◆
櫂人が病室のドアを開けると、ゆかりがこちらに背を向けてじっと水樹に見入っていた。
いつもは手入れの行き届いた流れるような栗色の髪が、今は所々固まって濡れ鼠のようになっている。ずぶ濡れ状態だったコートはさすがに脱いで窓際の椅子に掛けてあったが、程度の差こそあれ同じように海水を含んでいるはずのセーターやレギンスは身に付けたままだった。
「おい」
櫂人が声を掛けると一拍おいてゆかりは顔をこちらに向けた。
「ああ、来たの。なに?」
声にいつもの勢いがない。
「水樹さんどうなんだよ」
櫂人がベッドを覗き込むと水樹は眠っているようだった。熱があるらしく、額に熱冷まし用の保冷剤を乗せている。
「熱はあるけど肺炎にはなってないし、容体は安定してるから心配ないって」
人と話している最中も水樹から目を離そうとはしないゆかりを見て静かに溜め息を漏らすと、櫂人は手にしていた袋を押し付けた。
「着替えろよ。上も下も濡れてんだろが」
ゆかりが袋を覗いてみると中にはスポーツタオルが数枚とトレーナーの上下が入っていた。無言で見返してくるゆかりに櫂人はわざと顰めっ面を作る。
「いつまでもそんな格好で風邪でも引いて、水樹さんに移ったら治るもんも治らねえだろ。水樹さん見ててやるから、とっとと着替えてこいよ」
不承不承に席を立って部屋の隅の小さなクローゼットの前まで移動すると、ゆかりは首だけで振り返った。
「見ないでよ」
顔を顰めて櫂人が面倒臭そうに背を向ける。
「何でこんな狭いとこで着替えんだよ。外で着替えてくりゃいいだろ」
「嫌よ」
聞こえてきたゆかりの声は断固としていた。
「水樹君から離れたくないの。側にいる」
「どっちにしろトイレにも行かずに二十四時間って訳にはいかねえだろが」
溜め息混じりに言い置くと櫂人はそのまま病室を出た。
ドアの脇に立っていた刑事に軽く会釈をして、この顛末をどう報告すべきか思案しながらロビーへと出る。
覚悟を決めて透の携帯を呼び出すとすぐに応答があった。水樹が海に落とされたことを率直に伝えると、一瞬沈黙が降りた。
「それで、容体は?」
再び聞こえてきた透の声はあくまで冷静だが、緊張を滲ませて僅かに硬い。櫂人は安心させるように声を張る。
「心配いらねえよ。命に別条ないってさ。ただ、ちょっと熱があるんだ。寒かったし、結構長いこと浸かってたからさ」
ロビーの窓から外を見れば、曇天の博多湾を背景に時折風花が舞っている。
「ああ、それと」
櫂人は声のトーンを僅かに落とし、口調を改めた。
「どうやら水樹さん何か思い出したらしい。詳しいことはまだわかんねえけど」
「――そうか」
ほんの一瞬沈黙を守ると透は低く続ける。
「櫂人、念のためだ。そのことは誰にも話すな。それから水樹から目を離さないようにな」
「それは心配いらねえよ。警察も付いてるし、第一、離れろったってアイツが離れやしねえよ」
「アイツ?」
怪訝そうに口にしたあと、すぐにそれが誰を意味するかに思い当たった様子で透は笑い含みの声を出す。
「ああ、ゆかりさんか。一々悪態を吐かないだけ進歩だな」
櫂人は大仰に顔を顰めた。
「一応あれでも元看護師だし、俺じゃいたって役に立たねえからさ」
正直、ゆかりに言ってやりたい事は山ほどあった。
昨日あれだけ大口を叩いておきながら水樹の側を離れたのは重大な落ち度だ。だが、もしもあの時ゆかりが漁船を呼んでくるという機転を利かさなければ、水樹は今頃もっと酷い状態になっていたかもしれない。そう考えるとあまり責める気にもなれなかった。
第一、相手が萎れているときに悪態を吐いてやり込めても後味が悪いだけだ。
「それより兄貴」
櫂人はもう一つの重大な用件を切り出す。
「水樹さん海に突き落としたのは菜々って娘なんだけど、そいつをそそのかしたヤツがわかったぜ。こっちで同性愛者のパレードに参加してた比良坂ってヤツだ」
「比良坂……」
低くその名を呟くと透の声は考え込むように沈黙した。
「櫂人、その男は四、五十代の酷く痩せた体付きじゃないか?」
「ああ、確かそんな感じだった。水樹さんとも顔見知りだったみたいだけど、兄貴知ってるのかよ」
「比良坂というのは『週刊海潮』の編集長だ。比良坂保。彼について調べてくれ」
「調べろったって、『週刊海潮』は東京だろ。そっちで調べてくれよ」
「いや、ちょっと待て」
櫂人の抗議を遮ると透は電話口から外れたようだった。向こうで誰かと話している声が微かに漏れ聞こえてくる。
「比良坂編集長がどこの出身か君は知ってるかい?」
「さあ、どうだったかしら。ちょっと待ってくださいな……」
相手はどうやら女のようだ。どこかで聞いたようなその声に櫂人が耳を澄ませていると僅かな間のあと再び話し声が聞こえてきた。
「確か九州のどこかじゃなかったかしら。ラーメンには一家言あるって言ってたような気がするから博多かも。そうそう。上京する前は地元の新聞社にいたんですって」
「櫂人、新聞社だ。地元の新聞社を当たってくれ」
「わかったよ」
わざと大仰に答えると櫂人は諦観の溜め息を吐く。
「どうせここにいたって、やることないからな」
◆
「ありがとう。君のお蔭で助かったよ」
通話を切って透が傍らの胡蝶を見ると、副島が相変わらずの間延びした口調で訴えてきた。
「透先輩〜! 聞いてくれたら私だって『海潮』の比良坂編集長が何処の出身かぐらいは答えられましたよー。福岡の新聞記者の出身だってー、どっかのコラムで見たことあったんだからー」
どんよりとした曇り空の昼下がりの病室。透は三人の女達に囲まれていた。
とき色の紬に道行きコートの胡蝶がショールを膝に澄まして透の側近くの椅子に腰掛け、副島がソファから不満そうに口を尖らせてそちらを睨んでいる。出入り口の脇には正月でも代わり映えのしないジーンズにセーターの小川が立って我関せずを決め込み、遠目から二人の様子を興味深そうに眺めていた。
仕事柄小川は胡蝶も副島も見知っているが、他の二人は初対面同士。室内を流れる微妙な空気に透が内心困惑していると、ドアが勢いよく開いて能天気な髭面が顔を出した。
「おっ、何だ。何だあ。いずれ菖蒲(あやめ)か杜若(かきつばた)って感じだな。美女に囲まれてお安くないねえ」
「ねえねえ、谷口さん。あたしも菖蒲か杜若?」
色とりどりの花で溢れんばかりの花瓶を抱えて一緒に戻ってきた夏乃が傍らの谷口を見上げる。谷口は髭を伸ばした顎を撫でて夏乃を見返すと、にやりと笑う。
「うーん。夏乃ちゃんはミニヒマワリって感じかなあ」
「えー? それって微妙」
夏乃が不満そうにちょっと眉根を寄せたところで透が口を開いた。
「……谷口。お前は一体何しに来たんだ」
途中で見かけたからという理由で、胡蝶を副島と一緒に小川の車に乗せてきたのは谷口だ。
「何って、見舞いだろ。見ろよ、この花」
夏乃から花瓶を取り上げてサイドボードに乗せると、女ばかりの室内を見渡して谷口はにんまりと笑う。
「高級蘭がてんこ盛り。綺麗だろ?」
ひとりで悦に入る様子の谷口に呆れ、溜め息混じりの一瞥をくれてやってから、透は表情を改めて夏乃の方を見る。
「夏乃君、今櫂人から連絡が来た。水樹が海に落ちて入院したそうだ」
「え? それで兄さん大丈夫なの?」
「安心したまえ。命に別条はないそうだよ」
透が一通り事情を説明すると夏乃はほっと息を吐き、谷口は顎髭を扱いた。
「なるほど。水樹君が何か思い出したとなると、こりゃいよいよ大詰めって感じだなあ」
「お前は何か比良坂保について知らないか」
透の問い掛けに谷口は首を捻った。
「さあ。俺とはまるで接点がないからなあ。同じ業界にいるんだから副島のが詳しいんじゃないのか」
「他社だからそんなに期待されちゃっても困るんだけどー」
話を振られた副島が小さく首を竦める。
「そう言えば『週刊海潮』ってー、例のゴシップ記事一切扱ってなかったんだよね。普段から『司法の裏側を暴く!』みたいな堅い記事が多いから、単純に老舗雑誌の方針だと思ってたけどー……他に何か意味があったのかなあ」
「羅天と繋がりがあるとしたら、或いはな……」
透の呟きを受けて胡蝶が思い出したように言い添える。
「そうそう。比良坂さんは法曹界に強いパイプを持ってて、おまけに政治家にも顔が利くって業界では一目置かれていたようですよ。それが羅天先生かどうかは知りませんけど」
「そりゃますます怪しいな」
谷口が首を捻ってふと見ると、夏乃が窓の外を眺めていた。
「どうしたんだ、夏乃ちゃん?」
谷口が声を掛けると振り返って小さく笑った。
「兄さんどうしてるかなって思って」
「あちらに行ってくるかね?」
透が穏やかに問い掛けると夏乃は笑って首を横に振った。
「ううん。大丈夫。大ケガした訳じゃないし、犯人捕まったし。それに、ゆかりさんが付いてるもん」
「そうだな」
夏乃に頷いて、透もまた窓の外に目をやった。
常緑の木々が揺れ動くほど強い風が吹いているというのに低く垂れこめた雲は動く気配もない。
東京の空に晴れ間が覗くのはもう少し先のようだった。
◆
櫂人が病室に戻るとゆかりは着替えを終えていた。
トレーナーはサイズが合わなかったらしく、下は幅はともかく丈はまあまあだったが、上は首回りが余って隙間にもう一人余裕で入れそうだ。
あまりの不格好さに櫂人が思わず凝視しているとゆかりが軽く睨付けてきた。
「何で2Lなんか買ってくるのよ。大きすぎでしょ。常識的に考えて」
「テメーのスリーサイズなんて知るかよ。小さくて着られなかったら話になんねえから一番デカイの買ってきたんだろ」
櫂人が思いっ切り顔を顰める。
「とにかく、俺はこれから新聞社回りしてくるから」
これ以上絡まれるのは御免だとばかりに踵を返そうとする櫂人をゆかりが慌てて呼び止めた。
「だったらついでに私の車回収してきてくれない? そっちの用に使ってもいいから。水樹君の荷物全部中に置きっぱなしになってるし」
「ったく、どいつもこいつも」
差し出された車のキーを受け取ると溜め息混じりに櫂人はぼやいた。
「人使い荒ぇんだよ」
「仕方ないでしょ。水樹君だって着替えがいるんだし」
「わかったよ。やっといてやるよ」
うんざりした体で返事をすると櫂人はゆかりをちらりと見た。
「その代り、今度こそちゃんと水樹さん見てろよ」
「わかってるわ」
ゆかりは神妙に面を改める。
「もう二度と一人にしないわよ」
櫂人が部屋を出ていくとゆかりはそっと水樹を覗き込んだ。点滴に繋がれているその手を取って指を絡ませる。
水樹は昏々と眠っていた。保冷剤を使ってはいるが三十八度二分の体温は尚熱い。顔は赤みを帯び、唇はかさかさに乾いて薄くひび割れている。それでも、酷く咳き込むことも悪寒に震えることもなく、苦しんでいる様子がないのは幸いだ。
ゆかりは温くなった保冷剤を外すと裏返してタオルを巻き直し、また水樹の額に乗せた。すると、熱でピンクに染まった瞼がぴくりと僅かに動き、水樹は小さく口を開けて喘ぐような声を漏らした。
「水樹君」
ゆかりが急いで再び手を取ると、指が動いて握り返してくる。
もう一度呼び掛けてみたが反応はなく、安心したように薄く開いた口を閉じてそのまままた深い眠りに落ちていく。
眠れる水樹の表情をじっと見守ってゆかりはそっと呟いた。
「どんな夢を見てるの?」
ゆかりの声が微かなエアコンの音に紛れて消えていく。
水樹はまだ当分目を覚ましそうになかった。
◆
熱に浮かされて水樹は夢を見ていた。
幼い頃の夢だ。
母と二人、小さなアパートに住んでいた頃の――。
二歳の水樹は母と二人でアパートの一室に住んでいた。
幼い水樹にとって世界は母とアパートの部屋と、それからせいぜいお向かいのさーちゃんとその家族ぐらいですべてだった。
けれども、それにはひとつだけ例外があって、水樹はその人と会えるのをいつも楽しみにしていた。それは父の存在だった。
母は時々水樹を電車に乗せて街の大きな病院へ行った。病院には父がいて、水樹が行くといつもベッドの上に抱き上げて、一緒に遊んでくれたり絵本を読んだりしてくれた。温かくて大きな手をした父が水樹は大好きだった。
けれども、しばらくすると母は病院に行かなくなった。
父が亡くなったのだ。
もちろん、二歳の水樹にそれが何を意味するかはよくわからなかった。
母は時々悲しそうにしているときもあったが、水樹が幼いなりに一生懸命慰めるといつも優しく抱き締めて笑顔を向けてくれた。父には会えなくなってしまったけれど、母が優しく接してくれるだけで水樹には十分だった。
そんな母子の暮らしに異変が起こったのは、父が亡くなってしばらく経ったある休日のことだった。
水樹がいつものようにお向かいの庭でさーちゃんとおままごとをして遊んでいると、知尋が迎えにやってきた。
知尋は水樹が最近新しく顔を覚えた相手だった。顔見知りだったので、水樹はいつも人と目が合うとそうしているように機嫌良く笑いかけたが、相手は笑顔を返してくれなかった。目は水樹を見ているが、表情はまったく動かない。少し怖くなって水樹が後ろのさーちゃんのママを振り返ると、知尋はようやく笑顔を見せた。
「さあ、水樹君。おウチに帰ろうか」
気を取り直して笑顔を返すと、さーちゃんとさーちゃんのママにバイバイと手を振って、水樹は知尋の腕に抱かれていった。
「やあ。お帰り」
その声を聞いた瞬間、玄関のドアを閉めた加菜子の身体を震えが襲った。
「待っていたよ。随分遅かったじゃないか。待ちくたびれたよ。なあ、水樹君?」
おかえり、と水樹が加菜子を見て無邪気に笑いかけた。
水樹を抱いた知尋は、奥の六畳間から悪びれた様子もなくそれが当たり前のように笑みを湛えて加菜子の方へと近付いてくる。
どさりと音を立てて加菜子の手から買い物袋とお風呂マットが玄関の土間に落ちた。
膝が震える。わななく両手にはまったく力が入らない。立っていられるのが不思議なくらいだった。
「どうして? どうしてあなたがいるの……?」
加菜子は震える声を絞り出す。
確かに今、鍵を開けて中に入ってきたのに。
小刻みに震え玄関の土間に棒立ちする加菜子を見て知尋はうっすらと笑った。
「君のお母さんに、君から預かった合鍵をうっかり排水口に流してしまったと話したら、快く貸してくださったよ」
知尋がこれ見よがしに手にしたものを見て加菜子が両目を見開く。
それは確かに母のものだった。キーホルダー用の穴に通したピンクのリボンに見覚えがある。
驚愕に打ちのめされたその表情をじっくりと眺めて満足そうに微笑むと、知尋は水樹を片手で抱えて加菜子の前に鍵を差し出した。
「もう合鍵は作っておいたから、これは君からお母さんに返しておいてくれないか。お礼の言葉と一緒にね」
水樹は知尋の腕の中できょとんとしていた。母の表情をじっと見ている。
加菜子は動揺をなるべく表に出さないようにと努めながら知尋に懇願した。
「……水樹を、水樹を返してください。……どうやって水樹を」
水樹はいつものようにお向かいの紺青家に預けておいたはずなのだ。
「なんてことはないさ。君に迎えを頼まれたと言ったら、あっさり渡してくれたよ。君のご両親といい、あの奥さんといい、福岡市民はまったく善良な人ばかりだ」
知尋は笑うと、もう一度これ見よがしに鍵を加菜子の前に掲げる。
「さあ、どうしたんだ。鍵を取りにこないのかい?」
加菜子が躊躇っていると、知尋は唐突に掲げていた鍵を畳みに落とした。落ちた鍵に一旦目をやってから、再びちらりと加菜子を窺う。
「ああ、いけない。長いこと水樹君を抱いていたら腕が痺れてきてしまった。水樹君も初めて会ったときのことを思ったら、随分重くなってきたなあ」
笑顔で嘯き、水樹を天井近くまで高く抱き上げた知尋は加菜子を横目で一瞥した。
「そろそろ抱っこもしんどくなってきたよ」
「やめて! やめてください。水樹を下ろして……!」
「では、来るんだ」
水樹を片手に抱いたまま、我が子を守ろうと必死に懇願する加菜子を冷然と見据え、知尋は手を差し伸べる。
加菜子は震えた。今の知尋は、精悍な男のと言うよりは獰猛な雄の眼をしている。恐ろしくて目を逸らすことも出来なかった。
「どうしたんだ? 君が自分の意思で俺のところまで来るんだ。さあ」
加菜子はそろりとわななく足を進める。水樹が相手の手の中にある以上拒否することは叶わなかった。
「……水樹を……放してください」
身を縮めて小刻みに震え、こちらの顔色を窺いながら恐る恐る近付いてくる加菜子の頤(おとがい)を知尋は空いた手で捕らえた。目尻に溜まった涙を見てうれしそうに微笑む。
「奇麗な涙だ。君のそんな顔を見るとぞくぞくするよ」
加菜子が怯えたように表情を歪めると溢れた涙が頬を伝った。その涙を舌で舐め取り、震える加菜子を見詰めて知尋は呟く。
「どうしてこんなに君に魅かれるのかな……。不思議だよ」
もう片方の手を自由にするため知尋が水樹を下ろすと、加菜子は我が子を抱き寄せようと身を屈めた。
「そうはいかない」
知尋は小さな水樹を長い脚で軽く部屋の隅へ押しやると、背後から覆い被さるように加菜子を抱き竦めた。水樹を求める華奢な両手を強靱な片腕だけで造作もなく縛めて自由を奪う。
「約束だ。先に俺の相手をしてもらわないと困る」
耳元で囁き、柔らかな耳朶から首筋へとゆっくり舌を這わせていくと加菜子がビクリと身を震わせた。
「ま、待ってください。せめて水樹をお向かいに預けてから……」
精一杯のか弱い抵抗を押さえ込み、知尋は加菜子の懇願を一蹴した。
「冗談じゃない。これ以上は一分一秒だって待てない。ここまで来るのに思いの外時間が掛かった。本当は喪服の君を抱きたくて仕方がなかったよ」
「そ、そんな……。水樹……お願いだから向こうの部屋へ行ってて……見ないで」
悲痛な声を上げ、加菜子が水樹の方に顔をねじ向ける。その顎を掴んで強引に自分の方へと引き戻し、知尋は苛立ちに顔を歪めた。
「心配しなくても二歳じゃまだわかりゃしないさ。それとも、わかるかな。この子は随分賢いようだから」
僅かに口許を歪め知尋が目を向けると、水樹は部屋の隅に座り込んで二人の様子をじっと見ていた。
水樹の真っ直ぐな瞳は、病床から物言わずにただじっと自分を見詰めていた生一郎の瞳と重なって見える。
「旦那があんな状態では随分ご無沙汰だったんだろう? 悪いようにはしない。うんと愉しませてやるよ」
水樹に向かって聞えよがしに宣言すると知尋は加菜子を畳みに押し倒した。
「……ねえ、ママ。おなかいたい?」
畳みに横たわった加菜子の頭近くに座り込み、水樹が懸命に問いかけていた。
「ちがうの? ねえ、ママ。かなしい? かなしいの? ないないする? あのね、みじゅき、ないないできるよ。じょうずだよ。ね、ママ」
水樹の小さな手が加菜子の髪を撫でるようにする。
「……ないない。なーいない……」
それは加菜子がついも、水樹が転んだりどこかにぶつけたりして泣くとしてやるおまじないだった。
知尋に肌を弄られ、嫌悪に顔を歪めるたびに、魔法の呪文を唱えて水樹がその小さな手で加菜子の額を撫でる。
水樹の真っ直ぐな瞳は心配そうに加菜子を覗き込んでいた。
二歳の水樹に目の前で起こっていることにどんな意味があるのかわかっているはずはない。けれども、わからないなりに不穏な気配や不安は感じ取っているのだろう。
こんなところを見てしまっては、きっと幼い水樹の心に傷を残す。
加菜子は水樹の小さな手を取り目を合わせると精一杯に微笑んだ。
少しでも陰惨な印象を和らげてやれるように、今日も安心して眠れるように。
「大丈夫……大丈夫よ、水樹……。ママは痛くないから。……悲しくなんてないから……心配しないで」
「ママ……」
水樹が額にちゅっと小さくキスをした途端、
「向こうへ行ってろ。気が散る」
不意に知尋の大きな手が水樹を邪険に払い除けた。
水樹は向こうの部屋までころころと転がって、押し入れの襖にぶつかって止まった。
「やめて……! 水樹に乱暴しないで! 水樹! 水樹っ!」
悲鳴を上げて必死に身体を起こそうともがく加菜子を知尋が力尽くで畳みに押し戻す。
「君はまったく手強いな。か弱そうに見えるのに。まあ、その方が燃えるよ。落とし甲斐がある」
襖の前で身を起こした水樹は目の前の光景を見ていた。
母が上から大きな男に押さえ付けられて泣きながら自分を呼んでいた。
水樹には目の前で起きていることの意味はわからなかったが、母がいじめられていることはわかった。母が助けを求めているのはわかった。
だが、相手は大きくて自分ではどうすることも出来ない。
そう悟った瞬間、水樹は火が付いたように泣き出した。今までに出したこともないような大声で精一杯泣き叫んだ。
誰かに助けてほしかった。
母を助けてほしかった。
助けを求めて水樹はただ泣き続けた。
どのくらい泣き続けていたのかはわからない。だが、幼い水樹の必死の抵抗は功を奏した。
知尋がその動きを止めたのだ。母はすぐに寄ってきて水樹を抱き上げてくれた。
それからというもの水樹は知尋の顔を見るたびに大泣きした。たった一度の経験で、それが母を守る有効な手段だとわかったからだ。
水樹が泣き出すと母はすぐさま水樹を抱き上げて外へ飛び出し、アパートには戻らなかった。何時間も辛抱強く、知尋が諦めて引き上げていくまで待ち続けた。
季節はそろそろ冬になる頃で外は寒かったが、母は水樹を抱き締めて笑ってくれた。水樹はそれがうれしかった。
だが、そうやって母子が絆を深めていくのとは裏腹に、知尋の水樹を見る目は日ごとに険しさを増していった。
やがて父の四十九日の法要を迎える頃には、知尋は既に水樹に笑いかけることすらしなくなっていた。
四十九日の法要はアパートが手狭で仏壇もないため加菜子の実家で行った。
生一郎の生前から何かと便宜を図り葬儀にも関わった知尋はこの日も来ていたが、水樹は泣かなかった。他に大人がいる時は知尋が母をいじめないことを経験的に知っていたのだ。その代りに法事の間中水樹は母の後をどこまでも付いて歩いた。抱っこもせがんだ。祖父母には大きくなったのに甘えん坊だと笑顔でからかわれたが気にしなかった。
そして、加菜子の方でも水樹を手放さなかった。また知尋の手に水樹を委ねることが何よりも恐ろしかったのだ。
法要が終わり、当たり前のように身内と共に住職を見送り仏間に戻った知尋は、水樹を抱いた加菜子の隣の席に着き、姿勢を正して加菜子の両親を見据えた。
「突然で申し訳ありませんが、本日は加菜子さんのご両親に折り入ってお話があります」
「どうしたんです。改まって」
徹治が怪訝そうに問うと知尋は畳みに手を突いて丁寧に頭を下げた。
「僕と加菜子さんの結婚を許して頂きたいのです」
瞬間、加菜子はその場に凍り付いた。
突然の申し出に目を白黒させるばかりの徹治と依子に滔々と口上を述べて頭を上げた知尋は、驚愕に目を見開きただ茫然と自分を見ている加菜子に向けて意味あり気に微笑むと、上着の隠しに手を入れた。
「これは僕から加菜子さんへ。婚約の印です」
現れたのは指輪ケースだった。
知尋がフタを開けると大粒のダイヤにトパーズをあしらった指輪が現れた。
加菜子の両親がその美しさに息を飲み、物珍しさに水樹が母の膝から腰を浮かし指輪の方へと身を乗り出した、その時だった。待っていたかのように知尋の腕が水樹を捕らえ、そのまま抱き込むように自分の膝へと引き寄せた。加菜子が気づいたときには既に遅く、知尋の腕の中に納まった水樹はきょとんと母の顔を見ていた。
「水樹君もこの指輪が気に入ったのかい? 綺麗だろう?」
知尋が如何にも鷹揚な笑顔で指輪をケースから取り出して水樹の前にかざして見せる。
「この黄色い石はトパーズといって、君のママの誕生石なんだ。さあ、ママに嵌めてあげようか」
水樹から視線を転じると知尋は加菜子の目を見据えた。
「加菜子さん、さあ」
促すように知尋が加菜子の方へとその強靱な手を差し伸べる。
水樹は知尋の片腕の中にあった。その円らな瞳でじっとトパーズの指輪と母を見比べている。
加菜子は震える手を伸ばした。薬指には、まだ生一郎との誓いの指輪が嵌っている。
「今はまだこのままでいいよ。外したら橘さんに恨まれてしまいそうだからね」
知尋は笑みを湛えてその手を取ると、水樹を腕の中に囲ったまま結婚指輪の上に新たな婚約指輪を嵌め込んだ。
指輪を嵌めてしまうと知尋は水樹をあっさりと解放した。
加菜子は水樹を取り戻すことは出来たが、婚約指輪を受け取ってしまったことで以降知尋が勝手に結婚話を進めていくのを黙って容認することしか出来なくなった。
やがて水樹がうとうとし始めると、昼寝用にタオルケットを用意してから加菜子と知尋を残し、祖父母は隣の部屋へと引き上げていった。
「なるほど。子供にはお昼寝タイムというものがあったんだな。君と落ち着いて話が出来るのも久しぶりだ」
座敷に隣接した縁側から座布団の上で眠っている水樹を見下ろして知尋が口を開くと、加菜子が泣きそうな顔で見上げてきた。小さな声でぽつりと呟くように抗議を口にする。
「何故、こんなことを……」
「心外だな」
縁側の障子を閉めると知尋は加菜子に近付いた。間近で見下ろされ、びくりと身を竦める加菜子の傍らに片膝立てて座り込み、知尋は低く囁く。
「君が欲しいからに決まってるだろう。君を俺のものにするためだよ。検事の妻だ。悪くはないだろう。今は地方検事だが、君が望むならいずれは検事総長にだってなってみせるよ」
「で、でも、私は……」
加菜子は知尋から目を逸らし、助けを求めるように仏壇の方へと目をやった。そこには四十九日を済ませたばかりの生一郎の遺骨と写真がある。
「別に君からこの話を破棄してもいいが……」
掛けられた意外な言葉に思わず加菜子が振り向くと、知尋はうっすらと笑って加菜子の左手にちらりと目をやった。
「僕はもう君に婚約指輪も贈ってしまった。新居も賃貸だが市内の一等地に借りた。両親にも話を通して結納の準備も進んでいる。そうそう、我が家としても初めてのことだから、随分と母が張りきっていてね。僕はそんなに派手でなくても構わないと言ったのに、びっくりするぐらいいろいろ引き出物を用意していたよ。婚約不履行となれば、三倍返しが相場だが……」
見る見る顔色が変わっていく加菜子を見て知尋は満足げに微笑む。
「今の君やご両親にそれだけの金額を用意することができるのかな?」
「そんな……」
加菜子が悲しげに表情を歪め顔を伏せると知尋はその頤を捕らえて自分の方へと向けた。
「またそんな顔をする。君は本当に僕を誘うのが上手だよ」
そのまま抱き込もうとする知尋の手から逃れようと、加菜子が身を捩る。
「や、やめて……やめてください」
「言わなかったかな。俺は喪服の君を抱きたかったんだ……」
スカートの下から太股を弄られ、加菜子が押し殺した悲鳴を上げた次の瞬間、幼い声がした。
「……ママ」
知尋が動きを止める。加菜子が傍らを振り向くと、いつの間にか水樹が座布団から身を起こし二人を見詰めていた。
「水樹……!」
加菜子は急いで水樹を抱き締め、いざるように知尋から距離を取る。
「ちッ……!」
知尋は一旦母子から顔を背け忌々しげに舌打ちすると、背を向けた加菜子の肩越しに僅かに目だけを覗かせている水樹を苛立ちも露に睨み付けた。
どんなに憎しみの篭った視線を向けられても水樹は怯まなかった。ただ母を守りたい一心で、その真っ直ぐな瞳でじっと知尋を見詰めていた。
相容れない二人の対立はその後も人知れず深まっていき、とうとう破局の日を迎えたのだった。
その日は三日ほど雪が降り続いた後の休日だった。
昼寝をしていた水樹が部屋で目を覚ますと母はいなかった。隣の部屋、風呂場、トイレ、台所と順番に探してみたが、やはり姿が見えない。
玄関の土間に出ていた母のつっかけを履くと水樹は一杯に背伸びをしてドアノブを回した。
外は白い風景が広がっていた。さーちゃんのウチの屋根も、目の前の通路や手摺りも全部真っ白に覆われている。
雪だ。
お砂糖のように白いのは雪だと母が教えてくれたのは、つい二、三日前のことだ。
うれしくなって、水樹は一瞬だけ母のことを忘れて雪を触ろうと通路に出た。目の前の手摺りの下に積もった雪溜まりに手を突っ込んで、あまりの冷たさにすぐ引っ込める。
すると、唐突に低い声で名前を呼ばれた。
「よう、水樹君。一人でお出掛けか?」
顔を上げて声がした階段の方を見ると、知尋が手摺りのところに立ってタバコを吸いながらこちらを見ていた。知尋が吐き出した煙がどんよりとした曇り空に吸い込まれていく。
大きなつっかけでアヒルのようにその場に立ち止まったまま水樹は動かなかった。黙ってじっと知尋の顔と煙の行方を見ていた。
「何だ。今日は俺の顔を見ても泣かないのか。……そうか。なるほど、今はママはいないもんな」
皮肉に笑ったあと、知尋はすぐにその笑みを消した。無表情になった知尋の目だけが明かな憎しみを宿し、水樹の瞳を射抜くように見据える。
「なあ、お前わかってやってるだろう。ちゃんとわかっていつも邪魔してるんだろう? 死んだ父親の代理のつもりか。なあ?」
水樹はやはり黙って知尋を見ていたが、やがて興味を失ったように階段に向かって歩き始めた。知尋は苛立たしげに表情を歪める。
「何か言ってみろよ。口がきけないわけじゃないだろう。賢い賢い水樹君」
知尋はタバコを手摺りの上でもみ消した。吸い殻をその場から階下に投げ捨てると、覚束ない足取りで脇を通り過ぎようとする水樹を両手で造作もなく抱き上げ、手摺りの上に乗せた。
「円らな瞳で、如何にも邪気はありませんって顔しやがって」
間近で水樹と視線を合わせ、ふんと知尋は鼻で笑う。
「まったく末恐ろしいガキだよ、お前は」
それでも物言わぬ水樹としばらく対峙すると、知尋は無表情のまま僅かに目を細め、半ば独り言のように呟いた。
「……俺は、お前みたいな小賢しいガキが一番嫌いだ」
水樹を両手にしたまま、ゆっくりと知尋がその逞しい腕を真っ直ぐに前方へと伸ばす。水樹の小さな両足が宙に浮き、つっかけが片方吸い込まれるように落ちて、駐車場の雪の吹き溜まりに埋まって消えた。
「お前のママは俺が守ってやるからさ。お前はいらないよ。バイバイ」
知尋が水樹の両脇を支える手を緩めた、その刹那、
「やめてッ!」
切迫した女の悲鳴が辺りに響き、知尋はとっさに水樹を掴み直した。眼下を見るとそこには驚愕に目を見開き、こちらを凝視する加菜子の姿があった。
瞬時にその場を取り繕う考えを巡らし、知尋は水樹を高く抱き上げたまま慌てて加菜子の方へと向きを変えた。一歩引いた拍子に凍った雪に足を取られ、更に踏み止まろうとして返ってバランスを失った。勢いよく仰向けに倒れかけた知尋は階段の手摺りの角で頭を強打し、
そして――。
◆
「水樹君……!」
夢から覚めた水樹は涙を流していた。
目の前に、その長い髪を乱して心配そうな愛しい人の顔がある。
「ゆかりさん……」
まだ半分夢を見ている心地で水樹はその名を呼んだ。夢ではない証拠に、その人は水樹の頬にひんやりと冷たくて心地よい指先で触れてきて優しく涙の跡をぬぐってくれた。
「大丈夫? 怖い夢でも見た?」
もう怖くはない。けれども、悲しい夢だった。
水樹は覗き込んでくるゆかりに手を伸ばすと、首筋に両腕を回してその温もりに縋った。
「……嫌がってたのに。なのに、彼は離れようとはしなかったんだ……」
「水樹君……?」
ゆかりはそっと、肩口に顔を伏せた水樹の様子を窺った。水樹は静かに泣いているようだった。
「お母さんはあんなに……あんなに嫌がってたのに……。あんなに……あんなに僕のこと呼んでたのに……」
まだ熱っぽい体温で子供のようにぎゅっと縋ってくる水樹をゆかりは黙って抱き締めた。
ぽつりぽつりと語り出した水樹の言葉に、今はただ耳を傾けていた。
Fumi Ugui 2009.01.31
再アップ 2014.05.21