名医の子供達

第15話 花模様

 ふと気付いたときには視界は温かな色で満たされていた。
 そっと眼を開けると、レースのカーテンから柔らかな朝の光がベッドの際まで射し込んでいる。
 水樹はベッドの片隅で大きな枕に埋もれるようにして横になっていた。
 レースの上に束ねられた花柄のプリントのカーテン。極淡いチェックにフルーツをあしらった可愛らしいダブルの寝具セット……。
 見慣れない部屋の風景に一瞬混乱し、ことの顛末を思い出して傍らを見ると、昨夜一緒に眠ったはずのゆかりの姿は既になかった。小さな寝室から隣の部屋へと続く引き戸は開いていて、リビングのカーペットの上に楕円型のテーブルが半分だけ見えている。ふんわり漂ってくるのはトーストの匂いだ。
 パンツの他は何も身に付けていなかったので、掛け布団に包まったまま誰もいないリビングをしばらくぼんやりと見ていると、キッチンの方からトーストとマグカップを運んでゆかりがやってきたのが見えた。もうきちんと着替えて化粧も済ませている。
 ゆかりは水樹の視線に気づくと朝食をテーブルに置いて近付いてきた。にこりと微笑んで水樹の顔を覗き込む。
「水樹君、おはよう。目が覚めたんだね」
「おはようございます、ゆかりさん」
 穏やかに微笑み、挨拶を返してベッドから身を起こそうとした途端、身体のあちこちに痙るような痛みを感じて水樹は思わず顔を顰めた。
 昨夜はとにかく夢中で意識している余裕などなかったが、普段使い慣れていない筋肉を随分と使ったらしい。僅かに力を入れただけでも思いも寄らぬところが痛かった。それとは別に、足首はもちろん肘や背中など、階段を転げ落ちたときに打ったところも何かに触れるたび思い出したようにあちこち痛む。
 ぎくしゃくする身体をそっと起こして腕や首の具合を確かめていると、ゆかりが心配そうに覗き込んできた。
「昨日はごめんね。無理させちゃったかな。あんなに何度もするつもりなかったんだけど……。大丈夫? 足の具合は? 立てるかな……」
「大丈夫。打ち身であちこち痛いけど」
 ゆかりを見上げて水樹は穏やかに笑った。
 実際のところ身体の方は散々だったが、気分は思いの外すっきりとしていた。肉体的に疲れ果てて、何も考えずにぐっすり眠ることが出来たからかもしれない。ここ数週間の寝不足感が一夜で解消されたような気さえしていた。
「ゆかりさん、ありがとう」
「え?」
「お蔭でぐっすり眠ることが出来ました。何だかいろいろと前向きに考えていけそうです」
「よかった……」
 水樹の笑顔を見るとゆかりはほっとしたように小さく笑った。
「本当は嫌われたんじゃないかって、ちょっと心配してたんだ」
 布団からそっと抜け出しベッドの端に腰掛けて、水樹は不思議そうにゆかりを見る。
「どうしてですか? 嫌ったりしませんよ? ゆかりさんは命の恩人だし」
「でも、初対面なのにいろいろやりすぎちゃったから……」
 ゆかりは僅かに俯く。
「アイツも言ってたけど、レズのくせに見境ないって……さすがに引かれたんじゃないかと思って」
 溜め息混じりのゆかりを見て、水樹は温和な笑みを浮かべた。
「僕はこの通り、櫂人君に比べれば体格がそれほどいい訳じゃないけれど、嫌だと思えばゆかりさんを押し退けるくらいの力はありますよ。だから気にすることないです」
「……ありがとう。やっぱり、水樹君っていい人だよね」
 ゆかりは照れたように微笑むと、隣の部屋へと引っ込んだ。昨夜脱いだままになっていた衣類と、着替えの入っているリュックを持ってきて水樹に手渡す。
「着替えが終わったら呼んでね。朝食にするから」
 寝室の引き戸が閉まると、水樹は筋肉痛や打ち身の具合を確かめながらゆっくりと着替えを始めた。
 受け取ったシャツとジーンズは、ホットカーペットの上にでも置いてあったのか、ほんのりと温かかった。

 朝食を済ませるとゆかりはノートパソコンで店の管理画面を呼び出した。
 受注から銀行決済までネットショップの業務はすべてこの管理画面で出来るようになっている。メールのチェックをして、注文伝票を店舗の方のプリンターで打ち出すと、ゆかりは自分のサイトを表示させた。
「ここが私のお店」
 水樹が興味津々に画面を覗き込むと、トップページに「女性専用アダルトショップ」と謳ってあった。
「男はダメなんですか?」
「元々レズビアンのための安心して利用できるネットショップがあるといいなと思って立ち上げた店だから。女のスタッフが対応ってところがミソなの」
「それじゃ、僕が手伝っちゃダメですね」
 画面を見詰めて水樹が生真面目そうに呟くとゆかりは笑った。
「本当はね」
 メニューをよく見ると、商品陳列のためのページの他に、社会的偏見や健康面で悩めるレズビアンのためのQ&Aのコーナーなどもあった。社会的偏見や差別に関する悩み相談のページは実体験を踏まえた心構えと困ったときのリンク集程度のものだったが、健康Q&Aの方は地元福岡の女性医師が監修をしていた。
 アダルトショップと言うよりは、女性同性愛者をメンタル面からもサポートするためのサロンのような印象だ。
「きちんとしているんですね」
 水樹が感心しているとゆかりは小さく溜め息を漏らした。
「本当は法律関係の方もきちんと専門家の意見を載せたいんだけど、なかなか伝手がなくて」
「櫂人君は法学部ですけど……」
 何の気なしに水樹が口にするとゆかりが物凄い勢いで振り向いた。
「え! それって何? アイツがそのうち弁護士とか裁判官になるってこと? あんな偏見持ってて大丈夫なの? 何かお先真っ暗って感じなんだけど」
 眉根を寄せて不審そうにするゆかりをなだめるように笑みを作り、慌てて水樹が言い添える。
「いや、それは。いくら櫂人君がゲイ嫌いでも法律上の判断で公私混同はしないから。それに、櫂人君自身はまだ学生だけど、ご両親は現役の判事だし、お兄さんもおじいさんも弁護士だから、何かあれば相談に乗ってもらえると思いますよ」
「……へえ。なんか凄いね。一家揃ってそっちの家系なんだ」
 いささか唖然とゆかりが呟くと、
「皆さん、親切でいい人ですよ」
 水樹が柔和な笑顔を見せる。ゆかりは小さく溜め息を吐いて笑った。
「ま、水樹君がそう言うならそうかもね」

 

 やがて店番を水樹に任せて、ゆかりは昨日梱包した荷を宅配業者に依頼するため出かけていった。
 水樹は流しに残っていた洗い物を済ませると、リビングへ戻ってテレビをつけた。
 晦日ともなれば、新聞のテレビ欄は長時間ドラマやバラエティなどのスペシャル番組で目白押しになっている。東京とは局名もチャンネルも違う慣れない地方紙のレイアウトに戸惑いながら、番組の谷間の僅かなスペースに「N」という文字を見つけて水樹はチャンネルを合わせる。
 正味三分ほどのローカルニュースの中にセンスの事件の続報はなかった。すぐにチャンネルを変えて次のニュースを待って見てみたが、やはり同じだった。
 テレビを消してしばらく所在なさ気にしていると、九時半頃になって来客を知らせるチャイムが鳴った。
 「ネットショップ白百合」はその名の通りネットからの売り上げが全体の九割を占めるが、たまに来店する客もいるらしい。ゆかりの話では大抵は注文の品を取りに来る客ということだった。取り置きしてある場所も聞いている。水樹は伝票を確かめて代金を受け取るだけでいい。
 水樹が片足を庇いながら住居部分との仕切りのドアを開けて店舗に出ると、カウンターの前に佇んでいたのはやっと十代から抜け出したぐらいの、まだ若い女性だった。
 さらさらとしたセミロングの両サイドをマーガレットのヘアピンで留め、襟に純白のファーをあしらった淡いクリーム色のハーフコートの下からは、細かい花柄の、パステルピンクのスカートが覗く。真冬に春を思わせるような、如何にも娘らしく可愛らしい装いだ。
 彼女は奥から出て来た水樹を一目見ると、まるで天敵と鉢合わせした小動物のように驚いて、急いで店を出ていってしまった。
 水樹はと言えば、声を掛けることも出来ず、ただ唖然とそれを見守っていただけだった。
 足が痛くて動けなかった訳ではない。こういう店にあんなに若い女性が現れるとは思っていなくて、とっさに反応できなかったのだ。
 考えてみれば、女性専門、特に同性愛者の女性のためのという触れ込みの店なのだから客は女性に決まっている。
 引き止めなかったのはもちろん間抜けな思い込みをしていた自分自身の落ち度だが、何故彼女はあんなに慌てて出ていってしまったのだろう。店番が男というのがまずかったのだろうか。
 あれこれ考えながらカウンターの外へ出て、ふとディスプレイ用の鏡に映った自分の顔を見た水樹は、一拍置いて小さく溜め息を漏らした。
 ――彼女が逃げ出すのも無理はない。
 元々透や櫂人のように一目で女性を惹き付けるような部類の顔ではないが、今の水樹はまったく酷いご面相だった。鼻を中心に右の頬骨からこめかみの辺りまで、青と紫に黄色が入り交じったような痣がくっきりだ。こんな顔の男が店番をしていては女性客は寄り付かないだろう。ゆかりが自分を自宅に置いてくれ、そのうえ優しく接してくれるのが不思議なくらいだった。
 それにしても、わざわざ足を運んでくれた客を帰らせてしまったとあってはゆかりに申し訳ない。
 もしかしてまだ外にいないかと思い、水樹が念のためにドアを開けて通路を見てみると、空になった運搬用の台車を押してちょうどゆかりが帰ってきたところだった。
「どうしたの、水樹君。こんなところまで出てきて」
「いや、ちょっと。今お客さんに逃げられちゃって……」
「逃げられた?」
「うん。僕の顔を見てびっくりしたみたい。店番には向かないよね、この顔」
 水樹が困ったように微笑むと、ゆかりは笑った。
「気にしなくても大丈夫。必要ならまた来るよ」
 ゆかりが台車を店内に運び込むのを待って、水樹がドアを閉めようとすると、ふと後ろに視線を感じた。ドア越しに振り返る。すると、通路のずっと奥、エレベーターホールのところにちらりと影のようなものが動いて引っ込むのが見えた。反射的に身体がその後を追い、一歩踏み込んだ途端、水樹は顔を顰めた。
「いたっ」
 小さな呻き声を耳にして店の中でゆかりが振り返る。
「どうしたの、水樹君? 足、どうかした?」
「いや、今廊下の向こうに人影が見えたような気がして」
 ゆかりは外まで出てくると、水樹の視線の先にじっと目を凝らして尋ねた。
「人影って……どんな?」
「よくわからない。一瞬だったから……」
「……そう」
 水樹は最初、昨日自分を階段から突き落とした人間が様子を窺っているのだろうかと思ったが、ゆかりも浮かない顔をしている。もしかしたら、ゆかりの言っていた事情とはこのことなのかもしれない。
「もしかして、心当たりある?」
 詮索しない程度に水樹が尋ねてみると、
「うん……まあね。あ、でも、全然危険なことはないから安心して」
 ゆかりは曖昧に答えて笑顔を作ってみせた。
「さ、寒いからもう中に入って。ちょっと早いけど十時のお茶にしよ」

 ◆

「朝っぱらから何やってんだよ、水樹さん……」
 ゆかりに案内されてリビングに入ってきた櫂人は、山と積まれたアダルトDVDに囲まれた水樹を見て露骨に顔を顰めた。
「あ、おはよう、櫂人君。今納品伝票を確認してるんだ。AVって初めて見るけど、いろんなのがあるんだね」
 パッケージを見ながらただ感心するばかりの水樹の様子にますます渋面を酷くする。
「東大医学部で三指に入る男のするこっちゃないだろ。飛行機予約してさっさと帰ろうぜ」
「でも、まだ足痛いみたいだし。打ち身も酷いみたいだけど?」
 口を挟んできたゆかりを一瞥して睨み付け、携帯の時刻表示を確かめてから櫂人は水樹を促した。
「移動手段ならタクシーだってあるし、地下鉄や空港は俺が負ぶってきゃ問題ねえよ。さ、水樹さん」
「櫂人君……」
 水樹は作業の手を休めて真顔になると、突っ立ったままの櫂人を見上げた。
「実は僕、もう少しここでお世話になろうと思うんだ」
「何言ってんだよ、水樹さん!」
 櫂人は今にも噛み付きそうな勢いでゆかりを振り返った。そのまま水樹に向き直り、ゆかりを指さして問い質す。
「あんたまさか、マジでこんな女に惚れたってんじゃないだろうな?」
「そうじゃなくて」
 水樹は櫂人をなだめるように小さく微笑み、傍らのゆかりのをちらりと見た。
「ゆかりさん何だか困ってるみたいだから」
「水樹君……」
 神妙な様子で水樹を見詰め返すゆかりを、むっつりと不機嫌面で一瞥して櫂人が尋ねる。
「困ってるって、どんなふうにだよ」
「さっき、櫂人君が来るちょっと前だけど、エレベーターのところに不審な人影を見たんだ」
「不審な人影?」
 一瞬瞠目すると櫂人は苦り切った表情で水樹を見据えた。
「それじゃますますヤバイだろ。一旦東京へ戻った方がいい」
 意見する櫂人に水樹も食い下がる。
「でも、それってゆかりさんの事情の方かもしれないんだ。もう少し様子を見てみないと、どちらなのかはっきりしたことはわからない。危険はないって言うし、別に僕が特別なことする訳でもなくて、ここにいるだけでいいって言うんだから、助けてもらったお礼に出来れば力になりたい」
 櫂人はその場に片膝を突いて水樹と視線を合わせた。僅かに声のトーンを落とす。
「お人好しが過ぎるぜ、水樹さん。アイツのことだってまだ事故か他殺かもわからねえ状況で、こっちに来た途端階段から落とされるわ、不審な人影がうろつくわって、どう考えてもヤバイだろ。これ以上何かあったらどうすんだよ」
「心配してくれてありがとう、櫂人君」
 水樹は仄かに微笑むと、櫂人から目を逸らすことなく静かにその先を続けた。
「でも、だからこそ僕はしばらくここに――福岡に留まりたいんだ」
「水樹さん……」
 命の危険を顧みてそれでも尚怯まない水樹に櫂人は瞠目する。
「……正直に言うよ」
 水樹がその真っ直ぐな瞳で見返してくる。
「ゆかりさんのことも気掛かりだけど、やっぱり僕は知りたいんだ。母が何故僕をさわらび学園に預けたのか。昨日のことも、仮に誰かが僕をわざと落としたんだとしたら、何故なのかその理由を知りたい」
「ねえ、水樹君って誰かに落とされたの?」
 櫂人がゆかりに目をやった。話に割り込んできたその顔を、今更ながらもしげしげと眺める。
「そういやお前って、昨日水樹さんが階段から落ちたとき下にいたんだよな。犯人見なかったのか?」
 櫂人の質問にゆかりは眉根を寄せて思い出すようにする。
「……あの時は上と下で結構間空いてたんだよね。自分の目線より上なんてほとんど見てないし、周りの悲鳴で気が付いたらもう水樹君目の前だったから」
「ったく、使えねえ女だな」
「使えないとは何よ。相変わらず失礼な男ね」
 櫂人を睨付けると、ゆかりは気遣わし気に水樹の様子を窺った。
「でも、それがホントなら帰った方がいいんじゃないの、水樹君? 何だかいろいろ複雑そうだし」
 心配そうなゆかりの顔を見て、それでも水樹は首をゆっくりと横に振る。それから、もう一度訴えるようにして櫂人の顔を見上げた。
「僕にしてもセンスくんにしても、福岡に来た途端に事故が起こるなんて、何かおかしいのはわかってる。でも、それはもしかしたら、母が僕を遠くに預けたことと何か関係があるのかもしれない。ないのかもしれない。それがわからないと、僕はこの先前に進んでいけないような気がするんだ」
 水樹のひたむきな瞳にじっと見詰められ、半ば諦めたように櫂人は大きく息を吐き出した。
「わかった。水樹さんがそこまで言うなら止めねえよ」
「櫂人君」
 ほっとしたように笑顔を見せる水樹に釘を刺す。
「ただし、絶対に一人で行動するなよ。外に出るときは俺か、俺がいないときはこの女と一緒にいるんだ」
 水樹が神妙に頷くと、続けてちらりとゆかりを一瞥する。
「念のためだ。お前もあんまり一人でうろうろすんなよ」
「女の独り暮らしだもん。言われるまでもなく用心はいつもしてるわよ」
「けっ。可愛げのねえ女」
 思わずぼやいて櫂人が水樹に向き直る。
「俺はこれから警察に行って昨日のことあの刑事に話してくる。何か捜査の足しになるかもしんねえからな」
「うん。ごめんね、櫂人君。透さんには僕から連絡しておくから」
 水樹がすまなげに微笑むと、立ち上がった櫂人は小さく肩を竦めた。
「兄貴のいつも言ってる、水樹さんは頑固だっていうのが段々わかってきたよ」

 リビングから櫂人を見送って水樹が携帯を開くと、納品伝票の確認と仕分けを続けながらゆかりが尋ねてきた。
「ねえ、水樹君。透さんって誰?」
「え?」
 水樹がゆかりを振り返る。ゆかりは作業の手は休めずに、さらりとその名を口にした。
「早渡透って桐生の本名だよね」
「え、どうしてそれを……」
 内心飛び上がるほど驚いて水樹が絶句するとゆかりは笑った。
「桐生って、公にゲイ宣言してる希少な人間の一人だから、私みたいな立場だと業界情報っていうのかな。まあ、一応ね」
 水樹は曖昧に笑うしかなかった。
 実際には、桐生はゲイ宣言をしたことなど一度もない。水樹を養子に迎えるときも、養子縁組の記者会見を開いたのであって、結婚を発表した訳ではなかった。ただ、男性と噂になっても本人が特に否定しないため、芸能マスコミが都合のいいように解釈して騒いでいるだけだ。しかし、それが世間に与える影響は大きく、今では桐生と言えばゲイ宣言をした俳優として広く認知されている。
「で、何で水樹君の携帯に登録してあるの?」
「あの、それは……」
 遠縁だとか同姓同名の別人だとか適当に言って誤魔化すこともできたが、水樹はゆかりに対して敢えてそうしようとは思わなかった。
「僕が透さんの養子だから……」
 途端、ゆかりが大きく目を見開いた。
「え! 養子って、じゃ何。水樹君があの、桐生に熱烈に愛されちゃってる結婚相手ってこと? 水樹君ってホントにゲイだったんだ」
 ゆかりにゲイと断定されて水樹は慌てて首を横に振る。
「い、いや、ゆかりさん。それは誤解だから!」
 それに――。
 と、水樹は内心頭を抱える。
 結婚相手というのは今までにも散々報道されてきたことだから今更驚くまでもないが、その「桐生に熱烈に愛されちゃってる」というフレーズはどこから来たのだろう。
 知らない間にまた新しい尾鰭がどんどん付いているような気がする。
「別に誤魔化さなくてもいいよ。私だってレズビアンなんだから」
 水樹の慌て振りを見てゆかりは笑った。
「仕方ないよね。たまたま好きになっちゃった人が異性じゃなかったってだけだもん」
 何気ないように明るく振る舞いながらも、ゆかりは僅かに目を伏せる。
「そうやって普通の恋人同士よりずっと確率の低い出会いクリアして、運命の相手だって思っても、上手くいかないことだってあるし……」
「ゆかりさん……」
 水樹はふとゆかりの寝室を思い出した。飾り気がないリビングに比べて随分と可愛らしいあの調度品の数々は、或いは以前に付き合っていた恋人と一緒に選んだものだったのかもしれない。
 そうした経験のない水樹はどうゆかりに声を掛けていいのかわからなかった。それでもじっと横顔を見守っていると、切なそうに見返してくる瞳と目が合った。
「ごめんね、水樹君。浮気させちゃったね」
「え? い、いえ、だから、本当に透さんとは何でもないですから」
 水樹が否定すると、ゆかりは僅かに瞠目する。
「……そうなの?」
「はい。ですから、少なくとも浮気とか不倫じゃないです」
「ホントに大丈夫? 桐生にあとで酷く責められたり、いじめられたりしない?」
 具体的にゆかりが何を想像しているのかは知る由もないが、水樹を見詰めてくるその目は酷く心配そうだ。
 水樹は困ったように微笑んで、ゆかりに噛んで含めるように説明する。
「……ええと。あの、ゆかりさん。それはドラマのイメージに影響され過ぎです。透さんは役のイメージとは違って、本当はとっても親切で優しい人ですよ」
 それでもまだゆかりは半信半疑のようだ。
 今更ながらテレビやマスコミの影響力には本当に驚かされる。
 それとも透の演技が真に迫りすぎなのだろうか。役者冥利に尽きると言って愉快がる透の姿が目に浮かぶようだった。
「あの、僕電話しないと」
 ゆかりを安心させるように微笑んで、水樹が携帯のキーを押すとすぐに応答があった。
「やあ、いつ掛かってくるかと思って待っていたよ」
 懐かしい、独特の深みのある声は僅かに笑い含みだ。
「え? 電話するのわかったんですか?」
 透にはいつ予知能力が備わったのだろう。
 水樹がびっくりして聞き返すと、携帯の向こうで透は笑った。
「さっき櫂人から連絡があってね。公衆電話からで最初は誰かと思ったが。私に何か言いたいことがあるんだろう?」
 促す声に面を改めその場で居住いを正すと、水樹は頷いた。
「はい。実はもう少しこちらに滞在したいと思って……。すぐに帰ると言ったのに、約束を破ってすみません」
「そんなことになるのではないかと思っていたよ」
 透の声は穏やかだった。病院で聞いた時よりも少し張りが戻ってきているような気がする。
「君が自分の過去に前向きになるのはよいことだ。納得がいくまで調べてくるといい。ただし、身辺には十分に気を付けるように。入院騒ぎになるのは私一人でたくさんだからな」
「すみません、透さん。お正月だっていうのに我がまま言って」
「家にいられないのはお互いさまだ。どちらかと言えば夏乃君に気の毒だな」
 携帯の向こうから小さく笑い声が聞こえる。
「あの、今そこに夏乃いますか?」
 水樹が尋ねると、
「ああ、少し待ちたまえ」
 一拍置いて、すぐに夏乃が携帯に出た。
「何、兄さん?」
「夏乃、使って悪いけど、マンションに帰ったら僕の部屋の机の引き出しから、福岡のおじいさんの住所が書いてあるメモを探してくれないかな。一番下の大きい引き出しに入ってるから。お父さんとお母さんの形見が入ってる箱の中」
「それって菓子折りだよね。携帯が入ってるやつ」
「そう、それ。多分、ノートかメモ帳を破り取った感じの紙切れだと思う。お父さんの字で書いてあって、住所が福岡市で始まってるからすぐわかると思うんだけど。それと……」
 水樹は僅かに逡巡してから口を開いた。
「ついでに、僕が小さい頃住んでいたアパートの住所も知りたいんだけど」
「うん。わかった。それも調べて連絡するよ」
 歯切れのよい返事をすると、今度は夏乃が質問してきた。
「兄さん、足挫いたんだって? 大丈夫? ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ。眠ってるし。大丈夫。大家さんは元看護師さんなんだ。よくしてもらってる」
 水樹はしばらく会話を続けてからゆかりの方を見ると、穏やかに微笑んで携帯を差し出した。
「え、私?」
 ゆかりが怪訝そうに携帯に出ると、僅かに掠れた、だが、深みのある心地よい声が聞こえてきた。
「はじめまして、水樹の父です」
 水樹と呼び捨てにする、そのたった一声にゆかりは何故か身震いした。
 同時に、この声が本物の桐生なのだと直感する。
 当代随一の敵役。
 二枚目俳優で、弁護士で、何より水樹の相手だと噂される男の声――。
「そちらで水樹や弟の櫂人が大変お世話になったそうで、ありがとうございました」
「いえ、当然のことをしただけですから」
 ゆかりは内心の混乱と動揺を押さえ付け、毅然と頭を上げる。
「水樹がもうしばらくそちらのお世話になるということですが、ご迷惑ではありませんか」
「そんなことはありません。仕事も手伝ってもらえますし、ギブ・アンド・テイクってことで」
 相手はあくまでも慇懃(いんぎん)だというのに、何だか喧嘩腰になっている自分が情けない。
「アダルトショップを経営されているそうですね」
「そうですが。それが何か」
 唐突な指摘に思わず声が硬くなる。
 アダルトショップの経営に恥じるところはないが、偏見が付き纏うこともゆかりはよく承知している。
「いや、お気に障ったら申し訳ない」
 あくまでも穏やかに、桐生はさらりと言って退けた。
「これも何かのご縁でしょうから、是非利用させて頂きたいと思いましてね」
 一瞬鮮やかに脳裏に閃いた妄想を振り払い、ゆかりはなるべく事務的な声を出す。
「申し訳ありませんが、ウチは女性専用ショップですので男性のご利用はお断りさせて頂きます」
「そうでしたか。それは残念です」
 携帯の向こうの声は何故か笑ったようだった。
「いや、立派なポリシーをお持ちの方で安心しました。何か法律上のトラブルでもあったらご連絡ください。細やかですが弁護士活動もしています。お役に立てることもあるでしょう」
 憎らしいぐらいに落ち着き払った桐生の声は、最後に言い添えた。
「では、もうしばらく水樹をよろしく頼みます」

「……どうかしましたか、ゆかりさん?」
 通話を切ると、水樹は黙々と残りの作業を続けるゆかりの横顔をそっと窺った。
 透と言葉を交わしてからというものゆかりは憮然としたままだ。心なしか怒っているようにも見える。
「あの、透さん何か気に障ることでも言いましたか? 透さんは結構誤解を受けやすい人だから……」
「ううん。そんなことないよ」
 ゆかりは手元に目を落としたまま答える。
「礼儀正しいし親切だし、水樹君の言う通りいい人だね。ただ……」
「ただ?」
「保護者然とした余裕の態度が何だか悔しかっただけ」
「……悔しかった?」
 言葉の意味を量り兼ね、水樹は目を見開いた。
「水樹君」
 作業の手を休めてゆかりが見詰めてくる。
「桐生とは何でもないんだよね……?」
「はい。僕は透さんとはそういう仲じゃないです」
 水樹が頷くと、ゆかりはそっと手を伸ばしてきた。ゆっくりとその温かな指先を水樹の顔の痣に沿って唇まで這わせると、自分の赤い唇をそこに重ねる。
 水樹は今度も抵抗しなかった。ゆかりの成すがままに身を任せる。
「……いや?」
 やがてゆかりがそっと身体を離して水樹の顔を覗き込んできた。そのアーモンド型の瞳には、微かに失望の色が浮かんでいる。
「え、いや……。そんなことは……」
 嫌ではない。決して嫌ではなかったが、水樹の身体は反応しなかった。
 ゆかりの好意に応えたい気持ちはあるのにキスしたぐらいでは昂ぶるどころか息も乱れない自分の身体が恨めしかった。
「……ごめん、ゆかりさん」
 水樹が目を伏せると、ゆかりがそっと労るように抱き締めてきた。
「いいよ。謝らなくても。水樹君は何もしなくていいから……」
 もう一度キスして、水樹をゆっくりとカーペットの上に仰臥させたところで、店舗のチャイムが鳴った。
「あ、あの、ゆかりさん。お客さんが……」
 それでもなかなかゆかりが水樹から離れないでいると、チャイムは忙しなく連続で鳴り続けた揚げ句、最後には玄関のドアを叩く音となってビリングに響き渡った。
「おい、何やってんだ。早く開けろよ。まさかお前、真っ昼間っから水樹さんに変なことしてんじゃねえだろうな?」
「え、櫂人君?」
 筋肉痛に顔を顰めながら水樹が慌てて身を起こす。
「どうしたんだろ。忘れ物でも取りにきたのかな」
 ふと見ると、テーブルの上に櫂人の携帯がある。
「……ったく。兄弟揃って」
 ゆかりは渋い顔で溜め息を吐くと、やっと水樹から離れて玄関へと向かったのだった。

 

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Fumi Ugui 2008.11.17
再アップ 2014.05.21

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