◆
夏乃と櫂人を見送って水樹が店舗の中に目を移すと、隅の台車に梱包済みの段ボール箱が積み上げてあった。
「今日はもう梱包終わったんだ」
「うん。今終わったところ」
「ごめん、手伝えなくて。居候なのに」
律義に謝る水樹を見てゆかりは笑った。
「気にすることないよ。水樹君は目的があってこっちにいるんだから。そっちを優先するのは当たり前。今お茶にするね」
ジャケットを脱いでリビングのテーブルの前に落ち着くと、水樹はリュックからもらってきた写真を取り出した。
父の写真と母の写真。そして、水樹を抱いた母と羅天知尋が写った四十九日の集合写真の合計三枚。ゆっくりと一枚一枚に目を落とす。
「……ねえ、水樹君」
入れたての緑茶を勧めてゆかりが声を掛けると水樹は顔を上げた。先を促すようにゆかりの目をじっと見る。
「水樹君て、いつまでこっちにいるのかな。当然大学が始まったら帰るんだよね」
「うん。そりゃ学校サボるわけにはいかないから」
水樹が笑って穏やかに答えると、ゆかりは思い切ったように身体を水樹の方に向け、居住いを正した。それから僅かに身を乗り出し、思い詰めたような瞳で、半ば囁くように低く、ゆっくりと口にする。
「私ね、水樹君のことが好きなの」
「……え?」
水樹は僅かに目を見開いた。それ以上の反応を待たずにゆかりは続ける。
「付き合ってほしいんだけど、ダメかな。水樹君が東京に戻る前に言っとかなきゃと思って。何かもう、順番とかメチャクチャになってるけど……」
「でも、ゆかりさんって……女の人が好きなんですよね?」
水樹が確認するように尋ねると、ゆかりはきっぱりと頷いた。
「うん。今まで好きになったのも付き合ったことがあるのも皆女の子。今も他の男になんか興味ない」
「それじゃ、何で……?」
「自分でもよくわからないけど……」
溜め息混じりにそう漏らしてから、ゆかりは目の前の水樹を改めて眺めた。
何度見ても完全に男だ。声も顔も体付きも。態度だって人当たりは優しいが、女々しいところはひとつもない。今は僅かに首を傾げて、静かにゆかりの言葉に聞き入っている。
「水樹君って、あまり男臭くないからかな」
「ええと、それはちょっと……」
水樹が苦笑する様子なのを見てゆかりは慌てて言い添える。
「ああ、でも、なよなよしてるって意味じゃないよ。ぎらぎらしてないっていうか、若い男特有の雌を漁ろうって気があまり感じられないのかな。あまり男だから女だからって、相手に型を押し付けるタイプでもないし……」
ゆかりは自分の気持ちを一つ一つ確かめ整理していくかのように淡々と伏し目がちに話し続ける。
「元々大人しくて可愛い感じの子がタイプではあったの。でも、まさか男を好きになるなんて……正直、我ながら戸惑ってる」
そこで一旦言葉を切り、決然と顔を上げるとゆかりは水樹の目を見据えた。
「でも私、自分の気持ちは誤魔化せない。水樹君が好きなの。水樹君がゲイでもノンケでも」
最後にさりげなく付け加えられた一言に、水樹は慌てて首を横に振る。
「いや、それは。ゲイというのはホントに誤解だから」
「ホントに?」
ゆかりは水樹ににじり寄った。膝が触れ合う手前で僅かに距離を取り、水樹の瞳を覗き込む。
「それじゃ私のこと受け入れてくれる? 付き合ってくれる? 私ってノンケの娘と違って訳ありだし、水樹君にも好みがあるだろうから、女なら何でもいいって訳じゃないだろうけど……」
僅かに揺れるゆかりの瞳をまじろぎもせずに受け止めると、一呼吸だけ置いて姿勢を正し、水樹はおもむろに口を開いた。
「ゆかりさん。あなたの気持ちはとてもうれしいです。こんなふうに告白されたのって初めてだし。だけど……」
息を詰めてじっと見詰めてくるゆかりから目を逸らさずに、水樹は今の正直な気持ちを言葉にする。
「僕は今どうしても知らなければならないことがあって、そのことで頭も心も一杯で。誰かをまるごと受け入れる自信も余裕もありません。それに僕は……自分でもよくわからないんです。……自分の気持ち」
ゆかりのことはもちろん嫌いではない。出来ることならこのままでいたいとさえ思い始めている。
けれども、恋愛など経験したことのない水樹には、自分の心の中に芽生え始めたこの仄かな気持ちの正体が何なのか見極めがつかなかった。自分の特殊な事情を考えれば、もしかしたら閨房(けいぼう)での相性が奇跡的に一致しているゆかりを、ただ都合よく使っているだけかもしれないのだ。なまじ恩義も好意もあるだけに、今軽率に返事をして、ゆかりにぬか喜びさせるようなことだけはしたくなかった。
「……本当に今更で、最低な感じだけど。ごめんなさい……」
水樹が丁寧に頭を下げるのを見るとゆかりは小さく溜め息を漏らした。しかし、それでも怯まず、顔を上げた水樹の瞳をもう一度覗き込む。
「それって、つまり……。今度の事件の真相さえ掴めば前向きに考えてくれるってこと? 私のことは嫌いじゃないのよね……?」
「はい。ゆかりさんはとてもいい人だと思います」
「うーん。いい人かあ……」
水樹の率直だが当たり障りのない返事に、もう一度溜め息を吐いてゆかりは宙を仰ぐ。
「一緒にいると楽しいし、触れ合っていると安心だからつい甘えてしまって、あなたの気持ちも受け入れられないのにずるずるとここまで来てしまったけど……」
すまなげに目を伏せる水樹の手を、ゆかりの両手がそっと取る。
「私は水樹君とこういう関係になったことちっとも後悔してないよ。最初に手を出したのは私の方だし。出来ればこのままの関係でいいから続けていきたいと思ってる。東京へ帰っちゃったらそれも無理かもしれないけど……」
「ありがとう」
水樹はほんのりと少し照れたように微笑むと、互いに手を取り合ったまま、ゆかりの目を真っ直ぐに見詰め直した。
「ゆかりさんは勇気があるんですね」
「勇気っていうか、単に思ってること中に仕舞っておけない性格なんだと思う」
ゆかりを見詰める水樹の瞳がにわかに決意の色を帯びる。
「……僕もゆかりさんを見習って、勇気を出して行ってみます」
「行くって、どこへ?」
「僕が両親と住んでいたアパートへ……」
水樹はリュックから手帳を出した。メモを挟んであったページを開く。
「そう言えばそんなこと言ってたっけ。市内なの?」
「はい。これが住所です」
水樹から手渡されたメモを見たゆかりは唖然と口を開いた。
「これって……私の実家と同じ町内なんだけど」
「え?」
思い掛けない事実に目を見開く水樹に、ゆかりが更に詳しく説明してみせる。
「番地もかなり近いよ。ウチは五の二なんだけど、ほら、これって三だもん」
水樹がメモに目を落として茫然としていると、ゆかりが久しぶりの笑顔を見せた。
「やっぱり私って水樹君と縁があるんだ。そうとわかれば全面協力するよ」
携帯を開くとキーを押し始める。
「善は急げって言うから連絡入れてみるね。これだけ近所なんだから、ウチの親、もしかしたら何か知ってるかもよ」
◆
「……ここが水樹君の住んでたアパートだったの」
翌日、実家の敷地の中にミニバンを止め、一旦外に出て門の前に立ったゆかりは唖然とその古びたアパートを眺めた。
道路に面した屋根付きの小さな駐輪スペース。吹きっさらしの急な階段と通路。各階二部屋ずつの、何の変哲もない二階建てのアパートだ。片側一車線の道路を隔てた向かいには、ゆかりが生まれて育った家がある。
ゆかりにとってこのアパートは、単なる日常風景の一コマに過ぎなかった。少なくとも昨日までは。
「何だか不思議。ここに水樹君が住んでたなんて……」
呟いてふと傍らを見ると、水樹はただじっとアパートの二階を見詰めていた。心なしか顔色が青白く見える。
「大丈夫、水樹君?」
「……うん。大丈夫」
水樹は道路を渡り、そっと階段の下へ近付いてみる。手前は小さな駐輪スペース、階段下は狭く、すぐ目の前がブロック塀とフェンスだ。
水樹は階段の前に立つ。
羅天検事はここで亡くなったのだ。
しばし静かに黙祷を捧げると、目の前の階段を見上げた。随分急だ。スペースが取れなかったのか途中に踊り場はなく、上から滑り落ちたら下のブロック塀にぶつかって止まるしかない。
所々赤錆の浮いた階段にそろりと足を掛ける。慎重に一歩、二歩。動悸はしない。気分も悪くなかった。自分を励ましながら最上段まで上る。振り返ると、一歩後ろをゆかりが付いてきていた。
「どうしたの、水樹君? 何か思い出した?」
「いや、何でもないよ」
心配顔のゆかりに笑顔をひとつ返して、水樹は二階の通路に目を移した。
部屋は手前と奥の二つ。自分がどちらの部屋に住んでいたのかは記憶にない。新聞記事にもそこまでは書かれていなかった。
そろりと僅かに歩を進め、通路の手摺りから何気なく下を見下ろした途端だった。
ばくんと心臓が大きく波打ち、水樹の視界が揺れた。ざっと頭から血の気が引き、動悸だけが早鐘を打つ。辛うじて手摺りを掴み、水樹が力なくその場に膝を突くと、ゆかりが抱き込むようにして慌てて身体を支えた。
「大丈夫、水樹君? 気分悪い?」
「……わからない。でも、何だか……」
最初に新聞記事の写真を目にしたときと同じだ。だが、それよりも何倍も強い。
感じたのは、怖れ。
漠然としているが確かなものだ。記憶はなくとも、体が覚えている。
でも、何故この場所なのかがわからない。落ちたところは階段なのに。
割りきれない思いを抱え、手摺りに掴まったまま震えていると、ゆかりが水樹の手に自身の掌をそっと重ねてきた。ゆかりの手は温かく、凍った冷たい手摺りをきつく握って放さない、血の気が失せて蝋のように白く固まった水樹の指先を徐々に解かし温めていく。手摺りを離れ自由になった両手でゆかりの手を握り返してじっとしていると、次第に震えが収まってきた。
ゆかりがほっと息を吐く。
「よかった。震え収まってきたね。真っ青だったからびっくりしちゃって」
「ありがとう、ゆかりさん。もう大丈夫だから」
人心地つき、ゆかりに支えられながらゆっくりと立ち上がって首を巡らせると、やはりそこはほんの一歩か二歩だが階段からは距離がある。
「無理をしないで一度休んだ方がいいんじゃないかな。まだ顔色よくないよ?」
「そうだね。これ以上ゆかりさんに迷惑掛けられないし」
ゆかりに支えられたまま水樹は慎重に階段まで歩を進める。そこから階段を見下ろしてみるが、恐ろしいとは感じなかった。やはり、ここではないのだ。
一歩一歩ゆっくりと、手摺りに掴まって階段を下まで降りると、水樹はアパートの二階を振り仰いだ。
――問題なのは階段ではない。あの手摺りだ。
曇天の空にアパートが聳え立っている。
水樹の脳裏を既視感が掠め、僅かに身体が震える。
二階の手摺りを見詰めていつまでも立ち尽くす水樹の身体をゆかりが優しく抱いた。
「こんなところにいつまでも立ってると風邪引いちゃうよ。さ、行こう。水樹君」
◆
ゆかりの実家は少し驚くぐらい大きな家だった。
建物が大きいと言うよりは敷地が広いという印象だ。ブロック塀と生け垣で囲まれた敷地の中に、三台分は優にある駐車場、果樹が何本か植わった畑と花壇付きの庭、門の正面には立派な瓦葺きの二階建の母屋が見える。
「ただいま」
ゆかりが合鍵でドアを開けると、廊下の奥からちょっと重めの足音が近付いて来た。
「あんた、聞いた時には帰らん言っといて、急に帰ってくるって何ば考えとっとか。会わせたい人って、まさか女の子とかじゃ……」
小言を言いながら玄関まで出てきたゆかりの母親は、水樹の顔を見た途端、電池でも切れたように唖然とその場に立ち止まった。
「こちら、早渡水樹君。子供の頃は橘って名字で、前のアパートに住んでたんだって」
ゆかりの紹介を受けて水樹が丁寧に頭を下げる。
「早渡水樹です。新年早々急に押しかけまして、本当に申し訳ありません」
口を開けたままぽかんとしていたゆかりの母親は、水樹の男性特有の低い声を聞いた途端、突如踵を返した。
「お、お父さん! お父さん!」
奥に向かって忙しなく呼び掛けながら、ふくよかな身体で転がりそうに大慌てで廊下を戻っていく。その姿が奥に消えるや否や、甲高い声が玄関まで響いてきた。
「のん気に寝てる場合じゃなか! ゆかりが男ん人ば連れて帰ってきたばい!」
「ささ、もっとずっとこっちへ入って」
飛び起きたゆかりの父親は寝癖のついた頭もそのままに廊下に姿を現した。水樹の姿を認めると先に立って座敷に招き入れる。
そこは八畳二間が続きになった間取りの手前の部屋で、中央に大きなこたつがあり、床の間の前に設置された薄型ワイドテレビの中では芸能人が新年会をやっていた。
「さあ、どうぞ。当たってください」
ゆかりの父謙介(けんすけ)は水樹にこたつを勧めると、自らも座椅子のある定位置に戻った。水樹の顔を改めて見て微笑む。
「ゆかりが人ば連れてくるなんて言うから何事かと思ったばってん、まさか水樹君だったとは。大きくなったなあ。そう言えば何となく橘さんに感じが似とー。なあ、千佳子」
謙介が水を向けると千佳子も頷く。
「ホント、もう二十年以上もたったとねえ。この家のことは覚えてなかよねえ。一度建て直したし」
「あの、僕のことをご存知ですか?」
ゆかりの父母の予想外の歓迎ぶりに驚いて水樹が聞いてみると、千佳子はゆかりによく似た笑顔でにこりと微笑んだ。
「もちろん。ウチにも水樹君と同じぐらいの女の子がおってね」
と、ゆかりをちらりと一瞥する。
「この子の姉なんだけど。覚えてなかかね。ウチでよく一緒に遊んでたけど」
「え、そうだったの?」
ゆかりが意外そうに目を見開くと千佳子は頷いた。
「まだゆかりが生まれる前の話たい。そん頃は水樹君まだ本当に小っちゃか子供で。でも、お利口さんで。加菜子さんがお使いに行っとー間は泣かずにちゃんとお留守番もできて、偉か子だったばい」
水樹を見て千佳子が笑うと玄関の方から元気いっぱいの子供の声がした。
「きたよー」
「明けましておめでとうございまーす!」
「あ。うるさいのが来た」
ゆかりが顔を顰めると、ぱたぱたと軽い音がして廊下を三才ぐらいの男の子が走ってきた。その後から乳児を抱いて大きな旅行鞄を二つ持った母親が続く。
先にやってきた男の子は水樹の顔を見た途端、慌てて廊下を逆戻りして母親の足にしがみつくようにして隠れてしまった。水樹がなるべく優しく微笑み掛けると母親の陰からそっと顔を出す。
母親は水樹の姿を認めると、ゆかりとよく似たアーモンド型の目を丸く見開いた。
「あれえ? 正月からお客さん?」
「ちょっとさくら、来てみ。水樹君だって。ほら、昔前のアパートに住んでた」
「え、水樹君? ちょっと、懐かしー。え、どうしたの、その顔?」
廊下から躊躇の欠片もなく水樹に近付くと、さくらは立ったまま、まじまじと痣だらけの顔を見た。勢いに押されて水樹が僅かに身を反らす。
「あの、これはちょっとケンカして……」
「うっそー。小さいときはすっごく大人しかったのに。やっぱ男の子なんだねー」
鞄を部屋の隅に放り出し、赤ん坊を抱いたまま水樹とゆかりの間に割り込むようにして座り込むと、さくらは水樹の顔を覗き込んできた。ふんわりミルクの匂いがする。
「ねえ、私のこと覚えてる? さくら。さーちゃんだよ。ほら、よくウチの庭でおままごとしたよね。私がお母さんで、水樹君がお父さん」
「さくら、少し落ち着かんか。みっともなかぞ」
大興奮のさくらを父親がたしなめるが彼女は聞いていなかった。矢継ぎ早に水樹に質問を浴びせる。
「ねえ、ねえ。今は何してるの? サラリーマン? どこに住んでるの? 水樹君ならきっといい大学出て大企業に就職してるよね。それとも学者とか弁護士かな」
「え、ええと、まだ学生です」
「え、大学? もう普通の大学は出てる歳だよね。大学院とか博士課程とか? 大学どこ?」
「あの、東大の医学部で……」
「東大!」
「医学部!」
父母が揃って目を丸くするとさくらは感激したような声を上げた。
「すっごーい! さっすが水樹君! エリートなんだね。医者のタマゴなんだあ」
「水樹君はお父さんの橘さんに似て小さい頃から賢かったからなあ」
謙介がさもありなんと頷くと千佳子も相槌を打つ。
「そうそう、いつも小学校の子が読むような図鑑とか美術全集とか飽きずに眺めてて。ひらがな覚えるのも三つ上のさくらより早くてねえ」
「私、亭主なんかほっといて水樹君に乗り換えようかなあ。ねえ、覚えてる? 水樹君、私がお嫁さんにしてって言ったらいいよって言ったんだよ」
年甲斐もなくはしゃぐさくらに、水樹の手前を憚ってか、今まで大人しくしていたゆかりが堪り兼ねたように口を開いた。
「ちょっと、お姉ちゃん。なに図々しいこと言ってんのよ。二人の子持ちのくせに。お義兄さんに言付けるわよ」
「ふーんだ。あんたこそ何よ。男には興味ないなんて言ってたくせに」
「よかよか。せっかくゆかりが男ん人に目覚めたんだから。めでたかこと。今夜はお赤飯がよかとかねえ」
台所から猪口と徳利を運んできた千佳子がうれしそうにすると、
「母さんの言う通り。女でなければまず上々。水樹君なら申し分なかばい。さあ、水樹君。一杯やってくれ。ふつつかな娘だが、ひとつよろくしく頼みます」
と、謙介も水樹に徳利を差し向ける。
「あ、でも確かに身内に医者がいるって心強いよね。ねえ、水樹君。この子、すぐ熱出すんだ。定期検診では何ともないって言われるんだけど。どう思う? どっか病気とかじゃないよね」
「え? あ、あの、それは、僕はまだ学生だから……」
赤ん坊を水樹に押し付けるさくらを見てゆかりが立ち上がった。
「もう、いい加減にしてよ! お姉ちゃんもお父さんも! 水樹君遊びに来たんじゃないの。気分が悪くて休みに来たんだから」
「あら、そうなの? だったら、お布団、お布団」
慌てて押し入れに走る千佳子を、水樹が手を上げて引き止める。
「あ、あの、お気遣いなく。もう良くなりましたから」
「ホントに? 大丈夫?」
ゆかりが気遣うと水樹は赤ん坊を抱いたまま穏やかに答える。
「本当に。元々心因性のものだから皆さんの明るい笑顔を見てたら本当に。それに、ゆかりさん。あまり大きい声を出すと赤ちゃんびっくりしちゃうよ」
「ほうら、ごらん!」
勝ち誇ったようなさくらの腕を男の子が引っ張る。
「ママー、しっこ!」
「はいはい。じいちゃんちのトイレはこっち、こっちー」
子供を追い立てるようにして、さくらが廊下を走っていく。
「……もう。ごめん、ウチの家族騒がしくって。勝手に盛り上がって先走るし……」
ゆかりが羞恥に頬を染め、溜め息を吐いて水樹の顔を窺うように見ると、苦もなく赤ん坊をあやしながら水樹は笑った。
「家族が多いと賑やかでいいよね。僕はずっと妹と二人だったから」
「妹さんがいるのか? そう言えば、水樹君はどこかへ預けられたと聞いてたが。どうしてたんだ?」
謙介に問われて水樹が身の上話をしているところへ、子供を連れてさくらが戻ってきた。
「ねえ、ちょっと。これこれ」
と、自分の息子を前に押し出すようにする。男の子は一冊のアルバムを両手いっぱいに抱えていた。
「このアルバムに水樹君達の写真も貼ってあるよ」
子供からアルバムを取り上げると、さくらはそれをこたつに乗せてページを開く。
「ほら、これ。抱っこされてるのが水樹君」
隣のゆかりが覗き込んだ。写真を見て思わず頬を緩める。
「え、これ水樹君? やだ、まだ赤ちゃんだ。可愛い。笑ってるね」
「そりゃそうよ。この頃は水樹君まだ一歳ぐらいのはずだもん。いつもにこにこしてて、すっごく可愛かったんだから」
「あんた達、自分達ばっかり見てないで……」
千佳子が娘達からアルバムを取り上げて水樹の前に差し出す。
それを見た瞬間、水樹は瞠目した。
アルバムを横に使って貼ってある、紺青家の人々と並んで写ったパノラマサイズの集合写真。多分、場所はこの家の庭先だ。季節は初夏か。背景に写り込んだ植木の緑、白いシャツに反射した陽射しが眩しい。
その中で母は幸せそうに笑っていた。傍らには穏やかに笑んで母の肩を抱く父がいて、その父のものらしき眼鏡を小さな手で握り締めた水樹も母に抱かれてうれしそうにしている。
水樹はリュックのポケットから昨日もらってきた写真を取り出した。
改めて両者を比べてみれば、母の表情の違いはあまりにも歴然としている。
水樹が写真を眺めていると、覗き込んできたさくらが口を開いた。
「あ、その人って昔水樹君のウチに来てた人でしょう」
「え?」
さくらの思い掛けない指摘に、水樹がよく見えるよう、こたつの上に写真を置くと、眼鏡を掛け、写真の向きを変えて確かめてから謙介も頷いた。
「ああ、そうだな。検事さんだ」
「羅天検事をご存知ですか?」
水樹が尋ねると千佳子が機嫌よく頷いた。
「ええ、そりゃ。よく出入りされてたから。礼儀正しくて気さくな立派な方でねえ。それに結構男前でしょう」
うれしそうに頬を染める母親を見てさくらが顔を顰めた。
「何よ、お母さん。いい歳してデレデレしちゃって。私は断然水樹君のパパの方がいいな。だって、この人」
と、眉間に皺を寄せ、さくらは写真の知尋を指さす。
「私がこんにちはって挨拶したのに無視するんだもん。子供だと思って。やんなっちゃう」
「え?」
水樹が思わずさくらの顔を見ると、千佳子が即座に否定した。
「そげんことなか。水樹君にもあんたにもちゃんと挨拶ばしてくれとうたとよ」
「お母さん達がいる前ではね」
さくらはぷいと子供のように顔を横に向けると、目が合った水樹の腕を縋るように掴んだ。
「ねえ、水樹君だって無視されたよね。せっかくおままごとに誘ってあげたのに!」
「お姉ちゃん」
ゆかりがうんざりした体でさくらを睨付ける。
「水樹君まだ小さかったんだから、そんなこと覚えてる訳ないでしょ」
それは確かに水樹の記憶にはない。けれども、何かが心の中に引っ掛かっていた。
水樹は思い切って紺青夫妻に尋ねてみる。母の日常を一番知っているのは水樹の祖父母ではなく、恐らく彼らなのだ。
「あの、母は、母は幸せそうでしたか。あの、検事と一緒にいて……」
謙介と千佳子は顔を見合わせた。
「うーん。何というか、検事さんははっきりとした押しの強い人だったけん、ちょっと委縮してたところはあったかなあ」
「そんでもねえ。合鍵ば渡しとうて、ウチで預かっとうた水樹君の迎えも任せるくらいやったけん……」
「……そうですよね」
少なくとも信頼はしていたのだろう。でなければ、合鍵を渡すことなどあり得ない。
だが、果たして本当にそうだろうか――。
水樹はもう一度アルバムの写真に目を落とす。
父と並んだ母は本当に幸せそうだ。
愛する人の傍らで何の憂いもなく安心しているように見えるこの笑顔。母のこの笑顔こそが、すべてを証明しているような気がする。
「ただ、水樹君は橘さんが亡くなってから酷く泣くようになってねえ。加菜子さんが寒いのに、あやすために何時間も外に出て……」
千佳子の声で水樹は我に返る。
「水樹君はいつも機嫌のいい子やったとが。何でだろうなあ。急に」
謙介が首を捻ると、水樹の顔を見て千佳子は笑った。
「水樹君もお父さんが亡くなって寂しかったとよ。だって、検事さんが亡くなったときも、そりゃ大泣きして」
「あの、事故があったとき、お二人ともこちらにいらしたんですか?」
千佳子の話を遮って水樹が尋ねると、謙介は頷いた。
「ああ。あんときは家の周りの雪かきばしとうたとが……」
当時を思い出したのか、千佳子が不安げに眉を顰めて口を開く。
「突然ね、道路の方から声がしたと。今でも思い出すとちょっと鳥膚立つぐらいのね、真剣な声やった」
「声?」
水樹が聞き返すと千佳子は頷いた。
「女の人の声で『やめて!』って。ねえ、お父さん?」
――やめて!
まるでその言葉に撃ち抜かれたように水樹の心臓が一度だけ大きく脈打ち、指先が微かに震えた。
水樹の心音が伝わったのか、赤ん坊が腕の中でぴくりと身じろぎをする。
「悲鳴みたいで何だか酷く切迫した声やったけん門の外に飛び出したんだ。そしたら、正面のアパートの階段から誰かが落ちて来て――」
紺青夫妻が見た時には、知尋は既に階段の半ばまで滑り落ちていた。あっと言う間に階段下の土間に達し、コンクリートの壁にぶつかって止まったあとは、ぴくりともしなかったという。
「人が落ちて来たのにもびっくりしたとが、水樹君が抱かれていたのには、もっとびっくりさ」
「しばらくは検事さんの胸の上で仰向けにきょとんとしとうてね。加菜子さんに抱き上げられる頃になって大泣きしたっけ」
「加菜子さんも酷く震えとうて、気の毒だったなあ」
「……その、『やめて』という声は母のものだったんですか?」
まるでその温もりに縋るように赤ん坊を抱き締め、微かに震える声で水樹が尋ねると、千佳子は僅かに眉根を寄せる。
「多分。そうじゃなかかと思うとよ。もうそん時は交番に知らせに行ったり救急車呼んだりで、それどころじゃなかったけん直接確かめはしなかったけど。加菜子さんすぐに駆け寄ってきたけん、あの時近くにいたと思うの。あとで検事さんが落ちるのを見たって言ってたし」
――やめて!
それは、誰に向けて発せられた言葉だったのだろう。
階段から落ちそうになった水樹になのか。それとも――……。
腕の中で赤ん坊がぐずり出した。
水樹は目を落として赤ん坊の顔を見る。きっとこの子にも水樹の不安が伝わっているのだ。
「ごめんね、怖がらせて……」
水樹は、まだ淡い眉を顰めてむずかるその柔らかい髪を優しく撫でると、
「さくらさん……」
そっと腕を伸ばして、僅かに青ざめた顔で赤ん坊をさくらに返す。
「水樹君、大丈夫……?」
ゆかりが気遣うように水樹の顔を覗き込み、そっと手を重ねてきた。水樹はその手を握り返す。そうしていると気分が落ち着くような気がした。
「ありがとう、ゆかりさん。大丈夫……」
それでも、どうしようもなく胸騒ぎがする。
水樹は久々に、落ちていく悪夢のことを思った。夜が来るのが少しだけ怖かった。
◆
「また、あの娘ですよ」
運転席でハンドルに両腕を凭せ掛けたまま柳(やなぎ)が半ば呟くように報告すると、助手席の岩佐はペットボトルの緑茶をごくごくと飲み干して口を拭った。ふうと息を吐くと、大きめのハンドタオルで額の汗を拭ってから双眼鏡を構えて柳の視線の先を見る。
路上に止めた岩佐達の車からはずっと先の方に見える古びたアパートの陰から、純白のコートを着た小柄な若い女が顔だけを覗かせて紺青家の様子を窺っていた。
「ああ、紺青ゆかりの彼女だったって娘だな。毎日熱心なことだ」
「岩佐さん……」
半ば呆れた様子で柳がちらりと岩佐の足下を見た。そこには既に空になったペットボトルがいくつか転がっている。
「茶を飲むか汗を拭くか、どっちかにしたらどうっスか」
「仕方ないだろ。汗を掻くと水分が欲しくなるんだよ」
コンビニの袋の中から岩佐はまた新しいペットボトルを取り出して封を切る。
「で、がば飲みするから余計に汗掻くんですよね……」
言ってる側からまた緑茶を飲み始める岩佐を見て柳は唖然と口を開ける。岩佐と車内で張り込みをしていると真冬でも暖房いらずだ。
加湿の利いたエコ暖房の中でひとつ溜め息を吐くと、柳は双眼鏡を借りて前方を見た。視界の中では菜々がまじろぎもせずに、つい先ほど水樹とゆかりが消えていった紺青家の門を見詰めていた。
「……あーあ、あんな鬼みたいな顔しちゃって。……あ、今度は泣きそうな顔してる」
「お前はどっちを見とるんだ。俺らが見てなきゃならんのは紺青家の方だろう」
「でも、もったいないじゃないスか。あんな可愛い娘がレズビアンだなんて……」
思わず漏らした柳の呟きを聞いて岩佐は笑った。
「そう思うならお前が新しい彼氏に立候補してみちゃどうだ?」
「え、俺っスか?」
本気に取ったのか、まだ刑事になったばかりの若い柳は照れたように頭を掻いた。
「でもなあ。男嫌いなんじゃないスかねえ、彼女」
「宗旨変えをしないとも限らんぞ。紺青ゆかりはレズビアンを返上したように見えるがな」
「っつーか、それ以前にまだ未練たらたらでしょ。こんな所までついてくるようじゃ。勝ち目ありそうにないなあ」
「そう言えば、桐生の弟がしょっ引いてきた三下(さんした)の件はどうなった?」
岩佐の質問に柳の顔が真顔に戻る。
「地元の小さな組の者でした。やっぱ命令されたらしいっスよ。今、組の内部を当たってます。しかし、どういうつもりで襲わせたんでしょうね。白昼堂々人目のある交差点で」
「多分、警告――いや。どちらかと言うと、早く東京へ追い返したいのかもしれんな」
「暴力団がですか? 何のメリットがあるんですかね」
「組とは直接関係なく、もっと別の場所から蔓が伸びているのかもしれんぞ。卯木センスが死んだ件も、早渡水樹が階段から落とされたっていうのも根は同じなんじゃないか。こっちに近付けたくないヤツがいるんだよ」
世間に公表してはいないが、センスの爪からは少量の血液と人の皮膚が検出されていた。捜査本部はセンスが死んだ夜の目撃者探しに奔走している。もしも、櫂人が捕まえた三下の件と繋がれば、解決への道が見えてくるかもしれない。
「発端はやっぱ二十五年前の転落事故なんスかねえ……」
頭を掻きながら柳が呟く。
「卯木センスは早渡水樹への嫌がらせのつもりで、うっかりパンドラの箱を開けてしまったから殺された……?」
「むしろ、開けようとしたからだろうな。転落事故自体は当時から新聞でも大きく扱われている。秘密でも何でもない」
岩佐が目を通した最近のゴシップ記事にも、目新しいことは何一つ書かれていなかった。
「卯木センスはこちらに来た途端に殺された。現場は早渡水樹の祖父母の家の近くだ」
水樹達が去ったあと、岩佐達も野元家を訪問して話を一通り聞いていた。
「結局接触はしなかったみたいですけど。新たな嫌がらせのネタでも仕入れに来たんスかねえ」
「多分な。だが、犯人にとってはそれが不都合だった。余程探られたくない何かがあるんだろうさ」
「何があったんスかねえ。二十五年前……」
「羅天知尋が事故死なのは確実なんだがな……」
当時現場に関わった岩佐としては、それだけは揺るぎない確信があった。
あの一件に見落としがあったとすれば、それは事故の前か、後か。
「わざわざこのアパートまで来たってことは、早渡水樹も当時の記憶を探ろうとしてるってことですよね。……なんかヤバ気だなあ」
「そのために我々がこうして張ってるんだろう」
「まあ、そりゃそうなんスけどね……。ああ、あの娘やっと諦めたみたいっスよ」
柳の視界の中を、純白のコートが小さくなっていく。
柳はその姿がずっと向こうの建物の陰に消えるまで見送ると、再び紺青家の門に双眼鏡の方向を定めた。
◆
水樹が湯船を使わせてもらって座敷に面した廊下に戻ると、既にテレビとこたつのある手前の部屋の照明は落ちていた。
まだ煌々とつく明かりに導かれて奥の部屋の障子を開ける。すると、そこにはピンクと水色の来客用の布団が二つ。中央に並べて延べてあった。
一つの部屋に寝具が二つという状況に今更ながら少しどぎまぎしていると、洗い髪を乾かしていたゆかりが人の気配に振り返ってドライヤーを切り、水樹を見上げてちょっと困惑気味に微笑んだ。
「ごめんね。親が変に気を使ったみたいで……」
「うん、ちょっと恥ずかしいかな。おかしいよね。いつも一緒に寝てるのに」
最初の夜をゆかりとベッドで過ごして以来、水樹は一人で眠ったことがなかった。ゆかりに抱かれて一緒に眠り、朝まで熟睡してすっきりと目が覚める。嫌な夢も見ることはない。ゆかりとの夜は水樹にとって幸福なものだった。
けれども今、一人用の布団を目の前にして水樹は微かな不安を覚え始めていた。
何という訳でもないが、漠然とした不安だ。昼間の嫌な胸騒ぎを思い出し、そっと心臓の辺りを押さえる。
長くそのままでいると風邪を引くからと、やがてゆかりが電気を消した。
まさか子供ではあるまいし、独り寝に耐えられないなどということはないだろう。ひとつ布団ではないが、隣にはゆかりもいる。
自分を励まし、水樹は止むなく布団に滑り込んだ。仰臥して天井を見ていると、隣からさくらが子供達と話す声が時折低く聞こえてくる。
黙ってじっと天井を見詰めている水樹を見て、ゆかりがそっと声を掛けてきた。
「ねえ、水樹君。そっちに行ってもいい?」
「え、でも……。隣にさくらさんもチビさん達もいるし……」
「大丈夫。何もしないよ。ただ、こうしてるだけ」
自分の掛け布団を引っ張ってきてするりと傍らに滑り込むと、ゆかりは水樹の背中に両腕を回してふんわりとその身体を抱き込んだ。ゆかりの身体は温かく、ボディソープとシャンプーのよい匂いがする。
欄間から漏れてくる隣の豆電球の僅かな明かりを頼りに水樹の瞳を間近に捕らえると、ゆかりはにこりと笑った。
「昼間水樹君震えてたから。私と触れ合ってると安心だって言ってたよね。だから」
「ゆかりさん……」
ゆかりの肩口に頬を凭せ掛けると水樹は安堵の溜め息を漏らした。
やはり自分はゆかりの側が一番心地いい。ゆかりとこうして触れ合っているだけで漠然とした不安がすべて払拭されていく。もしかしたら、母も、父の側にいるときはこんなふうに感じていたのかもしれない。
「ありがとう。僕は何も約束できないのに……」
「いいよ。そんなこと気にしなくても。全部わかってやってるんだもの。でもね、ひとつだけ」
暗がりのなか、水樹が顔を上げてゆかりの瞳を覗き込む。
「私、協力するって言ったけど、詳しいことは何も知らない。それじゃ力になれないし、水樹君が何をそんなに震えるほど怖がってるのかちゃんと知っておきたいの。話してくれる?」
水樹はゆかりの瞳をじっと見返してから小さく微笑んだ。
「そうだね。きちんと話もせずに協力だけ仰ぐのは卑怯だ。話します。少し長くなるけれど聞いてもらえますか」
ゆかりが神妙に頷くと、水樹は二十五年前の事件とそれをもたらしたセンスとの因縁、母が残した言葉について淡々と話し始めた。昼間感じた胸騒ぎや不安についても。
水樹の寝物語は日付が変わる頃まで続き、やがて、夜の静寂の中に消えていった。
Fumi Ugui 2008.12.16
再アップ 2014.05.21