名医の子供達

第8話 翁二人

 気が付くとソファにひとり腰掛けていた。

 突き当たりの手術室から続く廊下の脇に設けられた広々とした待ち合いのスペースには、今水樹の他に余人の姿はない。廊下との境界に設置された自動販売機と、中央に配置された何脚かの椅子とテーブルが照明に白々と照らされているだけだ。外はすっかり暗くなり、窓が照明の光を反射して、肩を落としてひとり佇む水樹の姿を映し出していた。

 透がこの倫天堂第一病院の救急救命センターに搬送されてから既に二時間近くが経過していた。
 搬送先が劇団事務所から近いのは幸いだったが、透は意識不明の危篤状態のまま手術室に運び込まれた。
 付添いとしてついていった水樹は救急車を降りた直後から慌ただしく事務手続きに追われた。病院側からあらゆる必要な説明を受け、書類にサインし、間もなくやってきた警察の質問にも一通り答えた。櫂人に連絡を入れなければとようやく思い至ったのは随分経ってからのことだった。

 そして今、なすべきことをすべて終え、水樹はひとりでここにいる。

 透はまだ出てこない。
 時折手術室の扉の向こうから出てくる看護師を捕まえては手術はあとどのくらい掛かるのかと聞いてみたが、皆一様にわからないと言うばかりだった。
 運び込まれた時の透の容体を考えればオペが難航していることは想像がつく。
 それでもまだ希望はある――。
 きつく目を閉じ頭を垂れると、両膝に肘を突き、水樹は固く両手を組んでその手を額に押し付けた。
 たとえ何時間掛かろうともオペが続行されているということは、最後の瞬間は訪れていないということだ。
 あの扉の向こうでまだ透は生きている。
 今もこの一瞬一瞬を乗り越えている。
 その一縷の思いに縋り、水樹が祈るように震えていると、廊下を慌ただしく足音が近付いてきた。
「水樹さん、兄貴は?」
「まだ……終わらないみたい」
 顔を上げた水樹を一目見て櫂人は僅かに眉を顰めた。その後ろから夏乃がそっとソファに寄ってきて、水樹の顔を覗き込むようにすると、労るように優しく声を掛ける。
「お兄ちゃん、着替えた方がいいよ」
 夏乃にそっと促され、水樹が着ているものに目を落とすと、ジーンズの太股の辺りにべっとりと赤黒く染みが付いていた。まだ湿っていて、気が付いてみればそこだけがひやりと冷たい。
「そうだね……」
 着替えの入ったスポーツバッグを渡されて立ち上がり、夢遊病者のようなふわふわとした足取りで水樹は化粧室に入った。ふらりと何気なく立った鏡の前、そこに映った自分の姿を見て立ち竦む。
 血だらけだった。
 ジャケットの袖口から腹部、ジーンズの膝の辺りまでがまだらに赤黒く染まっている。生気のまるでない頬に一筋、刷毛ではいたように血のペインティングを施して、ただ立ち尽くすその姿はまるで幽鬼か殺人鬼のようだ。
 鏡の中の凄惨な有り様から目を背け、水樹は手元を見詰めた。
 染まった指先は既に乾いて赤茶色だった。微かに血の臭いがする。
 透の血だ。
 透が水樹のために流した血――。

 ――お前は親の命を吸って生きている。

 いつかセンスに言われた言葉が蘇る。
 羅天検事の死は事故死だったかもしれない。母の死は病死だったかもしれない。
 だが、今度こそ言い逃れは出来ない。
 お前が悪いとセンスは言った。
 自分のせいで透は刺されたのだ。
 洗面台に手を突き水樹は震えた。ぎゅっと心臓を鷲掴みにされたようで動けなかった。
 目を閉じると傷口から溢れる鮮血がフラッシュバックする。
 あんなに血を流したら、ただでさえ持ち堪えられるかどうかわからない。なのに透は二個所も刺されている。どちらも深い傷だった。恐らく内蔵を複数損傷しているだろう。だが、手術は二個所同時には出来ない。

 ――透さん……!

 最悪の結果が脳裏を過り、力なくその場にうずくまろうとすると、背後から誰かの手が伸びてきて身体を支えた。
「おい、大丈夫か、水樹さん?」
 水樹がゆっくりと後ろを振り仰ぐと、透とよく似た面差しが僅かに眉根を寄せて心配そうにこちらを窺っていた。
「櫂人君……」
 水樹の顔が忽ち歪む。
「ごめん……。ごめん、櫂人君……」
「何で謝るんだよ。水樹さんのせいじゃねえだろ」
 怒ったように少し強めに言い切ると櫂人は口調を緩める。
「いいから、とにかく早く着替えて兄貴のところに戻ろう。それとも、調子悪いならマンションに送っていこうか?」
 水樹は首を強く横に振った。
 そんなこと出来る訳がない。せめて透の側にいなければ。
 緩慢な動作で洗面台に向き直り、震える手を蛇口にかざすと、水樹は手を洗い始めた。

 

 着替えを済ませて待ち合いスペースに戻ると、夏乃がコンビニのおにぎりを勧めてきた。
 時刻はもう七時を回っている。
「また倒れるといけないから、何かお腹に入れた方がいいよ。ほら、お兄ちゃんの好きな野沢菜売ってたから買ってきたよ。食べられそうになかったら、牛乳とか野菜ジュースも、ゼリーもあるから」
 夏乃はコンビニの袋の中からチューブに入った栄養補給用のゼリーを取り出してみせた。櫂人もツナマヨを手にすると一口噛ってみせる。
「こういう時こそちゃんと食っとかねえとな。こっちまで倒れちゃどうにもなんねえよ」
「ね、あたしも食べるから、お兄ちゃんも……」
 差し出されたパステルカラーのチューブをぼんやりと見て、水樹は首を横に振った。二人が気を使ってくれているのはわかるし、自分でも何か胃に入れるべきだと頭ではわかっていたが、それでも今は何も咽喉を通りそうになかった。
「じゃあ、せめて横になったら……?」
 夏乃はちらりと待ち合いスペースの脇に目をやった。そこには六畳ばかりの畳敷の部屋が付属していて、横になってくつろげるようになっている。
「そんなこと……出来ないよ。僕だけ楽は出来ない……」
「お兄ちゃん……」
 夏乃が困ったように櫂人を振り仰いだ時だった。
 手術室とは反対方向から複数の足音が近付いてきたかと思うと、男が二人、待ち合いスペースに姿を現した。
 先に立っているのは仕立てのよいダブルのスーツを着込んだ押し出しのいい老紳士で、すぐ後ろに三十代前半ぐらいの、地味なスーツを着た男を従えている。
 老紳士は白髪の勝った頭髪をオールバックにきちんと整え、眼鏡を掛けていた。レンズの奥の眼光は峻厳で、全体の印象は鷹か大鷲を思わせる。
 近付いてきた男のその襟に小さく金色に光るものを認めて、ペットボトルの緑茶を飲んでいた櫂人は僅かに眉を顰めた。
 それは櫂人が見慣れた法曹界のものではなく、菊花を模った、国会議員のバッジだった。
 老紳士は櫂人や夏乃には見向きもせずに堂々たる歩みで水樹のところまでやってくると穏やかに声を掛けた。
「君が水樹君かね?」
「……はい」
 上からじっと見据えられて目を逸らすことも出来ず、水樹が気圧されたようにのろのろと立ち上がると、老紳士はあまり温度のない事務的な声音で自ら名乗った。
「私は羅天知尋の父親で、雅武(まさたけ)という者です」
「羅天……」
 その名を聞いた途端、ぐらりと水樹の視界が揺れた。
「危ねえ、水樹さん」
 よろけそうになるのを脇から櫂人がとっさに支えると、
「お兄ちゃん」
 夏乃もぎゅっと手を握ってくる。
 水樹が色を失い、言葉もなくやっとその場に立っていると、横合いからひとつ咳払いが聞こえた。
「先生、もう少しお顔を穏やかに。早渡さんが委縮していらっしゃいます。ただでさえ気落ちしていらっしゃる折りなのですから、そんな厳しいお顔をなさっては」
 傍らに控えた若い秘書を見ると羅天は顔を顰めた。
「む、そんなに厳しい顔をしていたか。そんなつもりはなかったのだが……」
 秘書は澄ましてつけつけと答える。
「もっと笑顔を心掛けてください。政治家は第一印象が肝心です」
「うむ、そうだった。いや、なかなか長年の癖は抜けないものだな」
 ひとつ溜め息を吐き、秘書の意見に従ってなるべく穏やかな笑顔を作ると羅天は水樹に向き直った。
「もちろん、君を脅かすつもりはないんだ。気を悪くしないでくれたまえ、水樹君」
 一歩後ろに下がって距離を取ると、羅天は改めて水樹を上から下までじっくりと眺めて頷いた。
「いや、本当に立派に成長したものだ。私のことは覚えていないだろうね。加菜子さんに抱かれていた君はまだほんの赤ん坊だったから」
 いくら笑顔で優しい言葉を掛けられても水樹は心穏やかではいられなかった。相手が羅天検事の父親だというだけで断罪されている気がして身が竦む。
 水樹の様子を見兼ねて櫂人が尋ねた。
「失礼ですが、今日はどんなご用件でこちらに? 取り込み中なんですが」
「いや、これは失礼しました。実は私は加菜子さんが亡くなってからずっと水樹君を探しておりましてね。私にとって彼は知尋の忘れ形見のようなものですから」
「え……」
 思い掛けない言葉に瞠目する水樹に向き直り羅天は続ける。
「先日来の週刊誌の記事のお蔭で桐生の養子が君なんだと気付いてね。いつ連絡を取ろうかと思い悩んでいたところへ今日の事件のニュースだろう。マスコミに随分中傷もされていたようだし、支えを失ってはさぞ心細かろうと思ってね。今後のことも心配で、矢も盾もたまらずここへやってきてしまったんだよ」
 櫂人が不愉快そうに眉を顰める。ふと見ると、夏乃も水樹の腕にぎゅっと縋ったまま羅天の顔を見て何か言いたそうにしていた。
 しかし、羅天は水樹しか目に入っていないようだった。
「確か医学部に通っているのだったね。大学はあと何年残っているのだね」
「……三年です」
 まじろぎもせずに見詰めてくる相手に抗えず水樹が素直に答えると、羅天は迫るように一歩近付いた。
「経済的な支えを失えば困るだろう? 君さえよければ私が学費を出してもいいと思っているんだが」
「え、でも……」
 それはあまりにも無慈悲で性急すぎる申し出だった。
 透はまだオペの最中なのだ。
困惑しきって水樹がじりじりとソファに沿って後ろに下がると羅天は更に距離を詰めてくる。水樹を見詰める眼鏡の奥の眼は恐ろしいほど真剣だった。
「遠慮はいらない。私は出来れば君を養子に迎えたいと思っているんだ」
「え……?」
 羅天の更なる申し出に水樹の目が大きく見開かれる。
「おい……!」
「ちょっと待って……!」
 さすがに黙っていられず、櫂人と夏乃が同時に口を開きかけた時だった。
 突如として、辺りに下駄の音が響いた。
 カラン、コロンと軽快に近付いてくる。
 何故だかそれが救いの音のような気がして、水樹が縋るようにそちらを振り向くと、そこには一人の老爺の姿があった。
 寝起きのように乱れた白髪に、くたびれた背広とだらしなく結ばれたネクタイ。一見ドラマに出てくるベテラン刑事を思わせる風体だが、襟には桜ならぬ、ひまわりと天秤のバッジ。足下に目をやれば、果たして素足に下駄を履いている。
 老爺はひょうひょうと近付いて来ると羅天の背中に張りのあるどら声を掛けた。途端、びりびりと雷鳴が轟くように空気が震える。
「すみませんなあ。話の途中のようだが、ちょいと割り込ませてもらいますよ」
 文字通り羅天と水樹との間に割り込んできた老爺を見て、櫂人が幾分ほっとしたように声を掛ける。
「じいさん!」
「おう。久しぶりだな、櫂人」
 軽く片手を上げ機嫌よく櫂人に挨拶を返すと、老爺は羅天に向き直る。
「こちらもまた随分とお久しぶりで」
 老爺の顔を見た羅天は一瞬僅かに目を細めたが、すぐに元の表情に戻って襟を正した。
「これは桐生先生……。何故こちらに」
「緊急連絡網が回って来たんですよ」
 老爺はちらりと櫂人を一瞥してから目の前の男に視線を戻す。
「俳優の桐生ってえのは、実は私の身内でしてね」
「そうでしたか。いや、これは奇遇です。この度はとんだことでしたな」
「そりゃ、どうも。随分とご心配頂いたようで」
 羅天の形ばかりの見舞いの言葉に老爺も形だけの礼を返す。
「ですがねえ」
 先程から不安げにその場に立ち尽くす水樹にちらりと視線を投げると、透の身内と名乗った老爺はがしりと力強く水樹の肩を掴んで己の方へと引き寄せた。それから目の前の男を挑むように下から見据える。
「これの父親がまだ生死の境を彷徨ってるときに、学資だの養子だのってえのはちいと先走り過ぎじゃあ、ありませんか。どうです。羅天雅武先生」
 羅天は恐縮した様子で面を改める。
「いや、これは。そうですな。不謹慎でした……。何分にも水樹君のことが心配でして。お気を悪くなさらないで頂きたい。今日のところは私はこれで。水樹君」
 老爺に会釈をすると羅天は上着の隠しから名刺を取り出して水樹に渡した。
「何か困ったことがあったらいつでも相談に乗るよ。私は君のことは孫も同然と考えているんだ。落ち着いたら是非一度遊びにくるといい」

 

 秘書を従えた羅天の姿が廊下に消えると後に残った老爺は顔を顰めて吐き捨てた。
「けっ。余計な世話でい。おい、櫂人! 塩撒いとけ! 塩!」
「塩なんかねえよ。病院だぞ、ここ」
 櫂人が呆れて顔を顰める。
「……なるほど。お前さんが水樹か」
 老爺は正面に向き直って改めて水樹を眺めると、その皺深い顔に一見粗野だが不思議と人好きのする笑みを浮かべた。
「ほうほう。なかなかいい目をしてんじゃねえか。今時ねえなあ、そんな澄んだ目は。なるほど、こりゃあ透が惚れるだけのこたぁある」
「……ありがとうございます。あの……」
 水樹が窺うように顔を見ると、老爺はぽんとひとつ太股を打った。
「おう。名乗りが遅れたな。俺ぁ桐生瞭三郎(りょうざぶろう)。透と櫂人の母方の祖父だ。お前さんにとっちゃひいじいさんってことになるな」
 瞭三郎が名乗った途端、水樹はその場に膝を突いた。そのままひれ伏すように廊下に両手を突く。
「申し訳ありません……! 僕のせいで……透さんが……!」
「おい、やめろって。水樹さんのせいじゃねえって言ったろ」
「でも……」
 櫂人に腕を掴まれ引き起こされても水樹は瞭三郎の顔をまともに見ることが出来なかった。
 俯き加減にそっと手術室の方へと目をやる。
 もう随分時間が経っているのに手術室の扉はまだ閉ざされたままだ。
「でも……もし透さんが……」
 扉を見詰めたまま水樹は表情を歪める。その先を想像しただけで心拍が乱れ、力なく後ろのソファに座り込んだ。
「おうおう、そんな顔すんじゃねえよ」
 ソファの前にしゃがみ込み、瞭三郎は少し顔を上げて、蒼白になって震える水樹と目線を合わせた。
「医者のタマゴだってぇお前さんに言うのも何だがな、透はこんなことじゃくたばらねえさ。根が案外図太く出来てっからなあ」
「じいさんの言う通りだぜ。あの兄貴がやられっぱなしでくたばるもんか」
 櫂人が悪態を吐くと、
「そうだよ、お兄ちゃん。透さん絶対大丈夫だよ。絶対だよ。透さんを信じなきゃダメだよ」
 寄り添って水樹の手を取り、夏乃も声を掛ける。
「いいこと言うじゃねえか。妹さんだな?」
 瞭三郎が尋ねると夏乃は真っ直ぐに視線を合わせてからぺこりと頭を下げた。
「はい。夏乃っていいます」
「おう、こっちも兄ちゃんに劣らずいい子だな」
 瞭三郎は眩しそうに目を細める。
「今が一番辛え時だ。兄ちゃんを支えてやりなよ」
 夏乃がひたむきな瞳で頷くのを確認すると、瞭三郎は櫂人を振り返った。
「衡平(こうへい)君や篤子(あつこ)には知らせたのか」
「一応」
 櫂人は上着のポケットから携帯を取り出して眺めた。電源は切ってある。
「でも、どっちも留守電になってたから。いつチェックするかはわかんねえよ。あの人達、二人とも仕事熱心だから。年末で忙しいだろうし」
「まあ、おいそれとは仕事放り出して来る訳にもいかねえだろうからなあ」
 判事の仕事は激務だ。目を通さなければならない資料は常に山のように溜まっている。毎日それらを自宅まで持ち帰り、時には食事もそこそこに寝る直前まで頑張ってもまだ時間が足らないぐらいなのだ。判事の息子として育った櫂人はそのことをよくわかっていた。
 傍らのソファに目をやれば、水樹は俯いたまま。相変わらず夏乃がいくら勧めても飲み物にすら手を付けようとはしない。水樹が心労で衰弱しきっている今、自分がしっかりしなくてはならないのだ。
 櫂人が軽く深呼吸をして両手を握り込むと、瞭三郎が労うようにぽんぽんと背中を叩いてきた。
「櫂人。お前デカくなったなあ。肩まで手が届かねえじゃねえか。もう透と変わんねえな」
「何言ってんだよ、突然」
 櫂人が照れ隠しに顔を顰めて手術室の方に目をやると、不意に手術中のランプが消えた。
「おい、手術終わったぞ!」
 水樹が弾かれたように顔を上げた。
 確かに今まで点灯していたランプが消えている。
 家族が息を忘れたようにじっと見守るなか、手術室の扉が静かに開かれた。

 

次へ


Fumi Ugui 2008.09.16
再アップ 2014.05.21

prev*index*next

Copyright(C) Fumi Ugui since 2008 無断複写・複製・転載は御遠慮下さい