◆
正月の三日でもデパートの生鮮食料品売場は混んでいた。お節のセットや年始参りの手土産を求めてあちこちで人々が列を作っている。
不揃いな人の頭が黒い甍のように遥かに続くその中を、櫂人は夏乃の手をしっかり握ってカタツムリか亀のようにのろのろと移動していた。
「ねえ、なんで手なんか繋いでんの? 移動しにくいよ。周りに迷惑」
人の壁に押されながら不満そうに夏乃が見上げると櫂人は心外そうに口を開いた。
「お前が迷子になんねえようにだろ。昨日だって探すのにどんだけ掛かったと思ってんだよ」
周囲の流れに巻き込まれないようその小さな身体をしっかり抱き寄せて軽く上から睨付けてくる櫂人に、夏乃はぷいと目を逸らして口を尖らせる。
「ちょっと先を見にいっただけじゃん。迷子になんかならないよ。早渡背が高いからどこにいたって見えるもん」
「俺の方からは見えねえんだよ」
擦れ違うにも苦労するこの状況では、百五十四センチにも満たない小柄な夏乃はすぐ人込みに紛れてしまう。
「ホントは抱いて歩きてえぐらいだよ」
櫂人が口の中でぼそりと小さくぼやくと、それには気付いた様子もなく夏乃がまた見上げてきた。
「ねえ、森村さん今日はいるよね?」
「店の人がそう言ってたんだから、来てんだろ」
辛抱強く人込みに揉まれながら少しずつ進んでいくと、やがて贈答品売場に出た。
量り売りで食材がそのまま並ぶ生鮮食料品売場とは随分雰囲気が異なり、こちらは洗練されたデザインのパッケージときらびやかなショーケースとで売場全体が彩られている。その中の、とある洋菓子を扱う店に櫂人と夏乃は近付いていった。
エスカレーター脇の、フルーツケーキを並べたカウンターの奥には制服を着た女性の店員が二人。若い方は昨日も見た顔だが、どうやらもう一人の年嵩に見える方は別人のようだった。
櫂人が若い方の店員に会釈をすると、彼女は会釈を返してから隣に並んだ女性に声を掛けて目配せをした。僅かに訝しげに、その人が櫂人を見返してくる。
整えられた眉、隙なく彩られた唇。きっちりとした化粧のためか、報告書にあった四十代半ばという実年齢よりは幾分若く見える。
「すみません。昨日こちらにお邪魔した早渡という者ですが、森村喜代子さんですか?」
櫂人が念のために確認すると彼女は頷いた。
「ええ、はい。森村ですが、何のご用でしょうか」
「突然ですみません。羅天知尋検事についてお話を伺いたいのですが。彼をご存知ですよね?」
羅天知尋という名に反応して彼女は戸惑い気味にまた頷く。
「……ええ。もう随分昔のことですけど」
「その昔のことについてお話を伺いたいのですが、お時間取れますか?」
「そりゃ……そんな昔話でよければ構いませんけど。――いらっしゃいませ」
ショーケースの前に立った客に愛想よくにこやかに声を掛けると、森村喜代子は櫂人に視線を戻した。ポケットの中の腕時計にちらりと目をやってから僅かに声を落とし、すぐそこのエスカレーターを指して穏やかに微笑む。
「もう二十分もすると休憩時間になりますから、上の喫茶店で待っててもらえますか」
二人が指定された喫茶店で飲み物を頼み、他愛のない遣り取りをしながらそれを飲み干した頃、森村喜代子が姿を現した。
「突然職場に押しかけてすみません。昨日ご自宅の方に伺ったんですが、留守のようでしたので」
櫂人が向かい側の空いた席を促して頭を下げると、喜代子は笑った。
「ごめんなさいね。昨日は休みで、実家に帰っていたものだから。でも、何で今頃あの人のこと? あの人どうかしたの?」
櫂人と夏乃はちらりと顔を見合わせる。僅かに面を改めて櫂人が喜代子に視線を戻した。
「羅天知尋検事は二十五年前に事故で亡くなりました。ご存知ありませんでしたか」
「え、そんなに前に? 全然知らなかった……」
喜代子はやや茫然とする。
「二十五年っていうと、別れてからそんなに経ってないよね。何で亡くなったの? 病気? 事故?」
「転落事故です。階段で子供を庇って」
「……へえ。何だか、すごく意外」
「意外ですか」
何となく櫂人が聞き返すと喜代子は頷いた。
「あの人って、物凄く頼り甲斐があっていつも自信満々で。殺しても死にそうにないタイプだったから。子供を好きそうでもなかったし。でも、そっか……。世の中何が起こるかわからないもんねえ」
感慨深気に溜め息をひとつ吐いてバッグからタバコを取り出すと、喜代子はちょっと笑って櫂人と夏乃を見た。
「タバコ吸ってもいいかな。この時間吸うのが習慣になってて」
「羅天検事とトラブルがあったとお聞きしたんですが……」
相手が一服するのを待って櫂人が本題に入ると、喜代子は自嘲気味に仄かな笑みを漏らした。
「ええ、まあね」
「どんなトラブルだったか教えて頂けませんか」
「いいけど。本人亡くなってるのに今更そんなこと聞いてどうするの?」
「申し遅れましたが」
と言って、櫂人は透から預かってきた名刺を喜代子の前に差し出す。
「僕はこちらの弁護士、早渡透の弟で櫂人といいます。兄が入院中で動けませんので、今日は代理で来ました」
身分証明のつもりで添えた櫂人の学生証を見て喜代子は目を丸くする。
「あら、東大生さんなの。凄いわねえ」
「ある事件に関連して当時の検事の私生活について調査しています。是非お話を伺いたいのですが」
喜代子の目を見据え、櫂人が僅かに身を乗り出すと、
「とっても大事なことなんです。お願いします」
隣の夏乃もぺこりと頭を下げる。
目の前の若い二人を見比べて喜代子は笑った。
「自分の息子より若い子が二人も訪ねてきて何事かと思ったけど。何かの役に立つなら、まあ、いっか。で、何を聞きたいの?」
「東京地検時代の羅天検事とはお付き合いがあったんですよね?」
櫂人が確認すると喜代子は頷いた。
「そう。あの頃、まだ二十一か二だったかな。私はキャバ嬢しててね。あの人はお客だったんだけど、子持ちの私にすごく親切にしてくれたから……」
男女の仲になってしばらくすると、知尋は喜代子のアパートにも出入りするようになった。平日は時間がまったく合わないため、店で会う以外は休日を利用して知尋が喜代子のところへ泊まり込むことが常だった。喜代子にとっても店へ出掛けたあと息子を見ていてくれる人がいるのは安心だったのだ。
「正味二カ月ぐらい付き合ってたのかな。もっと短かったかもしれない。でも、別れたのは何しろ二月で、あなた達が知りたいっていうトラブルもきっとこのことだと思うんだけど……」
夏乃が思わず身を乗り出す。
「そのトラブルっていうのは、どんな?」
喜代子はタバコの煙を吐き出して思い出したように僅かに眉根を寄せた。灰皿を寄せて灰を落とす。
「あの人ね、私の息子を、真冬の夜中によ? 家の外に放り出して、三時間近く放置したのよ」
「え?」
夏乃が唖然と目を見開く。
「いくらちょっと反抗的な態度取ったからって、まだ五歳の、風呂上がりでパジャマ以外何も着てない子をよ? 何時間も二月の寒空に放置するなんて信じられる?」
その日は昼間から時折粉雪が舞うような天候で、外出する時は大人でもコートの下にカイロが欲しくなるほどだった。
「それで、お子さんは……?」
気遣う様子で櫂人が尋ねると喜代子は煙と一緒に溜め息を吐いた。
「さすがに酔いが醒めて、子供を外に出しっぱなしにしたのはまずかったって気付いたらしくて、あの人がタクシーで病院に連れていったんだけど、もう肺炎になってて。私が病院に駆け付けた時には意識不明で、そのまま何日か入院よ。いくら酒の上でのことだからって、あんまりだから私警察に行ったの」
「検事はお酒が入っていたんですか?」
「ええ、みたい。ウチに来ると缶ビールとかよく飲んでたから。帰ったら空き缶転がってたし。元々酒癖はあまりよくなかったみたいで……」
「よくないって……酒乱とか?」
「ううん、そういうのじゃなくて」
夏乃の問い掛けに喜代子は首を横に振る。
「別に暴力振るわれたことはないし、そんなに目立って性格が変わる訳でも、酷いことする訳でもないけど……。何ていうのかしらね。量にもよるけど、お酒が入ると普段なら絶対しないような、検事とは思えないようなこと平気でやっちゃうところがあって」
「え、それって、例えばどんな?」
「うーん、そうねえ。軽いところで空き缶やタバコのぽい捨てとか……」
喜代子はちょっと考えるように宙を見詰めると、
「あ、そうそう」
と、思い出したように夏乃に視線を戻し、一旦タバコの灰を落としてから先を続けた。
「一度だけ、店が終わってから車で送ってもらったことがあったんだけど、その時いくら深夜で他に車通ってないからって信号無視したのにはちょっとびっくりしたわ。あれも考えてみたら、まだ完全に酒が抜けてなかったんだと思う」
コーヒーを一口啜る喜代子を眺めながら櫂人が眉根を寄せる。
「自制心が緩む感じか……」
「普段はね、そりゃあ検事らしくてきちっとしてたんだけど」
「それで、警察の方は?」
話を戻して櫂人が尋ねると喜代子は僅かに肩を竦めた。
「あの人は『酔っていて悪気はなかった』の一点張りだし、警察の方も責任能力がどうのこうのって何だかはっきりしなくて、うやむやになりかけてたら、あの人のお父さんが訪ねてきて……」
櫂人と夏乃が顔を見合わせる。
「お父さんというのは羅天雅武さんですよね」
櫂人が念のために確認すると喜代子は僅かに首を傾けた。
「名前は忘れたけど、大阪で裁判官してるって言ってた。で、すっごく丁寧に謝ってくれて。まあ、ヒロシも二、三日の入院で後遺症もなく済んだんだし。あの人も一応一緒に頭下げてくれて、入院費と見舞金だって纏まったお金置いてってくれたから」
そこまで話すと喜代子はちょっと笑って付け加えた。
「検事と裁判官相手じゃ勝ち目なさそうだったしね」
◆
「森村さんとはそれっきり。店にも来なくなったらしい」
概ね報告を終えると、櫂人は買ってきた十二個入りのフルーツケーキをソファの瞭三郎とベッドの透に放り投げてから、自分もひとつぱくついてベッドの端に腰掛けた。そこへ入れ立ての紅茶を配りながら夏乃が付け加える。
「あとね、森村さんがその後ホステス仲間から聞いた話だと、森村さん以前にも女性絡みの細かいトラブルは結構あったんだって。どれも警察沙汰や裁判沙汰になるほどのものじゃなかったみたいだけど」
「なるほどなあ」
白い無精髭を生やした顎を撫でながら瞭三郎が低く唸る。
「そりゃ酒癖も女癖も相当なもんだな。伜(せがれ)がそんなじゃ判事殿もさぞかし頭が痛かっただろうぜ」
透はケーキや紅茶には手も付けず、瞭三郎が持ってきた資料を手に何事か考え込んでいる。
「ねえ、もしかして、兄さんも何かされてたのかな」
透の様子をちらりと窺って夏乃が口にすると櫂人も眉根を寄せた。
「何かあったっぽいよな。転落事故直前検事は酒を飲んでたって、初動捜査に関わった岩佐って刑事も言ってたし」
「昨日水樹から連絡があったんだが――」
唐突に口を開いた透を夏乃が振り返る。
「兄さんアパートに行ってきたんだよね。何かわかったの?」
見詰めてくる夏乃の目を静かに見返すと、いつも通りの落ち着いた声で透は淡々と先を続けた。
「転落事故の直前、『やめて』という声が聞こえてきたらしい。切迫した感じの、加菜子さんらしき女性の声だったそうだ」
「え? 何それ。それって、すっごい意味深なんじゃ……」
夏乃がいささか唖然と呟くと、櫂人も疑問を口にする。
「それどこの情報だよ。誰から聞いたんだよ」
そんなことは今まで資料として目を通したどの新聞記事にもなかったし、岩佐も言っていなかった。
「それが」
言いかけて透はふと笑みを漏らした。櫂人が顔を顰める。
「何だよ。気持ち悪ィいな。早く言えよ」
「失敬。証言したのは大家さんのご両親だ」
「……え、大家さんって、ゆかりさんのこと?」
「何でこんなとこでアイツの名前が出てくんだよ」
唖然とする二人を見て透は面白そうに笑う。
「驚いたことに彼女の実家は水樹が住んでいたアパートの目の前だったらしい。事故の折り、交番に知らせに走ったのも彼女のお父さんだったそうだよ」
「つまり、新聞記事にあった近所の住人ってのが……?」
絶句する櫂人の傍らで付添いの椅子に落ち着いた夏乃が興奮気味に口走る。
「えー、それってすっごい偶然だよね! ゆかりさんと兄さんって縁があるんだ。でもそれって、お母さんが直前に何か見たってこと?」
「水樹は自分が階段から落ちそうになるところを見て口走ったのではないかと言っていたが……」
透の言葉に櫂人は肩を竦める。
「そりゃ控え目すぎる意見だな。水樹さんらしいっちゃ、らしいけどさ。もっと勘繰った見方をすりゃ、検事が水樹さんに何かしようとしていたとも考えられるぜ」
「何かって、何?」
改めて夏乃に問われ、櫂人はしかめっ面をしてみせる。
「わかんねえ。とにかく母親が思わず叫びそうになることさ。あの時、検事は酒も入ってたし、タバコも吸ってた」
森村喜代子との一件を知ってしまった今となっては、いくらでも勘繰ることが出来た。
夏乃は溜め息を吐く。
「何か、新聞に出てた美談とは随分違うね」
「その記事も羅天が書かせたものだったのかもな。息子の醜聞をもみ消すために」
「そういやあ……」
櫂人の言葉を受けて瞭三郎が首を捻った。
「転落事故があった翌年、羅天雅武は最高裁の判事に任命されてたな」
「え、ホントかよ?」
櫂人が念を押すと頷く。
「確かそうだったと思う。最近はどうだか知らねえが、その頃は裁判実務の現場から最高裁判事に任命されることは珍しくてな。伜の一件もお偉方の心証を良くするのに貢献したんだろうって法曹界じゃ結構話題になったからな」
「ここにありますね」
透が手にした資料には羅天雅武の経歴が記されていた。確かに知尋が転落死した翌年三月から雅武は定年退官した判事の後任として最高裁判事の職に就いている。
「事件があった頃にはもう内々に話は聞いてた可能性がある。何かあったとすりゃあ、そのことが関係して余計に表沙汰にしたくなかったのかもしれねえなあ」
「加菜子さんが黙して語らなかったことを幸いに、美談に仕立て上げたということですね」
「ねえ、もしかして」
夏乃が眉根を寄せる。
「今回のことも、羅天雅武が昔の息子のスキャンダルの発覚を怖れて、兄さんの周辺を調べてる卯木センスを殺したってこと……?」
「そりゃ、もし検事が幼児虐待してたなんて発覚したら身内は打撃を受けるよな。身内ってだけで」
兄のせいで散々マスコミの被害に遭ってきた櫂人はそのことを身に染みて知っている。
「スキャンダルは政治家にとってはダメージだし。元が判事じゃ余計に印象が傷つく。皆判事だの検事だのには清廉さを求めてるからな」
櫂人の意見を黙って聞いていた透がおもむろに口を開いた。
「それだけではないかもしれないな」
「他に何があんだよ」
「二十五年前の一件は雅武自身が罪を犯した訳ではない。息子の不始末と、そのもみ消し行為が発覚すれば一時的なイメージダウンは免れないかもしれないが、政治家として必ずしも致命的とは言えない」
夏乃が小首を傾げる。
「言われてみれば、裁判沙汰になっても辞めない政治家はいくらでもいるよね。ほとぼりが冷めるのをじっと待ってれば、そのうち皆忘れちゃうし」
「それなのにだ」
透は僅かに目を細める。
「イメージダウンを避けたいというただそれだけの理由で、今更殺人というリスクを仮にも元判事が敢えて冒すものなのだろうか」
透の疑問を受けて瞭三郎が顎を撫でる。
「自身の殺人罪となれば、罪の重さは息子のスキャンダルのもみ消しなんかとは比べ物にならねえからなあ」
「兄貴が言いたいのは要するに、卯木センスを殺したのが羅天雅武だとしても、自身のイメージダウンを怖れてのことじゃないってことか?」
「恐らくな」
櫂人を見て透は頷く。
「二十五年前は自身が最高裁の判事となるために息子のスキャンダルの発覚を怖れて美談を仕立て上げた可能性が濃厚だ。しかし、今回の事件に関しては他に理由があるかもしれない。今度は息子の過去ではなく現在の羅天議員の身辺を徹底的に調査する必要があるな」
透が瞭三郎を見る。
「おじいさん、またお願いできますか」
「ああ、任しときな。いろいろ知り合いに当たってみらあな」
元検事の瞭三郎は検察にも顔が利く。昔の法曹界の知り合いの中には政治家に転身した者も何人か存在している。
「なあ。どっちにしても、昔のことをほじくり返されたくないと羅天が思ってるんだったら、水樹さんヤバイんじゃねえか?」
「そうだよね。兄さんアパートにも行ったんでしょ?」
櫂人と夏乃が揃って透を見る。
透は僅かに眉根を寄せた。
一番手っ取り早いのは、二十五年前の転落事故にまつわる真相を直ちに公表することだ。
そうすれば恐らく羅天親子による呪縛はそこで解け、以後水樹が監視される理由も狙われる理由もなくなる。
だが、今の段階ではあくまでも何かあった可能性が高いという推測に過ぎず、実際にその時何が起こったのか具体的なことは何もわかっていない。証拠もないのに推論だけで事実として告発する訳にはいかないのだ。
事件の証拠も真相も、今はまだ水樹の埋もれた記憶の中にしか存在しない。
水樹はもう動き始めてしまった。
こちらと同様に、あちらも水樹の様子を注意深く窺っているはず。
「櫂人」
「わかってるよ」
透に皆まで言わせず、櫂人は携帯を取り出すとチケット予約のサイトを開いた。予約状況を調べて舌打ちする。
「だめだ。今日はもう一杯だ。とにかく明日のなるべく早い便で向こうへ行く。今度こそ水樹さん連れ戻してくるわ」
チケットの予約を済ませると櫂人は続けて水樹の携帯に電話を掛けた。呼び出し音が十回近くなっても応答がなくイライラしていると、やっと水樹が出た。
「……はい、水樹です。櫂人君?」
「出るのに随分長くかかったな。どこか行ってたのか?」
「え、いや。そういう訳じゃないけど……」
水樹の返事は心なしか歯切れが悪い。何だか上の空のようにも聞こえる。訝しみながらも櫂人は用件を伝える。
「俺さ、明日迎えにそっち行くから。水樹さんがそっちでうろうろしてると何だか本格的にヤバそうなんだ。なるべくマンションから出ないで、荷物まとめて待っててくれ」
「え、だけど……」
携帯の向こうから困惑気味の声が返ってくる。
「明日は母が入院していた療養所に行く予定なんだ」
「それはやめといた方がいい。取りやめに出来ないのかよ」
「でも、せっかく立てた予定だし。東京に戻るなら尚更行っておきたいんだ。そのまま夜の便で帰ってもいいから……あっ」
最後に漏らした水樹のどこか切迫したような短い声に櫂人が眉根を寄せ耳をそばだてる。
「どうした、水樹さん?」
「……え、な、何でもないよ……」
水樹はうろたえたような返事をした。携帯からは水樹の他にゆかりらしき声が微かに漏れ聞こえてくる。
「今ちょっと取り込み中なだけだから……あっ、ゆ、ゆかりさん、痛い。そこ深すぎっ……」
ごとりと何かが落ちる音と水樹の切羽詰まった声に櫂人が血相を変える。
「おい、テメェ! ゆかりッ! 水樹さんに何してんだッ!」
「櫂人、静かにしないか。ここは病院だぞ」
外まで響くような大声に透がその端整な面を僅かに顰め、櫂人がそちらに気を取られているうちに、携帯の向こうからは水樹に代わって半分怒ったような、如何にも鬱陶しそうな声が聞こえてきた。
「もう、うるっさいわね、さっきから。集中できないじゃないの。今大事なところなんだから。水樹君がケガでもしたらどうすんのよ」
「ケガ?」
櫂人の脳裏を、いつか見た鞭を手にしたゆかりの姿が一瞬掠める。
「お前こそ何やってんだ! 水樹さんにケガなんかさせたら許さねえぞッ!」
「私が水樹君にそんなことする訳ないでしょ。耳元で喚かないでよ、うるさいわね」
櫂人の剣幕をものともせずぴしゃりと言い放つとゆかりは付け加えた。
「明日のことなら私がついてくから大丈夫。行く先はメールで送っとくから、あんたは観光でもしながらゆっくり来れば?」
「おま……!」
言いかけた罵倒の言葉をぎりぎりで飲み込むと櫂人は携帯に向かって念を押した。
「絶対ぇ水樹さんから離れんなよ!」
櫂人としては不本意この上ないが、自分が水樹の側にいられない以上ゆかりを当てにするしかない。
「言われなくても片時たりとも離れたりなんかしないからご心配なく。じゃあね」
「あ、ちょっと待て! もう一度水樹さんに……くそっ! あんのヤロー、勝手に切りやがった!」
櫂人が苦り切った表情で携帯を睨み付けると、夏乃が大仰に溜め息を漏らした。
「もう。何でそんなに喧嘩腰なの?」
「焦る気持ちもわからないではないが」
透も大仰に溜め息を吐く。
「人にものを頼むときには相応の頼み方というものがあるだろう。そうでなくとも、女性に向かってテメェ呼ばわりは感心しないな」
「わかってるよ」
櫂人はふてくされたように透の小言から目を逸らす。
とにかく今はゆかりを頼みにするしかないのだ。
窓の外を見ると、辺りはもうすっかり暗くなっていた。曇っているのか空には星一つ見えない。
新聞を確かめてみると明日の福岡の天気は曇り時々雪。天気図は典型的な冬型の気圧配置で、等圧線が縦に見事な縞模様を作っている。
「明日天気悪いんだね」
新聞を脇から覗き込んでいた夏乃がぽつりと呟く。
もう一度外に目をやり、人工の星ばかりが地上に散らばる夜の闇を眺めながら、櫂人は明日天候が荒れないことを祈ったのだった。
◆
脇のテーブルに携帯を戻すと、ゆかりはレギンスの膝に乗せた水樹の横顔をじっと見詰めた。
「やっぱり明日療養所に行くの? 問題あるならやめておいた方がいいんじゃない?」
水樹は返事をしなかった。ゆかりの膝に優しく手を掛けたままじっとしている。どうやら意志を曲げる気はないようだった。
ゆかりはそっと溜め息を漏らす。水樹は極たまにだが、こんなふうに頑固な一面を見せることがある。
「療養所へ行けば、何か思い出せそう?」
耳かきの梵天で軽く耳朶を払い、ゆかりがそっと顔を覗き込んでみると、水樹は半ば閉じた瞳でカーペットをじっと見詰めていた。しばらくしてぽつりと呟く。
「……わからない」
水樹の心と身体が最も強く反応を示したのはアパートの手摺りだった。それでも思い出せなかったものを他の場所で思い出せる可能性は低い。
けれどもここまで来た以上、水樹は母のことならどんなことでも知っておきたかった。リスクが伴うことは最初から承知の上だ。
「……でも、ゆかりさんはついて来ない方がいいかもしれない」
今のところ身の周りに特に不穏な気配を感じることはないが、櫂人がわざわざ迎えにくると言うからにはそれだけの根拠があるはずだ。自分の都合でゆかりを危険に晒すようなことはしたくなかった。
「何言ってるの」
ゆかりが少し怒ったように眉根を寄せて身体ごと水樹の顔を仰向けた。上から顔を近付けて水樹の瞳をじっと見る。
「水樹君は土地勘もないし、ひとりの方がずっと危ないよ。水樹君が行きたいって言うなら私どこまでもついていくから」
水樹は一瞬だけ目を見開いて、じっとゆかりを見詰めた。
「ありがとう。ゆかりさん」
淡く微笑んでおもむろに身体を起こすと、ゆかりの前にきちんと座る。沈んだ空気を振り払うようにジーンズの上を軽くぽんと叩き、ゆかりを見てにこりと笑った。
「さ、今度はゆかりさんの番。それをこっちへ貸して、ここへ来て」
「え、い、いいよ。そんなの。恥ずかしいし」
思い掛けない申し出にゆかりが思わず片手で耳を隠し、僅かに頬を染めて身を捩るようにすると、
「大丈夫」
耳かきを握ったままのその手を取って、水樹はゆかりを自分の方へと優しく引いた。
「夏乃が小さい頃はよくしてたから、多分ゆかりさんより僕の方が上手いと思うよ。嫌がられたこともないし」
水樹が自分からゆかりに触れてくることは珍しい。腕(かいな)を取ったその手は優しいが、膂力は意外なほどあって、ゆかりは抗う間もなく耳かきを取り上げられて水樹の膝の上にあっさり捕らえられてしまった。
見上げれば、穏やかに微笑む水樹の顔がある。出会った頃には紫に腫れて酷かった痣はもう随分薄くなっていた。
「ゆかりさんにはいつも色々してもらってばかりだけど、耳掃除ぐらいなら僕にもしてあげられるから」
水樹の言葉が何故か別れの言葉のように聞こえる。
そんなふうに思うのは、滅多に自分からは触れてくることのない水樹が、こうしてゆかりに触れてきたからかもしれない。それとも、さっき電話で東京に戻ると口にしたからかもしれない。
いずれにしろ、休暇はもうすぐ終わってしまうのだ。
「それとも、どうしても嫌かな? だったらやめておくけど……」
思っていることが顔に出てしまったのかもしれない。
自分を気遣って窺うようにする目の前の優しい顔に見蕩れたまま、ゆかりは黙って首を左右に振る。
「よかった。ゆかりさん何だかちょっと元気ないから。余程嫌なのかなって」
「そんなことないよ」
ゆかりが笑顔を見せると水樹は安堵したようにほっと息を吐いた。ゆかりの顔をそっと横に向けてよく見えるように角度を調整し、長い栗色の髪を梳くようにして耳元を整える。
「それじゃ始めるね。楽にしてて」
囁くような、ゆったりとした低い声に促され、ゆかりは何もかも委ねて大人しく目を瞑る。
熱く薄紅色に染まる耳朶に優しい指が添えられ、そっと耳掻きが差し入れられると、ゆかりの手が縋るように水樹の膝を抱いた。
Fumi Ugui 2009.01.07
再アップ 2014.05.21