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昼休みの食堂は生徒達でごった返していた。
購買での争奪戦も粗方済み、皆銘々空いた席に着いて和気靄々と雑談しながら昼食を取っている。
櫂人が今朝コンビニで買ったハンバーグ弁当を平らげて、緑茶でも買おうと壁際の自動販売機に近付くと、反対側の入り口から夏乃と松野が食堂に入ってくるのが見えた。
夏乃とは二日前に予期せぬ対面をしたのだが、今朝顔を合わせたときは挨拶以外は特別言葉は交わさなかった。何しろ内容が内容だ。向こうから振ってこない限り、櫂人としては自分から迂闊にしゃべって、万が一にも他のクラスメイトに桐生の弟だ等と知られるのは真っ平だった。
――念のため口止めしておくべきかもしれない。
櫂人は目の前のボタンを押してペットボトルの緑茶を買うと首を巡らせて夏乃の姿を探す。
造作はなかった。
青葉夏乃は小さい。女子高生と言うよりは女子中学生のような体型をしている。背丈も櫂人の鳩尾か胸の辺りまでしかなかった。他の女子と比べても小さいため人影に隠れてさえいなければ、そこだけ凹んでいるのですぐにわかる。
夏乃は、賑やかな食堂にあってそこだけどよんと澱んだ空気を醸し出しているひとりの男子生徒に近付いていった。
「どうしたの、羽鳥君。昼休みだっていうのに不景気な顔して。気分でも悪い?」
羽鳥は理系クラスの生徒だったが、夏乃とは一年の頃から同じ図書委員をしている顔見知りだ。
声を掛けてきた夏乃を見ると羽鳥は力なく笑った。
「ああ、青葉さん……。実は……」
「えっ?! 模試で十位以内から落ちた?!」
思わず大声を出してしまい、夏乃は羽鳥と共に食堂中の注目を浴びる。
羽鳥は朱雀高校でも首席を争うほど出来のよい生徒だ。東大理三志望の、きちんと真面目に勉強するタイプの努力家で、全国模試では二年生の頃からいつもギリギリのラインではあったが十位以内をキープしていた。
その彼が、昨日送られてきた通知を見たら順位が十一位に落ちていたというのだ。
「えー……。そりゃちょっとお気の毒だったかもねー……」
人事ながらも松野は沈痛な面持ちだ。
「……ゴメン。それってウチの兄さんのせいかも」
「え?」
気まずそうな声に、その場に居合わせた者達が夏乃の方を振り返った。
「今年東大理三受験するから、試しにあたしと一緒に模試受けたの。偏差値を競うなんて随分ブランクあるから自信ないって言ってたけど、結果見たらしっかり十位以内に入ってたし……」
東大志望の成績上位者となれば大抵顔触れは決まっている。今回飛び入り参加した水樹のせいで十位以内から追い出されてしまったのが羽鳥だったという訳だ。
「因みに、偏差値ってどのくらい?」
怖いもの見たさなのか松野が声をいささか低めて聞いてきた。進学校だけに周りも興味津々な様子だ。
「ええっと。九十七だったかな。……八だったかもしんない。なにしろ百はなかったよ」
数値を聞いて周囲がどよめく。
「青葉さんのお兄さんって、もしかして……」
何かに思い当たったらしく、目に見えて青くなる羽鳥の傍らで、いつの間にか周囲の人垣に加わっていた櫂人が夏乃に尋ねた。
「お前の兄貴って社会人だよな?」
「うん。昼間工場で働いてる」
またも野次馬の人垣がどよどよと揺れる。
「それで羽鳥より成績いいって……。一体どんな兄貴なんだよ……」
驚きを通り越して呆れ果てた様子の櫂人に夏乃は少しだけ共感した。
結果の通知を受け取ったときに水樹から、実は今年に入ってからバイト先で透と劇団代表の谷口に参考書や問題集を随分買ってもらい、家庭教師のまね事までしてもらっていると種明かしをしてもらったのだが、それを考慮に入れてもやはりこの成績は尋常とは言い難い。夏乃にはどう頑張っても無理な芸当だ。
だから、櫂人の問いにはこんなふうに答えるしかない。
「どんなって言われても。この前見たでしょ」
夏乃に溜め息混じりに一瞥され櫂人は僅かに顔を顰めた。
正直水樹のことは、透のことばかりに気を取られていたのであまりよく覚えていない。
「えー。早渡君、青葉さんのお兄さん見たんだ。ねえ、どんな人だった?」
好奇心を隠せない様子で尋ねてくる松野に櫂人は曖昧に答えることしか出来なかった。
「どんなって言われても、普通だったとしか……」
中肉中背で、醜男ではないが特別なイケメンという訳でもない。控え目で礼儀正しくはあったが、その他にこれと言って目立った特徴のない凡庸な男だったような気がする。
もっとも、あの透と並んで立てば大抵どんなやつでも凡庸に見えるに違いないのだが。
どちらにしろ櫂人にとって、水樹はいろいろな意味で今一つ謎の男だった。
「何だあー……つまんない」
櫂人のあまりにも面白みのない返事に興味を失ったのか野次馬が一斉に引いていく。羽鳥もふらふらと席を立ち食堂を出ていった。
残った夏乃を見て櫂人がぼやく。
「んじゃあ俺の評価下がったのも、もしかしてお前の兄貴のせいとか」
「下がったって、どのくらい?」
「偏差値で十二」
「何それ」
夏乃は呆れたように下から櫂人を睨付ける。
「早渡の場合は明らかに女と遊んでたからでしょ。文系なんだし、関係ないよ」
「そう言う青葉はどうだったんだよ」
ふてくされ気味に櫂人が尋ねると、夏乃はふふんとちょっと得意げに笑った。
「あたしは順位も偏差値も上がったもんねー。兄さんと真面目に勉強してたもん」
「ちぇ」
「早渡も意地張ってないでお兄さんに見てもらえば? 東大出なんでしょ」
「ざけんな! 何であんなヤツに。大体アイツは想像を絶する教え下手なんだぞ」
自ら出来すぎる者はえてして最良の教え手にはなりにくい。透はその典型だった。頼めばどんな教科でも教えてくれるのだが、いかんせん、こちらに透の言っていることを理解する能力がない。
出来すぎる教師には出来すぎる生徒が必要なのだ。
そのことを中一で悟った櫂人は以降勉強で透を頼ったことはない。
「ちょっと。触るの禁止」
夏乃が櫂人の手を払い除けた。
「あ、悪い」
いつの間にか肩に手を回していたらしい。下から睨み付けてくる夏乃に櫂人は顔を顰める。
「怒んなよ。癖になってんだからしょうがないだろ」
「何それ。最悪。行こ、松野さん」
夏乃はぷいとそっぽを向くと先に立ってどんどん食堂を出ていく。
「そんなに急いだって意味ないだろ。どうせクラスも同じで席も前後なんだから」
夏乃を見送りながら櫂人が呆れたようにぼやくと、夏乃を追い掛けがてら振り向いて松野が笑った。
「伝説のタラシ破れたりー。早渡君でも振られることあるんだねえ」
「そんなんじゃねえよ」
食堂の出口で松野と合流すると夏乃は廊下に消えていった。
櫂人が教室に戻るのとほぼ同時に、石原教頭が夏乃達のクラスに姿を見せた。
何事かと訝しむ生徒達を余所に教室を見渡すと、真っ直ぐ夏乃の方に近付いていく。
「青葉さん。さっき小耳に挟んだんだが、君のお兄さんが今年東大を受験するというのは本当かね?」
「え? はい。縁あって援助してくださる方がありましたので」
前触れもなく突然やってきた教頭に驚きながらも夏乃が肯定すると、石原はその髭を蓄えた相好を崩した。
「そうか。そうなのか。それはよかった」
石原は水樹の担任だった教師だ。当時何とか水樹の中退を思い止まらせようと家まで何度も説得しに来たのを夏乃も覚えている。その石原も今では教頭に出世して、昨年からまた朱雀高校に赴任していた。
「水樹君ほどの学業優秀な生徒が退学していかねばならないとは、ずっと惜しいと思ってたんだよ」
教頭は感慨深気に頷く。
「そうか、水樹君が……。よかった。本当によかった……。いや、喜んでばかりもいられないな。水樹君が受験するなら今年の東大理三枠は確実にひとつ分狭くなる。我が校の諸君にもしっかり頑張ってもらわないと」
教室を見渡して生徒達に発破をかけ、それでも尚嬉しそうな教頭は両手でしっかりと夏乃の手を取ると力強く握り締めた。
「石原が喜んでおったと水樹君によろしく伝えてください」
「はい。ありがとうございます。伝えます」
我がことのように晴れがましく夏乃が返事をすると教頭は満足そうにその場を去っていく。
「……思い出した」
自分の席で頬杖を突いて二人の会話を聞いていた櫂人がぼそりと呟いた。
唐突に後ろから響いてきた声に夏乃が振り向く。
「水樹ってどっかで聞いた名前だと思ったら、あの青葉水樹か。そういや、お前も名字青葉だもんな……」
櫂人は今更ながら夏乃の顔をまじまじと見る。
都立朱雀高校ではここ八年ほどの間、卒業名簿には記載がない一人の生徒の名が伝えられてきた。
その名は青葉水樹。
現在の朱雀の生徒ならばこの名を知らぬ者はない。成績、人柄、生活態度。事あるごとに先輩や教師達から引き合いに出される名前だからだ。
教師達にとって青葉水樹は、関東の公立高では最難関と言われる朱雀高校に首席で入学し、最初の実力テストでも優秀な成績で首席を守りながら経済的な事情で退学せざるを得なかった、言わば伝説の男なのだ。櫂人のタラシ伝説とは訳が違う。
今回のことでまたその伝説に新たな一頁が書き加えられることはほぼ間違いなかった。
「そういう意味じゃウチの兄貴とは釣り合ってるよ。類ともだよな」
透は朱雀高校ではなく、中高一貫教育で毎年東大合格率第一位を誇る名門男子高、私立玄武坂高校から東大を受験していた。櫂人が中学入試で落ちた学校だ。因みに、透はその玄武坂で、傍迷惑にも首席の座に中学・高校の六年間を通して居座り続けていたらしい。
「ま、教頭はその我が校が誇る伝説の男がまさか野郎と一緒になるとは夢にも思ってないだろうけどな」
「何それ。嫌みな言い方」
夏乃が自分の椅子の背凭れに腕を掛け櫂人を睨付ける。
「ウチの兄さんのどこが気に入らない訳? 言ってみなさいよ」
「お前の兄貴がどうこうじゃねーんだよ。勝手に結婚でも養子縁組でもすりゃあいいだろ。兄弟の縁切ったんだから、もう俺には関係ねえ」
「おたくはよくても、兄さんが気にしてんの!」
自分の張り上げた声の大きさに気づいて一旦黙ると、夏乃はもう一段櫂人に顔を近付けて低く続ける。
「大体、何でそんなに腹立ててんの? 早渡ってお兄さんに対する態度おかしいよ。理性ブッ飛んで子供みたいに感情的になっちゃってさ」
単刀直入に切り込んできた夏乃に櫂人も負けてはいない。
「俺よりずっと成績良くて何もかも完璧で司法試験だって現役合格したくせに、法曹界にも入らず好き勝手にろくでもないことばっかりしてんだぞ。ゲイ疑惑だの男と結婚だの、身内はいい迷惑なんだよ。これが腹立たずにいられるか」
囁くように、それでも一気に捲し立てると櫂人は夏乃を睨み付けた。次第に声が高くなる。
「人のことばっか言ってっけど、お前んとこはどうなんだよ。親納得してんのか? 男同士だぞ!」
夏乃がうんざりしたように耳を塞ぐまねをする。
「声大きいよ。ウチ親はいないから」
「え?」
夏乃の一言に櫂人は怯んだ。
「あたしが小学校四年のときにお父さんが死んで、兄さんと二人切り」
何でもないことのように夏乃はさらりと口にする。
そう言えば、前に青葉の家は両親がいないのだと小耳に挟んだことがあった。よく考えもせず感情任せに口に出してしまったことを後悔したが、もう遅い。
櫂人は取りあえずトーンを落とした。
「だ、だったら尚更問題あるだろ。お前はどうなんだよ。たったひとりの家族が余所に行っちまうんだぞ」
「あたしだって……!」
語気激しく言いかけて、夏乃は沈黙した。
「……何だよ。言えよ」
言い淀んでいるのを、引っ込みがつかない様子で櫂人が促すと、躊躇った末に口を開く。
「別に、あたし独りになる訳じゃなくて一緒に住めるし。それで医者になるってお兄ちゃんの夢がやっと叶うんだから」
そこまで言うと夏乃は不意に俯いた。
櫂人はぎくりとする。泣いたかと思ったのだ。
だが、顔を上げた夏乃は泣いてはいなかった。その代りに立ち上がると、櫂人の顔も見ずに一言残して教室を出ていく。
「あたしが我がまま言ってる場合じゃないんだよ」
「おい、どこ行くんだよ。もう予鈴鳴るぞ」
櫂人が引き止めようとすると、空になった席のもう一つ向こうから松野が声を掛けてきた。
「あーあー。女の子泣かせちゃダメじゃん、早渡ー」
「泣いてねえだろ。別に」
櫂人は松野から目を逸らす。我ながら虚しい言い訳だった。
結局、席を立った夏乃は予鈴が鳴るまで戻ってこなかった。
授業が始まる直前に教室の後ろの出入り口から入ってきた夏乃は、黙って櫂人の席を通りすぎ席に着いた。
櫂人はその小さな背中を授業が始まるまでじっと見詰めていた。
Fumi Ugui 2008.05.22
再アップ 2014.05.21