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途中でゆかりの夕飯の買い物に付き合い、ついでに昼間出来なかった細々とした買い物を櫂人が済ませて目的のマンションに辿り着くと、時刻は六時を回っていた。
地下の駐車場からエレベーターで二階まで上がって通路の窓から外を見ると、ゆかりが言っていた通り博多駅の明かりが目と鼻の先に見える。
部屋はエレベーターを出てしばらく行ったところにあった。
ゆかりが小さな楕円形プレートの掛けてあるドアを開け、真っ暗な室内に手探りで明かりをともす。
照らされたそこは店舗になっていた。
ステップを上がると正面にカウンターがあり、壁に沿ってディスプレイ用の棚が設けてある。
店内に一歩足を踏み入れ、そこに一つ一つ陳列されているものを目にした途端、ひったくるように水樹の腕を取り、櫂人が踵を返した。
「水樹さん、ここはヤバイぜ。早く出よう」
「え、ちょっと。櫂人君……?」
櫂人に視界を遮られる直前、水樹の目にちらりと映ったものは所謂アダルトグッズの類いだった。見たことがある物もない物も、値札と共にきちんと並べて置いてある。カウンターの奥のプレートにはミルクホワイトに箔押しで「ネットショップ白百合」とあった。
「ヤバイとは何よ。失礼なボウヤね」
振り返ったゆかりが櫂人を睨付ける。
「おたくはコンドームのお世話になったことがない訳? それに、そんなに引っ張ったら水樹君足が痛いでしょ」
僅かに顔を顰める水樹にゆかりが手を貸そうとすると、その手を櫂人が払い除けた。
「馴れ馴れしく水樹さんに触んじゃねえよ」
「何よ、あんた。やっぱりこの人とただならぬ仲なんじゃないの?」
「なっ……!」
忽ち形相を変える櫂人を一瞥すると、ゆかりはさらりと宣言する。
「心配しなくたっていいわよ。私、男には興味ないから」
唖然と口を開ける櫂人を尻目にさっさと水樹に肩を貸すと、ゆかりはカウンターの奥のドアを開けて二人を居住スペースへと導き入れた。部屋の隅のラブソファに水樹を落ち着かせると、自分は隣の部屋へと引っ込む。
淡いベージュのソファに納まった水樹は部屋を見渡した。
そこは八畳よりいくらか広いぐらいの、キッチンと続きになったフローリングのスペースだった。カーテンや調度品は柔らかな色合いだが、女の人の部屋にしてはあまり飾り気がない。他に同居人のいる気配もなかった。梱包しかけの段ボール箱がいくつか部屋の隅に積み上げてある他は、毛足の長いカーペットの中央にぽつんと楕円のテーブルが置いてあるだけだ。
「……やっぱ出ようぜ、水樹さん。こんなのと関わるのはヤバイよ」
段ボールからはみ出している、鞭にしか見えない黒い物体を横目で眺めて櫂人が低く囁く。
「そんな言い方は失礼だよ、櫂人君」
水樹が困り顔でたしなめると、
「そうよ。何でレズビアンってだけでそんな言われ方しなきゃなんないの。ホント失礼な男ね」
ゆかりが救急箱と湿布薬を持って戻ってきた。櫂人を睨付けると、水樹の前に跪いてにこりと微笑む。
「それに比べて、水樹君っていい人よね。私達みたいなマイノリティに対しても偏見ないし」
そう言いながら見る間に靴下を脱がせ、ウエットティッシュで足を拭いたかと思うと、流れるような動作で湿布を張り付け、包帯を巻いていく。
水樹が自分も消毒液を取ってその手際のよさに見蕩れていると、包帯を巻き終えたゆかりが指先でそっと水樹の頬を撫でてきた。僅かに湿布の匂いがする。
「それに、男の割には大人しめで、何だか可愛いし」
「え、か、可愛いって。それはちょっと……」
水樹が硬直して困惑気味に笑顔を作るとゆかりは意外そうに目を見開いた。
「え、もしかしてホントに女に触れるの初めてとか?」
「い、いえ。そんなことはないですけど」
「やだ、ホント可愛い」
ゆかりは興味津々に顔を近付けてくる。消毒液と濡れた脱脂綿で両手が塞がっているため押し返すことも出来ず、取りあえず空いている方へと少しずつ身を引いていった水樹は、気が付くとソファの上に半分押し倒されたような形になっていた。それでもゆかりは一向に離れる気配を見せない。そのままじっと水樹の瞳を見詰めてくる。
「……え? あ、あの、ちょっと……近いです」
キツネに追い詰められたウサギのような水樹を見兼ねて、櫂人がゆかりを引き剥がしに掛かる。
「おい、何やってんだ。水樹さんから離れろよ」
ゆかりは女としては大きい方だが、百九十に近い櫂人に腕力では敵わない。後ろから肩を掴まれ力任せに引き剥がされて、そのままカーペットの上に転がった。倒れた拍子に擦った腕が段ボールの山を薙ぎ倒す。
「男に興味ねえんだろうが。見境なく発情してんじゃねえよ」
櫂人が水樹の前に仁王立ちして見下ろすと、栗色に染めた長い髪を振り乱したまま、ゆかりがゆらりとその場に立ち上がった。
「……ボウヤ」
と、口にした声が一段低い。
「さっきから、目上に対する口のきき方がなってないわね……」
ゆかりはゆっくりと右手をかざした。いつの間にかその手に握られているのは、売り物の黒い鞭――。
櫂人がぎょっとして後ろに下がる。水樹はただ目を丸くして見ているだけだ。
「レズの次はSMかよ。ホント最低だな……わっ!? アブねえ!」
櫂人の足下に続け様に鞭が舞う。
「口のきき方に気をつけなさいよ、ボウヤ」
「水樹さん、逃げるぞ!」
茫然とソファに半ば横たわっていた水樹を火事場の何とやらでうむを言わさず横抱きにすると、櫂人は部屋の出口に向かう。
「え、で、でも、お礼も言わないうちに……」
「そんなこと言ってる場合か! わ、痛ッ!」
「そんなんでどこ行くつもり? ケガ人は置いていきなさい!」
後ろから雨霰と降ってくる打擲を、水樹を庇いながら掻い潜り、ブーツの踵を踏み潰すのも構わずに一気に店舗部分から外の通路へと飛び出した櫂人は、エレベーターの前まで来てやっと一息吐いた。小脇に抱えていた水樹を傍らに下ろすと自分は壁に背中を預け、荒い呼吸で吐き捨てる。
「ああ、びっくりした。何なんだ、あの女!」
「櫂人君、あんな言い方はないよ。ゆかりさんが怒るのも無理はないよ」
困ったような表情で水樹がたしなめると櫂人は目を剥いた。
「水樹さん。あんたまさか、あんな女に興味あるってんじゃないだろうな? あの女だけはやめとけ! レズでSMでおまけに凶暴なんて最低だッ!」
「いや、そんな……」
興奮気味の櫂人をなだめるように水樹は笑顔を作る。
「親切にしてくれたし。いい人だと思うけど」
「あのな、水樹さん」
櫂人は正面からがしりと水樹の両腕を掴んだ。
「SMってどんなもんだか知ってんのか?」
これから怪談でも始めるかのような真剣な眼差しで上から水樹の瞳を覗き込む。
「鞭とかローソクとか一口に言うけど、ローソクってな、アレ実際すっげー熱いんだぞ。最低最悪だ、あんなもん!」
「……はあ。そうなんだ……」
力説する櫂人を水樹はただただ見上げるばかりだ。
その方面に関して経験豊富な櫂人は、本当にいろいろな体験をしているらしい。
「感心してる場合じゃねえだろ。人事みたいに。明日は我が身かもしんねえんだぞ」
顰めっ面の櫂人を見て水樹は笑った。
「心配してくれてありがとう。でも、櫂人君ホントに叔父さんみたいだね」
「俺は兄貴から水樹さんのこと預かってんだ」
櫂人はにわかに姿勢を正す。腕組みをして宙を睨んだ。
「ただでさえいろいろあるこの時期に、これ以上ややこしいことになって水樹さんの心労の種増やしてたまるか。とにかく、あの女だけは絶対禁止」
「でも、櫂人君」
水樹が櫂人の顔を見上げる。
「どちらにしても一度ゆかりさんのところに戻らなきゃ」
「何でだよ? やっぱ足痛いのか?」
僅かに眉を顰めて水樹の足下を見た瞬間、櫂人はその場に固まった。
諦めたように水樹が笑う。
「やっぱり裸足じゃ冷たいし。リュックも忘れてきたみたいだしね」
「お早いお戻りで」
水樹を負ぶって櫂人が店に戻ると、申し分のない営業スマイルでゆかりが出迎えた。
取りあえず鞭は持っていないことを確認して水樹がほっと息を吐く。憮然とした表情のままその場から動こうともしない櫂人の顔を見てゆかりが促した。
「そんなとこに突っ立てないで中に入れば?」
水樹を負ぶったまま櫂人がリビングに足を踏み入れると、テーブルの上には既にお湯の張った洗面器とタオル、新しい包帯が用意してあった。
ゆかりは水樹を再びソファに座らせると、少し熱めの足湯を使わせてから丁寧に足の裏の汚れを落とし、新たに包帯を巻き付けていく。相変わらず包帯を扱うその手付きは鮮やかだ。
「今夜の宿決まってるの?」
「いえ、まだ」
水樹が答えると包帯を巻き終えたゆかりは見上げてきた。
「だったらウチに泊まってけば? その足、二、三日は痛むと思うよ。脛(すね)とか、打ったとこも青痣になってきてるし」
「え、でも、年末のこの時期にご迷惑じゃ……」
ゆかりはちらりと段ボール箱の山を振り返る。
「ネットショップって年中無休が取柄だから、年始休みなんてあってないようなもんなの。出来れば梱包作業手伝ってくれると助かるんだけど。ギブ・アンド・テイクってことでどうかな」
「レズのくせに何で自宅に男泊めたがるんだよ」
ゆかりの説明に納得がいかないらしく、ソファの端に腰掛けた櫂人が疑わしそうな目を向けて眉を顰めると、ゆかりは小さく肩を竦める。
「有り体に言うとね、ちょっとだけ男の人にいてほしいんだ。事情があってね。だから、水樹君みたいに、男だけど女にがっついてない安全そうな人が理想な訳」
「何だよ、それ。勝手な理屈だな。水樹さんは体力的に病み上がりに近いから用心棒代わりには向いてねえぞ。足だって痛めてるし」
「別に腕力に期待してる訳じゃないから。男だってとこが重要なの」
決断を促すようにゆかりが水樹の方へと向き直る。その視線を極自然に受け止め、水樹は頷いた。
「詳しいことはわからないけど、僕でお役に立てるなら。助けてもらったお礼もしたいし」
「じゃ、決まりね」
ゆかりはにっこり笑うと視線を転じて櫂人を見上げた。
「あんたはどうすんの? どうしてもって言うなら泊めてやらないでもないけど?」
「冗談じゃねえ。こんな怪しげなところに誰が泊まるか」
櫂人はゆかりに向かって嫌そうに顔を顰めると水樹に目を移す。
「水樹さん、本当にここに泊まるのか?」
「うん。足も今日はこれ以上動き回るの無理みたいだし」
「……そっか。それじゃ仕方ねえな」
櫂人は自分のリュックの中から、さっき買い込んだばかりの下着と洗面セットを水樹に渡した。
「俺は取りあえずどこかで一泊するから。明日の朝また来るよ」
ソファから離れると、去り際にゆかりを振り返って釘を刺す。
「おい、お前。水樹さんに変なことすんなよ」
「する訳ないでしょ」
睨み返したゆかりは思い付いたように、玄関に向かう櫂人を呼び止めた。
「ちょっと待ちなさいよ」
「何だよ」
面倒臭そうに櫂人が振り返る。すると、ゆかりはラックの上に置いてあったノートパソコンを持ち出して電源を入れた。
「宿決まってないんでしょ。予約ぐらいしてあげるわよ。予算どのくらい?」
「櫂人君、せっかくだから予約させてもらったら」
水樹も執り成すように声を掛ける。それから遠慮がちに、パソコンのディスプレイに向かうゆかりに言い添えた。
「あの、どこか近くに美味しい店があったら教えてやってもらえませんか。今日は朝に食べただけで昼食も食べてないから……」
「え、そうなの?」
液晶画面から目を離すと、呆れたようにゆかりは男二人を見比べた。
「そんな大きな身体して、ちゃんと食べなきゃ持たないでしょ。まったく、これだから男は……」
再び画面に目を落とすと、ぶつぶつ言いながらもゆかりは博多駅周辺のホテルを検索し始めたのだった。
◆
ホテルの予約済ませた櫂人がぶっきらぼうに、それでも一応は礼を言って出ていくと、ゆかりは骨付き鳥肉やつくね、野菜のたっぷり入った水炊きを水樹に振る舞った。
「これ博多の郷土料理なの。ホントは博多名物って言ったらわかりやすく博多ラーメンかなって思ったけど、水炊きは一人じゃなかなかする気になれないから。どうせならこっちの方がいいかなって」
レンゲで一口スープを啜ると水樹はにこりと笑ってゆかりを見た。
「鳥ガラのスープがおいしいです」
「よかった。足りなかったら言ってね。具はまだまだたくさんあるから。ちょっと買いすぎちゃったし」
水樹がキッチンに目をやると、調理台の上には鳥肉やつくねのパックがちょうど一人分残っていた。
「こんなにおいしいんだから、櫂人君も一緒に食べていけばよかったのにね」
慰めるように水樹が笑うとゆかりは肩を竦めた。
「仕方ないわよ。ここにいるのが嫌だって言うんだから」
夕飯のあと洗い物を済ませると、ゆかりは付けっぱなしのテレビをBGMに、やり残しの梱包作業を始めた。
水樹も約束通り作業を手伝う。伝票と商品に間違いがないかを確認して段ボール箱に封をし、送り状を張り付ける係だ。最初はそのくらいなら訳はないだろうと思っていたが、商品はどれもこれも水樹にはあまり馴染みのないものばかりで、確認するだけでも意外と骨が折れた。中には明らかに医療用の物もあって、一体に何に使うのだろうとびっくりさせられたりする。
「ねえ。水樹君達って東京から来たんだよね」
作業を進めながらゆかりが尋ねてきた。
「何でこっちに来たの? 仕事? ホテルの予約もしてないって随分急だよね。っていうか、水樹君って何してる人なの?」
今更ながらの矢継ぎ早の質問に僅かに目を見開くと、水樹は穏やかに笑った。
「泊めてもらうのに、大家さんにまだ何も話してませんよね。すみません」
考えてみれば、女の独り暮らしだというのに泊める相手の素性も知らないというのは不用心この上ない。
「いいよ。私も聞かなかったんだから。それで?」
「僕は学生です。櫂人君も同じ大学」
「へえ。あれで大学生なんだ。あんまり子供っぽいから高校生かと思った」
ゆかりの率直な感想に水樹は思わず笑ってしまった。夏乃が聞いたら何と言うだろう。一応、身内を弁護するために付け加えてみる。
「櫂人君は去年のミスター東大なんですよ」
「え、東大? あれが! そりゃ顔は悪くないけど」
心底驚いたような顔をしたゆかりは水樹を見返した。
「ってことは、水樹君も東大生なんだ。何学部?」
「医学部です。父が小児科医だったので僕もそうなりたいと思って」
「そうなんだ」
納得したようにゆかりは頷く。
「水樹君って優しそうだし。それに、公平だし。きっといいお医者さんになれるよ」
「ありがとう」
照れたように微笑む水樹を見て、ゆかりは首を傾げた。
「でも……ってことは、仕事で来たわけじゃないんだ。観光じゃないよね?」
「……うん。幼馴染みが亡くなったんだ」
ゆかりの問いに答えた水樹の表情からは笑みが消えていた。
「そうなの……。地元の人なの?」
気遣わし気にゆかりが尋ねると水樹は僅かに首を横に振る。
「いや、住所は東京。客死というのかな……」
にわかにしんと静まった部屋の中をテレビのニュースが淡々と流れていく。それは、俳優桐生を刺して逃亡中だった容疑者の死を伝えるものだった。
ゆかりが梱包の手を休めてテレビを振り返る。
「え、桐生を刺した犯人死んだんだ。しかも、大濠公園って……福岡じゃない」
水樹は黙ってニュースをじっと見詰めていた。
ゆかりは瞠目する。そう言えば昼間、中央署を目指していると言ってなかっただろうか。
「え、もしかして水樹君の幼馴染みって……」
水樹はゆっくりと頷いた。僅かに俯いて、顔の痣にそっと自分で触れる。
「……僕は彼には嫌われていたから、本当は来ても喜ばないだろうとは思ったけど……。でも、彼には身寄りがなかったから……」
水樹は顔を上げて仄かに微笑み、黙って話を聞いているゆかりの顔を見た。
「身寄りが少ないお葬式って寂しいものだよ。見送る人が誰もいなければ尚更寂しいから……」
水樹は父の葬儀を思い出す。告別式はたくさんの人々が弔問に来てくれたが、青葉の父に子供達以外の身寄りはなく、火葬場までついていったのは喪主の水樹と夏乃、それから葬儀の手伝いをしてくれた父の知り合いが数名だけだった。父とは不仲だったらしい母方の祖父母は結局姿を現さず、大人達は今後の相談のためかどこかにいってしまい、火葬が終わるまでの間、十六になったばかりの水樹は、しんとした小さな待合室でまだ九つだった夏乃と二人きりで過ごしたのだった。
「もしかして、その痣もその人にやられたの……?」
ゆかりがそっと水樹の頬に両手を添える。水樹はゆかりを視界に捉えて僅かに瞠目すると、ただ静かに微笑んだ。
その微笑みが酷く切なく思えて――……。
次の瞬間、ゆかりは何も考えずに水樹を胸に抱き締めていた。そのまま痛めた身体を労るようにそっとカーペットに上体を倒して、唇を重ねる。水樹は僅かに戸惑うような素振りを見せたが抵抗はしてこなかった。ゆかりが優しくキスを繰り返しながらベルトを緩め、シャツをたくし上げて胸を弄ると、切なげに声を漏らす。
「ゆ、ゆかりさん……」
男性特有の低い声で名前を呼ばれた途端、ゆかりは我に返った。反射的に水樹から身体を離す。
「ごめん……。私ったら何してんだろ」
やっと解放され、横たわったまま茫然と自分を見ている水樹にまた謝る。
「……ホント、ゴメン」
「ええと、その……。あまり気にしないで。僕、こういうことって結構あるから」
「え? こういうことって……?」
とっさに意味を捕らえ兼ね、ゆかりが聞き返すと、水樹は困ったように小さく笑った。
「ええと、だから、こうやって途中でやめられちゃうこと」
ゆかりはいささか唖然として水樹の顔を見た。
意外だった。
水樹は目が覚めるような色男ではないが爽やかな印象の好青年だ。人柄もいい。自分のように元々指向性が違うならともかく、自ら男に迫っていくような積極的な女が途中でやめる理由が思い付かなかった。
素直な疑問を思わず口に出す。
「……何で?」
「何でって言われても」
上体を起こしながら水樹は本当に困ったように笑う。
「櫂人君には、ウサギのパンツなんか穿いてるからだって言われたけど。一番安いものを買うのが習慣になってるから」
ゆかりは思わず水樹の下着を見る。乱れたジーンズの下から覗いているそれは、さすがに今日はウサギ柄ではないようだが、確かにあまり上等なものではなさそうだった。如何にも売れ残りっぽい、センスの欠片もない柄パンだ。ブランドに拘る向きは気分が萎えるかもしれない。
もっともゆかりは今の今までパンツの柄などにはまったく目がいかなかったのだが。
「だけど、僕にあまりその気がないのがわかっちゃうのかなとも最近は思うんだ」
「その気がない?」
ゆかりが訝しげに眉を顰める。
「性欲感じないってこと? 水樹君、まだ若いよね?」
「二十七って若いのかな。ずっと妹育ててきたし、大学じゃ皆年下だから、自分じゃよくわからなくなってるんだけど」
「何言ってんの。十代ほどじゃないかもしれないけど、二十代ってまだまだ真っ盛りでしょ。女の私だってたまらなくしたいと思う時があるんだよ? 週に何回してても不思議じゃないよ」
「そう……なんだ」
水樹は人事のようにぽかんとしている。
不思議だ。
男といえば皆性欲でぎらぎらしていると思っていたのに。こんな男は初めて見た。
ゆかりは一瞬だけ考えると、下着の上から水樹の中心を握った。
「わっ?! ゆ、ゆかりさん、な、何?!」
ゆっくりと撫で摩ると反応がある。
「ゆ、ゆかりさん……。やめたんじゃなかったの……? あ……」
水樹が切なそうに顔を背ける。ゆかりは反応を確かめるように、その様子をじっと見守った。
「……ちゃんと感じることは感じるんだ」
「そ、そりゃ一応。思わぬときに反応しちゃって困るときもあるけど……」
ということは、所謂不能という訳ではないらしい。
ゆかりは唐突に立ち上がる。
「え……。ゆかりさん……?」
一旦座を外したゆかりは、店舗の方から売り物のローションと医療用手袋を持って戻ってきた。クローゼットから出したバスタオルを、水樹の腰を意外なほど軽々と持ち上げて下に敷く。それから水樹の下半身を手早く裸に剥いた。脱がしたジーンズは下着と一緒に手の届かないところへ放り投げる。
「え、ちょっと……!」
「ごめん。私男の人って扱ったことないから、上手くはないかもしれないけど……」
テーブルの上にあったウエットティッシュで丁寧に指を拭き、同様に水樹の下半身を清めると、ゆかりは真新しいローションを手に取った。
「え? 何するつもり? だ、ダメだよ。そこは……」
「大丈夫。私、昔看護師やってたの。そういうの平気だし、ちゃんとするから」
「え? 看護師だったんだ……」
意外な事実に目を見開いた水樹は、一瞬のうちに我に返る。
「じゃ、なくって……あ。……や……だっ」
「大丈夫……もっと力抜いて。怖くないよ……」
ゆかりの優しい声にあやされるように、水樹は目を瞑った。
◆
小さなバスルームの中は間接照明の柔らかな光とシャワーからの湯煙で優しく満たされていた。
何だかまだぼうっとしている。
頭の中が一気に空っぽになってしまったような気がして、水樹は恐る恐る衛生学の試験の問題を思い出してみた。ついでに自分が書いた答案を覚えている限り復唱してみる。意外なことに、どちらも何の支障もなくすらすらと出てきた。
――あの瞬間、何もかもが真っ白に吹き飛んでしまったようだったのに……。
鏡を見ても、湯煙と共に映った姿は以前の自分と変わりない。
お湯から水に切り替えて、水樹はシャワーを頭から被った。幾筋にも分かれて全身を伝っていく冷たい奔流に小さく身震いする。それでやっと身体が自分のところへ戻ってきたような気がした。
またお湯に切り替えて熱めのシャワーを浴びていると、曇りガラスのドアの向こうに人の気配がした。
「水樹君、ここにタオル置いとくね」
「はい。ありがとうございます、ゆかりさん」
水樹が返事をしてもゆかりの影はそこから動かなかった。水樹がシャワーを止めてドアのこちら側から様子を見守っていると、躊躇うような沈黙のあと、あまり彼女には似付かわしくない遠慮がちな声が聞こえてきた。
「あの、水樹君。さっきはごめんね。突然あんなことして……」
「ゆかりさんが謝ることはないと思います。僕だって抵抗しなかったんだし……」
そう答えてからほんの少し首を傾け、水樹は素直な疑問を口にした。
「でも、ゆかりさんって、女の人が好きなんですよね……? どうして僕にあんなことを?」
「わかんない」
「え?」
水樹は僅かに瞠目する。
「自分でもわかんないの」
ゆかりの声は溜め息混じりだった。
「どうして男の君にあんなことしたのか……」
戸惑いを隠せない様子のゆかり同様、水樹の方でも何故あのとき拒否しなかったのか、その理由はよくわからなかった。
初対面の女の人とこんなふうになるなんて、もちろん昨日までは思ってもみなかった。しかも、相手は同性愛者のパレードにも堂々参加するような、本物のレズビアンなのだ。
今まで自分は貞操観念や性愛の在り方については保守的な方だと思っていたけれど、人間どこでどう転ぶか本当にわからない……。
感慨に浸って水樹は小さく溜め息を漏らした。
「ごめん。気を悪くした? でも、別に水樹君をオモチャにしようとした訳じゃないから。そういうつもりじゃないから」
気遣う様子のゆかりの声に水樹は頷いた。
「……うん。何となくわかるよ。何て言うか、ゆかりさんにしてもらったのは、その、医療行為というか……。カウンセリングとかリハビリみたいな感じだったし」
水樹の漏らした感想を聞いてゆかりは複雑そうに口籠る。
「……あれを医療行為って言われちゃうのは、それはそれでどうかと思うけど……」
「え?」
浴室のドアがおもむろに開いた。
タオル一枚で腰を隠した水樹が怪訝そうにゆかりを見ている。
風呂上がりの水樹を眺めてゆかりはぽつりと呟く。
「……男だよね」
水樹の体付きはどう見ても男性的なものだ。背丈はゆかりよりも若干低いが肩幅は広く、首周りはがっしりとしていて意外なほど胸板も厚い。女の子達の華奢だけれども円やかな肢体とは無縁の身体だ。
「男だけど……」
「あの、ゆかりさん。僕パンツ穿きたいんだけど……」
ゆかりの視線に困惑しながらも、水樹は一人になりたいと遠回しに希望を口にしてみた。一度あられもないところを見られたとは言え、初対面の女性に丸裸で着替えをしている様を見られるのは何となく憚られる。
けれども、ゆかりは水樹の希望をきれいに無視して、そっと濡れた頬に触れてきた。
「え? ゆかりさん……?」
その意図を推し量るように水樹はじっとゆかりを見詰め返す。
こうして間近で見ると、ヒールを履いている訳でもないのにゆかりの目線は水樹のそれよりも僅かに高かった。少し大きめのアーモンド型の目が先ほどから水樹をじっと覗き込んでいる。
ゆかりはこめかみから頬骨の辺りまで、水樹の痣になっている部分を優しく指先でなぞると、そっと唇を重ねてきた。水樹が戸惑っている間に唇を離して、低く囁きかける。
「ごめん、水樹君。もう一回いい……?」
「え、でも。せっかくシャワー浴びたのに……」
水樹が僅かにたじろぐ素振りを見せると、ゆかりはいきなり着ていたチュニックを脱いだ。
「え、あの……」
水樹が止める間もなく、手早くブラを外しデニムのレギンスも脱いで、小さな下着ひとつの姿になる。
「今度はもっと……ちゃんとしてあげたいの。優しくするから……」
ゆかりのしなやかな優しい手が伸びてくる。
水樹はなすがままに身を任せた。今度も拒否する気は起こらなかった。
ゆかりの柔らかな温もりに身を委ねながら水樹はぼんやりと考える。
他の女性とゆかりとでは何が違うのだろう。
夏乃に押し倒された時とのこの違いは何だろう。
もちろん、水樹にとって夏乃は妹だ。こんなことが兄妹で許される訳はない。けれども、あの時、倫理とは違う別の何かが水樹の中で強く警告を発していたような気もする。脳内に一瞬だけちらついた、怖れと嫌悪をないまぜにしたような、受け付けない感覚。それは今まで水樹に女性と付き合うことを躊躇わせてきたものと同種の何かだ。
けれども、ゆかりに身を任せているとそれは感じない。ひたすらその温もりが優しく心地いいだけだ。
「こんなところにいつまでもいたら風邪引いちゃうね……」
ゆかりは水樹の手を引くと、まだ暖房が入ったままの浴室に導いてそっとドアを閉めた。
Fumi Ugui 2008.11.09
再アップ 2014.05.21