名医の子供達

第20話 海の道

 海上遥かに伸びていく一筋の道を、パステルカラーのミニバンが走っていた。
「すごいね、ここ……」
 博多湾と玄界灘。真冬の重く沈んだ紺青色の海を窓から左右に眺めながら水樹が感嘆の溜め息を漏らす。
「本当に海の中道(うみのなかみち)って感じだ」
「天気が良ければ絶景なんだけど。これじゃ何も見えないね」
 運転席のゆかりが苦笑する。
 海の中道は福岡でも有数の景勝地だ。だが、この日は天候に恵まれず、空は一面雪雲が落ちてきそうなほど低く垂れこめた曇天で視界も悪く、正面の志賀島(しかのしま)も左手に浮かぶ能古島も不透明に霞んで見えた。おまけに風も強く、ともすると突風に煽られ車体が小刻み且つ不規則にぐらぐらと揺れる。
「凄い風だね。櫂人君大丈夫かな……」
 水樹はちらりと上空を見る。櫂人からは九時半ぐらいに、これから羽田を発つと連絡があった。そろそろ福岡に着く頃だ。目指す療養所の住所は知らせておいたから、トラブルがなければそのうち追い付いてくるはずだった。
「心配ないよ。強風も朝方に比べたら大分収まってきたし。雪もこの辺の予報にはなかったから、降ってもちらつく程度なんじゃない?」
 出来るだけ明るくそう言うと、ゆかりはバックミラーに映った後部座席にちらりと目をやった。そこには水樹のリュックと、もうひとつ旅行用の鞄が置いてある。鞄は昨日暗くなってから急遽買い込んだもので、中には水樹が福岡に来てから買った衣類や細々とした日用品がすべて詰め込んであった。それが何を意味するか、ゆかりには痛いほどわかっている。
「どうかした、ゆかりさん?」
 黙り込んだゆかりの顔を助手席の水樹が気遣うように覗き込んできた。
「ううん。何でもないよ」
 ゆかりはひとつ笑顔を作ると雑念を振り払い運転に集中する。
 水樹の水先案内人兼ボディガードのつもりで来ているのに、こんなところで事故でも起こしたら意味がない。
 志賀島橋を通り過ぎるとすぐに左手に漁港が迫り、車は志賀島に入っていった。

 ◆

 医療施設うみなか療養所は志賀島全体を取り巻くように走る県道から島の中央へ向かってしばらく行ったところにあった。
 山を切り開いたと思われる敷地の三方は雑木林で、門のある西側だけが道路に通じ、南は雑木林の手前に川が流れている。
 門を入るとすぐ手前が駐車場。その奥に療養所の建物と庭があった。
 心身の静養を必要とする人々を扱う施設に相応しく、全体の景観は素晴らしい。
 中心となる病棟は白亜の三階建てで、一階にサンルーム、三階には院長の住居でもあるのか、緑を備えた小さなバルコニーが見える。南に博多湾を望める海の景観は天候に恵まれればさぞやと思わせるものだし、芝生を張った広い庭に配置されたベンチ付きの小さな四阿(あずまや)や、夏場には木陰になりそうな広葉樹の樹々も、心安らげる空間を作り出している。けれども残念なことにその演出効果は、どちらを向いても目に付く背の高い武骨な鉄のフェンスのために随分損なわれてしまっていた。
「珍しいね。今どきこんなにきっちりフェンスで囲ってるのって」
 ゆかりが車を降り、敷地の中をぐるりと見渡して僅かに首を傾げると、近くで落ち葉をゴミ袋に詰め込んでいた作業服にパーカーの老人が、皺深い顔でくりゃりと笑って話し掛けてきた。
「あれもずっと昔はなかったばってん。何でも抜け出して亡くなった人がおったげな」
「あら、そうだったの」
 ゆかりが愛想よく笑顔を向ける。
「病院もいろいろ対策立てなきゃならないから大変ね」
「あの、おじいさんはずっとこちらでお仕事をしてらっしゃるんですか」
 水樹が尋ねると老人は僅かに首を傾けた。
「会社ば定年退職してからやけん、十二年ぐらいかなあ」
「それじゃ二十五年前のことはご存知ないですよね……」
 水樹が口にしてみると、
「二十五年!」
 と、大仰に驚いて老人は低く唸った。
「そげん昔のことはわからんばい」
「その頃僕の母がここでお世話になっていたんですが、誰か当時のことに詳しい方をご存知ありませんか」
「と言われてもなあ」
 老人は首を捻る。
「院長も何年か前に亡くなって代がかわっとーし、看護婦も敏子さんが抜けた後は若か子ばかりやけん……」
 水樹が諦めかけたところで老人は思い出したように頷いた。
「おう、そうそう。忘れとったばい。敏子さんなら何か知っとーかもしれんたい。何しろ勤続三十年が自慢やったけんなあ」
「あの、フルネームは? その方は今どこに?」
「深田敏子。ちょっと前に定年退職して、今は何ばしとうかなあ。なんしろ、志賀島漁港の近くの食堂の人たい。屋号は『しんかい食堂』だと思ったが」
「ありがとうございます」
 老人に礼を述べると、水樹とゆかりは志賀島漁港を目指し療養所を後にした。

 しんかい食堂は志賀島漁港北の市街地にあった。
 小さな大衆食堂で、店内に入ると厨房に白髪の混じりの男性が一人。もう一人女性の店員もいたが、その人はどう見ても四十代か五十代前半で、定年を迎えるような年齢には見えなかった。
 まだ十二時前のためか、それとも新年早々のためか客は少ない。
 ゆかりがカウンターの上に設置してある小さなテレビの時刻表示にちらりと目をやってから、壁に貼ってある定番メニューを眺める。
「ねえ、水樹君。まだちょっと早いけど、ここでお昼にする?」
「そうだね、十二時になっちゃうと込むかもしれないし」
 ゆかりの提案に従って二人で隅の四人掛けのテーブルに着くと、カウンターにいた中年の女性がすぐに注文を取りにやってきた。ついでに聞いてみる。
「あの、こちらに深田敏子さんという方はらっしゃいますか」
「姉なら今組合いの方に行ってますけど」
 彼女は愛想よく笑って答えた。
「何か食べてる間に戻ってきますよ。ご注文は?」

 深田敏子は本当に二人が食事を終えた頃店に姿を現した。
 正午になり混雑し始めた店内を出て、水樹とゆかりは彼女について住居の方に回る。六畳間の居間に通されて落ち着くと、敏子の方から話を切り出してきた。
「それで、何のお話だったかしら」
 元ベテラン看護師らしく、受け答えも身のこなしもてきぱきとしている。
「突然申し訳ありません」
 水樹は丁寧に頭を下げるとリュックから母の写真を取り出した。
「二十五年前、うみなか療養所に入院していた橘加菜子という女性をご存じないでしょうか。この写真の人なんですが。僕はその息子で早渡水樹といいます」
「橘さん?」
 写真を見るまでもなく、敏子はその名に反応した。
「ああ、院長の知り合いの紹介で入院してた人ね」
「ご存知ですか?」
 水樹が僅かに身を乗り出すと、
「ええ、まあ。三階の特別室に入ってたし、いろいろあったから」
 と、写真を見ながら僅かに言葉を濁すようにする。怪訝そうにする水樹を見て敏子は慌てて言い添えた。
「ああ、橘さん自身には何も問題なかったわよ。大人しい人でね。特別室はホテル並の展望だったから、窓からよく博多湾の方を見てたっけ。亡くなった旦那さんが勤めていた研究室がそっちにあるんだって言ってね」
 水樹は何故か涙が出そうになった。
 やはり、母は父を愛していたのだ。そうやって尚偲ぶほどに。
「あの、いろいろあったというのは……」
 水樹がもう一度尋ねると、
「……息子さんにこんなこと言っちゃっていいのかしらねえ」
 敏子は躊躇い気味に水樹の顔をちらりと見た。水樹はきっぱりと頷く。
「どうぞ。僕は母のすべてを知りたくてやってきたんです」
 その水樹のひた向きな瞳を見返して、小さく溜め息を漏らすと敏子は話し出す。
「橘さんが印象に残ってたのは、院長の知り合いの紹介で特別待遇だったっていうのもあるけれど――」
 療養所の三階は基本的に院長室のためのフロアで、特別室の他に病室はなく静謐な環境が整えられていた。院長室よりも奥に配置された特別室は、小さなバルコニー付きの、ホテルのスイートルーム並のしつらえになっており、洗面所やユニットバスが完備され、テレビの他に冷蔵庫や電話なども設置してあった。もちろん食事も病院食が出るため、その気になれば患者はその部屋から一歩も出ることなく過ごせるようになっていた。しかしまた、その豪華さゆえに滅多に使用されることもなく、勤続三十年の敏子にして使用した患者を僅か数人しか知らないという、まさに特別な部屋だった。
 敏子の話を聞いてゆかりが口を挟む。
「そんな部屋じゃ使用料も高いんですよね」
「そりゃもちろん、それ相応でしたよ。実際夏になると院長の知り合いがホテル代わりに使うことだってあったぐらいだもの」
「何でそんな高い部屋にしたのかな? 普通の個室だってあるんだよね?」
 ゆかりが口にした「高い部屋」という言葉から水樹の脳裏にふと浮かんだのは、グリム童話のラプンツェルだった。
 高い塔の天辺に閉じ込められ、地上に向かって助けを求めたラプンツェル。
 彼女の元にはやがて王子が訪れた。
 けれども、母は――
 母の頼るべき人は、そのとき既に他界していたのだ。
「……わからないけど。費用は羅天さんが負担してくれたって祖父母が言ってたから」
 水樹が答えると敏子は頷く。
「そうそう。そんな名前でしたよ、判事さん。入院費も一切紹介者のその人が払ってるって、事務もそんなこと言ってました。とにかく異例ずくめだったから。その上、その判事さんが週末になると大阪から毎週見舞いに来ていたものだから」
「大阪から毎週?」
 ゆかりが驚いて口を開ける。
「ちょっと驚くでしょ? 他にも、知り合いの新聞記者の方がやっぱり週一ぐらいで来てたし」
「新聞記者?」
 水樹が目を見開くと敏子はおかしそうに笑った。
「ええ、お見舞いがてら取材だって言ってましたよ。その人がまた、一体何を食べて生きてるんだろうってぐらいひょろりとした人でねえ」
 水樹は検事と自分達親子の交流を扱った新聞記事を思い出した。
 敏子の言うその記者があの記事を書いたのだろうか。
「新聞記者さんの方は地元の人だし仕事だから、まあ、ともかくとして。判事さんの方とはどういう仲なのかなって、職員の間じゃ噂になって」
 そこまで口にしてから敏子は息子だという水樹の手前を憚って付け加える。
「いえ、判事さんはいつも他愛のない話をしていくだけだったし、橘さんの方はね、判事さんが来る日は決まって何だか憂鬱にしてて……というよりは、何か怯えた感じだったんだけど」
 ここまで話すと一旦言葉を切り、敏子は眉根を寄せた。
「……でもねえ、院内で私らの話の種になってるだけならよかったんだけど」
 と、口篭って水樹の顔をちらりと窺う。
「何かあったんですか?」
 水樹が敢えて尋ねると、ひとつ溜め息を吐いてから口を開いた。
「そのうち大阪から判事さんの奥さんが乗り込んできて」
「え、それってまずいんじゃ……」
 思わず漏らしたゆかりの言葉に頷いて敏子は苦笑する。
「息子の次は夫を奪うのか、とか何とか大声で橘さんのこと罵って、そりゃあ、大騒ぎでね。その翌日だったの。橘さん、療養所の向こうの雑木林から遺体で見つかって……」
「え?」
 水樹が大きく目を見開いた。茫然と敏子を見詰める。
「母は……病気で亡くなったんじゃないんですか?」
 思わぬ水樹の反応に、敏子が忽ち気の毒そうに顔色を変える。
「え、もしかして知らなかった? ごめんなさい。余計なこと言っちゃったかしら」
「構いません。教えてください。母はどうして亡くなったんですか」
「橘さんは――」
 敏子は僅かに俯く。
「夜中に療養所を抜け出したの。二月のね、やっぱり今日みたいに天気の良くない、風の強い日だった」
 当時は夜間表門は閉めていたが、療養所の周りにフェンスはなかった。夜中に療養所を抜け出した加菜子は目の前の川を渡って雑木林の中を真っ直ぐ南へ向かったものらしい。発見された時は既に凍死しており、裸足で衣服は濡れ、その一部は凍っていた。
「母は……母は何故そんなことを……」
 瞠目したまま動かない水樹の手をゆかりがそっと握り込む。
「私は橘さんじゃないから、はっきりしたことはわからないけど、でも……」
 躊躇う敏子を水樹は促した。
「あの、どんなことでも言ってみてください。たとえどんな些細なことでも知っておきたいんです」
「――あの年は天候の悪い日が多くてね」
 敏子は窓から外を見る。空は相変わらず厚い雪雲に覆われ、時折風が窓を叩いていく。
「あの時も雪やら曇りやらで、もう一週間ぐらい旦那さんが勤めてたっていう対岸が見えない日が続いてたの。橘さんそれを酷く残念がって心細げにしていたから……。そこへ持ってきてあの騒ぎでしょ?」
 敏子は憐憫と自嘲の混じったような複雑な笑みを見せてちらりと水樹を一瞥すると、また窓の外に目をやった。
「一目見たい一心で海まで出ようとしたのじゃないかしらね」

 ◆

 深田敏子の家を辞すると二人は食堂の駐車場に戻った。
 その短い道すがら水樹は沈み込んだ様子でただの一言もしゃべらなかった。
「これからどうする?」
 運転席に着いてそっとゆかりが尋ねると、助手席に乗り込んだ水樹はガイドブックに目を落としたままで答えた。
「……いいかな。海が見たいんだ」
「いいよ。どこに行く? 確か志賀島には展望台もあるはずだけど」
 返事があったことに幾分ほっとしてゆかりが重ねて尋ねると、水樹はやっと視線を上げて見返してきた。
「展望台って山の上だよね? 出来れば港がいい。少しでも近付いてみたいんだ。母が見ていたっていう父の研究所が見える場所に行きたい」
「博多湾が見たいなら志賀島漁港だよね」
 水樹の手にしたガイドブックを一瞥してからゆかりはゆっくりとミニバンのアクセルを踏む。漁港はここからなら目と鼻の先だ。
 建物の密集した市街地から県道へ出ると、どんよりとした空と海を背景に志賀島漁港が見えた。東西二つの防波堤で囲まれた小さな港内に小型の漁船と釣り船がずらりと停泊している。悪天候のためか船の上にも波止場にも人の姿はほとんどなかった。
「やっぱり何か曇ってるね。遠くの方は何も見えない」
 近くに見える能古島でさえ墨をぼかしたようにぼんやりとしている。その向こうの海上は空と海の境目さえ曖昧で、対岸らしきものは見えて来る気配もない。その不透明なヴェールの彼方を水樹はじっと見詰めていた。
「防波堤があるね。とにかく行けるところまで行ってみるよ。ほんの少しでも、影だけうっすらとでもいいんだ。母と同じものを見てみたい」
 ゆかりは黙って駐車場を探す。
 今日のこの天候では望み薄だとは思ったが、母親の悲しい最期を知ったばかりの水樹の願いを無下にすることは出来なかった。
 志賀島橋にほど近いところまで来るとゆかりは県道沿いの駐車場にミニバンを止めた。目の前が港、後ろは海水浴場だが、今の季節海の家に人影はなく、ビーチも荒波が寄せるだけで閑散としている。
「ああ、そうだ」
 車から降りると水樹は思い出したようにジャケットから携帯を取り出してメールを打ち始めた。
「なに?」
 ゆかりが手元を覗き込むようにすると、躊躇う様子もなくさらりと答える。
「櫂人君にメール。移動したから場所を知らせておかないと」
 送信ボタンを押してゆかりを見返す水樹は穏やかに微笑んでいる。
 だが、その笑顔を目にした途端、唐突に何か熱いものが込み上げてきてゆかりは衝動的に水樹をニミバンに押し付けた。驚いて目を見開く水樹とは敢えて視線を合わせず、強引にかき抱いて唇を重ねる。
 いつものように水樹は抵抗してこなかった。けれども、どのくらい優しく気持ちを込めてキスしても、水樹からゆかりに触れてくることも、やはりない。
「ゆかりさん……」
 何度めかのキスのあと水樹がやっと言葉を漏らした。ミニバンに背中を付けたまま僅かに戸惑う表情でゆかりの瞳をじっと見る。
「ごめん」
 一言呟き、その視線から目を逸らして身体を離すと、ゆかりは俯いて自分がしていたマフラーを水樹の首に巻き付けた。
「ダメだよ、ゆかりさん。それじゃゆかりさんが寒いよ」
 水樹が返そうとするのを、もう一枚車の中にあるからと、目を合わせる勇気も笑顔を作る余裕もないままに押し止め、ゆかりはその場凌ぎにビーチの方を振り向いた。すると、人影のない海の家に、ぽつんと一つ取り残されたように自動販売機が設置されている。
「私何か温かい飲み物でも買ってくるね!」
 殊更に明るい声でそれだけ言い置くと、ゆかりはそのまま振り向かずに踵を返す。
 水樹は呼び止めてこなかった。
「それじゃ、僕は先に行ってるから」
 風に流されてきた水樹の声を背中で聞き、ゆかりは逃げるように自動販売機へと向かった。

「……岩佐さん。コレいつまで見てなきゃならないんスかね」
 ゆかりのミニバンの後方、すぐ隣の駐車場に陣取った車から双眼鏡を覗いていた柳が思わず零した。
 視界の中では風の中、ゆかりと水樹が熱いラブシーンを演じている。
「デバガメしてる気分なんスけど……」
 顔を撫でたフェイスタオルをコートのポケットに仕舞い込むと、反対側のポケットからコンビニの袋を取り出して岩佐は笑った。
「まあ、役得だと思って拝ませてもらえ。俺はちょっとお茶買ってくるわ」
 車を降りて辺りを見渡してみると、一番近い自動販売機はゆかりがミニバンを止めた駐車場の後ろの海の家にあった。二人はまだくっついている。今のところ周りに特に不審な人影も車もない。
 岩佐は二人を観察しがてら自動販売機までやってくると、ずらりと並んだボタンを眺めて、その柔和な顔を顰めた。忽ち額に変な汗が滲む。
 好きな緑茶があるのはいいが、数量ボタンまでが付いている……。
 岩佐はこの手の複雑な手順を踏む機械が苦手だった。署にあるコピー機も扱えないし、最近は家にある洗濯機も扱えない。電車の券売機も一枚買うならどうにかなるが、一度に二枚買うとなると途端にわからなくなる。どのボタンを先に押していいのやら悩んでしまうのだ。操作を失敗したときの機械の反応も苦手だった。「もう一度やり直してください」などと大きな声で喚かれるのは最悪だ。
 仕方ない。
 岩佐は小さく溜め息を吐くと、覚悟を決めた。

 ゆかりが自動販売機の側まで来ると先客がいた。
 よれよれのコートを羽織った小太りの男だ。頭が薄くなりかけているところを見ると五十代ぐらいなのだろう。何故か溜め息を吐いてボタンを押すと、出てきたペットボトルの緑茶を手持ちのコンビニの袋の中に入れた。自分の番だとゆかりが前に出ようとすると、また硬貨を入れて同じ緑茶のボタンを押す。数量ボタンがあるのだからそれを使えばいいのにとゆかりが訝しげに見ていると、また同じ緑茶を一本。
 どうやら、このやり方で袋が一杯になるまで続けるらしかった。
 呆れて見ているうちに首筋の辺りが寒くなり、ゆかりは一旦その場を離れた。車に戻り、バッグから大判のスカーフと、寒さ対策にと一応持ってきた使い捨てカイロを二つ取り出す。
 ふと何の気なしに後部座席に目をやり、リュックと鞄を目にしてまた辛くなる。
 ――結局、自分は水樹の特別にはなれなかったのだ。
 未練を断ち切るように車から出て港を見ると、水樹は既に東の防波堤の上にいた。他は誰もいない、平均台のように細く続くコンクリートの上を突端に向かって進んでいる。海上は風が強いらしく、水樹は時折マフラーを巻き直すようなしぐさをしていた。
 やはり温かい飲み物は必要だ。
 そう考えてゆかりが再び自動販売機の前まで来ると、先ほどの男はどうやら買い物を終えたようだった。
 側に立っているゆかりに気付いて温和な笑顔を見せる。
「いや、すみませんでした。長々と占領しまして」
 ゆかりは男に小さく会釈をすると、五百円玉を販売機に入れた。

 岩佐が出ていった後もしばらくラブシーンを演じていた水樹とゆかりは、ようやく抱擁を解くと今度はそれぞれ別行動に出た。
 自動販売機に向かったゆかりは岩佐に任せ、柳は水樹の方を追う。
 水樹はミニバンを離れると県道を渡って波止場の方へと下りていった。柳も自動販売機と格闘中の岩佐と呆れ顔のゆかりの脇を通り過ぎ、県道を渡って波止場へと続く道路に入る。ここから先は市営渡船場以外に建物がほとんどなく、港内が一望できた。
 波止場に臨むT字路の突き当たりから柳は双眼鏡を構える。
 水樹は漁港を東から囲う防波堤の方へと歩いていく。双眼鏡を外してみるとまだ辛うじて個人の識別が出来る距離だ。仕事のついでに肉眼でどこまで識別できるか試していると、視界の隅を何か白いものがちらりと過(よぎ)った。何気なくそちらの方を見てみる。すると、波止場に止められたバンの陰に見覚えのある白いコートが見えた。
「……また来てるよ、あの娘」
 思わず呟いて柳は双眼鏡を覗いた。菜々は車の陰から、さらさらのセミロングが乱れるのも構わずにじっと水樹の姿を追っている。その表情は無表情に近かったが、何だか鬼気迫るものがあった。
「あーあ、なんつー顔してんの。もしかして、さっきのアレ見ちゃったのかなあ……」
 柳は人事ながら同情する。あれだけ濃厚なのを見せ付けられては無理もない。
 ひとつ溜め息を吐いてから柳は再び水樹に焦点を合わせた。本来見ていなければならないのはこっちだ。
 水樹は既に防波堤に到達していた。天候のせいで釣り人もいない防波堤の上を、突端に向かって風に吹かれながらも歩調を緩めずに進んでいく。終点まで達すると博多湾の方を向いて佇み、しばらく動かなかった。
 ふと気になって柳が菜々のいたバンのところを見るとそこにはもう彼女の姿はなかった。諦めて帰ったのかと思い、再び水樹の姿を捕らえようとぐるりと双眼鏡の視界を巡らしたその時だった。
 柳の目は、水樹と同じ防波堤の上に白いコートを捕らえた。
 彼女は最初はゆっくりと、次第に小走りになって水樹との距離を詰めていった。

 水樹は防波堤の突端に一人佇み海を見ていた。
 空はどんよりと一面雪雲に覆われ、天と地の境界も定かではない。母と同じものを見たくて対岸に向けて目を凝らしてみたがシルエットさえ見えなかった。一歩でも近付こうと防波堤の下を覗いてみる。けれども、目の前に広がる海は強風のため波荒く、港外に向けて設置されたテトラポッドに高く飛沫を打ち付けている。そこまで下りていくことはとても出来そうになかった。
 諦めて水樹はもう一度、遥か博多湾の方角をじっと見詰める。
 母はこの海の向こうを見ていた。
 父を偲んで対岸を見ていた。
 やはり母は亡くなった後も変わらず父を愛していたのだ。
 母と知尋の間にどんな感情の遣り取りがあって婚約することになったのかはわからない。自身の気持ちさえわからずにいる自分に男女の機微がわかるとは水樹には思えなかった。
 だが、雅武の母への執着が並大抵ではなかったことはわかる。
 知尋の死後、雅武は何を思って母をあの特別室に閉じ込めたのだろう。
 母の最期を知ってからというもの、母は羅天雅武によってあの療養所に閉じ込められたのだという考えが水樹の中で時折頭をもたげ、どうしても打ち消すことが出来なかった。
 いくら亡き息子の婚約者でも、大阪から福岡まで毎週見舞いにくるというのはやはり尋常ではない。少なくとも雅武の妻の誤解を招くぐらいには度を越している。
 雅武は水樹の行方を探していたと言っていた。
 彼は母に水樹の居所を聞き出そうとしたのかもしれない。けれども、それだけでは閉じ込める理由としては薄い。閉じ込める――世間と隔離するということは、外へ漏らしてはならない何かがあるからそうするのだ。
 雅武が水樹と母に拘る理由はひとつ。それは「あの時」何かがあったからだ。

 あの時――
 母が「やめて」と叫んだ時――検事が階段から転落する直前。
 ――母と検事と僕の間に何かがあった。
 あの時、母は何を見たのだろう。
 そして、僕は――。

 唐突に波が防波堤を越えて水樹の足下まで打ち付けた。水飛沫にジーンズの裾を僅かに濡らして水樹は数歩後退る。
 ――と、その時だった。
「ゆかりを返して! 近付かないで……!」
 唐突に叫ぶ声がして、水樹は背後を振り向いた。その胸に、白い小さな塊が勢いよく飛び込んできたと思った次の瞬間――
 水樹の身体は防波堤を離れ、仰向けに宙に放り出されていた。

「岩佐さん、救急車ッ! 早渡水樹が海に落とされましたッ!」
 携帯からの柳の喚き声に岩佐が港の方向を振り返ると、さっきまで防波堤の上に小さく見えていた水樹の姿がない。
「水樹君!」
 悲鳴のような声を上げた次の刹那、ゆかりは走り出していた。急ブレーキをかけたドライバーの罵声を浴びながら委細構わず県道を真っ直ぐ突っ切っていく。自販機前で岩佐が携帯のキーを押し、柳が菜々を追いかけようとT字路を波止場の方へ一歩踏み出した瞬間だった。その肩を背後から掴まれ、柳は恐ろしい勢いで後ろへ引き戻された。
「おい、今何てった!?」
 強引に振向かされ、そのまま両肩を強く揺さぶられる。目の前に現れた男は鬼の形相の見上げる上背。
「桐生弟?! 東京に帰ったんじゃ……」
 虚を突かれて茫然と見上げる柳の胸倉を、今にも噛み付きそうな勢いで櫂人が掴んだ。
「水樹さんどこだ!」
「おい、放せッ! 急いでるんだ! 邪魔すると公務執行妨害で逮捕するぞ!」
「るっせえッ! こっちだって急いでんだ!」
 柳が離れようと必死にあがくが櫂人は放さない。ますます強く掴んで締め上げる。柳の爪先が宙に浮いた。
「落ちたってどこだよ! 行くなら教えてから行けッ!」
「早渡水樹ならその先の防波堤だ」
 掛けられた声に櫂人が弾かれたように振り向くと、岩佐が携帯を仕舞いながら県道を渡りきってこちらへとやってくるところだった。
「紺青ゆかりを追っていけばわかる」
 そう言って指さす遥か前方に、長く靡く栗色の髪が見える。途端、投げ捨てるように柳から手を離すと、櫂人は目の前の坂道を一気に駆け下りて防波堤の方へと猛然と走り出した。
「救急車は呼んでおいたからな!」
 櫂人の背中に一声掛けると、岩佐は咳き込んでいる後輩の背中を叩いた。
「行くぞ、柳」

 ◆

 海に落ちる一瞬、雪雲に覆われた空が見えた。
 低く垂れこめた暗い雲の波。今にも地上に落ちてきそうな曇天。
 記憶の中の視界が蘇る。

 あの日も、こんなどんよりとした曇り空だった――。
 天にはどこまでも暗く続く曇り空。その手前にアパートの屋根が聳える。
 足下には何もなく、遥か下方に真っ白な雪の大地。
 そして、正面には男の顔。
 精悍な顔付きの猛禽類の眼をしたその男は、長い両手をこちらに突き出して、憎しみの篭った突き刺すような視線で自分を見ている――。

 そして――。

 ざぶりと身体が水に投げ込まれた。
 鼻から僅かに水を吸い込み苦しくて我に返る。
 必死にもがくが、海水が衣類に染み込み纏わり付いて上手く身動きが取れない。真冬の海は冷たく、すぐに手足が痺れてきた。それでも遮二無二水を掻き、やっと海面へと浮かび上がる。
「水樹君ッ!」
 海水を吐き出し咳き込む合間に甲高く叫ぶゆかりの声が聞こえる。大きく揺れる視界の中に、コンクリートの防波堤の上から這い蹲ってこちらに手を伸ばしているゆかりの姿が見えた。水樹も手を伸ばすが荒波に揉まれ、精一杯広げられた二人の掌は互いに届きそうで届かない。それどころか、波が大きくうねるたび更に引き離されていく。
「水樹さん!」
 不意に怒鳴るような声が聞こえて何かが投げ込まれた。それは頭上から降ってきて蜘蛛の巣のように広がり、水樹を閉じ込める。
「それに掴まれ! 放さないようにしっかり手に絡めて! 引っ張り上げるから!」
 かじかむ手を励まして櫂人の言う通り網に指を絡める。網はゆっくりと引き寄せられたが防波堤の上までははかなりの高低差があり、衣類に海水をたっぷり吸って重みを増し、自身に力が入らない水樹を引き上げることは、いくら体格のいい櫂人でも容易ではなかった。取っ掛かりのあるテトラポッドの方へ誘導しようとするが、港外は一層波が荒く、打ち付ける水飛沫が返って邪魔をして、どうしても上手くいかない。
 何度か引き上げに失敗し、網を掴む水樹の指先に感覚がなくなって体力が限界に達しようとした頃、不意に間近から太い声が掛けられた。
「おい! 大丈夫か?」
「水樹君!」
 水樹が辛うじて視線だけをそちらへ向けると、背後から小型の漁船が近付いてくるのが見えた。ゆかりが乗っている。
 鉤付き棒でジャケットの襟を引っ掛けて引き寄せ、漁師が二人掛かりで網ごと水樹を船に引き上げると、ゆかりがもどかしげに網を外して抱き締めてきた。
「水樹君っ!」
 水樹は辛うじて口を動かす。
「……ゆかり……さん……ダメ……。冷たい……から……」
「よかった! 意識あるんだね」
 海水から引き上げられると急激に震えが襲ってきた。
 がたがたと目に見えて震え出した水樹の濡れた衣類を手早く脱がせると、ゆかりは漁師が持ち出して来たタオルでざっと水分を拭き取り、コートのポケットから取り出したカイロごと毛布でその身を包み込んで、ぎゅっと水樹を抱き締めた。色を失った唇にキスして氷のような震える頬に自分の頬を押し付ける。
「寒い? 大丈夫だよ。救急車呼んだから。すぐに来るよ。それまでは私がこうしててあげるから……ごめんね」
 押し付けられたゆかりの頬から熱い涙が伝って水樹の冷たい頬を濡らした。
「……ごめんね、水樹君。……私が逃げたりしたから……」
 涙するゆかりを見詰め、震える声で水樹はぽつりと呟く。
「……やっぱり……僕は最低だ……」
 受け入れることも突き放すこともしないまま、とうとうゆかりを泣かせてしまった。
 寒さのために酷く震え制御の利かない身体を一瞬だけ押さえ付け、僅かに首を浮かせると、水樹はゆかりの頬に残った涙の跡に自分の唇を押し付けた。
「水樹君……」
 目を見開くゆかりに、どうにか微笑んでみせる。
「……泣かないで。……ゆかりさんのせいじゃない……から……」
 ゆかりは黙って水樹を抱き締めた。吹き付ける風から水樹を庇い、凍った手足を摩って暖を取る。
 遠く救急車のサイレンの音が聞こえてきた。
 身を寄せあう二人を乗せて、漁船は波に揉まれながら波止場に近付いていった。

 ちょうどやってきた救急隊員と入れ替わりに船から岸に上がったゆかりは、そこに思い掛けない人物を見つけて瞠目した。
 波止場に止まったパトカーの方から、自動販売機のところで見た男ともう一人の若い男に両脇から腕を捕られるようにしてこちらにやって来るのは菜々だった。見慣れた白いコートに花柄のスカート。間違いない。
 ゆかりの視線に晒されて菜々は俯いた。
「……菜々どうしたんですか?」
 嫌な予感を覚えつつもゆかりが緑茶を買っていた中年男の方に尋ねると、男は菜々を若い方に任せ、懐から出した警察手帳を掲げて会釈をした。
「先ほどはどうも。紺青ゆかりさんですね。福岡県警の岩佐といいます。そちらは柳。実はこのお嬢さんが早渡水樹さんを海に突き飛ばしたようでして」
 岩佐がちらりと一瞥すると柳が頷いた。
「私が見てました。間違いありません」
「何で……」
 その場に立ち尽くし茫然と目を見開くゆかりの、次の言葉を怖れるように菜々は首を竦める。
「菜々! あんた何でこんなことしたのよ!」
 怒りと憐憫がないまぜになった感情を抑え切れず、ゆかりが思わず怒鳴り付けると、
「だって、ゆかりが騙されてるって言うから!」
 菜々はゆかりを見上げ、身悶えるようにして泣き叫んだ。
「あの人って週刊誌に載ってた桐生の養子なんでしょ? ゲイなのに! パートナーがいるのに! 何でゆかりに手を出すの? 関わった人達皆死んでるっていうし、医者だった前の養父って人から莫大な財産相続したって聞いたし、やっぱり桐生だって刺されて死んだし……! そんな不吉な男と一緒になったらゆかりが不幸になるって思ったから!」
「菜々、桐生は死んでないよ」
 深い溜め息と共にゆかりが訂正すると、菜々は涙でくしゃくしゃになった顔でぼんやりとゆかりの顔を見返した。
「え……そうなの?」
「おい、待て」
 いつの間にか側まで来ていたらしい櫂人が話を遮る。
「誰から水樹さんが桐生の養子だって聞いたんだよ?」
 週刊誌では実名は伏せてあったし、ゆかりも水樹も、もちろん菜々に余計なことは言っていない。
 その場の視線が菜々に集まる。
「誰って……比良坂さん」
「あの人が?」
 ゆかりが目を見開く。菜々は素直に頷いた。
「いろいろ相談に乗ってあげるからって……」
「比良坂って?」
 櫂人がゆかりを見る。
「前にパレードで会ったでしょ? 水樹君と話してた、すっごい痩せてるおじさん。あの人」
「何者ですか?」
 岩佐が尋ねるとゆかりは首を横に振る。
「詳しくは知りません。たまにデモとかパレードで顔を合わせるだけだから。どっかの雑誌の編集長だって聞いたけど。新聞社にも顔が利くって話だし」
 ゆかりが比良坂について思い出そうとしていると、水樹が担架で運ばれてきた。

「水樹君!」
 ゆかりと櫂人が担架に駆け寄ると、ゆかりに小さく微笑みかけてから水樹は櫂人の方を見た。
「……櫂人君」
 櫂人は身体を屈めて水樹の顔を覗き込む。
「水樹さん、大丈夫なのか?」
 水樹は酷く震えて顔色は悪いが意識ははっきりしているようだった。いつもと同じ澄んだ瞳で櫂人を見詰め返してくる。
「僕……思い出したことがあります……」
「思い出したって、事件のことかよ?」
 櫂人をしっかりと見て水樹は頷く。それから、岩佐と柳に身柄を拘束され、悄然とした様子の菜々に目を向けた。水樹と視線が合うと菜々は僅かに目を逸らした。それでも水樹は声を掛ける。
「……海に落ちて……落ちる直前に……大切なことを思い出せました。……あなたのお蔭です。ありがとう……」
 水樹を見返す菜々の瞳が僅かに揺れる。その目を真っ直ぐに見詰めたまま水樹は穏やかに先を続けた。
「でも……ゆかりさんのことは……あなたにお返しすることは出来ません。僕もゆかりさんのことが好きだから……。あなたに恨まれても仕方ないですね……ごめんなさい」
 菜々は僅かに顔を歪めたが何も言わなかった。
「水樹君……」
 ゆかりが担架に寄り添い、毛布から指先だけ出した水樹の手を取る。
「……ゆかりさん」
 熱が出てきたのか、言葉僅かに、朦朧とした瞳でゆかりを見詰め返すと水樹はその手を握り返した。仄かに笑んで安心したように目を閉じる。
 担架が救急車に運び込まれるまで水樹は握ったその手を放さなかった。

 

次へ


Fumi Ugui 2009.01.19
再アップ 2014.05.21

prev*index*next

Copyright(C) Fumi Ugui since 2008 無断複写・複製・転載は御遠慮下さい