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元旦の朝、水樹は夏乃と櫂人を伴ってゆかりのマンションを出た。
祖父に教えてもらった通り地下鉄に乗って六本松で降り、駅から北へと向かう。住所を手掛かりに探し当てたところは、低い垣根とフェンスで囲まれた、古い小さな平屋建ての家だった。玄関に正月飾りがひとつ、表札にはプレートにマジックで野元徹治(てつじ)、依子(よりこ)とある。
水樹がチャイムを押すと、待ち構えていたように玄関の引き戸が開いた。
現れたのは少し背中のまるくなった白髪頭の男だった。痣だらけの顔を見て驚いたのだろう一瞬面を強張らせたが、改めてまじまじと水樹の目を見詰め直すと相好を崩した。
「水樹だな。お前の祖父の徹治だ。よく来た、よく来た。さあ、お連れの方も、どうぞ上がってください」
水樹達が通されたところは八畳の仏間だった。立派な紫檀の仏壇の前に大きな座卓が置いてある。
座敷に入るなり、座卓の前に並べられた座布団を見て徹治は顔を顰めた。襖の向こうに声を掛ける。
「おい。もうちょこっとマシな座布団はなかか。こん間出した来客用の座布団があったろう」
「ああ、はい。そうでした、そうでした。すっかり忘れてました」
忙しそうに声が近付いてくると、隣の座敷に続く襖を開けて、白髪を明るいブラウンに染めた細みの女がかっぽう着のまま現れた。
「水樹だよね? まあまあ、どんげしたと、その顔は」
彼女は水樹を一目見てうれしそうに声を掛けると、
「すっかり大きくなって。おばあちゃんのこと覚えてないよねえ」
と、いそいそと脇をすり抜け様に仏間の南側の障子を開けて、日当たりのいい廊下に積んであった、まだ新しい座布団を持ってきた。一枚ずつ水樹達に勧める。
「はい、どうぞ。お尻から温かくなりますよ」
「あの、お構いなく」
たっぷりと日光を吸ってぽかぽかと温かい、丸みを帯びた座布団は、なんだか乗るのが勿体ないようだ。
「他に使う当てなどないんだ。遠慮はいらんよ」
躊躇う様子の水樹達を見て徹治は笑った。
「本当にもう滅多に座布団を出すような知人など訪ねてこないんだが、一カ月……いや、もう二カ月ぐらい前になるのかな。水樹の幼馴染みって人が訪ねてきてな」
「……え? 幼馴染み?」
水樹が目を見開くと、かっぽう着を脱いで奥から緑茶を運んできた依子が僅かに声を潜めた。
「それがね、大きな声じゃ言えないけど、桐生を刺した人だったの!」
湯呑みを取りかけた櫂人が思わずその動きを止めた。夏乃も受け取った湯呑みを取り落としそうになって慌てて持ち直す。
「ニュース見てびっくりしちゃって」
「ああ、あれは驚いた。礼儀正しい青年だったのになあ。お前も幼馴染みがあんなことをしでかして、びっくりしたろう」
「センスくんが……ここに来たんですか?」
茫然とする水樹の代わりに夏乃が尋ねる。
「もしかして、そのとき羅天検事の転落事故の話もしました?」
「え? ……ええ」
依子はきょとんと夏乃を見返す。
「水樹はこの家に住んでいたのかって聞かれたから、事故があるまでは母親と郊外のアパートに住んでたって」
「水樹の住んでいた家を是非見たいって言うから住所を教えてやったんだが……」
夏乃と櫂人が顔を見合わせた。つまり、大胆不敵にもセンスは水樹の祖父母から直接情報を得ていたのだ。
「すみません。彼が来たのはその一回だけですか? 最近また訪ねてきたというようなことはありませんでしたか」
櫂人の質問に、夫婦は顔を見合わせて首を横に振った。
「いや、なかったが。それがどうかしたのか? そういや、死体が見つかったのはこの近くだったか」
怪訝そうにする祖父母に、水樹は自分が桐生の養子になった経緯とセンスとの因縁を説明した。
依子が唖然と口を開ける。
「それじゃ、最近ワイドショーで桐生の養子がどうこうって言ってたのは水樹のことだったの?」
「そう言えば、母親の婚約者だった検事が死んでどうのこうのと言ってたな。似たようなことがあるもんだとは思ってたが……」
徹治は僅かに眉根を寄せると水樹を見た。
「すまなかったな、水樹。余計なことを教えてしまって」
水樹は穏やかに首を横に振ると、
「いえ、気にしないでください。もう済んだことですから。それよりも」
と、祖父母に向かって居住いを正す。
「今日はおじいさんとおばあさんにお聞きしたいことがあって僕はここへ来たんです」
水樹の正面には仏壇があった。
須弥壇の下に写真が二つ並べて置いてある。スナップ写真を引き伸ばしたと思われる、ぼんやりとした顔写真だ。
ひとつは記憶は朧げだが、母加菜子のものだとわかった。けれども、もう片方の若い男の面影は、残念ながら水樹の記憶の中には残っていなかった。
「……それはお父さんですか?」
「ああ、そうだよ。生一郎君だ」
水樹の視線を追って写真に目をやった徹治は、仏壇から写真立てを二つとも取り出して水樹の前に並べてみせた。
「……若いね」
写真を覗き込んだ夏乃が思わず呟くと、
「そうだなあ」
徹治が感慨深く相槌を打った。
「二人とも若かったわねえ」
しんみりと依子も頷いて水樹に優しい眼差しを向ける。
「水樹、あなたはいくつ?」
「二十七になりました」
水樹が答えると徹治は腕を組んで宙を仰いだ。
「二十七か……。そんな頃だったかなあ。生一郎君が亡くなったのも」
「あの、お父さんはどんな人だったんでしょうか」
水樹の質問に、徹治は写真に目をやって温和な笑みを浮かべた。
「うん。優しい穏やかな人柄だったよ。今の水樹に感じが似てるかな」
「大学院出て、会社の研究室で最先端の研究をしてたんですよ。何だか難しい研究でねえ。聞いても私達にはさっぱりわからなかったけど。ねえ、お父さん」
橘生一郎は、地元の国立大学の大学院を卒業した後、やはり地元の大手企業の研究室に入って最先端バイオ技術の研究をしていた。
早くに両親を隣家からのもらい火で亡くし、祖母に女手一つで育てられた彼は、大学院では大学に残って博士号を取るよう周囲から勧められたが、苦労して大学まで行かせてくれた祖母になるべく早く楽をさせてやろうと敢えて就職を選んだのだった。しかし、その祖母も、加菜子と式を挙げる前にインフルエンザであっけなくこの世を去ってしまった。
「それでも、水樹も生まれて幸せそうだったんだが……」
徹治は大きく溜め息を吐く。
「まさか、あんな聞いたこともないような病気になるとはなあ」
「別にどこも悪くなかったのにねえ。本当に突然で……」
生一郎の病気は難病とされるもののうちでも非常に珍しい症例で、治療法ももちろん確立されておらず、健康保険適用外の療法や薬、転院や通院の交通費等、出費はかさんでいった。まだ結婚したばかりの若い夫婦に蓄えなどほとんどなく、すぐに困窮し、加菜子は自分の実家に頼るしかなかった。
「だから、知尋さんにいろいろ親切にして頂いて本当に助かりましたよ」
知尋という名を耳にして水樹は僅かに身を乗り出した。夏乃と櫂人も心持ち面を改める。
「あの、羅天検事はどんな方だったんでしょう。お母さんとはどこで知り合ったんですか?」
「最初は病院だったのよねえ。七月? 八月だったかしら。何しろ暑い盛りでしたよ」
依子は確かめるように徹治の方を見てから話し出す。
「その頃は入院ももう半年ぐらいになってて、生一郎さんの病状も大分進んでてね。加菜子が気落ちしているところを気を使って頂いて。生一郎さんの病気のことを話すと親切に難病の会とか教えてくださってね。病院への送り迎えとか、他にもいろいろ個人的な援助もして頂いたの」
「ああ。労災認定できないか問い合わせてもらったりなあ」
徹治も頷く。
「生一郎さんが亡くなった時にはお葬式や霊園の世話までして頂いて、親切な方でしたよ。本当にお世話になりました。まあね、こちらもいろいろと親切にしてくださるのは加菜子に好意を寄せてくださってるからだとは薄々わかってましたけど……」
ここまで話して依子は困ったように笑った。
「でも、結納の日取りが決まったって聞いた時はびっくりして。あの子ったら私達にはちっともそんなこと言わないんだもの」
「あの、すいません」
依子の思い出話の隙間に夏乃が割り込んだ。
「結納の話が出たのっていつ頃ですか?」
依子は少し思い出すようにする。
「ええと、四十九日のときでしたよねえ。確か」
「ああ、そうだったな。お寺さんが帰ったあと、知尋君から話があった」
「そんなに早く?」
夏乃が目を見張る。
「ええ。婚姻届は法律上まだ先になるけれど、婚約だけでもどうしても。内縁関係でいいから新居に一緒に住みたい、母子家庭のまま放っておくのは忍びないとおっしゃって」
そこまで話して依子がまた困ったように笑った。
「私達もね、このまま母子でいるよりは望まれているのだからって、少し早いとは思ったんですけど祝福したんですよ。加菜子は生一郎さんに義理立てして、一緒に住むのだけは遠慮してたみたいですけど。ああ、そうだ」
依子は仏壇の前までにじり寄ると下の引き出しを開けた。中から一冊の写真ホルダーを出してきて水樹の前に差し出すようにする。ページを捲って、最後の方にある一枚の写真を指さした。
「ほら、これがその時の写真」
それはサービス版サイズの集合写真だった。
恐らくはこの家の、庭先に立った人々は皆喪服を着ている。祖父母と加菜子と、加菜子に抱かれた二歳の水樹。そして、加菜子のすぐ後ろには、堂々とした体格の若い男が一人写っていた。
黒のスーツの襟元に見えるのは秋霜烈日のバッジ。生気漲る精悍な顔付きに、猛禽類を思わせる鋭い眼。日に焼けた赤銅色の肌。その全体の印象は彼の父親から受けるそれに酷似している。
雅武の眼鏡の奥の眼を思い出し、水樹は僅かに身震いした。
「大丈夫か、水樹さん」
櫂人が気遣うように聞くと、
「大丈夫……」
写真に目を落としたまま水樹は小さく頷く。
自信に満ちた笑顔で写っている知尋とは対照的に、加菜子の表情は微妙なものだった。笑っているようにも見えるが、ほとんど無表情に近く、全体にやつれた印象が否めない。抱かれている小さな水樹も母親に影響されてか、泣き顔ではないが笑顔とは程遠い顔をしていた。
「ちょっと見せて」
水樹から写真ホルダーを借り受けると、夏乃も櫂人と写真を覗き込む。
「あの、羅天検事が亡くなったのはいつ頃なんでしょう。四十九日からはどのくらい……」
水樹の質問に徹治は首を捻った。
「うーん、事故があったのは十二月に入ってすぐだったから、十日後ぐらいか。二週間は経ってなかったと思ったが」
「あれも突然でねえ。びっくりしてしまって」
眉を顰めたあと、目の前の水樹を見て依子は優しく、だが、切なげに微笑んだ。
「水樹を助けて頂いて……。本当に、知尋さんには足を向けて寝られませんよ」
「まったくだなあ」
湯呑みの残りを飲み干して徹治が感慨深気に溜め息を吐くと、依子は空になった湯呑みに緑茶を注ぐ。
「知尋さんが亡くなった後はお父様にも随分お世話になってね」
「お父様って、羅天雅武さんですか……?」
水樹が瞠目すると依子は頷いた。
「ええ。今では議員の先生におなりだけど、当時は確か大阪の判事さんで。加菜子に療養所を世話してくれたのも羅天さんだったの。知尋さんが亡くなってあちらも大変でしたでしょうに。当座の入院費まで貸して頂いて」
「水樹を養子にって話もあったんだが、さすがにそれは加菜子が承知しなくてな。当時は入院やら葬儀やらで出費がかさんだ後だったから、こちらに余裕もなかったし。あちらは判事さんなんだから、水樹の将来のことを考えればいっそのこと養子に出した方がよかったんだろうがなあ」
「お父さん、それは仕方がありませんよ」
依子がとがめるようにちらりと徹治の顔を見る。
「加菜子だって母親ですもの。いくら自分の具合が悪くても我が子を手放したくなんかありませんよ」
「お母さん具合が悪かったんですか?」
水樹が尋ねると、
「うむ。加菜子は子供の頃からちょっと神経の細いところがあったんだが」
徹治は新しい緑茶を一口飲んで顔を顰めた。
「生一郎君、知尋君と立て続けに亡くしてから鬱になってなあ」
「あなたを唐突にどこかに預けてしまってから特に酷くなってねえ……」
依子が僅かに眉を顰め溜め息を吐く。
「ちょっとしたことに怯えたり、部屋に閉じこもって出ようとしなかったり」
「考えてみればあの頃から既に病気だったのかもしれんな。水樹をわざわざあんな遠くに預けるなんて」
「まあ、その時は私達もまさか東京の孤児院に預けたなんて夢にも思わなかったけれど」
「お母さんは僕を何処に預けたのか言わなかったんですか」
「ええ。誰が聞いても決して。だから、青葉先生から連絡をもらって初めて知ったの。驚いたわ。羅天さんも、とっても驚いてた」
「え?」
水樹が大きく眼を見開く。
「羅天さんは……僕が東京にいることを前から知ってらしたんですか?」
依子ははっきりと頷いた。
「ええ。水樹の居所がわかったら是非知らせてほしいって聞いてたから、青葉先生から連絡が来たときにお知らせしたの」
徹治も頷く。
「知尋君の忘れ形見も同然だから養子に欲しいって話だったからな。でも、相手先が医者ならってことで納得してくださったようだったよ」
眉を顰めて夏乃と顔を見合わせた櫂人が口を開く。
「それ以降、羅天議員と連絡は?」
「いや、これといって特には。借りていた葬式代や入院費も四、五年で返してしまったし。後は年賀状や暑中見舞いの遣り取りをするぐらいだよ」
櫂人の質問に答えた徹治は怪訝そうな顔をして、目の前に微妙な表情で並んだ三人を見比べた。
「羅天さんがどうかしたのか?」
「いえ。週刊誌の記事で僕のことを知って、つい最近会いにいらしたので」
水樹が穏やかに微笑むと、座卓の上の小さなデジタル時計を見て依子が慌てて腰を上げた。
「あら、もうこんな時間。お昼にしましょう。お雑煮食べていってね」
◆
昼食に博多流だと言ってブリの入った雑煮を振る舞ってもらい、餞別にと両親の写真を何枚かもらって祖父母の家を辞すると、時刻はもう三時近くになっていた。
他に用もないので暗くなる前にと真っ直ぐゆかりのマンションへと向かう。
年末年始休業の張り紙がしてあるドアのチャイムを鳴らすとすぐにゆかりが出迎えた。店舗のドアを大きく開けて水樹達を迎え入れる。
「お帰り。どうだった。おじいさん達には会えた?」
「はい」
一歩入って水樹が笑顔で頷くと、その後ろから夏乃が声を掛けた。
「兄さん、お母さんが入院していた療養所には行くの?」
「いや、すぐには。さすがに正月休みに訪ねるのは非常識だし」
「そりゃそうだよね。じゃ、まだしばらくはゆかりさんとこにお世話になるんだ」
「うん。そのつもり」
夏乃に答えてから、水樹はそっとゆかりの方を振り向いた。
「もちろん、ゆかりさんにいいって言ってもらえたらだけど……」
水樹が窺うようにすると、ゆかりはうっとりとうれしそうにして優しく水樹の頬に手を掛けた。額が触れ合うほど顔を近付けて、じっと水樹の瞳を覗き込む。
「もちろん、いいよ。水樹君の好きなだけいてくれて」
「ありがとう。あの、ゆかりさん。あまり近付くと……。夏乃も櫂人君も見てるから……」
口ではそう言いながら、水樹に嫌がっている様子は皆無だった。
それどころか、むしろ夏乃の目にはゆかりと触れ合うことで兄が安心しきっているように見える。なのに、水樹の両手はぴくりとも動かない。身体の脇にだらりと垂れたままだった。何かと理由を付けてはべたべたしてくる櫂人の場合は極端な例だが、水樹の方からまったくゆかりに触れようとする気配がないのは、やはりどこか不自然さを感じさせる。
何気ない視線を装い、その実注意深く観察を終えると、夏乃は櫂人の腕を取った。
「じゃ、お邪魔のようだから、あたしたち東京に帰るね。いこ、早渡」
「おい、待てよ」
櫂人が慌てて夏乃を見返す。
「あたしたちって、俺もかよ」
夏乃は櫂人を見上げて腕をぎゅっと引っ張る。
「今朝ちゃんとチェックアウトしてきたでしょ。早渡連れ戻して来るようにって透さんに頼まれたんだ。東京で何か調べることがあるんだって」
「ちぇ。人使い荒えな」
櫂人は顔を顰めると、水樹を振り返った。
「でも、水樹さん一人で大丈夫かよ?」
「大丈夫」
憂慮が顔に出ている櫂人を見て水樹は笑った。
「櫂人君と約束したことはちゃんと守るし。それに」
「一人にならないように私がしっかり見てるから」
言葉の先を引き取り、ゆかりがこれ見よがしに水樹の肩を抱くのを見て、櫂人は露骨に顔を顰めた。
「お前が一番ヤバイんじゃねーか」
「もう、いいから。いこ」
喧嘩になる前にとゆかりから櫂人を引き離すと、夏乃はゆかりにぺこりと頭を下げた。
「それじゃ、ゆかりさん。兄さんのことよろしくお願いします」
◆
表通りに出る手前でマンションを振り返り、顰めっ面で櫂人がぼやいた。
「大丈夫なのかよ。あんなのに水樹さん任せて」
「心配いらないよ。ゆかりさんしっかりしてるし。透さんも電話で話したとき、なかなか頼もしい女性(ひと)だって言ってたよ」
「何だ、それ。女に対する誉め言葉じゃねえだろ」
櫂人がますます顔を顰めると、
「今の兄さんには最適の人だよ」
と、夏乃は笑った。
「そんなことよりさ、兄さんのおじいさんとおばあさんのことだけど……」
翳りかけた薄曇りの空の下、夏乃と並んで表通りを博多駅へと向かいながら、櫂人は正直な感想を口にする。
「何か、すげーのん気そうな人達だったよな。警戒心がないっていうか、人がいいっていうか。さすが水樹さんの血の繋がった身内って感じだ」
「羅天検事のこともこれっぽっちも疑ってなかったよね」
「疑うって、何をだよ?」
櫂人が怪訝そうにすると、夏乃は見下ろしてくるその顔を横目でちらりと見上げる。
「早渡のお母さんから聞いたんだけど、羅天検事って物凄く女関係派手だったんだって」
「そうなのか?」
「うん。水商売関係を中心に取っ換え引っ換え。で、長続きもしてなかったんだって。あくまでも聞いた話だって早渡のお母さんは言ってたけど」
「……へえ。まあ、如何にも自信満々でモテそうなタイプではあったな」
他人事のように相槌を打った櫂人は、次の瞬間思い当たったように眉根を寄せた。
「だけど、そんなのよくあることだろ。過去に遊んでたってだけで問題ありって言われたら、立つ瀬がないぞ」
何だか自分のことを言われたようで、つい擁護に力が入る。
「誰もそんなこと言ってないよ。何向きになってんの?」
夏乃はもう一度櫂人をちらりと見ると、視線を正面に戻して考え込むように視線を落とす。
「ただ、そういう人が、兄さんのお母さんに対してだけすごく熱心だったんだよね。結納まで行くぐらいだもん。飽きっぽい人の割には長いことかかってアプローチしたみたいだし……」
「それのどこが問題なんだよ。それって、今度ばかりは本気だったってことだろ」
夏乃は眉間に皺を寄せてぼそりと呟く。
「本気だったら尚悪いよ」
「どういう意味だよ」
櫂人が聞き返すと、夏乃は不意に立ち止まった。
「兄さんのお母さんにその気がなかったとしたら逃げ場がないじゃん」
「夏乃?」
怪訝そうにする櫂人を振り返ると夏乃は真正面からその顔を見上げた。
「だって、おじいさん達の話、言っちゃ悪いけど自分達が歓迎してたって話ばっかで、実際お母さんはどう思ってたのかって肝心なところがちっとも見えなかった」
夏乃は僅かに眉根を寄せる。
「その人のこと好きなら問題ないよ。でもさ、嫌いな男に言い寄られて厚意や援助って名目のお金で縛られて、周りからも非の打ち所ない良い縁談だって勧められたら断れないよ。好きでもないやつと結婚しなきゃならないじゃん。あの写真だって、婚約者と一緒にいるにしてはあんまりうれしそうに見えなかったよ」
「闘病の末に夫が亡くなったんだぞ。笑顔でなんていられないだろ」
「そういう気持ちがあるなら、そもそも夫が病気で亡くなって幾らも経たないうちに他の人と婚約しようなんて思わないよ!」
語気強く言い放つ夏乃の顔を櫂人は茫然と見る。
「……お前は水樹さんのお母さんにその気がなかったって思うのか?」
「わかんないけど……」
夏乃は僅かに目を逸らしてからまた櫂人を見上げた。
「だって、お父さんが亡くなってまだ間がないんだよ? 早渡は経験あるかどうか知らないけど、四十九日ってあっと言う間だよ? 結納とか新居とか早すぎだよ。非常識だし、無神経だよ」
夏乃は透の手術中に雅武が現れたときの不快さを思い出す。さすが親子と言うべきか、知尋の無神経さには父親のそれと同種のものを感じる。
「……まあ、確かに早すぎるかもしんねえな」
同じことを思い出したのか、渋い顔で櫂人が呟くと、夏乃は小さく溜め息を吐く。
「それに、もし、お母さんがその気でも、子供だった兄さんはそんなに早く気持ち切り替えられないよ。あたしだってお父さんが死んだとき立ち直るのに半年ぐらいはかかったもん」
「だって、お前。水樹さんまだ二歳だったんだぞ? さすがの水樹さんもまだ何もわかんないだろ」
「正確には二歳半だよ。目の前の相手が父親かそうじゃないかぐらいわかるし、相手の感情を読み取って反応できるようになる頃だよ」
母親が困惑しているということぐらいは読み取れる年齢だ。あの写真のように。
「……水樹さん当時のこと覚えてねえだろうな。何か怖がってるみてえだし」
「そりゃ階段から落ちたんだし、それに側で人がひとり亡くなってるんだから、よくは覚えてなくても恐怖心は残ってるんじゃない?」
「そりゃそうか。でも、記憶がありゃことの半分ぐらいは謎が解けそうなんだけどな……」
「ないもの強請りしたってしょうがないよ」
夏乃は軽く肩を竦めると櫂人の腕を取った。
「さ、いこ。あんまりのんびりしてると搭乗時刻に間に合わないよ」
夏乃に腕を引っ張られ、櫂人も歩き出す。メインストリートを駅へと急ぐ二人に夕闇が迫ってきていた。
◆
「つまり、夏乃君の言いたいことは、当時の三人の感情に齟齬、或いは対立があったのではないかということだね?」
透の目を見て夏乃が頷く。
病院で二人を迎えた透はとっくに夕食を済ませ、ニュースを見てくつろいでいるところだった。櫂人が東京を発った頃より随分肌の色艶もよくなり、声の張りも戻ってきている。
「だけど、水樹さんは二歳だぜ」
櫂人が一応反論してみると、ほんの僅かに考え込む様子を見せてからおもむろに口を開く。
「幼児にも感情はある。好き嫌い、快・不快は大人よりもむしろはっきりしているな」
「もしも――もしも、だぜ? 夏乃の言ってる通りお母さんの方にその気がなかったとしてだ」
ソファからほんの少しだけ身を乗り出して、櫂人は疑問を口にする。
「だったら、何でその後も入院しなきゃならないほど怯えてたんだ? 言い寄られて迷惑していた男がいなくなってくれたんだから、むしろほっとするんじゃねえ?」
夏乃が眉根を寄せて首を捻る。
「うーん。兄さんのお母さんだから、もしかして、兄さんを庇って亡くなったことに負い目を感じてたとか……」
「あー。何かそれ、すっげーありそう……」
「それに、羅天に兄さん取られるのが嫌だったんじゃない? 養子の話が出てたみたいだし。ああ、それに、透さん」
傍らの櫂人から目を転じると、夏乃はベッドの透に向き直った。
「羅天雅武はずっと前から兄さんが東京にいること知ってたんだって。ウチのお父さんが兄さんを養子にするとき、おじいさん達が羅天に連絡取ったて言ってたよ」
思い出したように櫂人も顔を顰める。
「病院に来た時は、水樹さんのお母さんが亡くなってからずっと行方がわからなくて探してたみたいなこと言ってたんだぜ? どういう魂胆で嘘なんか吐きやがったんだろう」
「……なるほどな」
やはり水樹の身辺はとうの昔に調査済みだったのだ。恐らく、水樹が青葉の養子になって以来ずっと密かに見守っていたのだろう。
――いや。
本当に彼は見守っていたのだろうか。
もしかしたらそれは、見守っていたのではなく、監視していたのではなかったか――。
本当に水樹を我が子の形見と思うなら、青葉が亡くなったときに援助の手を差し伸べてもよかったはずだ。だが、それをせず、二十年以上も放っておいたものを今更、しかも、嘘を吐いてまで接触に踏み切ったのは何故なのか……。
自分の思考に浸っていた透を我に返らせたのは夏乃の声だった。
「それに、兄さんが女の人を抱くのに罪悪感を持ってるって話だけど……」
「罪悪感?」
怪訝そうに眉を上げる透に、櫂人と夏乃が思い掛けなく明らかになった新事実を説明する。透は落ち着き払って聞いていたが、ややあって、一言。
「なるほど」
話を聞き終えていささかも動じない透を見て櫂人が顔を顰めた。
「それだけかよ。やけにあっさりしてんじゃねーか。もちっと驚けよ」
「水樹の周りに異性の影がまったくないことに関しては私もいろいろと思うところがあったからな。抱いてきた疑問が氷解して、返ってすっきりしたよ」
ひとつ笑うと透は改めて夏乃の方に目を向ける。
「それで、夏乃君はどう思うんだね?」
夏乃は僅かに首を傾けた。
「やっぱ幼児期のトラウマなんじゃないかな。母親が性的な虐待受けてるのを見たり、逆に男性に負のイメージを持っている母親の支配があまりに強すぎたりすると、男であることに罪悪感を持ったり、正常な性愛観を持てなくなるのはありがちなケースだし」
「幼児期っていうと、やっぱ羅天知尋に関係あるのか……?」
「両親の間に何かあったって考え方もあるけど、お父さんはもう何カ月も入院してた訳でしょ。二歳以前の記憶となると、それこそ目の前で何が起こっていてもわからない可能性の方が高いし……」
「当時水樹は二歳、他の当事者はすべて故人だ。彼らの間に何があったのかは推測することしか出来ないな。決め手があるとすれば、それはやはり水樹の記憶だけということになる」
「水樹さんの記憶なあ……」
櫂人が呟くとにわかに沈黙が降りた。
普通に考えれば二歳半の記憶など信憑性が怪しいものだが、水樹の場合は侮れないような気もする。ちらりと表情を盗み見てみると、透も夏乃も同じように考えているのか難しい顔付をしていた。
水樹の記憶がもし蘇ったとして、一体それは何をもたらすのだろう。
空恐ろしいような予感に櫂人は僅かに肌を粟立てた。
「そう言えば、兄貴の方の用は何なんだよ?」
微妙な空気を断ち切るように櫂人が話を振ると、透はソファの近くのサイドボードへと目をやった。
「そこの封筒を取って、中を見てくれないか」
見れば、サイドボードの一番上のボックスにA4の封筒が立て掛けてある。
言われた通りに櫂人が手に取り中を確かめると、入っていたのは簡単な報告書だった。一枚きりの紙に顔写真と住所・氏名、勤め先などがプリントされている。
それは透が司法修習時代の知り合いを総動員し、両親や屋敷、瞭三郎にまで骨を折ってもらって、やっと手に入れた情報だった。
「その調書の女性のところへ行って、話を詳しく聞いてきてほしい」
櫂人が顔写真を見て顔を上げる。
「誰だよ。このおばさん」
「東京地検時代に羅天検事が付き合っていた女性だ。彼女と何らかのトラブルを起こして彼は福岡へ飛ばされたらしい」
僅かに目を見開く櫂人を見て透は薄く含み笑った。
「プライベートでの羅天知尋をよく知る人物だ。話を聞いてみる価値があるとは思わないか?」
Fumi Ugui 2008.12.05
再アップ 2014.05.21