名医の子供達

第22話 母の真実

 櫂人が県警の記者クラブから戻ってくる頃には辺りはもうすっかり暗くなっていた。
 閑散とした外来から入院病棟の二階に差しかかるとロビーから出てくるゆかりと行き合った。トレーナー姿のゆかりはスポーツドリンクらしきペットボトルと缶コーヒーを手にしている。
「何してんだ、お前。水樹さんは?」
 櫂人が尋ねるとゆかりは廊下の奥に目をやった。
「今岩佐警部補が来てるの。水樹君ちょっと前に目が覚めて、お水が欲しいって言うから」
「水樹さん何か言ってたか? 昔のこと思い出したって?」
「転落事故のことはもう完全に思い出したみたい」
 ゆかりが水樹から聞いた内容を伝えると櫂人は驚嘆に茫然と口を開けた。
「すげえな。……事細かに覚えてるんだ」
 ゆかりは僅かに目を伏せる。
「水樹君にとっては自分が殺されかけたことより、お母さんがそいつに乱暴されたことの方がショックだったみたい」
「そうかもしれねえな」
 神妙に呟き櫂人が眉根を寄せる。
「それにしても何て野郎だ。子供の目の前で……」
 水樹の女性に対する罪悪感がそのせいだというのは想像に難くない。
「おたくの方はどうだったの。比良坂さんのことわかったの?」
「ああ、大収穫さ」
 答えて櫂人はロビーの自動販売機に硬貨を入れた。缶コーヒーを取り出してからゆかりに向き直る。
「やっぱ繋がってやがったんだ、あの二人」

「それじゃ、やっぱり比良坂さんがあのコラムの記事を書いたんですね」
 枕の上で顔を傾け水樹が確認すると、付添いの椅子に腰掛けた岩佐はおもむろに頷いた。
「そうです。当時比良坂は福岡日々新聞のサツ回りで、検事の事故の担当も彼でした。コラムの企画をデスクに持ちかけたもの彼だそうですよ。亡くなった検事の父親、つまり羅天雅武氏からも直接取材していたそうです。恐らく、お母さんが入院していた療養所に顔を出していた記者というのも彼でしょうな」
 既に窓際のカーテンは閉じられて、室内を蛍光灯の光が白々と照らすなか、横たわったまま岩佐の話に黙って耳を傾ける水樹の面だけが、まだ下がらない熱のためにほんのりと赤みを帯びている。
「彼はその後何年かするとコネを頼って上京していったそうです。そのコネというのが羅天雅武氏かどうかは調べてみなければわかりませんが」
「あの、今比良坂さんは……」
「少し前に東京に戻ったようです。あのお嬢さんとは数日前からメールや電話で逐一遣り取りをしていたみたいですな」
 コートのポケットに手を突っ込み岩佐が緑茶のペットボトルを取り出したところで病室のドアが開いた。
「お話終わった?」
 櫂人と共に部屋に入ってきたゆかりは水樹を助け起こすと程よく冷えたスポーツドリンクを手渡した。それから、枕元にあったタオルで水樹の顔と首筋に滲んだ汗を手際よくぬぐう。
「お話の途中かもしれないけど、失礼してちょっと飲んだ方がいいよ。汗かいたから」
「どうぞ、どうぞ。水分補給は大事ですな」
 ゆかりに促され水樹が水に口を付けるのを確認して、岩佐も手にした緑茶を一気に呷る。半分ほど残っていたのを忽ち空にしてきっちりフタを閉めると、フェイスタオルで噴き出す汗をぬぐって、こちらも水分補給をしてほっと一息吐いた様子の水樹に改めて目を向ける。
「ところで、二十五年前の事故で思い出したことがあったとか。よろしければ話して頂けませんか」
 柔和な岩佐の顔を見返して水樹は瞠目した。そっとゆかりが握ってきた手を、縋るように握り返す。
 改めて口に出すのはまだ辛い。けれども、いずれはきちんと話さなければならないことだ。
 水樹はおもむろに口を開く。
「……そうですね。捜査の手掛かりになるかもしれませんし」
「もちろん、捜査のこともあるのですが……」
 岩佐は一旦口篭って言葉を切ると、決意を固めたように水樹の目を見た。
「実は今回、事件の関係者の中にあなたの名前を見つけてからというもの、二十五年前のあの捜査で自分が何かを見落としていたのではないかとずっと気になっておりまして」
「岩佐さん……」
 見詰めてくる岩佐の瞳を静かに見返すと、水樹はおもむろに頷いた。
「わかりました。お話しします」

 俯き加減に自分の手元をじっと見詰めて水樹は話し始めた。
 それは余分な推測や個人的な感情を一切含まない、事実のみを淡々と語るものだったが、話が進むに連れ岩佐も櫂人もその内容に引き込まれていった。
 水樹の記憶は当時二歳児だったとは思えないほど克明だった。しかも、それは岩佐が念のために調べた当時の捜査資料の記述を無理なく完全に説明するものだった。水樹が母親のつっかけを履いていたらしいことや知尋が階段を滑り落ちる前に階段最上段の手摺りの角で後頭部を強打したらしいことなども、目撃者の証言や解剖所見と見事に一致している。
「いや、凄まじいまでの記憶力ですな……」
 水樹が話し終えると、岩佐は額の汗を拭いながら驚嘆と敬服の入り交じった溜め息をひとつ漏らした。
「しかし、これではっきりしました。早渡さん、私はあなたに謝らなければならない」
「……え?」
 両手を己の膝に突いた岩佐に正面から見詰められ水樹は目を見開いた。
「あの時、お母さんは酷く怯えていて、とても言葉数が少なかった……」
 岩佐は僅かに俯き、淡々と悔恨を口にする。
「今から思い返してみれば、お母さんの口からはっきり、検事があなたを助けようとしたとは聞かなかったように思います。二言三言切れ切れに口にしたことを、私が結論を先回りして状況から勝手にそう解釈してしまったのかもしれません。私がもう少しお母さんの話を辛抱強く親身になって聞いていれば、その後の一連の出来事も避けられたのかもしれない。本当に申し訳ありませんでした」
 頭を下げる岩佐を見て水樹は緩く面を揺らす。
「いいえ。母はその気になれば真実を語ることが出来たはずです。岩佐さんのせいじゃありません。どうか気になさらないでください」
「けど、何で水樹さんのお母さんは本当のことを言わなかったんだろうな」
 ふと疑問を口にした櫂人を岩佐と水樹が振り返った。
「その場の雰囲気的に言いにくかったにしてもさ。ずっと怖い嫌な思いしてきたんだろ? その当の相手が死んだんだからもう安心して訴えてもいいんじゃね?」
「逆じゃない?」
 一言漏らしたゆかりを櫂人が怪訝そうに見る。
「何が?」
「だから、検事が死んだから、もういいって思ったんじゃない?」
「え?」
 瞠目する水樹と目を合わせ、ゆかりは優しく後を続けた。
「検事は死んで、お母さんと水樹君を脅かす人はもういなくなったんだもの。その時のお母さんにとってはもうそれだけで十分で、実は殺人未遂だったなんてわざわざ言わなくてもいいって。そう思ったんじゃないかな」
「……そうだね」
 少し考えて溜め息混じりに呟くと水樹は小さく頷いた。
「そうかもしれない。僕が母の立場でも、亡くなった人の罪をわざわざ暴き立てるようなことをしたかどうかはわからないよ」
「俺は納得いかねえ!」
 怒ったように櫂人が眉根を寄せる。
「水樹さんもお母さんも酷ぇことされたのに、美談のまま告発されずに放置されるなんて。ヤツが二人にしたことは完全な犯罪だぞ」
「櫂人君……」
「まあまあ。熱くなる気持ちもわかりますが」
 櫂人に向けて岩佐がなだめるように口を開く。
「殺人未遂を告発するとなると、検事との関係もいろいろ話さなければなりません。乱暴されたことにも触れなければならないでしょう。どうやら検事は外面は完璧だったようですから、そのイメージを覆すのは気弱な人には荷が重かったのかもしれませんな」
「そりゃそうかもしんねえけどさ……」
 尚納得いかない様子の櫂人を見て岩佐は口許を綻ばせた。
「あなたは法学部の学生さんでしたな。やはりいずれは検事になるおつもりで?」
「いや。俺はまだ別に」
 思い掛けない質問に櫂人が面食らっているうちに岩佐は笑顔で腰を上げる。
「桐生瞭三郎氏のような立派な検事になれるよう祈ってますよ。いや、長居をしました」
 軽く会釈をしてドアに向かうのを櫂人が呼び止めた。
「ちょっと待った。比良坂は? 逮捕できそうなんですか」
 岩佐は振り向くと僅かに苦笑した。
「いや、それが。彼女の供述では、比良坂は水樹さんについてあることないこと吹き込んだようですが、具体的に殺人や傷害を指示した訳ではないようでして」
「それじゃ逮捕はできないってこと?」
 にわかに表情が険しくなったゆかりを見て岩佐は曖昧に笑った。
「彼は東京ですし、警視庁と連絡を取り合って今後の方針を協議中です。では、私はこれで」

 岩佐が部屋を出ていくと、計ったようなタイミングで櫂人の携帯が鳴った。
「水樹さん、兄貴」
 水樹の携帯は一応櫂人が回収してベッドの枕元に置いてあったが、海水にどっぷり浸かって使い物にならなくなっていた。
 櫂人から差し出された携帯を受け取って水樹が耳を傾けると、懐かしい声がした。
「寒中水泳をしたそうだな。具合はどうだね?」
 仄かに笑みを含んだような、程よく響く心地よいその声に、水樹はほっと安堵の息を吐く。
「もう熱は大分下がりました。心配かけてすみません」
「大事に至らなくてよかったよ。何か思い出したことがあったと聞いたが」
「……はい」
 水樹は言葉に詰まった。
 思い出したことばかりか、今日この志賀島で知った多くのことが一度に胸に去来して、何から話していいのかどう言葉にしたらいいのかわからない。
「とても大事なことをたくさん……」
 辛うじて曖昧にそれだけ答えると、透はそれ以上何も聞いてこなかった。ただ、包み込むような優しい声が携帯の向こうから返ってくる。
「では、戻ってきたまえ」
 声は低く穏やかで、どこまでも懐深くて温かい。
「君の家はここにある」

 ◆

 翌朝早々に病院の会計を済ませた水樹は午前の便で福岡空港を発った。
 羽田に着いたのは正午を回った頃。実に一週間ぶりの帰京だった。

「ただいま戻りました」
 水樹が久しぶりに病室を訪れると満面の笑みで夏乃がいち早く出迎えた。
「お帰り! 兄さん大丈夫? 疲れてない?」
 水樹の荷物を取っていそいそと部屋の隅へと片付け、うれしそうにお茶を入れ始める。
「随分早く戻ってきたな。明日になるかと思っていたよ」
 透は穏やかな笑顔で水樹を迎えた。寝間着にセーターを羽織り、相変わらずベッドの上が定位置ではあるが血色は良く、もう点滴もしていない。
「透さんの声を聞いたら何だか急に里心がついてしまって」
 少し照れたように水樹が微笑むと透は笑った。
「それは急かせるようですまなかった。顔の痣は目立たなくなってきたようだが、身体の方は大丈夫なのかね?」
「はい。もう熱も下がりました。透さんこそ経過はどうですか? 大変なときに長く留守にしてすみません」
 ベッドに近付いて水樹が医学生の目でじっと窺うようにすると、透はその端整な面に頼もしげな笑みを浮かべた。
「見ての通りだ。肌の色艶も戻ってきたし、もう一人で歩くことも出来る。やって見せようか?」
「兄貴」
 唐突に割って入った声に透が目をやると、櫂人が入り口のドアの前に立ったまま軽く眉間に皺を寄せていた。
「二人で再会の感動に浸ってるところ悪いんだけどさ、ひとつ問題があんだけど」
「何だ?」
 訝しむ透に水樹も向き直る。
「あの、実はゆかりさんも来てるんです。こちらに入ってもらってもいいですか?」
「え、ゆかりさん来てるんだ」
 夏乃がびっくりしたようにお茶を入れる手を休めて振り向くと櫂人が顔を顰めた。
「あの女、水樹さんから離れようとしねえんだよ」
「いいじゃないか」
 穏やかに笑って透が水樹を見る。
「入って頂きなさい。水樹の命の恩人だ。歓迎しよう」

 水樹に手招きされて病室に入ったゆかりは緊張気味にベッドの前に立った。
 物怖じする方ではないし人前で上がるようなガラでもないが、今のゆかりは少なからず圧倒されていた。
 テレビでいつも見ている桐生がすぐそこに現前している。
 寝間着姿でケガ人としてベッドにいても、不思議と桐生としてのイメージは損なわれていなかった。目線はゆかりより低くとも、実力に裏打ちされた一角の男の自信と余裕が纏った空気から伝わってくる。
「はじめまして。紺青ゆかりです」
 内心の動揺を気取られないようゆかりが努めて平静に挨拶すると桐生はドラマで見るのとまったく同じ笑顔で微笑んだ。
「その節は電話で失礼しました。水樹の父で、早渡透といいます。この度は水樹を一度ならず二度も助けて頂きまして本当にありがとうございました」
「いえ。昨日のことは私にも責任がありますから」
 ゆかりは硬い声で僅かに目を伏せた。
「そんなことないよ。あれはゆかりさんのせいじゃないから」
 そっとゆかりの手を取り慰める水樹を見て透は口許を綻ばせる。
「まあ、立ち話も何です。ソファにお掛けください」
「さ、ゆかりさん。こっちこっち。兄さんも座って座って」
 透が促すのを受けて夏乃がゆかりの手を引っ張って部屋の隅のソファへと導いていく。
 水樹と並んでソファに落ち着き、夏乃から緑茶の入った湯呑みを受け取ると、ゆかりは先程からさりげなく自分を観察している様子の透に話し掛けた。
「あの、比良坂さんってまだ逮捕されてないんですよね」
「まだニュースでそれらしいことは聞かないな」
 透が念のためにテレビのリモコンを持ち上げる。午後のドラマに臨時ニュースは流れていないようだった。
「彼は直接水樹をどうこうしろと指示した訳ではないからね。疑わしいが確たる証拠はない。警察も苦慮しているといったところだろう」
「何でそんなこと聞くんだよ」
 櫂人が訝しげにゆかりの顔を見る。ゆかりは一言呟くように、だが、はっきりと口にした。
「会いたいの」
「ゆかりさん……?」
 水樹が隣から窺うようにその横顔を覗き込むと、ゆかりは僅かに微笑んだ。
「ごめんね、水樹君。こっちに一緒についてきたのはもちろん病み上がりの水樹君が心配だったこともあるけど、とにかくもう一度あの男に会っておきたかったからなの」
 ゆかりは透に向き直るとその目を挑むように見る。
「『週刊海潮』の編集部にはどう行ったらいいのか教えてください」
「彼に会ってどうするつもりだね?」
 透の問いにゆかりはきっぱりと答える。
「特別どうこうするつもりはありません。ただ、逮捕される前に会って直接言ってやりたいことがあるだけよ」
「いいだろう。ただ、今のタイミングでは首尾よく行くとは限らないが――櫂人」
 透に名を呼ばれると櫂人は大仰に顔を顰めた。
「何だよ。俺が連れてくのかよ」
「彼女は東京は不案内だ。当然だろう」
「早渡が嫌ならあたしが連れてったげてもいいよ。雑誌の編集部って一度見てみたかったんだ」
「そんな相手のとこへ女二人で行ってどうしようってんだよ。俺が行く」
 櫂人が夏乃の申し出を撥ね付けると水樹が口を開いた。
「僕も行きます」
「水樹さんはダメだろ」
「ダメよ!」
 ほぼ同時に口を開いた櫂人とゆかりが水樹に向き直る。
「昨日の今日だぞ。病み上がりは大人しくしてろよ。今朝だってふらついてたじゃねえか」
「そうよ。ちゃんと休んでなくちゃ」
「でも、ゆかりさんを一人でなんて行かせられないし」
「いいんだよ。どうせ俺がついてくんだから」
「だけど、櫂人君。比良坂さんには僕も話を聞いてみたいんだ。今はもう熱もないし、無理はしないから」
 反対派の二人に囲まれて水樹は助けを求めるように透の方を見た。透は傍から面白そうに三人の遣り取りを眺めていたが、水樹の救難信号を受けておもむろに口を開いた。
「本人が行きたいと言ってるんだ。行かせてやればいい」
「何だよ、兄貴。水樹さんのこと心配じゃねえのかよ」
 透を振り返って睨付ける櫂人を見て夏乃が呆れたように口を挟む。
「過保護だよ、早渡。兄さんちゃんと動けるじゃん。顔色もそんなに悪くないし」
「でも、ちょっと前までは熱があったのよ」
 水樹本人はすっかり蚊帳の外、夏乃も加えてますます混乱する状況にやれやれと透は首を振る。
「いい加減にしないか」
 溜め息混じりに少し声を張ると全員が振り向いた。透は水樹を一瞥する。
「水樹は仮にも医学生だ。自分の体調のことは自分が一番よくわかっているだろう」
 やっと入った仲裁に水樹がほっと息を吐く。
「はい。大丈夫です」
「でも、水樹君」
 透は水樹の隣に視線を移した。脇から水樹を覗き込み尚心配そうにしているゆかりに向かって付け加える。
「それに、今は頼りになる元看護師さんも付いている。ゆかりさん――」
 名前を呼ばれて訝しげに見返してくるゆかりと目を合わせると、透は端整なその面に極上の笑みを浮かべた。
「水樹をよろしく頼みます」

 ◆

 『週刊海潮』編集部は海潮新社本社ビルの三階にあった。
 編集部を訪ねてみると、比良坂は入れ違いで一階ロビーの喫茶店へ休憩に行ったという。水樹達が一階に戻ると、ロビーと地続きの喫茶店のオープンスペースから紫煙が立ち上っているのが見えた。その始点に痩身の男の背中を目にした途端、ゆかりは無言で一直線に歩き出していた。
「おい、待てって」
 櫂人と水樹が慌てて追いかけていくと、
「おい、君達」
 何処からともなく地味なスーツの男が二人現れて、目標のかなり手前でゆかりの行く手を遮った。
「どこへ行くんだ?」
「あなた達何?」
 ゆかりが怯まず睨付けると、
「いいから、ちょっとこっちへ」
 腕を引っ張って外へ連れ出そうとする。そこへ櫂人が加わって押し問答をしているところへ横合いから声が掛かった。
「ああ、いいから。そのまま行かせてやれ」
 水樹が振り向くと、エントランスの方から馴染みの刑事が近付いて来るのが見えた。その後ろに岩佐の顔も見える。岩佐はそこに水樹達を認めるとのんびりと温和な笑顔で会釈をした。
「やあ、皆さんお揃いですな」
「岩佐さん。どうしたんですか?」
 わざわざ福岡からやって来るとは何事だろうと水樹がいささか唖然と尋ねると、岩佐は懐から一枚の紙を取り出して広げて見せた。
「実は今朝、やっとこれが取れまして」

 

「誰に連絡するつもり? 菜々なら出ないわよ」
 ロビーのデザインチェアに腰掛け携帯の液晶画面を眺めていた比良坂は掛けられた険のある声に顔を上げた。
 遥か頭上から、栗色に染められた長い髪の見覚えのある女がこちらを睨んでいる。
「驚いたな。紺青さんじゃないか。何故君がここに? 東京でデモやパレードがあるとは聞いてないが」
 比良坂がゆかりの顔をまじまじと見ていると、その後ろから水樹や櫂人と共に地味なスーツの男達が数人姿を現した。中の一人の小太りな男が穏やかに声を掛けてくる。
「『週刊海潮』編集長の比良坂保さんですね」
「そうですが、どちら様かな」
 手にしたタバコを一口吸うと比良坂は集まった顔触れをのんびりと見渡した。
「見知った顔も何人かいるようですが、皆さん揃って何のご用ですか」
「いや、これは失礼しました。私は福岡県警の岩佐と言います。因みにそちらは警視庁の増田さん」
 険しい表情の男達に囲まれて尚空とぼける様子の比良坂に、こちらも然(さ)る者、岩佐が温和な笑みを浮かべながら警察手帳を見せる。
「福岡の暴力団子熊組の木内という男をご存知ですな? 彼が全部白状しましたよ。比良坂さん、あなたを卯木センス殺害容疑で逮捕します」
 逮捕状を広げて掲げる岩佐を見て比良坂は苦笑した。
「参ったな。やっぱりその辺から足がついたか。まあ、最初から嫌な予感はしてたんだが……」
「卯木センス殺害への関与を認めるんだな? 卯木センスを殺すつもりで福岡に行ったのか?」
 増田が問うと比良坂は僅かに肩を竦めた。
「まさか。まったくの偶然です」
 断言してからちらりと人垣の後ろに目をやると、近くまで来て躊躇っている様子のウエイトレスに目配せをして悠々と注文のコーヒーを受け取る。ブラックのまま一口啜ってまた口を開いた。
「帰郷ついでにパレードに参加するため福岡に行ったら、地下鉄で偶然見かけてしまってね。早速、先生にご注進です。彼がわざわざ東京から福岡に来る理由なんて一つしかありませんからね。お蔭でまた余分な仕事が増えてしまった」
「それで羅天雅武に卯木センスを殺せと指示された訳だ」
 先を続けてみせる増田に比良坂は失笑した。
「まさか。そんな野蛮なこと仮にも元判事の先生が言う訳ありませんよ。ただこれ以上水樹君を刺激しないように手を打ってくれと頼まれただけです。やり方は君に任せるってね」
 ここで一旦話を切ると比良坂はタバコを一口吸って煙を吐き出した。悪びれた様子もなく増田の顔を見返す。
「断っておきますが、僕だって木内に殺せとは言ってない。邪魔になる男がいるから余計なことを嗅ぎ回らないように何とかしてくれないかと頼んだだけですよ」
 岩佐の後ろで櫂人が眉を顰める。比良坂の話は韜晦(とうかい)を思わせる部分も多く、どこまでが真実なのか判断しづらかった。
「大体ね、警察がもっと早く捕まえてくれてたら、こちらが動く必要もなかったんだ。何で彼を東京から出しちゃったかなあ」
 溜め息混じりに零す比良坂を見下ろして苦々しげに増田が口を開く。
「我々の不手際のせいだと言いたいのか」
「実際、警察が彼を逮捕できるか否かは少なくとも先生にとっては結構な大問題だったと思いますよ」
 また一口コーヒーを啜って比良坂は滔々と続ける。
「卯木センス。ああいうタイプに理屈は通じないから懐柔することは出来ない。かと言って野放しにしておく訳にもいかない。これ以上放っておいたら何をほじくり返すかわからないからね。そうでなくとも彼が何かアクションを起こすたびに水樹君の記憶を刺激することになる。いずれにしろ先生にとっては大迷惑だ。その彼が福岡に現れた。そりゃ焦るのも道理です」
「羅天雅武との関係を認めるんだな? やけにあっさりしているじゃないか」
 訝しげに増田が眉を顰めると比良坂は肩を竦めた。
「先生とはあくまでもギブ・アンド・テイク。ここまで来て敢えて庇う義理もありませんよ。何もかも僕一人で被るのはごめんです」
「そんなものかね。二十五年も秘密を共有しておいて」
 増田が当て擦るように口にすると比良坂は彼を見返した。
「一つはっきりさせておきたんいんですが、刑事さん。僕は二十五年前の件に関しては法に触れるようなことは何一つしてませんよ」
「美談を捏造したじゃねえか」
 堪らず口を開いた櫂人をテーブルからおもむろに眺めやった比良坂は、強調するように心持ち声を張った。
「捏造はしてないよ。検事が橘生一郎さんの生前から橘家に何かと親切にしていたことも、加菜子さんとの結納話が進んでいたことも、すべて本当のことだ。出鱈目を書いた訳じゃない」
 比良坂の言い分に眉を顰め、ゆかりがちらりと水樹を窺う。水樹は黙って比良坂を見詰めていた。
「でも、何かあることは知ってたんでしょ?」
 水樹を守護するように口を開いたゆかりの質問に比良坂はしれっと答える。
「具体的なことは何も。まあ、ご指摘の通り、加菜子さんの様子や先生の態度からこれは何か裏がありそうだとは思ってたけどね。敢えて聞きもしなかったよ。余計なことを知って自分を危険に晒すのは僕の流儀じゃない」
「真実を追及するのが新聞記者の仕事じゃねえのかよ!」
 櫂人が噛み付くと比良坂は嗤った。
「真実か。実際あの時検事は水樹君に何をしたのかな? 幼児虐待か傷害か、それとも殺人未遂かな? いずれにしろ、そんな故人の後ろ暗い過去なんか暴いて記事にするより、可哀相な母子に手を差し伸べて亡くなった男の美談にしておいた方が善良な世間の人々はずっと喜ぶよ。実際反響も悪くなかった」
 比良坂はちらりと水樹を見る。
「水樹君のお母さんだってそう思ったからこそ真実を黙っていたんじゃないのかな」
「テメェ……!」
「櫂人君!」
 前に出ようとする櫂人を水樹が押し止めた。笑みを浮かべる比良坂と無言で必死に見上げてくる水樹とを何度か見比べ、拳を握ってやっと怒りを堪える櫂人に代わり、岩佐が口を開く。
「それじゃ何で君は羅天雅武に協力しようと思ったのかね」
「そりゃ今恩を売っておけばそのうち何かの役に立つかもしれないと思ったからですよ」
 短くなった吸い殻を灰皿に捨てると比良坂は新たにもう一本取り出して火を付けた。オレンジの炎が消え、再び紫煙が細く立ち上っていく。
「その時は期待といっても漠然としたものでしたがね。後から先生が最高裁の判事になったと知ったときには正直驚いた。いいコネが出来たと思いましたよ。実際先生も僕をあれこれ使う代わりに結構いろいろ律義に便宜を図ってくれました。東京に呼んでくれたりね」
「階段で僕を襲わせたのもあなたですか?」
 水樹が硬い表情で口を開くとタバコを手にしたまま比良坂は頷いた。
「けど、あれは失敗だった。具体的に指示を出さなかったのが間違いだったよ」
「殺すつもりだったのか?」
 増田の問いに比良坂は笑って首を横に振る。
「まさか。逆です。むしろあんな本格的な犯罪めいたまねじゃなくて、ただ普通に街中で凄むとか絡むとかして早く福岡を離れたくなるように仕向けてくれたらそれでよかったんだ。どうも福岡に行ってから、やることなすこと裏目裏目だな」
 煙を吐いて苦笑を漏らすと比良坂は改めて水樹と視線を合わせた。
「その様子だともうすっかり昔のことは思い出したようだけど、いつ思い出したのか聞いてもいいかな?」
「昨日、菜々さんに海へ落とされた時です」
 水樹が素直に答えると比良坂は僅かに瞠目する。
「……ああ、そうなんだ。結局また裏目に出たって訳だ。で、彼女捕まったんだ?」
「現行犯でね」
 ゆかりが吐き捨てるように言うと比良坂は肩を竦めた。
「なるほど。それで僕の名を出したという訳か。だから女なんてものは……」
 途端、風が唸って平手が比良坂の頬を見舞った。タバコの灰がテーブルに飛び散り、衝撃で吹き飛ばされた痩身が隣の椅子にしなだれ掛かって辛うじて止まる。
「何なのよ、その言い種ッ!」
 怒りに震える右の拳を握り締め、その場に仁王立ちしたゆかりは上から比良坂を睨み付けた。痩せた頬を赤く張らし、比良坂はその身を起こして尚笑う。
「水樹君に一発ぐらい殴られるのは覚悟してたんだが、まさか彼女のことで君に殴られるとは思ってなかったな。彼女とは別れたんだろ?」
「だからって、あの娘がどうなってもいいと思ってる訳じゃないわよ!」
 長い髪を振り乱し比良坂に向かってゆかりは声を張る。
「あんただってゲイならパートナー失った時の、次のパートナーに巡りあえるかどうかわからない不安な気持ちわかるでしょ? その傷心に付け込んでそそのかすなんて最低よ! あんたのお蔭で菜々は犯さなくてもいい罪を犯したのよ!」
「僕はどうこうしろとは言ってない。僕の話を聞いてどうするか、結局は本人次第さ。ま、彼女を選んだのは僕だから、見る目がなかったってことかな」
 尚嘯(うそぶ)く比良坂に再び気色ばむゆかりを、櫂人の長い腕が制する。
「やめとけって。そんなヤツ、テメーに殴られるだけの価値もねえよ。こんなとこで暴れてテメーまでパクられたら馬鹿らしいだろ」
「ゆかりさん……」
 悔しそうに表情を歪めるゆかりの、その強く握られた拳を水樹が慰めるようにそっと取る。すると、ゆかりから水樹に視線を転じて比良坂がおもむろに口を開いた。
「水樹君。その点、君のお母さんは立派なものだったよ」
「え?」
 母という言葉に反応して振り向いた水樹を眺めて比良坂は先を続ける。
「だって、そうだろう? 事件の真相も君の居所も、一切合切すべてをその身一つに抱え込んで誰にも一言も漏らさず、きれいに全部あの世へ持っていったんだから。卯木センスが余計なことさえしなければ、君は今も何も知らずに平穏に暮らしていたはずなんだ」
「それは……センスくんを恨めという意味ですか?」
 声が震える。
 比良坂を見詰めたまま水樹はきつく拳を握り締めた。
 反論したかった。
 母は水樹を守るために何も言わずに逝った。それはその通りかもしれない。
 センスのしたことが今回の一連の災厄を招いたこともやはり事実かもしれない。
 けれども、それでもどうしても水樹は目の前のこの男に反論したかった。このまま黙ってうべなうことだけはしたくなかった。
 拳を握ったまま真っ直ぐに比良坂の目を見据え、僅かに青ざめた頬で、水樹はおもむろに口を開く。
「でも、センスくんがいなかったら……僕は母の真実を知ることは出来ませんでした」

 ◆

 水樹達が透のところへ戻ってきたのは、昨日から残る曇り空に夕闇が迫る頃だった。
 再びソファに落ち着き、比良坂が目の前で逮捕されたことを報告すると、透はゆかりを見て笑みを浮かべた。
「それは間一髪だったな。間に合ってよかった。気は済んだのかね?」
「取りあえずは」
 その言葉通りゆかりの表情は晴れ晴れとしたものとは到底言えなかった。
「本当はまだ腹の虫がおさまらないけど、あれ以上はどうしようもありませんから」
 ベッドの端に腰掛けた櫂人が呆れた様子でゆかりを見る。
「あれ以上どうしようってんだよ」
「もう二、三発ぶん殴ったってバチは当たらないわよ」
 櫂人に向かって不満をぶつけるゆかりを見て透は笑った。
「随分正直だな、君は」
「性分なんです。でも、協力して頂いたことにはもちろん感謝してます。ありがとうございました」
 深々と頭を下げたゆかりは、今度はいささか不安げに透を見た。
「あの、菜々はどうなるんですか?」
「僕も気になります」
 ゆかりの隣で水樹も僅かに身を乗り出す。
「どのくらいの罪になるんでしょうか。できれば穏便にすませたいんです」
 櫂人が眉根を寄せる。
「傷害か殺人未遂か。殺意があったかなかったかで大きく違ってくるよな。あることないこと吹き込まれてそそのかされた訳だから、情状酌量の余地はあるだろうけどさ」
 ゆかりが目を伏せ、小さく溜め息を吐く。水樹が縋るように透を見た。
「何とかならないんでしょうか」
「起訴されること自体はどうにもならないが――」
 携帯を手にして透がアドレス帳を開く。
「彼女の弁護は私が向こうの知り合いに頼んでみよう。こちらの事件に巻き込まれたと言えなくもないからな」
 繋がった相手と二、三遣り取りをすると、透は通話を切ってゆかりに微笑みかけた。
「福岡市の渡部先生が引き受けてくださるそうだ。女性で人情家の先生だからきっと良くしてくださるだろう」
「ありがとうございます!」
 立ち上がって頭を下げるゆかりに、続けて透が尋ねる。
「ところで、君はこれからどうするつもりだね? もし宿泊先が決まっていないようならウチに泊まっていくといい」
「あ、そうだね。もう暗いし」
 水樹がうれしそうにしたところで櫂人が透に噛み付いた。
「ちょっと待った! どこに泊める気だよ。まさか水樹さんと相部屋かよ。俺には禁止したくせに!」
「和室を使ってもらえば問題ないだろう」
「なっ……? それじゃ俺はどうすんだよ!」
 猛然と抗議する櫂人を軽くいなして透が呆れたように口を開く。
「家に帰ればいいだろう。それとも何か。お前はこのままずっとウチに居候を決め込むつもりなのか」
「あの、せっかくですけど」
 兄弟の喧騒を遮ってゆかりが口を開いた。
「私帰らなきゃ」
「え?」
 目を見開きソファから振り仰いでくる水樹を見てゆかりは少し切なげに微笑む。
「帰りの便も予約してあるし、店をあまり長い間放っておく訳にもいかないから」
「……そっか」
 ゆかりの顔をしばしじっと見守ると水樹は微笑んだ。
「それはそうだよね。昨日も今日も僕の都合で何も出来なかったし」
 ゆかりと離れ離れになるのだと思うと寂しかったが、態度には出せなかった。思えば福岡にいる間、自分もゆかりに同様の思いをさせていたのに違いない。なのにゆかりはいつも明るく気丈に振る舞っていたのだ。そのことを思うと今更ながら少し切なく、ゆかりが一層愛しく思えた。
「ごめんね、水樹君。せっかく誘ってくれたのに」
 ゆかりがソファの前にしゃがみ込み水樹の頬に触れる。熱はすっかり下がっていたが、まだあまり血色は良くなかった。
「仕事じゃ仕方ないよ。気にしないで。それじゃせめて空港まで送っていくから」
 ソファから立ち上がろうとする水樹を優しく押し止めると、ゆかりはもう一度両手でその頬を包み込んだ。水樹の瞳をじっと見詰める。
「今日はもうこれ以上はダメ。病み上がりなんだからちゃんと休養取らなくちゃ。送ってくれても後から水樹君が倒れたりしたら悲しいよ」
「そうだね」
 ほんの少しだけゆかりの瞳を見守って伏し目がちに水樹は小さく頷いた。
「僕ももうゆかりさんを泣かせたくはないから」
 納得した様子の水樹を見てゆかりがそっと頬から手を離す。その手を取ると水樹は改めてゆかりの顔を見た。
「あの、だったらゆかりさん。ゆかりさんのメールアドレス教えてもらっていいかな?」
 考えてみれば、お互い連絡先も知らないままにこの一週間を過ごしてきたのだ。
「うん、もちろん」
 ゆかりが満面の笑みで返事をすると水樹はソファの隅にあったリュックを引き寄せた。携帯は使い物にならないので、手帳を引っ張り出して住所とマンションの電話番号を書き留め、メモをゆかりに渡す。ゆかりにも連絡先をメモってもらい、手帳を大事そうに受け取ると、水樹は窺うようにゆかりの瞳を覗き込んだ。
「時々会いにいってもいいかな?」
 すると、ゆかりはうれしそうに目を細め、けれども敢えて首を横に振った。
「私が会いにいくよ。水樹君はまだ学生でしょ。交通費だって馬鹿にならないし」
「でも、それじゃゆかりさんにばかり頼り過ぎだし……。だったら、折半ってことで名古屋とか京都とか」
「うん、それでもいいよ。どこかいいとこ探しておくね」
 ゆかりがとろけるような笑顔を見せたところで、後ろからぶっきらぼうな声が掛かった。
「おい、行くならさっさとしろよ。いつまでそこでいちゃついてるつもりだよ」
 水樹がゆかりから視線を外すと透が面白そうにこちらを眺めていた。その足下では櫂人が半分呆れ気味に顔を顰めている。
「あ、ごめん。櫂人君」
「何よ、あんた。関係ないでしょ」
 ゆかりが振り向いて睨付けると櫂人も負けずに盛大に眉間に縦皺を寄せる。
「送ってやるって言ってんだろ。何時の便予約してんだか知らねえけど、どうせ右も左も、所要時間もわかんねえんだろ」
「大きなお世話!」
 言い返しながらもゆかりは立ち上がる。自分も立ち上がった水樹をにわかに抱き締めてキスすると、
「じゃあね、水樹君。電話するから」
 名残惜しそうにその場を離れる。
「またね、ゆかりさん。気を付けて」
 水樹が声を掛けると、振り向いて笑顔で小さく手を振り、透に会釈してゆかりは部屋を出ていった。

 ゆかりの後を追って櫂人が出ていってしまうと部屋には静寂が訪れた。
 ドアを見詰めたままぽつんと佇む水樹に透が声を掛ける。
「寂しいかね?」
 水樹は振り向くと照れたように微笑んだ。
「はい、少し。でも、ゆかりさんとはまた会えますから」
 ベッドの側の付添いの椅子に腰掛けると、水樹は面を改めて透の顔を見た。
「羅天さんは逮捕されるんでしょうか」
「されるとしても、すぐにという訳にはいかないだろうな。羅天雅武は与党に属する議員だ。今月は国会も召集される」
「透さん、お願いがあるんです」
 じっと見詰めてくる水樹のひた向きな瞳を正面からしっかりと受け止めて、透が穏やかに問う。
「何だね?」
「羅天さんに会いたいんです。会って母のことや今回の事件のことを直接聞いてみたいんです」
 しばし沈黙して考えを巡らせると、透はおもむろに頷いた。
「いいだろう。だが、その前に君の話を聞かせてくれないか」
 一瞬怯んだように水樹が瞠目した。その揺れる瞳を静かに見詰め、透は口を開く。
「櫂人から大体のあらましは聞いている。だが、やはり二十五年前に何があったのか、君の口から直接聞いておきたいんだ。療養所で聞いたというお母さんのことや君が思い出したことを。辛いかね?」
「……はい。でも」
 水樹も目を逸らさずに透を見詰め返した。透の眼差しはあくまでも理知的で静かだが、その声と同じようにどこまでも穏やかで温かい。
「僕も透さんには直接話を聞いてもらいたいです」
 水樹は静かに語り出した。
 新聞記事とはまったく違った、二十五年前の母の真実を。

 

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Fumi Ugui 2009.02.13
再アップ 2014.05.21

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