◆
地下鉄の階段を上がると、もうそこは博多駅の構外だった。
「あれ、何だ。こっちじゃなかったか。やっぱ向こうでガイドブックでも買っとくべきだったな」
顔を顰める櫂人を水樹が笑顔で慰める。
「仕方ないよ。搭乗時間ぎりぎりだったし……」
急遽携帯で予約した便を目指して取る物も取りあえず羽田に向かった二人には、途中で買い物をしている余裕などなかった。空港に着いてから搭乗口まで全力で走ってやっと間に合ったぐらいだ。機内での一時間半は、このところの不摂生であまり体力のない水樹には良い休息になった。
「案内所はどこにあるんだ? 中央署への行き方は聞けばわかるよな。それともマップ買った方が早いか」
「誰かに聞いてみる?」
水樹が見渡してみると、昼下がりの駅の前にはこれから何かの集会でもあるのか結構な人数の人々が集まっていた。それは少し風変わりな集団で、テレビなどでよく見掛ける消費者団体とか環境保護団体とは少し違った、何か華やいだ雰囲気が見受けられる。四十代ぐらいまでの比較的若い男女が大半を占め、女同士、男同士で固まっている者も多かった。
その中で、ひとりの若い女性が道行く人々にチラシのようなものを配っていた。
すらりと伸びた長い足。出るところは出て凹むところは凹んだ、見事な脚線美の、コートの下のレギンスが実に見栄えのする理想的な体形をしている。
けれども、ほとんどの通行人は周りの風変わりな人集りを警戒してか見向きもしない。
水樹達が近付くと彼女は愛想よくチラシを差し出して声を掛けてきた。
「同性愛者についてご理解をお願います。どうぞ」
途端、櫂人が露骨に眉を顰めた。兄のゲイ騒動が災いして、櫂人のゲイ嫌いは年季に筋金が入っている。
同性愛者の大集団を前にして忽ち不機嫌面になった櫂人を余所に、
「あの、すみません……」
水樹がチラシを素直に受け取って、ついでに道を尋ねようと口を開きかけると、彼女はその意を察したかのように、にこりと微笑んだ。側でよく見ると、生き生きとしたアーモンド型の目と赤い唇が印象的な美人だ。
「あ、もしかして参加者の方?」
「ふざけんなッ!」
彼女の言葉を耳にした途端、噛み付く勢いで櫂人が否定した。
「俺らのどこがゲイに見えるってんだよ。自分達がそうだからって誰も彼もそんな目で見てんじゃねえよ」
「た、櫂人君。落ち着いて」
彼女との間に入るようにして水樹が慌ててなだめに掛かる。
「そんな言い方は失礼だよ。それに、女の人なんだし」
櫂人は百九十センチ近くある長身で、立派な体格をしている。基本的に声も大きい。そんな相手にいきなり怒鳴られたら並の女性では竦み上がってしまうところだ。
ところが、彼女は栗色に染められた腰まで届きそうな長い髪を一振りすると櫂人を下から睨み返した。
「最っ低な男ね」
低く呟くように決めつける。
彼女は女性にしては背が高い。水樹と同じぐらいあった。それでも櫂人との差は歴然としている。なのに怯む様子は露ほども見せないで、堂々と先を続ける。
「そりゃ間違ったのはこっちが悪かったわよ。けど、そんな目とは何よ。ゲイのどこがいけないっていうのよ。同性の人を愛することの、同性しか愛せないことのどこがそんなにいけない訳? 偉っそうに、人のどうしようもない指向性にケチつけてんじゃないわよ」
突然始まった言い争いに何事かと周囲の目が集まってくる。
彼女と櫂人が双方一歩も引かずに睨みあっていると、人集りの中からのんびりと声がした。
「まあ、まあ。どちらさんも。もうその辺で許してやったらどうかな」
声の主を振り向いて水樹は僅かに瞠目する。
そこに立っている男の、ひょろりとした痩せ過ぎた体形と年齢不詳の顔に見覚えがあった。何年か前の記憶を頭の隅の方から引っ張り出す。
「……あなたは……比良坂さん?」
タバコはないが、間違いない。
水樹が名前を口にすると比良坂は穏やかに笑った。
「やあ、久しぶりだ。こんな所でまた会えるとは。覚えていてくれて光栄ですよ。どうしました、その顔は?」
「いえ、これはちょっと……」
水樹が顔の痣を庇いながら曖昧に笑って誤魔化すと、櫂人が怪訝そうに尋ねてくる。
「知り合いなのか?」
「知り合いっていうか、前に新橋の料亭で一度。でも、どうしてここに……」
不思議そうに見上げてくる水樹に、
「もちろん、パレードに参加するためですよ」
と言って、比良坂はコートのポケットからタバコを取り出して笑ってみせる。
「コレのことといい、どうも僕はとことんマイノリティな体質のようでね」
「パレード……」
改めて目の前の人集りを眺め、いささか唖然と水樹が聞き返した。
「ここの人達全員が参加するんですか?」
人集りは駅舎の前だけではなく、その右手のビルの方まで建物を取り巻くようにして続いていた。かなりの人数だ。そんなに福岡在住の同性愛者は多いのだろうか。
水樹の視線を追って人の列を見た比良坂は声を上げて笑った。
「あれは映画を待っている人達の列ですよ。ご存知でしょう。桐生の『外道』。事件があってから連日あんなです。上映期間の延長を決めたところも多いみたいですよ。いくら桐生が人気俳優でも、さすがに配給元も今回は予想外なんじゃないかな」
「話には聞いてたけどな。何だってまた急に……」
何の気なしに櫂人が呟くと、こちらも何気なく彼女が答えた。
「桐生の遺作だから見納めにって。みんな見にいってるよ。まったく勿体ないよね、あんなにイケメンなのに」
「はあ? 遺作? 何だ、それ」
予想外の理由に櫂人が呆れ、
「あの、桐生は死んでませんけど……」
水樹が困惑気味に微笑んで、いくらか控え目に事実誤認を訂正すると、彼女は意外そうに目を見開いた。
「え、そうなの? 何だ。私も見にいっちゃった。ま、お堅いテーマの割には面白かったからいいけど」
あっけらかんと言い放つ。
唖然とする水樹と櫂人を見て比良坂は笑った。
「ま、世間なんてそんなものですよ」
「あの、中央署にはどう行けばいいでしょうか」
気を取り直してやっと本題に戻った水樹と櫂人は、比良坂から交通手段を聞くと、すぐ目の前の地下鉄入り口へと向かったのだった。
◆
中央署を訪れると小太りの穏やかそうな五十前後の男が出迎えた。
真冬だというのにフェイスタオルで引っ切りなしに汗を拭っているその男は県警本部の岩佐と名乗った。
「早渡水樹さんと櫂人さんですね。警視庁の方から連絡もらってますよ。遠いところをようこそ」
ここで一旦言葉を切ると岩佐は水樹の方に向き直った。
「ところで、どうされました、そのお顔は」
「少し前にセンスくんと病院の近くで偶然出会って……その時に……」
「ははあ」
水樹が口篭ると、手帳を取り出して確認を始める。
「少し前というと、いつですか。なるべく正確に教えて頂けますか」
「父の意識が戻った日ですから……二十六日の夜です」
「なるほど」
岩佐は手帳を仕舞うと再び水樹の顔を見た。
「いや、そのお顔ではどこで何をしていても目立つでしょうなあ」
「どういう意味ですか」
櫂人が眉を顰めると、穏やかに笑う。
「なに。清廉潔白の身なら怖れることはありませんよ。その痣が味方してくれるでしょう」
霊安室は殺風景な部屋だった。
余分なものは何一つないその部屋の中央に検死の済んだ遺体が横たわっている。
岩佐は遺体に近付くと、顔に掛けてある白い布をそっと外した。
「どうぞ、ご確認ください」
場所を譲って水樹と櫂人を促す。
「センスくん……」
現れた顔を覗き込んだ水樹はぽつりとその名を呟いた。無精髭を生やし、肌からは既に色も張りも失われて生前とは随分印象が違っていたが、その額の生え際には幼児の頃に鉄棒から落ちて何針か縫った跡がまだうっすらと残っている。
「卯木センスに間違いありませんか?」
「……はい」
水樹が消え入るような声で頷く。
何故だか喪失感があった。
透に危害を加えるようなマネは二度としてほしくなかったが、こんな結果を望んでいた訳ではない。
岩佐は櫂人にも同じように確認を取ると頷いて、覆いの布を元に戻した。
「いや、お手間を取らせました」
二人をロビーの小さな応接セットまで案内すると、岩佐はソファを促した。通りすがりの署員を捕まえてお茶を出してくれるよう頼むと、自分も向かい側に腰を下ろしておもむろに話を切り出した。
「検死の結果、体内からアルコールが検出されました。どうやら泥酔状態だったようです。死因は溺死ということですな」
「……酔っ払って池に落ちたってことか?」
眉を顰める櫂人に対し岩佐は慎重に答えた。
「さあ、どうでしょう。それは調べて見なければわかりません。因みにお聞きしますが、卯木センスは酒をよく飲む方でしたか」
水樹は首を横に振る。
「わかりません。再会したのがつい最近で、それも三回とも僅かな間の立ち話だったので……」
「そうですか。参考までに昨夜のあなた方の行動をお聞かせ願いたいのですが、よろしいですか」
お決まりの台詞を聞いて櫂人が露骨に顔を顰める。
「警視庁の担当に問い合わせたらいいでしょう。向こうの刑事がちゃんと証言取っていきましたよ」
「一応踏まねばならない手順というものがありまして。まあ、ご面倒でしょうが、ひとつよろしく」
やんわりと笑顔で促された櫂人は、渋々東京で言った通りのことを岩佐にも話して聞かせた。
「間違いありませんか」
問われた水樹が神妙に頷く。その様子を探るように見てから岩佐は櫂人に視線を戻した。
「今日はこれから?」
「特に予定はありません。一晩こちらに泊まって明日の朝東京に帰る予定です」
「念のために宿泊先を教えて頂けませんか」
うんざりした態で櫂人が小さく溜め息を吐く。
「宿はまだ決めてません。何しろ急だったんで」
「そうですか。いや、お手数をお掛けしました。身元の確認ができて助かりましたよ」
くたびれた手帳を仕舞うと、岩佐はフェイスタオルで額の汗を拭って表情を和ませた。計ったようなタイミングでやってきた緑茶を二人に勧める。
「さあ、どうぞ。粗茶ですが一杯やってください。ここから先は私の個人的な話で恐縮なんですが……」
そう前置きして、先ほどまでとは微妙にニュアンスの異なった、穏やかな視線を水樹に向ける。
「早渡水樹さん。福岡にいらした当時は橘水樹さんでしたよね。実は私、あなたに会ったことがあるんですよ」
「え?」
相手の思い掛けない告白に水樹は目を見開いた。
「いや、二十五年前の羅天検事の転落事故のとき、通報を受けて最初に駆け付けたのが私の勤務していた交番だったんです。当時の私は警察学校を出たばかりの新米巡査でして。遺体を扱うような大きな事件にはまだ当たったことがありませんでね。あたふたして先輩に叱り飛ばされたことを今でもよく覚えてますよ。亡くなったのが検事さんだと知って二度びっくりですわ」
自分も緑茶を一杯やって後ろに控えた若い刑事にお代りを頼むと、岩佐は汗を拭き拭き水樹の顔をしみじみと眺める。
「いやあ、あの時お母さんにしがみついて泣いていた子がこんなに大きくなったんだなあ。はあ、感慨深いです」
「あの、母はどんな人でしたか」
思い出話に釣られて水樹が聞いてみると岩佐は意外そうな顔をした。
「お母さんを覚えてらっしゃらない?」
「はい。僕はそのあとすぐに預けられたので」
「ああ、なるほど。そうでしたな」
手帳を開いて確かめると頷いて、岩佐は水樹に視線を戻した。今度は急須と一緒にやってきた緑茶を一口飲むと、少し思い出すようにしてから語り始める。
「いや、実に女性らしい、なよやかで大人しい感じの方でしたよ。可哀相に、あなたをしっかりと抱き締めて震えていたなあ。目の前で婚約者が亡くなったんですから、まあ、無理もありません。あの年はやたらと雪の多い年で、年寄りの転倒や骨折なんかも多くて。現場のアパートの階段も所々踏み固められた雪でアイスバーンのようにカンカンに凍ってましたよ。いや、あなたが助かっただけでも不幸中の幸いでした」
「あの、刑事さん。少し事故のことをお聞きしてもいいでしょうか」
水樹が僅かに身を乗り出すようにすると岩佐は頷いた。
「ええ、どうぞ。私は当時はただの巡査で、その後の捜査の詳しい経緯はわかりませんが、現場のことでしたら覚えていることはお答えします」
「母は転落事故が起こったときにその場に居合わせていたんでしょうか」
「そうです。アパート前の道路から、あなたを抱えて検事が階段から落ちるのを見たと言ってました。近所の人も同様に検事があなたと一緒に落ちてくるのを見たと証言しています」
交番はアパートから百メートルほどの近場にあり、近所の住人が知らせにきた。岩佐が同僚と駆け付けると、水樹は既に母親の腕の中。羅天知尋は胴を階段上に残し、階段下のコンクリートに首を押し付ける形で倒れており、間もなく来た救急車で運ばれていったが即死の状態だった。母親と近所の住人の証言で、知尋が落ちたときに水樹がその腕に抱かれていたことがわかった。
「亡くなったのが検事ということで、事故以外の可能性も一応視野に入れて捜査しましたが――」
現場は二階へ上がる階段が一つしかなく、目撃者達は全員一致で二階の通路には誰もいなかったと証言した。それを裏付けるように雪の上には第三者が逃走したような跡は一切見られず、階段に細工したような不審な形跡も皆無だった。
そこまで話して溜め息をひとつ吐き、岩佐はそろそろ薄くなりかけている頭を小さく掻いた。
「まあ、何というか、打ち所が悪かったんでしょうなあ」
櫂人がちらりと水樹を窺う。水樹は沈痛な面持ちではいたが、以前のように怯んだりはしていなかった。
「あの、母は何故家を空けていたんでしょうか」
「ああ、それは極ありふれた理由でしたよ。買い忘れた醤油を近所に買いに行ったんだそうです。五分や十分くらいなら昼寝中のあなたも起きないだろうと思って。ところが、知り合いに捕まって立ち話をしていたら遅くなったと。確かそんなことだったと思います」
「羅天検事はいつ来たんだ? 水樹さんを見てなかったのか?」
「お母さんの話では、家を出るときはまだ検事は来てなかったそうです」
自分の湯呑みに温くなった緑茶を継ぎ足しながら櫂人の質問に淡々と答えると、岩佐は再び水樹に視線を戻す。
「この先は現場の状況からの推測になりますが、検事はお母さんが出掛けてからアパートにやってきて、合鍵で部屋に入り、取りあえず持参の缶ビールで一杯やった。あなたが寝ていると思って鍵を開けたままでタバコを吸いに外へ出た」
「そのあと目の覚めた水樹さんが表へ出ていったってことか?」
言を引き継いだ櫂人に岩佐は頷いてみせる。
「まあ、そんなところでしょう。母親がいなければ探すでしょうからなあ。二歳児だとドアノブも回せるらしいですし」
中央署の建物を出ると、もう西の地平線はトロピカルカクテルのような、ピンクと黄金に染まっていた。
「何だかよくわかんねーな、あの刑事」
「岩佐さんのこと?」
水樹はダウンジャケットの襟を立てて傍らの櫂人を見上げた。いくら南国とは言っても陽が落ちてしまえば十二月の冷え込みは厳しい。
「いい人だと思うけど。転落事故のこと詳しく話してくれたし」
「だから余計に訳わかんねえんだろ」
櫂人は顔を顰める。
「俺達のこと疑ってるのかと思えば、愛想よく思い出話なんかするし。大体、何で俺らが疑われんだよ。被害者だぞ、こっちは」
「刑事なんだから疑うのは仕事だよ」
「そりゃ、そうだけどさ」
不満げに言葉を切ると、櫂人は水樹を振り返る。
「これからどうする? 腹も減ったけど、取りあえず今夜の宿決めねえと」
考えてみたら今日は昼食も取っていなかった。この上、暗くなってから見知らぬ土地で宿を探して歩くのも何やら物悲しい。
「一旦、博多駅に戻ってみる? 大きな駅だから旅行社も多分入ってるだろうし、いろいろ聞けると思うよ」
「そうだな。駅の周辺なら近場にホテルの一つや二つあるだろ」
リュックを肩に掛け直すと、櫂人は水樹と地下鉄の駅へ向かったのだった。
◆
「こんにちは。具合はどうなの?」
ノックの音と共に篤子と衡平が病室に姿を現したのは午後二時になろうかという頃だった。
ドアの陰から現れた篤子は肩から胸にかけて刺繍のある淡い藤色の上品なワンピース。その上から顔だけ覗かせている衡平は生真面目らしく地味なスーツを隙なくきっちりと着こなしていた。
「あ、お帰りなさい」
夏乃が笑顔で挨拶すると篤子はにこりと微笑み返して紙の手提げ袋を差し出した。
「久しぶりねえ、夏乃ちゃん。これ、お土産。私のと衡平さんのと入ってるから。水樹君と食べてね」
「ありがとうございます!」
お土産を受け取って夏乃がいそいそと紅茶を入れ始めると、ベッドに半身を起こして新聞を読んでいた透がおもむろに紙面を閉じ、仄かに微笑んで両親に小さく会釈を返す。
「お二人とも、帰京早々ご足労をお掛けしてすみません」
「まったくだわ」
篤子が大仰に透を睨付ける。
「人気俳優だか何だか知らないけど、マスコミに騒がれて調子に乗ってるからこういうことになる。少しは身を慎みなさい」
説教を垂れながらベッドに寄ってきてほっと息を吐き、
「でもまあ、元気そうでよかった」
篤子が母親らしく微笑むと、その後ろから衡平も声を掛けてきた。
「知名度が上がったら相応に、日頃から身辺警護には気を使っておくべきだったな」
「心配掛けてすみません。お二人の言葉は肝に銘じておきますよ」
久しぶりに父の顔を見上げて透は仄かに苦笑した。
百八十センチに届く長身で姿勢のよい衡平は、息子達に体付きがよく似ている。その穏やかな口調と物腰から受ける印象は櫂人よりも透に近い。
夏乃に勧められて二人がソファに腰を落ち着けると透は口調を改めた。
「ところで、お母さん。亡くなった羅天知尋検事はご存知ですよね」
「ええ、もちろん。でも、水樹君が彼と関わりがあったなんて。世の中って本当に広いようで狭いのね」
篤子も先日来の暴露記事については小耳に挟んでいた。篤子自身は週刊誌もワイドショーも目にしないが、ゴシップ好きの職員が教えてくれたのだ。
「彼の、特に私生活の面について知りたいのですが」
透が切り出すと篤子は僅かに眉根を寄せた。
「今頃になって故人の私生活をほじくり返すつもりなの? あまり感心しないわね」
「その過去をほじくり返した人間が、今朝遺体で発見されたそうですよ」
透の言葉に衡平が眉を顰める。
「卯木センスとやらかね? お前を刺した」
「ええ。まだ詳しいことはわかりませんが、今身元を確認しに水樹と櫂人が福岡に行ってます」
「道理で水樹君の姿が見えないと思った」
篤子が小さく溜め息を吐いて、少し考えるように頬に軽く手を添える。
「にしても、福岡で発見されたの。何だかややこしいことになってるのね」
「水樹の母親の遺言にも不審な点がいくつかあります。羅天検事について、面識のあるお母さんの意見を是非お聞きしたい」
「ふうん。まあ、いいでしょ。あんたが私に頼るってこと自体が珍しいものね」
うれしそうに小さく微笑むと、篤子は夏乃から受け取った紅茶を一口飲んで、思い出に浸るように宙を見上げた。
「羅天検事か。懐かしいなあ。あの時は私も若かったよねえ。透もまだ小さかったし、櫂人はまだ影も形もなくて」
「篤子さん、思い出話は程ほどにした方がいいんじゃいかね。夏乃君が呆れているよ」
衡平にやんわりたしなめられると、
「あら、ごめんなさい」
篤子は笑って口調を改めた。
「そうねえ。女関係は派手だったようね。水商売関係を中心に取っ換え引っ換え付き合ってたみたい。どの人ともあまり長くは続いてなかったみたいよ」
「え、そうなんですか……」
夏乃が意外そうに呟くと、
「まあ、あくまで聞いた話だけどね」
篤子は笑って話を続ける。
「半面、検事としてはそりゃあ優秀でねえ。捜査は迅速で尋問は的確だし、各方面との折衝も上手かったな」
東京地検時代は僅かの期間で高い検挙率を誇り、警察の暴走を抑えて冤罪を未然に防いだ実績もあった。
「それだけに、何か私生活で問題があって福岡に飛ばされてきたんじゃないかって噂もあったぐらい」
篤子は僅かに肩を竦める。
「でなきゃ、あんな優秀な人材を東京地検が手放す訳がないって。まあ、これもあくまでも噂だけど」
「水樹の母親、加菜子さんに関してはどうでしたか。何か聞いていませんでしたか? 検事の婚約者だったらしいのですが」
「うーん」
頬に手を添え、篤子は記憶を探るように宙を睨む。
「検事が婚約するとかしないとかって話は小耳に挟んだ気がするわ。あんなのでも本気になることはあるんだって、相手の人はどんな人なのかしらって、ちらっと思った覚えがあるから」
隣で黙って聞いていた衡平が苦笑を漏らした。
「最初に透に釘を刺した割には言い様が酷くないかね、篤子さん?」
「歯に衣着せる言い方が苦手なだけよ」
澄まして言い訳すると篤子は透に視線を戻す。
「だけど、透。実はあんたも一度だけ羅天検事と会ったことがあるのよ。裁判所の前で偶然にだけど。覚えてる?」
篤子に問われた透はいささか唖然と瞠目する。
「……いえ。まったく」
「そんなことだろうと思った」
篤子は呆れたように溜め息を吐いた。
「羅天知尋って人間は何て言うか、強烈な存在感があって、結構目立つ存在だったんだけど。あんたってば、本当に子供の頃は他人に無関心だったから」
「そんなに目立つ人だったんですか? 透さんよりも?」
驚いて夏乃が尋ねると、
「うーん、そうねえ。まあ、透は一応俳優だから顔のことは置いといたとして――」
篤子は頬に手を押し当てて少し考え込むようにしながら、自分の出来すぎな長男を横目でちらりと一瞥した。
「同じぐらいでベクトルが真逆な感じかな。この子は何ごとにつけてもあっさり淡泊だけど、羅天検事はもっとエネルギッシュで押しが強くてぎらぎらしてる感じ。体格も良くて、そこそこのイケメンで。男としてのセックスアピール度もかなりのもんだったわよ。まあ、私の好みじゃなかったけど」
と、傍らの如何にも生真面目そうな夫をちらりと見て笑う。
「ええと。それじゃ、早渡みたいな感じ……?」
夏乃が小首を傾げると篤子は失笑した。
「全然。比較にもならないわよ。櫂人なんて、まだまだ身体が大きいだけのくちばしの黄色いヒヨコだもの」
さすが母親というべきか、篤子は息子達に対して容赦がない。
「そうねえ……」
夏乃から目を転じて篤子はもう一度我が子を眺める。
「強いて言うなら芝居をしているときの透に近いかもね」
「……え。それって」
夏乃は絶句してしまった。
透は所謂二枚目俳優だが敵役専門だ。社会的ステータスは高いが笑顔の裏で謀略を巡らせていたり、目的達成のためには女を使い捨てたりする役所が圧倒的に多い。
「何か、随分イメージと違うなあ……」
篤子は笑った。
「まあ、悪人とまではいかないけれど、欠点は誰にでもあるものよ。検事も弁護士も裁判官も所詮はただの人間で、聖人じゃないってことね。今のところ欠点だらけの櫂人だって、一応法曹界を目指してる訳だし」
「お母さん、それはさすがに櫂人が可哀相ですよ」
透が珍しく櫂人を庇って苦笑する。
「あれでもそれなりに成長はしているんです。そう思わないか、夏乃君?」
透に水を向けられても夏乃としては曖昧に笑うしかない。確かに、司法試験に受かるかどうかは別にしても、あんなに怒りっぽくて果たして弁護士や判事が務まるのか少々心配ではある。
「ま、櫂人のことは今度会うときの楽しみにしておくとして」
少し温くなった紅茶の温もりを確かめるように掌でカップを包み込むと、篤子は窓の外に目をやった。
「羅天検事の場合、人生の最後に今までの付けを精算したのかもしれないわね。水樹君を助けることで」
夏乃も釣られて窓の外を眺める。
昼下がりの東京の空は晴れて穏やかだ。澄んだ高い冬空に刷毛で掃いたような雲が浮かぶ。
「福岡の天気はどうかしらねえ。何事もないといいけれど」
篤子が呟くと透が穏やかに微笑んだ。
「大丈夫ですよ。櫂人もついていますし、すぐに帰ってきますから」
◆
博多駅で地下鉄を降りた水樹と櫂人は、目の前にあった長いエスカレーターを昇った。
地理に不案内なので、どの辺りに出るかは運任せだ。改札を通り、やっとJR博多駅の構内に続く階段へと辿り着く。
「俺、一足先に案内所探してくるからさ、水樹さん階段昇ったところでちょっと待っててくれよ」
櫂人が長い脚で一段飛びに階段を駆け上がるのを見送りながら、水樹はゆっくりとその後ろをついていった。上りながら首を巡らせてみると、段々にJR駅の構内の様子が見えてくる。
水樹が階段を上りきる最後の一歩を踏み込もうとした瞬間、
不意に身体が後ろへと引っ張られた。
あっと言う間にバランスを失い、スニーカーの爪先が階(きざはし)を離れる。とっさに両手で後頭部を庇って、そのまま為す術もなく落ちた。一度頭を庇った腕を強打した後は、天地もわからずただ転げ、ずり落ちていく。このまま永遠に落ちていくような気がした刹那、何かにぶつかって勢いが止まった。その感触は意外にも柔らかく、ほんのりと温かい。
そっと目を開くと、階段上に半ば這い蹲るようにした誰かにその身体を塞き止められるような形で、水樹は冷たい階に横たわっていた。
「大丈夫ですか?」
極間近から聞こえてきた気遣う声に、その誰かが女の人だと気付いて水樹は慌てて声の主を振り返る。
「あ、あの、ありがとうございます。大丈夫です」
「あれ、君……」
その人は水樹の顔を見ると瞠目した。水樹もいささか茫然とすぐ目の前にある相手の顔を見返す。栗色に染められた長い髪と赤い唇。生き生きとした大きめのアーモンド型の目に見覚えがある。
「あ、昼間のパレードの……」
水樹が口にすると彼女は水樹を抱き留めたままで、にこりと笑った。
「また会ったね。大丈夫? 立てる?」
「はい、多分。すみません、重いですね。今、どきます」
彼女の上から身体を退けた途端、水樹は顔を顰めた。足首に結構な痛みがある。
「どこか痛めた? 歩けそう?」
心配そうに彼女が水樹の押さえた足首を覗き込んだところで、
「水樹さん!」
頭の上から声がした。振り仰ぐと、階段の上から見物人を掻き分けて櫂人が駆け降りてくる。投げ出されたままになっていたリュックを途中で拾うと、傍らに膝を突いて水樹の上体を助け起こした。
「大丈夫か?」
「うん、取りあえずは。足首がちょっと痛いけど……」
水樹は自分で足首を動かして櫂人を振り返った。
「大丈夫、骨まではやられてないみたい。筋は痛めたかもしれないけど」
「そっか。歩けそうか?」
櫂人が支えて立ち上がらせると水樹は再び顔を顰めた。その様子を見て彼女が口を開く。
「やっぱり長い距離は歩けそうもないね。手もちょっと擦りむいているし」
「あ! お前は……!」
傍らの女の顔に初めて気づき、忽ち眉根を寄せる櫂人を水樹がなだめる。
「櫂人君、この人が身体で止めてくれたんだ。でなきゃ、僕はもっと下まで落ちて大けがしてる」
改めて見てみると水樹は階段の中ほどで止まっていた。
「あの、本当にありがとうございました。ケガはありませんか?」
水樹が気遣うと彼女は軽く手とコートの埃を払って立ち上がった。
「私なら大丈夫。心配しないでいいよ」
それから、ちょっとだけ上の方を仰ぎ見て、二人を振り返った。
「ここからなら筑紫方面出口の方が近いよね。二人とも外でちょっと待ってて。車回してくるから」
返事も聞かずに階段を駆け上がっていく彼女の後を追うように、水樹と櫂人も移動を始める。
「歩けそうか? それとも負ぶってくか?」
「大丈夫。手摺りを使えば何とか歩けそうだから。肩貸してくれるかな」
水樹に腕を貸してゆっくりと階段を上りながら櫂人は僅かに眉根を寄せた。
「にしても、どうしたんだよ。階段から落ちるなんて。また貧血か? 今日は昼飯抜きだったからな……」
「そうじゃないよ。そうじゃないけど……」
「何だよ。どうかしたのか?」
櫂人が窺うように顔を見ると水樹は考え込んだ末に口を開いた。
「何か、後ろから引っ張られたような気がするんだ」
「引っ張られた?」
尚も考え込む様子の水樹の横顔を見て、櫂人は瞠目する。
「……うん。結構な勢いで襟首の辺りをぐっと」
水樹の説明から受ける生々しさに思わず振り返って階段の下を見てみるが、当然というべきか今更不審な者の姿は見えなかった。少し考え込んでから水樹を振り返る。
「どうせ明日には帰るけど、取りあえず単独行動はやめとこう。アイツが何で死んだのかもまだはっきりしてねえしな……」
「……うん。そうだね」
階段を一歩ずつ上りながら水樹は小さく頷いた。
彼女に言われた通り二人が筑紫方面出口から構外に出て待っていると、しばらくしてパステルカラーのミニバンが滑り込んできた。
助手席の窓が開いて彼女が顔を出す。
「乗って」
「ええと、あの、これからどこへ……?」
水樹が躊躇っていると、彼女は中からスライド式のドアを開ける。
「取りあえずウチで休んでいけば? すぐそこだから。湿布と包帯ぐらいならあるよ」
「ありがとうございます。あの……」
水樹がじっと見詰めると彼女はにこりと笑った。
「まだ名乗ってなかったね。私、ゆかりっていうの。紺青(こんじょう)ゆかり。君は?」
「早渡水樹です。こちらは櫂人君」
先ほどからむっつりと不機嫌そうに黙り込んでいる櫂人をちらりと見やってから、ゆかりは水樹に視線を戻す。
「兄弟? それとも、いとことか?」
「ええと、叔父と甥です」
ここで下手にどちらが年上だの実は養子だのと詳しく答えては、またいらぬ誤解やトラブルの元だと水樹が曖昧に誤魔化すと、
「へえ。随分歳が近いんだね」
ゆかりは大して気に留めた様子もなく水樹と櫂人を見比べてからシートベルトを締め直した。
「ま、いいや。とにかく乗って。車出すから」
再度促されて二人は後部座席に乗り込んだ。
ミニバンの中から眺める博多の空はいつの間にか紺青色に染まり、ちらほらと星が見え始めていた。
Fumi Ugui 2008.11.02
再アップ 2014.05.21