名医の子供達

第16話 恋人達が夢のあと

 いつも通りの朝食を済ませ洗濯物をベランダに干すと、ゆかりは台所に立って料理を始めた。
 黒豆を鍋に入れて火を付け、冷蔵庫の脇の篭の中からごまめを取り出して大きなフライパンに入れる。
「お節ですか?」
 水樹が聞くとゆかりは背中で頷いた。
「うん。ほとんど出来合いのものを買ったけど、せっかく人がいるんだしね。気分だけ。田作りと黒豆をやってみようかなと思って」
 調味料を作りフライパンのごまめと合わせたところで、
「あ!」
 唐突に叫ぶとゆかりは手を止めた。
「どうしたの、ゆかりさん?」
 水樹が怪訝そうに尋ねると、
「ゴミ出してきちゃった。今月収集もう終わってたんだ。しまったなあ」
 やや茫然としてから振り向いて、サイドボードの時計を確かめる。
「もう八時半だもんね。そのまんまにしといたら怒られちゃう」
 ゆかりは手元を見た。調味料はもう入れてしまった。もたもたしていたらごまめが焦げて固まってしまう。
 ゆかりが慌てて手を動かすのを見て水樹がおもむろに立ち上がった。
「そんなところじゃやめられないよね。僕が行ってくるよ」
「でも、水樹君足大丈夫?」
 ゆかりが振り返ると水樹は笑った。
「多分。台車を貸してもらえたら。それに、たまには運動しないと」
「そう? じゃあお願い」
 ゆかりから台車を借り受けると水樹は久しぶりに外へ出た。
 幸い足はもうそれほど痛くはなく、エレベーターを使える分移動は楽だった。地下まで降りて駐車場のスロープからゆっくり地上に出ると、道路に面したゴミ置き場が見えた。
 今朝は良い天気だが、冷え込みは厳しい。うっすらと霜を纏ったタイル地の上に、ひとつだけぽつんと取り残されたようにゴミ袋が置いてある。
 水樹が台車を側に止め、ゴミ袋に手を掛けた途端、正面から咎(とが)める口調の声がした。
「なんでゴミ出しなんかしてるの?」
「え?」
 顔を上げた水樹の視界に入ってきたのは小柄な若い女性だった。
 その顔に見覚えがある。昨日店に現れた娘だ。
 さらさらのセミロングに花を模ったピン留め。純白の厚手のコートの下に、今日も店に来た時と同じような、可憐な花柄のスカートを穿いている。
 彼女はゴミ置き場の脇の電柱を背にして立ち、温かそうな毛糸の手袋をした手にショルダーバッグの紐をきつく握り締めて、水樹を睨み付けていた。その唇は微かに震え、バッグの脇からいくつも覗く携帯ストラップらしき飾りが僅かに音を立てる。
「昨日ゆかりのとこに泊まったの?」
 彼女は水樹の目の前までやってくると、重ねて下から詰問した。
「ねえ、なんでゆかりのとこに泊まってるの? 男のくせに!」

「水樹君?」
 マンション一階のエントランスからゆかりが飛び出してきた。半ば水樹の陰に隠れた形の彼女を見て声を上げる。
「菜々……!」
「ゆかり……」
 菜々はゆかりの姿を見ると一瞬怯んだように水樹から離れ、後ろへ下がった。
「ゆかりさん。……どうして?」
 水樹が不思議そうに振り向くと、
「アイツに水樹君一人にするなって言われたこと思い出したから」
 ゆかりは菜々に目を据えたまま水樹の側に身を寄せた。ひとつ大きく溜め息を吐き、僅かに首を左右に振る。
「……菜々。あんた何でこんな時間にここにいるの……」
「だって……」
 菜々は身悶えするようにショルダーバッグの紐を握り締めてゆかりを見上げた。
「だって、昨日久しぶりに行ったら店に男がいたから。そしたら今日だってベランダに男物の下着なんか干してあるし……!」
 まだ未練がある様子の菜々を見てゆかりはもう一度溜め息を吐く。別れ話をしたのはもう三月(みつき)も前の話だ。
「……私がどうしようと、もう菜々には関係ないよ」
「嘘つき! 他に好きな人が出来た訳じゃないって言ったくせに。やっぱり……やっぱり、いたじゃない。しかも、何で?」
 菜々は水樹に向き直ると改めてその顔を睨み付けた。
「何で男なの……?」
 怒りと悔しさを込めてその小さな拳を目の前の物言わぬ男にぶつける。
「ゆかりを返してよ! 返してっ!」
 水樹は敢えて抵抗しなかった。目の前の彼女を可哀相だとは思うが、今の自分の立場ではゆかりとは何でもないと言って慰めてやることも出来ない。
 小柄で非力な菜々がいくら両手を振り回しても大の男に大したダメージは与えられなかった。相手がまったくこたえていないと見るや、菜々は手にしたショルダーバッグを滅茶苦茶に振り回し始めた。
「菜々!」
 止めようと出てきたゆかりの顔をバッグが直撃するかと見えた刹那、
「ゆかりさん!」
 それまでほとんど無抵抗だった水樹が庇うようにゆかりを抱き込みバッグを避けようと身を捩った。が、一瞬遅く、バッグは水樹の顔を掠めて弧を描く。固く凍ったストラップの束が水樹の頬を抉った。
「水樹君!」
「……大丈夫」
 悲鳴を上げたゆかりを安心させるように水樹は穏やかに笑ってみせた。頬を押さえた手の甲と唇に、それぞれ僅かに血の色が滲む。
 血を見て怯んだのか菜々はその場に立ち竦んでいた。一瞥して傷の具合を確認したゆかりが菜々を振り返る。
「何するの! 彼はあんたと別れた事とは無関係ないのに!」
「……何よ」
 非難された菜々の、まだ幼さの残る顔が見る見る切なげに歪んだ。
「そんな男庇っちゃって……! ゆかりの馬鹿! もういいわよ、裏切り者っ!」
 涙声でしゃくり上げるようにそれだけ言い捨てると菜々は振り向きもせずに駆けていく。
 ひとつ溜め息を吐き、ゆかりはその場に佇んだまま茫然と菜々を見送る様子の水樹を振り返った。そっと手を伸ばすと、直接傷には触れないよう血の滲んだところを指先で優しくなぞる。そこは頬から口許まで弧を描いたように一筋細くみみず腫れになっていた。
「ごめんね。やっと痣が治りかけてきたのに。まさかあの娘があんなことするなんて」
「大丈夫。ちょっとびくりしたけど、擦り傷だし。ゆかりさんにケガがなくてよかった」
「水樹君……」
 切なそうなゆかりを見て水樹は柔らかく笑った。
「こういうのって、修羅場って言うんだよね。透さんのドラマではよくあるけど、まさか自分が当事者になるとは思わなかったかな」
「誤解しないでね。あの娘と別れたのは水樹君のせいじゃないよ。別れ話をしたのも水樹君と出会うずっと前で、最近じゃほとんど顔も合わせてなかったし。でも、これであの娘もすっぱり思い切れるんじゃないかな……」
 ゆかりは遠く菜々の姿が消えていった表通りの方に目をやると、再び水樹へと視線を戻した。その真っ直ぐな邪気のない瞳をじっと見詰める。
「……水樹君を利用するようなことして、ホントごめんね」
「大丈夫。最初からそんな気がしてたから。レズビアンの女の人がわざわざ男を頼るって、そういうことかなって」
 水樹が柔和な笑みを見せると、ゆかりは両手でそっとその優しい笑顔を包み込んだ。
「私が水樹君を抱くのは利用するためじゃないよ?」
「うん。それもわかるよ。何となくだけど」
「ありがとう、水樹君」
 ゆかりは安堵したように微笑むと、ゴミ袋を台車に乗せて水樹を促した。
「さ、部屋に戻ろう。傷の手当てしなくちゃ」

 ◆

 天神の交差点は年末の休暇を楽しむ人々で溢れ返っていた。福岡でも有数の繁華街というだけあって、オフィスビルや百貨店等の建物がひしめいている。
 櫂人が午前十時を目指して天神にやってきたのは着替えを買うためだった。
 こちらに長く滞在するとなれば、洗濯することを前提としても肌着や靴下はある程度枚数が必要だ。初日に買った分では当然足りない。更に言うなら櫂人としては、シャツもジーンズも着た切りというのは不本意だった。
 本当は昨日、警察に寄ったついでに済ませるつもりだったのだが、都合で天神に辿り着く前に取りやめた。今日が二度目のトライだ。
 天神に行けば衣料品は一通り揃っているとゆかりに言われて来てはみたものの、いざ実際に買い物となるとどの建物に入ったらいいのか見当が付かなかった。
 仕方がないので誰かに聞こうと辺りを見回してみると、歩行者用の信号機の脇で、待ち合わせでもしているのか二十歳そこそこに見える女の子達が四、五人固まってこちらを窺ってる様子なのが見えた。目が合った一人に微笑み掛けて櫂人が近付くと、彼女達は色めき立った。
「悪い。ちょっと尋ねたいんだけど、男物のシャツとかインナーとかどこに行けば売ってるかな」
 忽ち櫂人を取り囲んで賑やかな輪が出来る。
「え、ブランド物さがしてるの? それとも普通のでいい?」
「インナーは普通でいいよ。シャツとボトムはどこかいいとこ知らないかな。出来れば普通のサイズの他に大きなサイズも扱ってるところがいいんだけど。輸入物とか」
「えー。大きいサイズかあ」
「エミコんとこの彼氏バレーやってて、やたら背が高くなかった?」
「あ、そうだね。ちょっと聞いてみるから待ってて」
 中の一人が携帯を取り出した時だった。
「邪魔だ、オラッ!」
 野太い声がして、彼女達の輪の一部分が崩れた。中の一人がよろめいて歩道から車道に飛び出していきそうになるのを、櫂人の長い腕が掴んで引き戻す。
「何すんだ。危ねえな」
 櫂人が振り向いて睨み付けると、如何にもその筋といった風体の、人相のあまり良くない二人連れの男のうちの一人が肩を揺すって近付いてきた。背伸びをして、ほぼ真上を仰いで凄んでくる。
「なんだと、コラ。そんなとこで女引っ掛けてっからだろうが。ああ?」
 確か昨日もこんなことがあったような気がする――。
 昨日はそれで面倒になって買い物を諦めたが、滞在三日目ともなるとそうそうのん気に構えてばかりもいられない。
「……ったく。またかよ」
 櫂人は溜め息混じりに顔を顰めると、
「悪い。これ持っててくんねえかな」
 肩に掛けていたリュックを後ろの彼女達に預けた。

 ◆

「水樹さん、これ着替え」
 午後になってやってきた櫂人を見て水樹は目を見開いた。
「どうしたの、櫂人君。その手……」
 衣料品店のものらしい紙袋を掲げた左手の甲に、まだ血も乾ききってないような新しい擦過傷がある。僅かだが皮膚が抉れているようだった。
「ああ、大したことねえよ」
 櫂人は思い出したように傷口をぺろりと舐めると肩を竦めた。
「何だか知らねえけど、おかしなやつらに絡まれただけだ」
「……え」
 思わず目を見開いて水樹は櫂人を見上げる。
「その人たち勇気あるね……」
 櫂人は百九十に近い大男だ。体格もいい。
 見上げなければ会話も出来ないような相手に敢えて喧嘩を売る度胸は、少なくとも水樹にはない。
「うざってえから一人ひっ捕まえて、近くの交番に突き出してきたけどさ」
 櫂人はちらりとゆかりを見る。
「博多ってああいうの多いのか? あっちこっちでぶつかってきやがって鬱陶しいったらねえよ」
「変なこと言って博多の評判落とさないでよ」
 梱包作業中のゆかりは眉間に皺を寄せると伝票に目を落としたままで反論した。
「ああいう輩は大抵どこの街にだっているでしょ。あんたが広告塔みたいにどこにいても目立つからなんじゃないの。やっかみ買いそうな顔してるし」
 櫂人は心外そうに顔を顰める。
「何で俺が今更この顔のことで一々絡まれなきゃなんねんだよ。歌舞伎町辺りを女連れで歩いてたって、絡まれたことなんか一度もねえよ」
「いいから、櫂人君」
 水樹が二人の間に割って入るように櫂人をソファへと促す。
「とにかく一度そこへ座って。消毒するから」
 櫂人はソファに腰掛けると、消毒液で傷口を拭く水樹の顔を見て僅かに眉根を寄せた。
「水樹さんこそ、どうしたんだよ。その、口のとこ、みみず腫れになってんの」
「あ、ええと。これは……」
 水樹は曖昧に笑うと口許を手で隠した。

「え、こいつの元カノに殴られた?」
 櫂人は驚いて一瞬瞠目すると、続けて呆れたように大きく溜め息を吐いた。
「何やってんだよ。だから言ったろ。コイツはやめとけって。レズでSMで凶暴で、おまけにストーカー紛いの元カノがいるって、問題あり過ぎだろ」
「菜々はストーカーじゃないよ」
 ゆかりが口を挟むと振り返って眉根を寄せる。
「何日もこの辺うろうろして様子を窺ってたんだろ? 十分ストーカー行為じゃねえか。これが男なら一発で通報されてるぞ」
 ゆかりは敢えて反論しなかった。別れ話に納得できなかったらしい菜々が、会わなくなってからも時折マンションの周辺に姿を見せていたのは事実だからだ。特に年末の休みに入ってからは頻繁だった。
 ゆかりを黙らせた櫂人は苦り切った顔を水樹に向けた。
「これ以上ややこしいことにならないうちに、コイツとはさっさと縁切った方がいい。さ、行こうぜ、水樹さん。女なら、東京に戻ってから俺がいくらでも性格よさそうなの紹介してやるから」
「でも、櫂人君」
 ソファから立ち上がりかけたその腕を引き止めて、水樹は櫂人を見上げた。一瞬だけ逡巡を見せ、躊躇いがちに先を続ける。
「その……僕はゆかりさんじゃないとダメみたいなんだ……」
 水樹を凝視したまま櫂人はしばし絶句した。理解の追い付かない真っ白な頭で、たった今なされた告白の意味をそろそろと手探りする。
「……何だよ、それ」
 回路が繋がった瞬間、頭の中をアブナイ妄想が駆け巡り、噛み付く勢いでゆかりを振り向いた。
「お前、水樹さんに何かしたのか?!」
 ゆかりを庇うように水樹が慌てて前に出る。
「違うよ、櫂人君。ゆかりさんは僕に無理強いしないって意味だよ。僕はその……」
 そこまで来てまた言い淀み、水樹は僅かに目を逸らす。
「……女の人とはダメなんだ」
「は?!」
 混乱しきった頭で櫂人は穴の開くほど水樹を見る。
「今更何言ってんだよ。兄貴とは何でもないんだろ? 水樹さんだってゲイじゃないって否定し続けてたじゃねえか」
「もちろん、僕はゲイじゃないよ。男の人を好きになったことはないし。でも」
「でも何だよ。何で普通の女はダメで、レズでSMのこの女がいいんだよ。訳がわかんねえよ」
 傍で黙って二人の遣り取りを聞いていたゆかりが大仰に溜め息を吐いた。怪訝そうに見てくる櫂人を見上げる。
「おたくみたいな健全すぎるノンケの男にはわからないかもしれないけど……」
 ゆかりは気遣うようにちらりと水樹を見やってから視線を櫂人に戻す。
「水樹君、女を抱くのが怖いんだって」
「……え?」
 僅かに目を見開き櫂人は水樹を見た。
「……怖いって。そうなのか、水樹さん? こいつに何かされたからじゃなく?」
 半ば茫然と聞いてくる櫂人の顔を見て水樹は困ったように微笑む。
「ゆかりさんとは関係ないよ。そういうことに何となく抵抗があったのはずっと前からだから……。自覚したのはゆかりさんに出会ってからだけど。ゆかりさんは僕にそういうことを期待してないし、求めてこないから」
 櫂人が大きく溜め息を吐く。
「ごめん、櫂人君」
「いや、俺に謝ることはねえけどさ……」
 それは指向性がストレート過ぎる櫂人には想像が出来ない世界だった。ショート寸前の混乱し切った頭で櫂人は思考を現実的に切り替える。
「それって、なんかトラウマがあるとか? ああ、こういうことは夏乃の方が詳しいのか……」
「夏乃ちゃんって水樹君の妹さんだよね。心理学に詳しいの?」
「専攻学科だからな」
「だったら詳しく話を聞いてもらった方がいいかも。水樹君ちょっと気になること言ってたし」
「気になること?」
 ゆかりは再び水樹を窺うように見てから櫂人に向き直った。
「おたくは女を抱くとき、いじめてる気分になる?」
 櫂人は心外そうに顔を顰める。
「俺はそんな趣味はねえよ。そりゃ……たまにはちょっとそれっぽい気分になることもあるちゃあるけどさ」
「そうじゃなくて。女を抱くときに罪悪感は感じるかってこと」
「罪悪感? 何で? 不倫とか犯罪とかならともかく、好きな女を抱きたくなるのは自然で悪いことじゃねえだろ」
「だよね。私も水樹君を抱くのに罪悪感なんて感じないよ」
「おま、抱くって……!」
 しれっと漏らしたゆかりの一言に櫂人が瞬時に形相を変える。
「やっぱ手ぇ出してんじゃねえか!」
「櫂人君、落ち着いて。別に無理矢理とかそういうのじゃないから。ちゃんと納得ずくのことだから」
 なだめてくる水樹の顔を見て、櫂人は文字通り頭を抱えた。
「だあ、もう。頼むから大学辞めてここで同棲するとか言い出さないでくれよ。俺が兄貴に何言われるかわかんねーよ」
「い、いや、櫂人君。それは飛躍しすぎ。そんなことはないから」
 水樹が即座に否定すると、
「そうよ」
 梱包された分の段ボールを二、三個抱えてゆかりが唐突に立ち上がった。
「周りの見えてない中高生じゃないんだから、そんなことある訳ないでしょ」
「あれ? ゆかりさん、まだ残ってますよ?」
 作業はまだ半分も終わっていない。空の段ボール箱も商品も山と積まれたままだ。
「うん、デカイのが来て邪魔だから。取りあえず出来た分だけ店の方に置いてくる」
 怪訝そうに見上げてくる水樹に笑顔を見せて、ゆかりが玄関に向かう。
 店舗のチャイムが鳴ったのは、ゆかりが店舗用のサンダルを突っ掛けて仕切りのドアを開けたときだった。
「……はい?」
 さすがに今日は大晦日。表の看板は下げて、年末年始休業の張り紙もしてある。店に取り置きしてあった分も昨日のうちに全部引き取られていった。
 この押し迫った時期に誰が何の用だろうとゆかりが店舗の鍵を開けてみると、通路に立っていたのは菜々よりも若干小柄な印象の娘だった。手袋をした小さな手に旅行用の大きなバッグを持っている。
 彼女は現れたゆかりを見ると僅かに目を見開き、続けて笑顔を見せた。
「こんにちは。あの、ゆかりさんですか? 『ネットショップ白百合』の」
「ええ、そうですが」
 ゆかりは内心小首を傾げる。店を尋ねてくる客はたまにいるが、ゆかりを名指しで来ることはない。疑問に思いながらも、
「大変申し訳ありませんが、今日からしばらくは店舗の方はお休みさせて頂きますので」
 縦板に水でこういう場合の常套句を口にすると、
「あ、そうじゃなくって!」
 彼女は小さく両手を上げて慌ててそれを遮り、勢いよくぺこりと頭を下げた。
「はじめまして。突然ですみません。私、東京から来た青葉夏乃っていいます。兄の水樹がお世話になってるって聞いて来ました。あの、兄はいますか?」

 ◆

「夏乃」
 ゆかりに伴われてリビングに現れた夏乃の顔を見て水樹は唖然と口を開けた。兄の顔を見て夏乃は小さく舌を出す。
「えへへ。来ちゃった」
「どうして。住所を教えてくれるだけでよかったのに」
「だって、あたしも兄さんのおじいさんとおばあさんに会いたかったんだもん。今年は家にいたってやることないし」
「透さんの世話はどうしたんだ」
「早渡のお母さんが来てくれるからちょっとなら平気」
 ゆかりが紅茶とクッキーを出すとにこりと笑って会釈する。
「あ、お構いなく。突然押し掛けてきちゃってすみません」
「気にしなくていいよ。どうせ盆も正月もないんだし。でも、礼儀正しいんだね。さすが水樹君の妹さん。誰かさんとは大違い」
 ゆかりがちらりと一瞥すると櫂人は顔を顰めた。
「何だかいろいろ聞いてくると思ったら……。何で来たんだよ」
「何それ。他に何か言い様ないの?」
 夏乃が櫂人に言い返し、
「そうよねえ。遠いところをせっかく来たのに。女心もわからないなんて、ホント情けない男」
 ゆかりが親しげにその小さな肩に手を掛けた瞬間、
「夏乃に触んじゃねえよ!」
 ひっ攫う勢いで櫂人が夏乃を引き寄せた。そのまま腕の中に抱き込んでゆかりを睨み付ける。
「夏乃、そいつレズだから近寄るな」
「え、そうなの?」
 櫂人の腕の中にすっぽり納まったまま夏乃がきょとんとゆかりを見上げる。
「櫂人君。いくら何でもそんな言い方はないよ」
 水樹があくまでも穏やかに櫂人をたしなめると、ゆかりも櫂人を睨付けた。
「そうよ。人をケダモノみたいに。まったく失礼な男ね」
「ケダモノじゃねえか。水樹さんに即日手ぇ付けやがったくせに」
「水樹君は特別なの。文句ある?」
 またいつもの言い争いが始まりそうな気配に水樹が慌てて話を振る。
「ところで、夏乃。頼んだものは持ってきてくれたかな?」
「うん」
 夏乃はゆかりと睨み合っている櫂人の腕からするりと抜けると、テーブルの上に二枚の紙片を並べた。一枚ずつ水樹に差し出すようにする。
「はい、これ。おじいさんちの住所。こっちは兄さんが住んでたアパートの住所ね」
 水樹はアパートの住所が書かれた方のメモを先に自分の手帳に挟み込むと、もう一枚の古びた紙片に目を落とした。そこには懐かしい青葉の父の字で、水樹の祖父、野元徹治の住所と電話番号が記してあった。
「会いにいってみるのか?」
 櫂人が尋ねると携帯を取り出した水樹は頷いた。
「うん。不審な人影の正体もわかったし、足ももうそんなに痛くはないから。正月早々で迷惑かもしれないけれど……」
「お正月はダメって言われたら後日改めて行けばいいだけだよ。連絡だけでも取ってみれば?」
 夏乃と櫂人が見守るなか、水樹は僅かに緊張の面持ちで携帯のキーを押す。
 記された電話番号は二十年以上も前のもの。変わっている可能性も十分にある。
 不安と期待で躍る心拍をなだめてコールを数える。四回ほどで女の声が出た。
「はい。野元でございます」
 これが祖母なのだろうか。声は想像していたより若々しい。水樹は一度唾を飲み込むとおもむろに口を開いた。少しだけ声が上擦る。
「あの、年末のお忙しい時期に申し訳ありません。突然で不躾ですが、そちらは橘加菜子さんのご実家でしょうか」
 躊躇うような沈黙のあとで返事がある。
「……はい。ですが、加菜子は随分前に亡くなりましたが」
「あの、僕は早渡水樹といいます」
「……え?」
 水樹が名乗ると携帯の向こうの声は僅かに揺れた。
「以前は青葉水樹といいました。加菜子さんの……橘加菜子の息子の水樹です」
「ち、ちょっと、ちょっと待って! 待っててね」
 そう言い置くなり、電話の声は離れていった。遠くで慌てて「お父さん」と何度も呼ぶ声がする。間もなくしっかりとした男の声が電話口に出た。
「電話代わりました。野元徹治です。水樹か、本当に水樹なのか……? 声を聞かせてくれ」
「おじいさんですか?」
 水樹が恐る恐る呼び掛けてみると、相手は声を震わせた。
「……ああ、声が。声が生一郎(きいちろう)君にそっくりだ」
 生一郎というのは水樹の実父の名だ。父に似ていると言われたことが水樹には何となくうれしかった。
「本当に水樹なんだな。今はどこに住んでいるんだ? やっぱり東京か。青葉先生はお元気かね」
「父は随分以前に事故で亡くなりました」
 水樹が事情を話すと徹治はしばし絶句した。
「なんと、先生はそんなに早くに亡くなったのか。それで、水樹は今何をしているんだ?」
「今は縁あって別の方の養子に。医学部に通わせてもらっています」
「……そうか。いろいろあったんだな。今は幸せなのかね?」
 祖父の問い掛けに、水樹は柔和な笑顔で、しかし、きっぱりと頷いた。
「はい。とても」
「そうか。ならよかった」
 ほっと安堵したような祖父の声を聞くと、水樹は本題を切り出した。
「おじいさん、実は今僕は福岡に来ているんです。出来ればお会いしたいのですが」
「おお、そうなのか。だったら、明日にでも来なさい」
「でも、元旦ですし。それに、あの、妹もそれから叔父も一緒なんです。ご迷惑ではないでしょうか」
「なに、毎年寝正月だったが、世の中には年始参りという風習だってあるんだ。返って賑やかでいいさ。遠慮することはない。雑煮を作って待ってるよ」
「ありがとうございます」
 念のために住所を確かめ、交通手段を聞くと水樹は通話を終えた。緊張が緩み、ほっとひとつ息を吐く。
「明日いいって?」
 夏乃が聞くと水樹は頷いた。
「うん。明日の午前中、十時頃に。ここからどのくらい掛かるかな?」
 ゆかりが机の上のメモをちらりと見る。
「場所は中央区なんだね。大濠公園の近くなら、余程迷ったとしても四、五十分。一時間はかからないよ」
「それじゃ九時頃にここに迎えにくればいいね」
 出された紅茶を飲み干すと夏乃は立ち上がった。
「ごちそうさまでした! じゃ、兄さん、あたしたち行くから」
「うん。わざわざご苦労様だったね」
「え、もう行くの?」
 ゆかりが引き止めると夏乃は笑って櫂人を促した。
「はい。もう用は済んだし。いこ、早渡」
「行くって、どこへだよ?」
「あたし、まだ宿決まってないんだ。早渡が泊まってるとこでいいから案内してよ」
「ああ、そりゃいいけどさ……」
 躊躇う様子の櫂人を急き立てるようにして立ち上がらせると、玄関で見送る二人に軽く手を振って夏乃は通路へと出ていく。
 エレベーターへ向かう途中、夏乃の後を歩きながら櫂人がぼそりと呟いた。
「何だよ。やけにあっさりしてんじゃん。水樹さんに恋人が出来ても平気なのかよ」
「兄さんに彼女が出来たのは喜ばしいことだよ。今まであたしを育てることと勉強することだけに明け暮れてたんだもん」
「けど、あいつレズだぞ。SMだし」
 櫂人が顔を顰めると夏乃は振り返った。
「偏見持ちすぎ。兄さんを好きになってる時点で既にレズビアンじゃないんだし。後の趣味は人それぞれだよ。兄さんがいいって言うならそれでいいんじゃない?」
「けど、お前は……?」
 不意に立ち止まった櫂人を、自分も立ち止まって夏乃が怪訝そうに見上げる。
「お前はそれでいいのかよ」
 櫂人は両手をジャケットのポケットに突っ込んだまま憮然とその場に立っていた。むっつりと、幾分拗ねたような顔をして夏乃を見ている。
「……水樹さんといられるなら愛人でも妾でもいいって言ってたじゃねえか。それって……そのくらい水樹さんのこと好きだってことだろ」
 夏乃は目を見張った。まじまじと櫂人の顔を見詰め、やや茫然と口を開く。
「……聞いてたんだ」
「聞こえてきたんだよ。聞きたくなんか、なかったよ」
 櫂人が僅かに目を逸らすと、夏乃も少しだけ目を伏せた。
「あれは別に、そういう意味じゃないよ。あの時は、妹じゃないって言われてパニックになってたし。兄さんあたしを置いてどっかに行っちゃいそうだったから、どこにも行ってほしくなかっただけ」
 淡々と気持ちを口にした夏乃は最後に櫂人を振り仰いだ。
「でも、ずっと気にしてたんだ……?」
 そっと問い掛けると、逸らしていた視線を戻して櫂人も夏乃を見返してくる。
 夏乃は櫂人が手を突っ込んでいるポケットにその小さな手をそっと滑り込ませた。握り込まれていた温かくて大きな掌を開かせてぎゅっと握ると、櫂人も固く握り返してくる。
「お兄ちゃんはお兄ちゃんだから。早渡とは違うよ」
 夏乃が見上げると、櫂人はやっと口を開く。
「んじゃ、俺は? 俺はお前の何?」
「い、いいじゃん。そんなの。わざわざ口にしなくても」
 そっぽを向く態度とは裏腹に、ポケットの中の小さな手は忽ち熱くなった。
「何だよ。たまには言えよ。お前ってさ、俺のこと好きだって言ったこと一度もないだろ」
「そ、そんなことないよ。一度ぐらいはあるよ」
「ねえよ」
 櫂人は小さくぼやくと、僅かに頬を染めた夏乃の横顔をちらりと見て笑った。
「今泊まってるホテル引き払ってさ、ラブホでも探そうか」
「バ……っ」
 一瞬でのぼせ上がったように真っ赤になった夏乃は櫂人のポケットから手を引っ込めて歩き出した。
「バッカじゃないの!」
「おい、待てって」
 エレベーターホールに向けて振り向きもせずにすたすた歩いていく夏乃の後を、櫂人が長い脚でのんびりと追っていった。

 

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Fumi Ugui 2008.11.26
再アップ 2014.05.21

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