだ。慌てる水樹の制止を無視して、そのまま皺になるほど力一杯握り締める。
「こんな時まで俺より水樹さんの肩持つのかよっ、馬鹿兄貴っ!」
「……当然だろう」
 既に泣いている櫂人を見上げて、蒼白な顔で、それでも透は笑った。
「……お前とは……たとえ……殺し合うような……ことになっても……兄弟だからな……」
 櫂人は腕で乱暴に涙を拭う。
「こんなことでくたばりやがったら今度こそ本当に絶交だぞ。一生墓参りにも行ってやんねえからな。覚悟しとけよ」

「早渡!」
 歩道に囲みを作る野次馬の群れを掻き分け、夏乃と共に大量のタオルを抱えて谷口が姿を現した。
「……の声……谷口か。済まないな……当面の予定……全部……キャンセルだ」
「あー、もう。んなこたいいから。黙ってろ」
 問答無用で会話を打ち切り、谷口はタオルと炊事用手袋を差し出して水樹を窺う。
 片時も目を離さず、ひたすら透の容体を見守り続ける水樹の表情は厳しい。普段の柔和な表情が消えてしまってまるで別人のような印象だ。
 透は意識は辛うじて保っているが顔色は蒼白で、僅かに乱れた前髪が濡れるほど冷や汗を掻き、微かに痙攣している。素人目にも厳しい状況なのは判断できた。
「大丈夫なのか?」
「このままではどうしようもないんです。とにかく救急車が来てくれないことには……」
 谷口からゴム手袋を受け取ると水樹はそれを手早く嵌め、まず背面の傷にタオルを二枚ほど宛てがい、それから別の一枚を脇腹の傷口に押し当てる。透がその端整な顔を悩ましく歪め、タオルは見る見るうちに赤く染まった。
「救急車来た!」
 夏乃の声に谷口が顔を上げると、遠目に取り巻く人垣の向こうからサイレンを鳴らして旋回する赤い光が近付いて来ていた。歩道に横付けした救急車から救急隊員が慌ただしく降りてくる。
「こちらです! お願いします!」
「透さん! 救急車来たよ!」
 谷口が誘導し、水樹が救急隊に容体を説明している間も夏乃と櫂人が透に呼び掛ける。透は先程から目を閉じていて呼び掛けても反応がない。
「おい、兄貴ッ! 目ぇ開けろよ! こんなときに寝とぼけてんじゃねえぞ!」
「ねえ、透さん、頑張って! 退院して元気になったらあたし透さんの言うこと何でも聞くよ? もう家のことは全部家政婦さんに任せて炊事なんか一切しないし、学費だって全部出してもらうし、嫁入り道具だって透さんに買ってもらうから! だから頑張ってよ! こんなのやだ……」
 水樹に付き添われ、担架で運ばれていく透に向かって夏乃は叫んだ。
「アイツの思い通りになんかなんないでよ!」
「夏乃……」
 傍らの櫂人の腕に縋り付いて、尚叫ぶ。
「アイツの言うことなんて全部嘘だって証明してよ! 透さん! 透さんってばっ!」
 救急車が去った後には、雪明かりの白い歩道に点々と赤い華が散っていた。
 透が咲かせた大輪のその華は、やがて舞い降りてきた雪を溶かして尚赤く、鮮やかだった。

 

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Fumi Ugui 2008.09.07
再アップ 2014.05.21

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